ロイ「な、なんじゃ? 急にブーツの紐が切れよった……船長、大丈夫かのう……」
衝撃の事実。あのお人好しのロイ爺もやはり、船乗りだった……
いやまあ船乗りなのは解ってたんですけどね。
気持ちの問題を抜きにしても、長時間歩いた後で丘を一つ越えるぐらい走らされたロイ爺は疲れていた。幸い近くには街道の交差する辻があり、旅人向けの小さな食堂と休憩所があった。
「ねえロイ爺、私やっぱり納得が行かないよ。もう少しちゃんとあの人達……奥さんとお兄さんと話してみたい」
私はロイ爺に鎌をかける意味でもそう言ってみた。ロイ爺は少し俯いただけで、すぐには返事をしてくれなかった。
「……奥さんとお子さん……ですよね?」
私はもう一度、単刀直入にそう聞いた。
「それは……うむ……そうじゃな。本当に御願いしても良いのかの? 二人ともあの通りかなり手強いと思うが……何でもええんじゃ、ワシは二人にどう思われていても構わんので、何とかしてこの金を渡しては貰えんじゃろうか」
ロイ爺は小さく頷いてそれを認めると、意外にもそう応えてくれた。大人の事情に、子供が首を突っ込んでもいいんですか……優しいロイ爺だから怒る事は無いとは思ったけど、まさか信用して任せてくれるとは思わなかった。
嬉しいな。ありがとう、ロイ爺。
◇◇◇
私はロイ爺を休憩所に残し、先程の村へと戻る。こういう場所では余所者なんてすぐ見つかってしまうので、堂々と正面から歩いて行く。
あのおばさんの名前はマヌエラさん。ロイ爺より少し年上で、昔はカンパイーニャ港の宿屋で働いていたそうだ。お兄さんの方はイサークさん。最後に会ったのは五年ほど前だと言う。
五年も帰って来ないんじゃうちの父より酷いと思わないでもないが、ロイ爺は父と違い船長ではないので自分で行き先を決められないし、ここに来れるタイミングが少なかったのかもしれない。
そして、ロイ爺とマヌエラさんは正式な結婚はしてないのだそうだ。ロイ爺によれば、当時は船乗りとして一番元気があった時期で、結婚している暇が無かったからだそうだが。
私は基本的にはロイ爺を信じているし尊敬しているが、やっぱり自分は船乗りとだけは付き合わないようにしたいと思う。祖母コンスタンスもそれだけは口を酸っぱくして言い続けていた。
「こんにちは。旅の人とは珍しいが、街道は向こうだぞ?」
おっと。前から来る身なりのいいおじさんが声を掛けて来てくれた。ヴィタリスのジャコブさんと雰囲気が似てますね。大きな畑を持つ豪農の御主人という所か。
「こんにちは。私はロングストーンの貿易商人、マリー・パスファインダーと申します。はじめまして」
「あ、ああ、はじめまして。俺はフリオ。この村の誰かを訪ねて来たのかい?」
「マヌエラさんの息子のイサークさんに届け物をしに来ました。だけど私はこの土地は初めてなんです、あの、もしよかったらイサークさんの家を教えてはくれませんか?」
私は戸惑い気味のフリオさんにはきはきと、馴れ馴れしく御願いをする。田舎ではこんな風にいきなり甘えてしまう方が警戒されずに済むのだ。少なくともヴィタリスではそうだ。
「いいとも、ついておいで。ロングストーンから来たのか、今日はいい天気だろう? でも普段はこんなじゃないんだぞ、冬は雨ばかり降って……」
案の定、フリオさんは頼まれたら嫌とは言えない親切なおじさまだった。こういう人と一緒に行けばイサークさんも無碍に私を追い払う事は出来ないのでは? どうやらこのお使い、楽勝ムードが漂って来たわね。
「初めての土地でこんなに親切な方に出会えて本当に良かったです、ここは素敵な村ですね、水も美味しいし景色も綺麗です」
「ははは……水と景色だけさ、あとは葡萄だな。この辺りのワインは他とは違うんだ、葡萄の搾りかすをさらに蒸留して作った強い酒をブレンドするんだ。そう、イサークの家も葡萄農家なんだか……おっと、ちょっと待てよ」
農地の間に建物が点在する村を案内してくれていたフリオさんが立ち止まる。道の先に一軒の、雑木林に囲まれた家がある……結構大きな家だわね。あれがマヌエラさん達の家なのだろうか?
