猫「何故待った……拙者如き畜生を」
ぶち君が見張りの気を引く間に、城主部屋に忍び込んだサリームじいさんことマリー。ついに厳重な警戒を破り、ユッタをザナドゥに会わせる事に成功しました。
しかし、そこに現れたのは……
きっかけは復讐団のミラレスだった。執念と知力を持つ彼は網を張り、なりふり構わずサン=モストロを離れようとしている人間を探していた。
そこに掛かったターナーという男は、征服者の洗練された尋問に掛けられる前に、自分がザナドゥの隠し子の警備責任者だった事、その隠し子を見失ってしまった事を洗いざらいを白状した。
ミラレスはそれをすぐにアドルフに伝えた。アドルフは人質に取っていたザナドゥの娘が誰かに奪われた事を知り、たった今、ここにやって来た。
そこに居たのはザナドゥと、ターナーに預けたはずのザナドゥの娘、そして、こんな場所に居るはずのない、ターミガン風の衣装を纏った小柄な老人だった。
一方のサリームも密かに驚愕していた。あの危険な植物学者が何故トムバから遠く離れたこんな所に居るのか。あのスループ艦の船長も居る。カイヴァーンも認めた手練れだ。
「ぶち君!」
サリームは尚も叫ぶ。彼に危険を知らせたぶち猫は不覚を取り、門番の兵士に捕まってもがいていた。次の瞬間、猫はどうにか、兵士の腕の中から逃れ床に飛び降りる。
サルバズの反応は速かった。抜刀したその剣豪船長は、サリームめがけまっしぐらに迫る。サリームには、ごまかしや工作をする時間は全くなかった。
―― ガタン!
小柄な老人は、手近な椅子を蹴倒して遮蔽物を作るのと同時に宙返りを打ち、片手でテーブルの上を飛び越えて間合いを取り直す。その動きは老人どころか、常人のものではなかった。
それを見たイスマエルは咄嗟に、アドルフと老人の間に立ち塞がる……それは忠誠心の強い彼が、無意識に取ってしまった行動だった。
「そっ、そいつを抑えろ!」
唖然としていた精鋭兵士達もようやく動く。アドルフやイスマエル、そしてサルバズと違い、兵士達は誰も、誰が本物のザナドゥか聞かされていなかったのだ。彼らが本物だと信じているザナドゥは、何の指示も出していなかった。
一方サルバズは、あの大柄な男はザナドゥではないと知っていた。サルバズは何の遠慮もなく、サリームが飛び越えたテーブルに飛び乗り、その向こうのサリームへと斬りかかる。
―― バアッ!
サリームが引いたテーブルクロスが宙を舞い、サルバズの剣線を包む……その効果は一瞬だったが、その間にサリームはテーブルの下を素早く転がって再び反対側に出る。
ほとんど断ち切れてしまったテーブルクロスを振り払い、サルバズは今度はテーブルの周りを回る。サリームは先程ザナドゥ親子が見下ろしていた、開け放たれた海側の鎧窓の方に駆け寄る。リビングを駆け抜けて来たぶち模様の猫も、それに横から交差するように飛びつく。
サリームは僅かに振り返り、飛んで来たぶち猫を懐に迎え入れる……
―― ドォン!
銃声が、響いた。
サリームは。自分が着ていたガラベーヤの布の一部が、切れ端となって飛ぶのを見た。同時に飛ぶ、赤い飛沫も……
「サ……!」
ザナドゥが短く叫ぶ。彼はサリームに死んでほしくないと思っていた。しかしサリームは、開け放たれた窓の外へと飛び出して行く……
◇◇◇
マリーは刹那の間に、短い夢を見た。
初夏のヴィタリス、青々と茂った牧草地、抜けるような青空と、勇壮な雲。
静かに草を食む雄牛、やんちゃのビコ。遠くで手を振る祖母、コンスタンス……
◇◇◇
ほんの一瞬飛びかけた意識を取り戻したサリームは、懐の猫を巻き込むように全身で抱えながら、袖の中に隠していたサイモンの予備のロープフックを解き放つ。その体は既にサン=モストロ城の最上階の窓から飛び出し、空中へと浮かんでいる。
―― ガッ……
ロープと爪はどうにか窓辺に掛かった、だが自分はこの後落下の衝撃に腕一本で耐えなくてはならない、いくら船酔い知らずの魔法があってもそれは大変な苦痛が伴う、もちろん懐に抱えたぶち猫も守らなくてはならない、しかし。
自分は、撃たれた。驚いた事に、現時点ではどこを撃たれたのか解らない。感覚が麻痺していて痛みを感じないのだ、だけど確実に、身体から力が抜けて行く……
「あああ!」
ロープを引き寄せたサリームは全身に力を込めなおし、迫りくるサン=モストロ城の石煉瓦の壁に足を向ける。
―― ダンッ!
「ぅえっ……!」
サリームはぎりぎりで壁面を蹴り衝撃を和らげた。それが出来なければいくら魔法の力があっても命はなかった。
―― ガクン!
