ロクスター「決めた。僕はこの気持ちを告白する、相手がどんな階級だろうと! と、止めるなよスマイリー!」スマイリー「止めません。行きなさい」
何かに気づいて、大声を上げそうになったマリー。
今度は何?
「元帥閣下。囚人のカーターの事ですが、あの男は国外逃亡中の手配犯なのです、尋問が御済みでしたらこちらで引き取らせてはいただけないでしょうか」
「も……申し訳ありません、彼はサン=モストロの実情を知る証人であり、ザナドゥとの交渉材料になり得る人質でもあるので」
トレヴィリアン艦長からは再度カーター氏の引き渡し要請があったが、これは誤魔化すしかなかった。私はまだ氏から母の事を聞いていない。
激闘の末乗艦を失ったシビル艦長とタミア号の乗組員達には、拿捕したブリッグ船を引き渡す事になった。私は軽い気持ちで、私が読んでしまったあの手紙を書いたシビル艦長の母親の事を尋ねたのだが。
「……母は元々体を悪くしていて余命幾何もなかったのですが、今回の遠征が決まる少し前に亡くなりました。貴女のおかげで、人生の最後に息子が処刑されたと聞かされずに済んだのです」
真顔の艦長にそう言って頭を下げられてしまい、ますます良心の呵責に苦しむ事になった。
そしてそんな事をしている間も、私の頭の中は焦りと不安で一杯だった。一刻も早く手を打ちたい、なのに、雑然とした下らない用事は次々と舞い込んで来る。
「クジャック象牙取引組合の者でございます、元帥閣下にお目通りを、あの、閣下は幼少期に貧しい暮らしを経験したりしていませんか」
「拿捕したキャラック船の一隻が酷いゴミ溜めになっています! 会食室は洗濯物に埋もれ、船倉には箱ごと腐敗した20年物の塩漬け肉が」
「申し上げにくいのですが、アイビス海軍兵とレイヴン海兵隊員が港の飲み屋で乱闘騒ぎを……閣下の裁定をいただく訳には行きませんか」
気が気ではない。こんな事をしている間にも事態は悪化の一途を辿っているのかもしれないのに。だけど敵に勘づかれる訳にも行かない、私は努めて冷静なふりをしたまま、仕事を雑に片づけて行く。
「私は貧乏などした事がありません! キャラック船は元の乗組員を追い出して、容赦なく片づけて下さい、喧嘩の成敗は町の司直の領域ですよ! 誰の部下かなど関係なく、遠慮なく裁けとお伝えください!」
私が時間を作る事が出来たのは、夕方になってからだった……田舎の小娘だと思って、何でもかんでも持ってきやがって。
◇◇◇
「おお、船長。仕事は終わったかね? 疲れたのじゃろう、艦長室は元に戻しておいたからの」
フォルコン号の舷門に戻った私を最初に出迎えてくれたのは、穏やかなロイ爺の笑顔だった。ああ、癒される……だけど私には今やらないといけない事が山のようにある。
「ありがとうロイ爺、また呼ばれるかもしれないけどちょっと休ませて……アイリさん、何か甘い物でも作っていただけませんか? あと不精ひげどこ、留守の間の話を聞きたいんだけど」
一緒に戻って来たアイリさんは、笑顔で応えて厨房に向かってくれた。
昨日までぎゅうぎゅう詰めだったフォルコン号の甲板は、今は少しすっきりしていた。サイドキック号から派遣されていた海軍兵の皆さんが元の艦に帰って行ったのだ。あの人達にお礼を言いそびれてしまった……言われてみれば、プレミスで一緒に海軍基地に突撃した人が結構居たなあ。
「……呼んでこよう」
近くに居たサイモン艦長がそう言って昇降口に向かう……ちょっと待て、私は急いで駆け寄って、義手の方の手を取る。
「待ってティモシー、あたしトレヴィリアン艦長にあんたの名誉回復を御願いしたのに、拿捕船の艦長としてレイヴン海軍に復帰出来るようにって、何でまだここに居るの」
