コンスタンス「あたしら呑百姓はね、何でも自分でやらなきゃならないんだよ、失敗したらね、自分で取り返すんだ」
物語が動きます。ユッタが偽りの父ロタール(偽ザナドゥ)の元に戻れたのは良かったのですが、その事がアドルフ(本物のザナドゥ)に露見してしまいました。
そしてマリーはその場から逃げださなくてはならなくなった上、銃弾を受けてしまいました。
竜のように。
マリーは着水寸前にぶち猫を腹に抱え、翼の腕と脚の尾で抱えて守ろうとする。その身体は後頭部から、海面へと落ちて行く……
その瞬間、海は。
突然の大波が荒磯に打ちつけ、激しい波飛沫を立ち昇らせた。真っ白に輝く気泡と化した海が、猫を守って海に落ちたマリーの身体を受け止める。
―― ドボーン!!
自分は死ぬと思っていたマリーは最初、目を開けられなかった。こんな危険な賭けに巻き込んでしまった、猫だけは助けようと。その事しか頭になかった。
けれどもこの感じは何かが違う。マリーはそっと瞼を開く。
白い泡が……視界の全てを包んでいる。左右も上下も、たぶん後ろも。大きな泡、小さな泡……地表の陽光を受けて輝く泡が、自分の全身を包んでいる。
マリーは首を上げ、上を見る。自分は海底の岩にぶつかるのではないか? しかし。この磯は思ったよりも深く、泡の向こうの海は青く澄み渡っていて……
―― モフッ……
十分に速度の弱まったマリーの背中が、海底の砂地に触れた。これはまるで……ヴィタリスの我が家の、藁のベッドに寝転んだ時のような感覚だ。マリーはそう思った。
頭上にはまだ白波立つ海面がある。その上には、たくさんの問題が待つ地上世界があるのだろう。
深く青い海と白い泡と、降り注ぐ光……何と美しいのだろう。
マリーは思う。ここもいいなと。
あの面倒な地上になど帰らず、ここで暮らすのはどうだろう?
ここには自分を捕まえに来るアルセーヌもトライダーも、アイリを捨てて逃げた父も居ない。
その時ふと、マリーは思い出す。船長になる事を決め、バニーガール姿で、ライバル業者に買い叩かれようとしていたリトルマリー号へと走ったあの日の事を。
出航許可証を取り出してオーガンを追い払い、初めての航海へと漕ぎ出した直後の出来事を。
―― まあいいわ……だいたいいつも、私の味方なんて天気くらいだったし
あの時。自分がそう呟いた瞬間……波と船体の間から飛び跳ねた水飛沫が、風に舞い上がり僅かに自分の頬に触れた。
あれは海のキスだったのではないか。そんな妄想が、マリーの脳裏に浮かぶ。
海が、自分を愛してくれる事などあるのだろうか。
だけど、そうでもなければ説明出来ない事を、自分はたくさん見て来た。
海賊に囲まれても、幽霊船ごと沈んでも、氷の海に飛び込んでも……自分が生き延びて来れたのは、本当にただの偶然なのか。
たった今も。巌のような青く凪いだ水面に叩きつけられて粉々になるはずだった自分の身体を受け止めてくれたのは、大量の気泡を含んだ白く優しい波濤だった。
束の間、瞼を閉じていたマリーは再び瞼を開く。呆けていた自分の手を逃れた猫が、目も口も、耳も閉じたまま、必死に爪を立て自分の頬を叩いている。
「がぼっ……ご……」
口から僅かな気泡が漏れる。マリーは砂地を蹴り、猫を再び懐に抱え、気泡の中を浮上して行く。
「ぷはッ……」
慎重に。岩陰を選び海面から顔を出したマリーの背中に、再び波が打ちつける。
―― ザッパーン!
当たり前だが海は海だ、押し寄せる波は容赦なく自分を岩に叩きつけようとするし、引き波は岩から剥がそうとする、だから一瞬だって力は抜けない。
左腕と背中で突っ張ったまま、マリーは右手でぶち猫を可能な限り高く掲げる。
―― ドドーン!
