パサモンテ「この飲み屋、空き家になってる!? ……ヒヒ、ヘエッヘ、やっと俺にも運が回って来た」
ザナドゥことフィッチは、ゲスピノッサを非常に恐れていました。元々は主として仕えて来た相手ですし、屈強でカリスマのある男だというのは知っていました。そして、コルジア海軍と処刑台から逃れられる程悪運が強いという事も。しかもゲスピノッサは、ザナドゥがフィッチである事を知る数少ない人物です。
多大な犠牲を払ってでもゲスピノッサを消す事を選択したフィッチ。彼はついでに、フィッチとゲスピノッサの関係を知る者も始末する事にしました。ゲスピノッサを油断させる事も出来るし一石二鳥、それはほぼ上手く行ったように見えたのですが……予定外の人物が、そこに関わって来ました。
背の低い痩せた少年。しかし女の子のように優しげなその顔には、只者とは思えない立派な向こう傷があります……
女達はサロンの焼け跡に残り、身を寄せ合っていた。今日起きた事は突然であまりにも残酷過ぎて、誰もが先の事など考えられなくなっていた。怪我や火傷をしている者も居た。いや、無傷の者など居なかった。
それでも女達には、やる事が一つあった。ヘルムセンの部下共が死んだと思って捨てて行った水夫の一人が息を吹き返したのだ。とは言えその傷は重く、今夜一晩とて乗り越えられないかもしれない。
つい数時間前までサロンで陽気に騒いでいた、お世辞の上手い良い男だった。
「死ぬんじゃないよあんた……誰か、清潔な水を汲んで来て」
イソルダは男の看病をしながら、ネイホフの事を思い出していた。ヘルムセンに食ってかかり逆鱗に触れた自分から気を逸らす為、ネイホフは無理をして飛び出して来たのだ。
「逃げろイソルダ……巻き込まれるぞ」
混濁した意識の中で、死に掛けの男はそう呟く。彼の心はまだ、サロンを包囲したヘルムセンの部下共の銃弾の雨の中に居るらしい。
「ババァ相手に何かっこつけてるんだい、男って奴はどいつもこいつも……!」
男の言葉に、イソルダが俯き涙したその時。少年海賊は、ジュリアンはそこに現れた。辺りを警戒しながら素早くサロンの戸口を潜り抜け、そして倒れている顔見知りの水夫の元に滑り込んで来た。
「バルナス! 撃たれたのバルナス!?」
ジュリアンに問い掛けられた瀕死の水夫、バルナスは、どうにかそれがジュリアンだという事にすぐに気づき、苦しげに絞り出す。
「……ジュリアン……お前も早く逃げろ」
女達は、突然現れた少年に驚いていた。
「ジュリアンってのかい? あんたもゲスピノッサ親分の手下か」
一方のジュリアンも心密かに驚いていた。これが親分やネイホフが言っていた女達なのか。皆ドレスを着て厚化粧をしているのだが、その顔は煤や血に汚れていて、なんとも恐ろしい。
「ネイホフは居るの? 他の仲間達は?」
「ヘルムセンのクソ野郎に降伏して連れて行かれたよ……シッ、誰か来る、隠れるんだ!」
イソルダは素早くジュリアンをカウンターの影に押し込む。その直後、戸口からヘルムセンの手下が二人、顔を覗かせる。
「ここに小僧は居ないだろうな?」
しかし二人の男はすぐ、別の上役の男に後ろから呼ばれる。
「そこはもう探したんだ、そんな所で怠けようとするんじゃねえ!」
人探しをするふりをしてサロンに飛び込み、ついでに酒を強奪しようと考えていた二人の男は顔を見合わせ、肩をすくめて戸口から離れて行く。
「ゲスピノッサと一緒に居た小僧がまだ見つかってねえんだ!」
「砦じゅうを探せ!」
外ではヘルムセンの部下達がそう声を掛け合っている。
「あんた。あれだけの男共に追われながらここまで来たのかい」
イソルダはカウンターの向こうに小声で呼び掛ける。ジュリアンはそこから這い出して来る。
「みんなはここだと思ったから……こんな事になるなんて」
「教えておくれ、ジュリアン。ゲスピノッサ親分に何が起こったんだい?」
ジュリアンは今の今まで自然にその事を考えないようにしていた。だがイソルダに問い掛けられた事で、急にその光景が爆発するように頭の中に広がりだした。
「罠に掛けられたんだ……フィッチって男に、いや……ザナドゥに!」
ジュリアンは顔を上げ、女達を見回してそう、声を押さえて叫ぶ。
それを聞いた女達は最初、ただ唖然としていた。最初に反応出来たのはやはり、イソルダだった。
「ザナドゥってのは……サン=モストロに居るゲスピノッサ親分の跡を継いだ男の名前じゃないのかい?」
「ああ、誰も正体を知らない謎の男なんだろ、だけどおいらは確かに聞いた!」
―― こいつらはお前がザナドゥだって知ってるのか?