「馴れ馴れしく呼ぶな小娘。御厚情には痛み入るが、私に……俺にだって一方的に艦長失格を言い渡して来た海軍には思う所があるんだ」
トーマスさんを初めとするサイモン艦長の直属の部下達も、フォルコン号に残っていた。今は甲板の向こうでウラドやカイヴァーンと共に、壊れたファウスト砲を分解したガラクタを囲んで、ああだこうだ言っている。
「……あの人達だって、帰りたいんじゃないの」
「俺はそう言った、お前らはトレヴィリアンの艦に移って帰るようにと」
だけど誰もそうしなかったのか……面倒くさいな、船乗りって連中は。
彼らは空を飛ぶ鳥のように自由で身勝手な時もあれば、船と仲間に尋常ならざる忠誠を尽くす事もあるのだ。
やっぱり私は陸の人間なのだと思う。船乗りの考える事はわからんわ。
フォルコン号の艦長室に戻ると、ぶち猫が艦尾窓の下の床で寝ていた。そこが船の中では一番静かでかつ、涼しいのだろう。
私は足音を忍ばせて自分の道具箱に歩み寄り、中から大きな背負い袋を取り出す。そしてさらに慎重に忍び寄り……腹を出して眠っている猫に背負い袋を被せる。
「フギャッ!?」
「何でこんな事をされるのかって? わかってんでしょこの裏切者、全部済むまで大人しくしとけッ」
◇◇◇
「呼んだか? 船長」
不精ひげはやはり、覆面を被ったまま現れた。私は艦尾窓を閉める。他の明り取りも全部閉めてしまったので、デスクの上に置いたランプの明かりだけが頼りだ。
「そこを閉めて、静かに聞いて」
私は不精ひげに近づき、小声で囁く。
「……アンタ、口は堅いんでしょうね?」
「何を今さら。俺に話した秘密は誰にもバレないぞ」
マスクの下で怪訝そうな顔をする不精ひげに背を向け、私は最低限の声量で続ける。
「私は今夜、密かにクジャック砦を離れます。行き先はタルカシュコーンです……フォルコン号は置いて行きます」
「……えっ!? どうしてそんな、」
「静かに。この話は不精ひげにしかしてないし、他の誰にも話す気はありません」
私は真っ暗な艦長室を歩き執務机の向こうに座る。不精ひげも机の向かいについて来る。光量を絞った小さなランプの光に、細い目を見開いた不精ひげの顔が浮かび上がる。
「船長Zのジャッカス号は解る? あれを使います」
「……理由を聞いてはいけないのか?」
「何故アンタにだけ話してると思うの? この計画は他の誰かにバレたらおしまいなんですよ、私も、ラランジェも。絶対に、誰にも話さないで」
私は口元で掌を合わせ、ランプの明かりに顔を近づける……私の表情が不精ひげにも見えるように。
「わ……解った、絶対に、誰にも話さない」
「きっかり、午後10時。私の懐中時計でね……気をつけて。やり直しはしません、来なければ置いて行きます」
懐から取り出した時計をちらりと見せてから、私は背中を伸ばし、ランプから離れる。
「本気なんだな……本当に誰にも話さないのか? 俺は何をすればいい?」
「関係各所には書置きを残します、不精ひげに対応してもらう事はありません、身一つで来てくれたら結構……そろそろアイリさんが来ます、行って下さい」
不精ひげは艦長室を去った。私は明り取りの窓を開けなおし、ランプの火を消す。外はまだ明るいのに、もったいない。
―― トン、トン、トン。
少しの間の後、誰かがその戸を叩く。これはアイリさんのノックとは違うな……そう言えば警備をしてくれていた海兵隊員もサイドキック号に帰ったのだ、お礼を言いそびれちゃったなあ。
「どうぞ」
「し、失礼します!」