容赦なく襲い掛かる白波が、マリーと猫を一瞬、海の中へと引き戻す。しかしマリーも猫も岩肌から手を離す事はなかった。波が引いた瞬間、ぶち猫はマリーの手を離れ、岩の隙間を這い上がり、振り返る。
「ォアーォ!」
「無事で良かった、分かれて逃げよう、行って」
猫は一瞬躊躇したようにも、合点したようにも見えた。しかしすぐに向こうに向き直り、岩の隙間を慎重に這い進んで行く。あの水に濡れた黒い背中なら、上から見る人間の目には見つかるまい。
サリームは、義弟の髪を切らせてもらって作った髭や眉毛は、白波の中に消えてしまった。
ただのマリーとなったガラベーヤを着た少女は、先ほどの窓から死角になる場所を選び、磯を慎重に横に移動する。
やがて左肩の痺れが、強烈な重みを伴う痛みとして襲って来た。
その間にも、波は何度も打ちつけて来て、マリーは頭まで水に浸かる。涙も、脂汗も、その度に洗い流される。
どうにか、城の上からも見えず頭から水を被る事もない場所を見つけたマリーはガラベーヤを脱いで岩肌に広げ、そこに背中を預ける。その下に着ていたのは銃士の服だ。
ずきずきと脈打つような重く激しい痛みが、マリーの意識を奪おうとする。マリーはどんよりとした瞳で北緯6度の太陽を見上げ、今でははっきりと解った被弾箇所、左肩に右手を添える。
「ぐっ……」
植物学者の銃は、銃身がごく短く携行用に特化した護身の為の銃だった。本来はあんな距離で当たる銃ではない。マリーは不幸にして、銃弾に当たった。
そしてマリーは知らなかったが、意外に迷信深いその男は魔女に対する備えとして、短銃に銀製の弾丸を籠めていた。
その弾丸は幸いにして動脈を傷つける事もなく、骨の手前で止まっていた。
太陽を視界に入れたまま、マリーはぼんやりと考えていた。
ザナドゥはユッタを遠ざけようとしていた。ユッタはそんなザナドゥの元に戻りたいと願っていた。
自分は、自分の感覚で考えた。そしてパパの元に戻りたいという少女の願いを最優先して行動した。だけどそれは本当に正解だったのだろうか。
何かが間違っている。いや、自分は何かを間違えた。
そう思う事をマリーは止められなかった。自分は何かを間違えた……!
―― ああ違った、正しくはパパとユッタのものさ、ハハハ
―― じゃあ私たち、夢を叶えたのね。素敵
あのワルツは勝利と栄光のワルツではなかった。二人の横顔はどこか悲しく、何かの覚悟に満ちていた。
何かが間違っている。
そして自分を撃った、あの植物学者の瞳。ほんの一瞬だけ見えたあの瞳の奥に潜む、狂気の、いや正気の光……
マリーは濁った瞳でぼんやりと空を見上げたまま、首に絡みついていたクーフィーヤを取り、口にくわえる。
それから、混濁する思考の中からファウストの本のコラムにあった、絶対に自分には無縁であると思えた知識を引き摺り出す。
ジャーキンとシャツの前を開き歯を食いしばり、左手を袖から抜き出したマリーは、ベルトの小物入れから開錠用の細いやすりを取り出す。
そしてそれを握り締めた右手で、露出させた左肩を探り……強くクーフィーヤを噛み締める。銃創はそこにあった。フルベンゲンで撃たれた場所に近いが、今度はしっかりと……血が流れ出ているのが解る。
この寒さと眠気はそのせいなのか。マリーは他人事のように、ぼんやりとそう考える。いくら全身ずぶ濡れだからと言って、この寒さはおかしいと思っていた。
―― ザバーン!
