サリーム「ワシは納戸に篭ってドレスを作るが、決して覗いてはいかんぞ」
最初は屋上から苦も無く侵入し、中もほぼ自由に歩けたサン=モストロ城。それはしかし、マリーが侵入と脱出を繰り返す度に、警戒厳重な要塞のようになって行ってしまいました。
厳重な警戒が敷かれたサン=モストロ城の中で、城主部屋の警備は比較的おざなりにされていた。担当の兵士は四人のみで、特に昼間は当直が一人しか居ない。
その一人も、どこからともなく猫が一匹現れた事など気にも掛けなかった。
「オアーオ」
その眉間に小さな傷跡のあるぶち猫は、兵士の顔を見上げて立ち止まり、一声鳴きまでした。兵士はそれでも猫を一瞥しただけで、無視を決め込む。
猫はさも当たり前という顔をして、開いている両開きの扉の真ん中から城主部屋にすたすたと入って行こうとする。
「ああ、待て」
さすがに無視も出来なくなった兵士は振り向いて猫を追い、その胴を掴み上げて廊下へと戻る。
「入ってはいかん」
廊下に降ろされた猫は目を細めて兵士を見上げ、踵を返して立ち去るふりをして……今度は扉の隅の方から城主部屋に入ろうとする。
「だめだ、だめだ」
兵士はその動きを見ていて、扉の隅に寄って猫を捕まえようとする。猫は今度は身を翻して逃げるが、隙を突くように、扉の逆の隅の方に駆け寄る。
「だめだ、ええい、あっちへ行け」
兵士は槍を振りかざして猫を追い払う。猫は廊下の向こう側に行ったが、また目を細めて振り返る。
「行け、向こうに、行け」
兵士は槍を手に、わざと足音高く猫に迫る。猫はまた3mばかり向こうに逃げたが、再び振り返る。
「行けッ、行けッ」
兵士はさらに猫に迫る。猫は今度こそ、10mばかり先の廊下の曲がり角の向こうに消えた。
「どこから来たんだろう……」
兵士はそう呟き、振り返って持ち場へと戻る。
◇◇◇
「……ユッタちゃん!?」
城主部屋のリビングで時間を持て余していたザナドゥは、入口の方から現れた人物に驚き、声を落として叫ぶ。
「……パパ」
そこに居たのは、セリカやモーラから渡って来た完璧な絹と天鵞絨の生地を贅沢に使いアイリとマリーが徹夜で作った衣装を着て、コルジアの宮廷舞踏会に出しても恥ずかしくないような高貴な令嬢となった、ユッタの姿だった。
ユッタはすぐに膝をつき頭を下げたザナドゥに駆け寄り、手を回してその首にぎゅっと抱きつく。
「ユッタちゃん……どうしてここへ」
「当たり前でしょ。私たち親子なのよ」
「だけど、あの……いや、」
「パパ、お金は大事にしてって言ったでしょ! 私、これを返しに来たのよ」
ユッタはザナドゥの首から手を離し、サリームから渡された巾着をその手に突き返す。
ザナドゥは見た。ユッタの後ろに居る、ターミガン風のガラベーヤとクーフィーヤを身に着けた老人、サリームを。
「何故、連れて来た……!」
ザナドゥはそう、震えた声で絞り出すように告げる。
有り体に言って、ユッタはアドルフに人質として取られていた。しかしそれをサリームに説明する事までは、ザナドゥ、いやロタールには出来なかった。
この善良で人畜無害そうなターミガンの老人が、ユッタを救出してくれたのは驚愕に値するのだが……そのユッタを、警戒厳重なこの城に連れて来てしまうとは思っていなかった。勿論、アドルフが許可したものとも思えない。
ユッタはザナドゥの右腕に抱きつき直し、その顔を見上げて言う。
「パパ、ここは良くないわ。イヤな感じがするし、明るくないもの」
「……すみません、こうするしかありませんでした」
ユッタの後ろで項垂れていたサリームも、ようやく口を開く。
ザナドゥは一度首を振り、その大きな左手でユッタの頭をそっと撫で、答える。
「いや……ユッタちゃん、パパもこれは違うと思うんだけど、お仕事なんだよ。見てよほら、酷いもんだろう?」
ザナドゥはユッタから手を離して胸を張り、自分が着ている極上の仕立てのジュストコールを指し示し、ジャボを軽く引っ張って、その恐ろしく厳つい顔を滑稽な顔に変化させて見せた。
その熟練の道化のような技に、サリームは思わず吹き出しそうになった。ユッタはクスリと、小さな笑い声を立てる。
「そうね、こんなパパ初めて見たわ。でもこんな私も初めて見たでしょ?」
