トライダー「マリー君は今、どこの海に居るのか……神よ、どうかあの穢れなき乙女を守り給え」
弱音が口を突き、涙が溢れる。
なんだかんだ言っても15歳の女の子ですからね。出来ないものは出来ません。
いったいどうしたらいいのでしょう。
大好きなお父さんの事も。時々悪態をつく事はありますが仕方ありません、反抗期ですもの。
嗚呼、こんな時にお父さんが居てくれたら……
お父さんが居てくれたら……[棒読み]
「」
マリーは声にならない叫び声を上げ、真っ青になって飛び上がり、膝から床に落ちて頭を抱える。
「いやあ初めて来たけどいい船じゃないか、フォルコン号かぁ。名前はマリーがつけてくれたの? 小さいけど実に頑丈に作ってある、いい船だ」
覆面男はそんなマリーの様子に構わず、にこにこと笑って艦長室の中を見回す。
「ここがマリーの城なんだな、羨ましいよ。リトルマリーの船長室は狭かったろ? だけどあんな部屋だって、父さん十何年もかけて手に入れたんだぞ、マリーは凄いなあ、船乗りになってすぐこんな」
振り向いた覆面男、コンドル船長ことマリーの父フォルコン・パスファインダーが見たのは目の前でいきなり逆立ちをしたマリーの背中と、
「マ」
それをはしたないと咎めるより早く自分の頭を左右から挟んだマリーのブーツの両足、次に揺らぐ天井、廻る床だった。
―― バタターン!
ハンドスタンド・ヘッドシザーズ・ホイップを掛けられたフォルコンと掛けたマリーは、それぞれ回転しながら艦長室の床に転倒する。
「はしたないよマリー、パンツ見えたらどうすんの」
しかし起き上がって抗議しようとした時には、フォルコンは先に立ち上がったマリーに後ろからヘッドロックを掛けられていた。
「ちょっと、父さんの話を」
「やかましい、入れッ、そこに入れッ」
「机の下? 父さんこんな小さな机の下入れない」
「うるさい、いけ、いけッ」
背中に複数回の蹴りまで加え、マリーはつい先ほど涙まで流して会いたいと願っていた実の父を艦長用の執務机の下にぎゅうぎゅうに詰め込む。次の瞬間、艦長室の扉が開き、アイリが現れた。
―― キィー
何も気づいてないアイリは、ポットとカップを乗せたお盆を手に微笑む。
「お待たせ。ミントティーは切らしてたけどコーヒーがあったわ」
「まッ、待ってアイリさんッ、アタシいまミントティの口なんですどうしてもミントティがいいです!!」
「えー? ミントそのものが品切れなのよ、海軍兵の皆さんがお仕事の後に飲まれるから」
「じゃあせめて砂糖をたっぷり入れて下さい、お願いします!」
「マリーちゃんコーヒーはブラック派じゃなかった?」
「大人ぶって無理してましたッ! 本当は砂糖がないと飲めません、三杯、いいえ四杯はお願いします!」
「そう……じゃあ、ちょっと待ってね」
マリーの必死のパッチに気づかず、アイリはお盆を抱えたまま身を翻して戻って行く。
一方机の下では、アイリの声を聞いたフォルコンが小刻みに震えていた。
「うそ……彼女、まだ乗ってたの……?」
「何で乗ってないと思ったの、アンタそんな事も下調べせず密航して来たの!?」
「だって、ここはもう赤道近くの犀角海岸だよ、ローバー海峡やシハーブ諸島とは違うだろ、ねえマリー、あの娘は本当にいい家のお嬢さんなんだよ、早くラビアンの実家に帰してあげた方がいいんじゃないかなあ……?」
装填済みの短銃を赤いワンピースドレスのスカートの中のホルスターに隠してあるマリーは、三秒だけ呼吸を止め、湧き上がる殺意をどうにか押さえる。その間にぶち猫はマリーの足元まで近づいて来て、真ん丸に瞳孔を開いて顔を見上げる。
マリーは、ぶち猫に向かって小さくうなずき、机の下から這い出して来た父に告げる。
「ついて来なさい。立って。胸を張って普通に歩いて」
「待ってマリー、お前まさかアイリに父さんを」
「黙って言われた通りにして」
「わ……わかった」
実の娘にスカートの下から取り出した短銃を真顔で突きつけられると、フォルコンは言われた通りに立ち上がり、胸を張る。
短銃をしまい艦長室を出たマリーは、覆面姿の身長180cm超の水夫を連れて、普通に甲板を歩いて行く。水夫が着ていたのはロングストーンのワークマン商店で安売りしている船乗り用の服だったので、周囲で作業をしていたレイヴン海軍兵達は皆それを、同じ服を愛用しているフォルコン号の掌帆長不精ひげだと思った。
ぶち猫はマリー達を先導して昇降口へ向かった。マリーは何かの確信を持ったようにそのまま昇降口を降り下層甲板へ向かう。
フォルコンも娘に言われた通り親友のニックの物腰を真似てマリーについて行く。実の所、フォルコンはその手でフォルコン号に忍び込んだのだが。
アイリは既に厨房に入っていたが、時間はまだあまり経っていない。お盆を置き、砂糖を取り出し、マリーのカップに投入し、よく混ぜる。そういう工程を踏んでいるはずだ。
その間にマリーは廊下に身を屈め厨房の前を突破する。厨房には内窓があり、廊下を通る者が見えるのだ。フォルコンもそこの間だけ身を屈める。アイリに気づかれる事なくそこを突破した二人は、廊下の艦首側の突き当りまで進んだ。
マリーはその先にあった落とし扉の蓋を開け、父にそこを差し示し、小声で急きかける。
「ここに入って」
「あの、これって船牢なんじゃ」
「いいから早くアイリが来る」
「ちょマリーでもあの、ぐわっ!?」
―― ボタッ!