その間にも足元では波涛が砕け、白波が全身に打ちつける。マリーの傷口を、気泡をたっぷりと含んだ海水が洗う。
マリーは目を細め、左肩の傷口にやすりの先を押し込む。
マリーの視界の中で、青い空が、黒く滲むように変色する。
全身を切り刻むような激痛に耐え、マリーは自らの傷口から、銀色の弾丸を排出する。
―― ポロ……ポト、コン……トプン
弾丸は岩肌に背中を預けて張り付いたマリーの身体の上を転がり、磯の岩に弾んで、海へと落ちた。その間、波は少し静かになっていた。
マリーの右手を離れたやすりは、岩に引っ掛かって止まる。
これで終わりではない。
激痛が、寒気が、眠気が、自分の意識を奪わないよう必死に抗いながら、マリーは小物入れから取り出した小瓶の栓を抜き、中身が濡れてない事を確認して、左肩の傷口にふりかける。
そして、右の太腿のストラップに取り付けられていた愛用の短銃を取り、安全金具を外し、撃鉄を起こす。
銃には弾は籠められていないが、必要なのは火打石の火花だ。マリーは銃身を傷口に近づけ、引き金を引く。
―― ガチッ……
しかし濡れた火打石からは火花は散らない。マリーはもう一度撃鉄を起こし、銃の火蓋をぎりぎりまで傷口に近づけて、引き金を引く。
―― ガッ……
やはり、上手く行かない。視界が歪み、意識が闇に奪われそうになる。
赤道近くのサン=モストロ、時刻は真昼近く、雲一つない快晴……それなのに空は黄昏時のように暗い。今のマリーの目には、そう見えた。
眠い。もう全てがどうでもよくなりそうな程に。こうなるとマリーの味方は全身を引き裂くようなこの激痛だけだった。痛みだけが、自分がまだ生きているという事を教えてくれる。
早くしないと波が来る、今度傷口が水を被ってしまえばおしまいだ……マリーは撃鉄に噛みつき、歯でそれを起こす。そして柄にもなく神に祈り、傷口に火蓋を近づけ引き金を引く。
―― ザバーン!!
その瞬間、激しく打ち寄せて来た荒波が。その発火音を、光をかき消す。
白波がまたマリーの身体を洗う。左肩の傷口からは、一筋の煙が立ち昇る。
一瞬、血肉の焦げた匂いがマリーの鼻腔を突く。
―― ザパパーン!
しかしその煙も、続けて襲って来た波涛に掻き消される。
たっぷりと気泡を含んだ海水が、マリーの左肩の傷口の上を、撫でるように流れる。流血は、止まっていた。
マリーは、動かなかった。右手の銃の砲身を自分のこめかみに預けたまま、岩肌にもたれかかり、瞳を閉じて。
―― ザザーン……!
白波が三度、その肩を洗う。波はそれでまた少し収まり、それ以上は押し寄せて来なかった。
上空を一羽のハゲワシが回っている。翼開長は3m近くにも達する、南大陸でも最大級の飛ぶ鳥だ。
しかし彼等が生きている獲物を襲って食べる事はあまりなく、その主食は死肉である。
彼等はタカのように鋭く嘶いたりしない。瀕死の動物を見つけたら、ただ黙ってその死を待つ。
ハゲワシの目に、今日の獲物は今にも海に落ちそうに見えた。海に落ちた死体は海のスカベンジャーの物になってしまう。彼はいつもより早めに、音もなく降下を開始する。
―― フゥゥン……
マリーは、瞼を開く。その綿津見色の瞳には、鋼の意思と、深く澄んだ輝きが宿っていた。
過酷な焼灼止血をやり遂げたマリーは、歯と右手でクーフィーヤを引き裂き、脂汗を流し激痛に耐えながら傷口にその布を巻きつけ、歯と右手で引き絞る。
ハゲワシは既に急旋回して飛び去った。マリーは岩に引っ掛けていた銃とやすりを小物入れとストラップにそれぞれ戻し、小さな火薬の瓶にコルクを閉めなおす。そして、シャツとジャーキンに袖を通す。
自分の失敗は自分で取り返さなくてはならない。ヴィタリスの小作人の貧しい暮らしの中、祖母コンスタンスは自分にそう教えてくれた。
―― ……向こうで物音がした
―― ……何人かついて来い
船酔い知らずの地獄耳に、遠くから人の声が聞こえて来る。しかし、普通の人間は磯の岩場をそんなに機敏には移動出来ないだろう。
一方マリーは普段ならこんな場所でも素早く移動出来るのだが、今は寒気と脱力感が酷く、いつものようには動けない。
「何か……何か」
ベルトの小物入れを探ったマリーは、長さ10cm程の小さな煉瓦を取り出す。レイヴン海軍ではこれを固パンと呼ぶらしい。海水に浸かったおかげで僅かには柔らかくなったが、依然として石のように固く塩辛いそれを、マリーは真顔でガリガリと噛み砕き、ゴクリと飲み込む。
「……足りない」
瞳を暗く輝かせたマリーは、慎重に岩肌を伝い、その場を離れて行く。