続いて走る衝撃に、左腕が体から引き抜かれそうになる。普段なら力を籠めればコントロール出来るその痛みが、まともに全身に走る。
左手には全く力が入らず、右手は猫を抱えていて自由が効かない。それでもサリームはどうにか石煉瓦の壁に張り付こうとするのだが、全く上手く行かない。
身体はロープ一本で宙吊りになったままだ。左腕のどこかから、血が絞り出されるような感覚がある……幸か不幸か痛覚は麻痺したままで、自分ではまだ、あの植物学者に撃たれた傷がどこにあるのか解らない。
窓に掛かっているはずのロープが、不自然に揺れる。
見上げれば、ザナドゥの部屋の窓から顔を出したサルバズが、そのロープを両手で掴んでいる。
「……来い!」
サルバズは窓に跨ると、ロープを両腕で手繰り寄せ始める。それは勿論サリームを助けようというのではないだろう。
ロープは15mほどしかなく地面まではまだ30mの高さがある、窓の真下は岩場で、この高さからそこに落ちてはさすがのサリームも命がない。
しかしその5m向こうは急な崖になっていて、その先には海がある。それは白波の打ち寄せる磯で、どれほどの水深があるのかは解らない。
サリームは壁を蹴る。その身体はサン=モストロ城の壁面から離れるが、左手に結ばれたロープによって振り子のように壁面に戻る。
「……何をする気だ!」
サリームの意図に気付いたサルバズはロープの引き上げを急ぐ。そのロープは、先に人が一人ぶら下がっているとは思えない程軽かった。
壁面に戻ったサリームはその反動を利用しさらに強く壁を蹴り、大きく壁面を離れる。
「やめろ!」
「ぶち君、ごめん」
サルバズが叫び、サリームが呟いた次の瞬間、ターミガン風の小柄な老人の身体はそのロープから離れ、宙に舞った。
「馬鹿な……!」
サルバズにはそれは自殺行為にしか見えなかった。あの程度の反動を利用した所で海まで飛べるものか。
しかしサルバズの考えとは裏腹に、人外に軽量な老人の身体は、右手で猫を抱えたまま、残りの三肢に受けた風の力で、空中を僅かにスライドして行く……
僅かな時間、サリームは空を飛んだ。
岩場に叩きつけられる事だけは回避したサリームは、空中で猫をさらに抱え込み身体の中央で保護するように姿勢を変える。
―― ドボーン!!
「どうした!?」
窓辺に駆け寄って来たイスマエルは身を乗り出して下を見る。イスマエルが見る事が出来たのは、白波立つ磯に昇る、小さな水柱一つだった。その後ろから、役に立たなかった精鋭兵士が殺到する。
アドルフは短銃を撃った場所から動いていなかった。アドルフの脳裏は今、怒りと考え事で一杯だった。
アドルフには魔女やその手下と接触するつもりはなかった。自分はゲスピノッサのような愚か者ではない。用心を欠かさず常に安全な所にいて、他人を使って目的を達成する、それが自分だ。
そして魔女は自分の計略通り、偽ザナドゥに喰いついた。そこまでは何の問題もなく、順風満帆とさえ言えた。
しかし。魔女はその餌に更に深く喰らいつき、何かを企んでいた。このどうでもいい城の警備を掻い潜ってだ。これだけ金をかけた警備が、何の役にも立たないとは!
「命中してます、先生……お見事です」
撃ったばかりの短銃を見つめていたアドルフは、戻って来たサルバズに声を掛けられ、視線を上げる。
サルバズは指先につけた新しい血糊を、アドルフに見せる。サルバズの瞳に浮かんでいたのは、実直な尊敬の念だった。
アドルフを敬愛するその青年船長は、そのまま廊下へ飛び出して行き、吹き抜けに向かって叫ぶ。
「不審者が東側の崖の向こうに落ちた! ボートを出せ、陸からも回り込め、黒いガラベーヤを着た男だ、生きていても死んでいてもいい、必ず見つけ出せ!」
イスマエルもアドルフの近くまで戻って来て、その耳元で囁く。
「銃で撃たれた上にこんな高さから落ちたのでは、いくら下が海でも生きているはずがありません、あの男は必ず死体になっています」
ユッタはただ蒼白な顔をしてザナドゥの腰にしがみつき、窓と父の顔を交互に見比べていた。その目元には、小さな涙の粒が浮かんでいる。
出会ってから二年。ロタールは、初めてユッタの涙を見た。本当は彼自身も震え上がり、泣きたい気持ちになっていたが、今は泣く訳にはいかない。
精鋭兵士の一人が、恐る恐る、ザナドゥに近づいて来る。
「か、閣下、警備の手が行き届かず申し訳ありませぬ……そ、そちらの御令嬢にもお怪我はないでしょうか……?」
ザナドゥは必死に、自分を演じる。かけがえのない、娘の為に。
「ある訳がないだろう。これはユッタ、私の娘だ」
アドルフは一瞬、表情を憎悪に歪める。ロタールが魔女とどんな交渉をしていたのか、本当は今すぐ拷問にかけてでも吐かせたいのだが。
そんな事は出来ない。この男の見た目は非常に役に立っており、サン=モストロはクジャックでの敗戦のショックから立ち直り、その支配力は再び犀角海岸を席巻しようとしている。
「御嬢様にも、怪我がなくて何よりです」
無表情を取り繕ったアドルフは、慇懃にそうザナドゥに告げる。その内心は怒りに燃えているのだが、今はこうするしかない。
やる事は一緒だ。今後はここでロタールの娘を人質に取る、それだけだ。
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