その家には今、先客が居るらしい。驢馬を一頭つけた二輪の幌馬車が停まっている……
「あれは借金取りだな……イサークの家は二年続けて蒸留に失敗して、今はちょっと都合が悪いんだ。マリーちゃん、また後で来た方がいいと思うぞ」
「イサークさんはお金に困ってるんですか? 私の届け物はお金なんですよ、もしそうならむしろ都合がいいですよ、フリオさん御願いします、一緒に来てくれませんか」
フリオさんは同じ村の人間の借金事情に首を突っ込む事を割と本気で嫌がっていたが、私もマリー・パスファインダーである。見知らぬ馴れ馴れしい小娘に袖まで掴まれてしまったフリオさんは、渋々ついて来てくれた。
「お邪魔しますよ! 私はロングストーンの商人、マリー・パスファインダーと申します! イサークさんに用があって参りました!」
私は威勢良く、イサークさんの家の玄関の敷居をまたいで入った。中にはイサークさんの他、三人の男が居た。マヌエラさんの姿は無い。
「あ……あんたは、さっきの……」
イサークさんは借金取りに責められていたらしい。青い顔をして、再び現れた私に驚いている。
一方、三人の借金取りは。
「な、なんだお前は」「小娘! 今は大人の話をしているのだ、出て行ってくれ」
そう言って私を威圧する。そこへ私が口を開くより先に、私の後ろに居たフリオさんが口を開く。
「ちょっと待て、この娘はイサークに金を渡しに来たんだぞ。それはお前達全員にとって有益な話のはずだ。ちゃんと聞いてやれ」
「何だって……本当か?」「お嬢さんそれは失礼した」「確かに有益だ」
フリオさんの言葉を聞いた借金取り達は互いに顔を見合わせて頷く。しかし。
「待ってくれ! その金というのは親父、あの男の金なのだろう!? 駄目だ。その金は受け取らないぞ!」
イサークさんは、そんな事を言って顔を背けてしまう。やはりそうなるのか……ロイ爺は一体、この親子に何をしたのだろう。
次に口を開いたのは借金取りの人達だった。
「それじゃあお前、我々にどうやって金を返すのだ」
「私達だって困ってるんだぞ、せめて利息分だけでも返してくれ」
「マヌエラの薬代にだって困っているのだろう? いいから受け取れ」
何だかあまり聞きたくなかった情報がどんどん増えて行く……あの大変元気そうに肥え桶を振り回していたマヌエラさんは、体を悪くしているのか。
私の祖母コンスタンスが体を悪くしたのも、マヌエラさんくらいの歳の頃だ。
そしてイサークさんは、お金に困っている。
「何と言われようと! 俺もお袋もあの男の金は受け取れん! 俺達はちゃんと働いて綺麗な金で借金を返す、それが待てないというのなら、家でも土地でも何でも持って行け!」
だけどイサークはそう言って、土間に座り込んでしまう。
例によって例の如く、私も腹が立って来た。
「汚い金みたいに言わないで下さいよ! これはロイ爺……ロイさんが貿易商船で昼も夜も働いて稼いだお金だよ! 焼けつくような日差しの降り注ぐ真夏のハマームで汗水垂らして、しんしんと雪の降る真冬のスヴァーヌで凍えながら、船を守って人々の生活の為の品物を運んで得た、正当な報酬ですよ!」
「う、うるさい! お前みたいな小娘に何が解る! 他人の家の事情に首を突っ込むな!」
「ロイさんは何も求めてないんだよ、許して欲しいなんて思ってないんです、だけど自分はもういい歳で、次にこの港に戻って来れるかどうかも解らないから! 命のあるうちにねえ、少しでもマヌエラさんに罪滅ぼしがしたいと思ってるんですよ!」
私も相当酷い事を言ってるような気もするが、向こうも負けてはいなかった。
「何も求めてなくないじゃないか! 罪滅ぼしのつもりなんて、そんな事をされたくないって俺もお袋もそう言ってるんだ、どんな金だろうがあの男の金は受け取れねえんだよ、どうしてもってんならあの男が今どこに居るか教えろ! 俺がその金そのまんま、あいつの足元に叩きつけてやる!」
「……何ですってええ!!」
私のゆるい涙腺は崩壊し、貧弱な堪忍袋の緒はぶち切れていた。私は頭に血がのぼったサルのように、泣きながらイサークに掴みかかる。
「馬鹿にすんのも大概にしやがれーッ!!」
「何すんだこの小娘、離せッ、いてえッ!」
「やめなさいお嬢さん!」「よせ、暴力はいかん」
フリオさんも借金取りの皆さんも紳士的な人達で、すぐに私とイサークの間に入って、理性を無くした小娘の蛮行を止めてくれた。
「イサーク、お前さんもお前さんだ、何がそんなに気に入らないんだよ、昔は親父、親父と慕っていたんじゃないか? あの船乗りの事を」
私を落ち着かせた後で、事情を飲み込んだらしいフリオさんは、イサークの方を向いてそう言った。
「い、いつの話だよそんなの、ああ、その時の俺は何も知らない子供だったんだ、だけど今は違う! 俺は分別のある大人として、あの男の金は受け取れない!」
しかしイサークはまだそう言い張る。借金取りの一人が、深い溜息をつく。
「だがイサーク、お前が今は分別のある大人になったと言うのなら、我々に借りている金の事だってもう少し真剣に考えなくちゃならない。こういうのはどうだ? お前がこのお嬢さんと何かで勝負をして決めると言うのは?」
別の借金取りも頷く。
「それは良い。お嬢さんが勝ったら、どんな理由があろうとイサークは金を受け取り、それで我々に借金をいくらか返す。イサークが勝ったら……お嬢さんは金を渡す事を諦める」
おかしな話になって来たわね。ていうかフリオさんも含めて、おじさん達がニヤニヤしだしましたよ。勝負って、一体何をさせる気なんですか。