そこに入って来たのはやはりアイリさんではなく、士官候補生のロクスター君だった。良かった、彼にもお礼を言っておきたかったんですよ。
私はその同じ年の男の子に向かい、居住まいを正す。
「ちゃんとしたお礼がまだでした。カーター氏との決闘の後で貴方が言って下さった事は本当に胸に響きました。取るに足りないチビの私ですが、この狂った世の中では私を元帥閣下と呼ぶ人も居る、そんな人間を相手にあれを言うのは大変な勇気が必要だったと思います、そして必ず誰かが言わなくてはならない事でした、貴方の言う通り、どれだけの人が迷惑したか解らないのですから!」
先程までの緊張感から解放されていた私は、そんな事をペラペラとまくしたてる。その間ロクスター君は何かを言いかけてはやめていた。
「貴方のような人を、勇敢な海軍士官と呼ぶのでしょう! だけど私はマイルズ・マカーティ艦長……貴方のように勇敢で高潔な海軍士官が、謂われなき罪を被せられ処刑されそうになった事を知っているんです、彼が正義の拳を揮いたくさんの市民を救った事が、偉い人の都合に合わなかった、ただそれだけの理由でね」
「それはその、あの、」
「御母上は御元気ですか? 貴方も勇敢な人ですから、きっと心配しているのでしょうね、私は最近、いえ今日、友人の艦長の一人が母親を亡くしていた事を知りました。身体を悪くして寝込みがちになってからも、息子を心配し手紙を書き続けていたそうです。私の祖母もまた、船乗りの妻で船乗りの母でした。ふふ、祖母には口癖のように言われましたよ、マリーや、船乗りとだけは付き合うんじゃないよ、船乗りだけはおやめと。結局の所、私も船乗りになってしまいましたが」
そこまで言ってから、私は一度言葉を切る。さて、ロクスター君は何の話でここに来てくれたのだろう? 私は小首を傾げてその言葉を待つ。しかし先程まで何かを言いかけていたロクスター君は、今度は俯いて沈黙してしまった。いいのかな? 私は自分のしようとしていた話を続ける。
「貴方もどうか、お母さんの事を忘れないで下さい。正義や勇気も大切ですが、一番大事なのは貴方の命です。私も気をつけるようにしますから」
「あの……僕は!」
「お待たせマリーちゃん……あらごめんなさい元帥閣下、ロクスター君も来てたのね。バナナベニエを揚げたのよ、キャッサバも練り込んだからぷりぷりしてると思うわ。たくさんあるから一緒にどう?」
そこに開けっ放しの扉から、ベニエを山盛りにした鍋を持ったアイリさんがやって来た! たちまち艦長室を満たす、フワリとした揚げ油とバナナの甘く濃厚な魅惑の香り、たまらず私はアイリに駆け寄る。
「だから元帥閣下はやめて下さいよ、うわああ美味しそう砂糖もいっぱいかかってて、いただきます! モグ、ロクスター君も食べて、カイヴァーンもそんな遠くで見てないでこっちにおいでよ」
バナナの香りに釣られて遠くからこっちを見ていたカイヴァーンが慌ててやって来る、ハハッ、急がないとなくなるよ!
「ふわああ甘ーい!」
しかし私がそう言った瞬間、ロクスター君は何も言わず後ろを向いて駆け出してしまった。
「ロクスター君? 待って、このベニエ美味しいよー!?」
私がそう呼び掛けても、振り返る事もなく甲板を駆け抜け舷門から渡し板を駆け抜け桟橋に降りて行く、ロクスター君……一体どうしたんだろう? やっぱり船乗りの考える事はよくわかんない。
入れ違いにやって来たカイヴァーンは腰の手拭いで手を拭くと、ベニエを両手に取って順番にかぶりつく。
「美味ぁい! 何かこういうの久しぶりだ!」
「人が多過ぎて、こんなの作れなかったもの」
笑い合い、ベニエを頬張る二人に背を向け、私は一瞬真顔に戻る。
決行は今夜10時だ。