豪傑だが娘にはとことん甘いフォルコンは娘に襟首を掴まれ、成す術もなくその落とし戸の下に突き落とされる。マリーは念の為中の様子を覗く。
「ひっ……!?」
落とし戸の下には先客が居た。先日誤認逮捕からのザナドゥの指令書の発見によりそのまま拿捕したサファイア号の、恰幅のいい船長と痩せた航海士の二人がすっかりしょぼくれ果てた表情で、新たに落ちて来た筋骨隆々の覆面男と落とし戸の上の少女艦長の顔を見比べている。
マリーも忘れていた訳ではなかったが、忘れていた。ここには誰も居ないと思っていたのだ。
「オアーオ。オアァーオゥ」「えっ、なに、どうしたぶち君?」
背後の厨房でアイリと猫の声がする……どうやら時間がないらしい。マリーは慌てて落とし戸を閉め、身を屈めて厨房の前まで戻る。
「アーオ、アーオ」
「やだ、壺の裏にネズミでも居るの?」
ぶち猫がアイリの気を引いている間に、マリーは忍び足で厨房の前を突破し廊下を抜け昇降口の辺りまで駆け戻る。これでもう大丈夫だ。
「……アイリさーん、まだー? 私のどかわいたー」
屈託のない少女のような声と焦りに引きつった悪魔のような表情で、マリーは自分から厨房の方に声を掛ける。
「はーい、今行くわマリーちゃん」
そう答えたアイリが厨房から出て来た時には、マリーはどうにか普通の半笑いを浮かべる事が出来ていた。マリーは束の間ホッとするが……アイリは廊下を艦首側へと歩いて行くではないか。
「待ったァァァアア!!」
砲弾のような速さでマリーはアイリを追い越し、船牢との間に立ちはだかる。
「どこへ行くんですかアイリさん!?」
「どこって、サンズ船長達にもあげようと」
アイリはマリーのカップなどの他に、コルク栓のついた小ぶりな陶器の瓶を二つ、お盆に乗せていた。マリーは素早くそれを奪い取る。
「駄目ですアイリさん、捕虜には決められた人間以外接触してはいけません、余計な情報を与えてしまうし、脱走に利用される恐れだってあるんですよ!?」
「そんな……手紙を運んでただけの、ちょっと気の毒な人達じゃない」
「それはまだ解りません、手紙も運んでいた、今言えるのはそれだけです、とにかく、囚人とは決められた人間以外接触してはいけないんです!」
厨房の出口から顔を覗かせたぶち猫はそんな二人を見ていたが、急に興味をなくしたように昇降口へと消えて行く。
「そう……そうじゃ最後にもう一度だけ二人に挨拶させていただいていい?」
「駄目ったら駄目ーッ! どうしてもと言うなら、このマリーの屍を踏み越えてお進みなさい!」
困惑するアイリに、マリーが両腕を広げ決死の形相で叫んだ、その時。
「……甲板! サイドキック号より中継信号、『敵艦見ユ』です!!」
フォルコン号の檣楼に立つ、サイドキック号から派遣されて来た精鋭海兵の一人が良く通る声でそう叫ぶのを、アイリは聞いた。
アイリはもちろん、つい先ほど艦長室で見たマリーの涙を忘れていなかった。アイリは思う、マリーはもう限界なのだ、これ以上戦わせてはいけない。
だいたい戦争なぞ大人の男がやればいい、戦争をやりたがるのはいつも大人の男なのだ、何故女の子であるマリーが巻き込まれなくてはならないのか。
「貴女は行かなくていいわ、私が皆に説明して……」
しかし。檣楼員の声に釣られほんの数秒天井を見上げていたアイリが視線を戻した時には、マリーはもう下層甲板の廊下には居なかった。
「抜錨ー!! 各員配置につけ、船鐘鳴らせ、サイモンは展帆を指揮、非直の奴も全員起きろー!! ぶっ叩くぞ世界最悪の海兵ども!!」
艦尾の指揮台の方からは、少し前にか細い声でめそめそ泣いていた女の子と同一人物とは到底思えないマリーの胴間声が、フォルコン号の舷側や隔壁、甲板を振動させる勢いで響き渡って来る。アイリはまず自分の耳を疑い、次いで肩を落とす。
結局、マリーはいつもこうだ。
―― ガラッ!
アイリが居た艦首側の廊下の、左右の船員室の出入口が同時に開く。そして非番だった海兵達が怒涛の勢いで飛び出して来る。
15人の海兵と不精ひげが昇降口へと駆けて行く廊下の真ん中で、お盆を抱えていたアイリは木の葉のように翻弄される。
「きゃあぁあ!?」
「敵が来たぞォォ!」「やっと仕事だ!」「ごめんアイリさん!」
アイリは目を白黒させ、男達が去った廊下を見回す。
今なら問題なく船牢に近づけそうだが……行ってサンズ船長に挨拶をしようか?
―― どうしてもと言うなら、このマリーの屍を踏み越えてお進みなさい!
苦笑いをして首を振ったアイリは、厨房にお盆を戻し、事前の船長命令に従い持ち場で待機する為、自分の士官室に向かう。