ザナドゥの手から離れたユッタはふわりと舞い、軽やかに一回転すると、ドレスの裾をつまみ膝折礼をしてみせる。
「素敵だよユッタちゃん、完璧なレディになったみたいだ。さあ、こちらへ」
ザナドゥは元の厳つい、けれども慈愛の籠った父親のような顔に戻っていた。立ち上がったザナドウは、立派な淑女にするような仕草で、娘、ユッタに手を差し出す。ユッタも気品のある仕草で、その手を取る。
二人は、リビングにある大きな両開きの鎧戸の方に向かって行く。ユッタが手を離すと、ザナドゥはその窓を大きく開き、近くの丸椅子を近づける。
「見てごらん……気をつけてね」
ザナドゥは危険がないよう、ユッタの腰に手を添える。丸椅子の上に立ち上がったユッタは、わぁ、と、子供らしい驚愕の声をあげる。
窓の外にあったのは、サン=モストロ港の全てを見下ろせる絶景だった。
「凄いわ、港も船も、あんなに小さく見える」
「ははは……あれが全部パパのものらしいぞ」
サリームはその様子を少し離れた所から見ていた。それぞれの装いの為もあり、二人の姿は疑いもなく高貴で、凄い権力を持った貴族のようにも見える。
ただ、ザナドゥの言う事が本当なら、この親子は本物の貴族ではなく、父は力自慢の旅芸人で、娘はどこかの町の孤児だというのだが。
サリームは改めて考える。そんな事があるのだろうか? いや、あるのだろう。自分だって今は立派な服を着てロングストーンの海運会社の商会長を名乗っているが、一年前はアイビスの片田舎で牛糞を拾い集めていた貧しい娘を知っている。
そんな二人の声を落とした会話は、耳の良いサリームにも聞こえて来た。
「パパ、まるで支配者になったみたい」
「そうだよ。パパ、支配者になったよ。だからユッタは支配者の娘だ」
「本当に、町も船も人々も、全部パパのものなの?」
「ああ違った、正しくはパパとユッタのものさ、ハハハ」
「じゃあ私たち、夢を叶えたのね。素敵」
ユッタは丸椅子から降り、父の手を取りステップを踏み始める。ザナドゥも、その体格からは想像も出来ない程、繊細で優美で、かつひどく体格差のあるパートナーに合わせた器用なステップで踊り始める。
生まれながらの高貴な血の為せる業か、はたまた熟練の旅芸人が磨き上げた技か。二人のワルツは完璧だった。リビングを舞台に、仮初めの父娘は、回り、踊る。サリームが、ヴァイオリンを持って来なかった事を後悔してしまう程に。
「もう一人はイヤよ。私、パパの側を離れないから」
「ごめんよユッタ。パパ、死んでも君を離さないよ」
二人のその囁き声は、サリームにも聞こえなかった。
幻の伴奏に合わせて、二人はひと時、かけがえのない時を過ごす。
やがて足を止めたザナドゥは、サリームに向き直る。
「親子は一緒に居るべきだ。改めて感謝する、サリーム殿……貴方に差し上げられる物と言えば、やはりこの巾着しかないのだが」
「ああいや、お礼はもう頂いた、それであの……貴方にちょっと、御願いしたい事があるんじゃが」
そしてサリームが小さな御願いのように、ラランジェ王国との停戦と、犀角海岸における奴隷貿易から地域振興貿易への転換と協業協定を打診しようとした、その瞬間。
「マーオ!」
部屋の外でぶち猫が鳴くのを、サリームの地獄耳が捉えた。サリームは決してここが敵地だという事を忘れていなかった。
「ぶち君来て!」
サリームはいきなり、城主部屋の入口の方に向かいそう叫ぶ。
そして、目まぐるしく考える。外で何が起きているにせよ、ザナドゥは目の前に居て彼は自分に感謝しているという。
ここに踏み止まり交渉を始めるべきか? いや。どうも何かがおかしい。
「早く、ぶち君!」
「……サリーム殿?」
ぶち猫は姿を表さない。そもそも猫が人間の言うことを聞く事などあるのだろうか、犬と違い、猫は簡単な命令にも従わないのだ。
状況を把握出来ないザナドゥは、ただ目を丸くしていた。ユッタもただ、父の手を取ったままその顔を見上げていた。
リビングの戸口に複数の足音が近づいて来るのを、サリームは地獄耳で聞いた。
「……貴様は!」
城主部屋の入口から、ホールを経て、このリビングに駆け込んで来たのは、アドルフとイスマエル、そしてサルバズ、それに数名の精鋭兵士だった。