―― ……いいえ
「ゲスピノッサ親分はザナドゥの正体を知っていた、あいつが、フィッチって奴がザナドゥだ! おいら顔も見た、声も聞いた!」
「シーッ、静かに」
突如いきり立つジュリアンを、イソルダは抱き抱え伏せさせる。
「目の下にでかい傷跡のある、10歳ぐらいの男のガキだ!」
「一度見たら忘れられねえ立派な傷だ、早く見つけ出せ!」
外からはまだ、そんな声が聞こえて来る。ここが再び捜索を受けるのも時間の問題かもしれない。
「おいらはネイホフを探しに行く。あの……おばさん」
「イソルダだよ」
「イソルダさん、バルナスを御願い。それじゃあ」
「待ちな」
ジュリアンは急いで立ち去ろうとしたが、その腕はイソルダの枯れ枝のような、だけど妙に力強い手に捕らえられてしまった。ジュリアンは戦慄する。もしかして自分はこのまま敵に売られてしまうのか? しかし。
「あんたの顔の傷は、確かに立派過ぎるよ。それじゃどんな愚か者にもあんたがジュリアンだって解っちまう……ちょっとその面を貸しな、坊や」
イソルダはその血と汗と涙でドロドロになった厚化粧面をジュリアンの顔に近づけ、ニンマリと笑う。ジュリアンは戦慄する。ゲスピノッサ親分は魔女というものを大変に恐れていたが、本物の魔女というのはこういう者なのではないか。
サロンの裏手の倉庫には落とし戸があり、その下にはこの熱帯地域でワインを冷やしておく為の地下貯蔵庫があった。そこは外よりだいぶ温度が低くひんやりとしているので、長時間かかる化粧をするにはもってこいらしい。
「待ってよ、何これ、白塗りのお化けじゃないか! こんなんじゃすぐ捕まるよ」
「これはベースメイクっていうんだ坊や、あんたアタシの事厚化粧だって思ってるだろ? 冗談じゃない、アタシのこれは海賊共に酒を注ぐ時用の短時間で済ます適当な化粧なんだ、こんなのを本気の化粧だと思わないでいただきたいね」
「何を言ってるのか解らないよ」
「だがこれで坊やの傷跡は消えた、今から坊やを別人にして行く」
「ちょっと待って! やっぱりやめて!」
「動くんじゃないよ! 仲間を助けたいんだろう? だったら協力させておくれ、アタシは見ての通り何の力もないババァだ、だけどババァにだって意地はあるんだ……坊や、いや、お嬢ちゃんが奴等の鼻を明かす所を見たいんだ、その為に出来る事は、何でもやってやりたいんだよ」
地下室に連れ込まれたジュリアンは、イソルダとその助手の手による一時間に及ぶ改造手術を受けた。
「さあご覧」
最後にイソルダは手鏡を渡す。ランプの明かりだけが照らす薄暗い地下室で恐る恐るそれを見たジュリアンが目にしたのは、自分がアイビスで一番の美人だと思っている姉の顔だった。
「うわああ!?」
「どうだい? これが厚化粧に見えるかい?」
恐ろしい事に、ジュリアンの目には鏡の中の自分が化粧をしているようには全く見えなかった。これはメイクなどしなくても美しい、姉クラリスの顔そのものだ。この老婆は何故自分の姉の顔を知っているのか?
そしてタルカシュコーンで自らの意思で作ったあの目の下の大きな水平の傷は、完全に見えなくなっていた。
「これはもう……おいらじゃないや」
「まだだよ坊や、その服はいかにも水夫見習いの男の子が着てそうな服だ……確かそこに子供用のドレスも何着かあったね」
「待って! もういいから! これだけでいいから!」
「戦場をナメるんじゃないよ、相手はずる賢い奴なんだ、だったら坊やはもっとずる賢くならなきゃ駄目だ」
◇◇◇
日の落ちたコインブラ砦には、何も知らずにやって来る商船も居た。
「この様子は何だ? あの大きな船の残骸はどうしたんだ」
「ちょっとした事故があっただけだ。気にせずいつも通り滞在を楽しんでくれ」
ザナドゥの部下達は新たにやって来た船長らにそう説明する。しかし砦の様子がおかしい事は誰の目にも明らかだった。
砦の四方では、夜になっても松明をつけて何かを探している者が大勢居る。一方浜に投錨している船は、普段の三分の一くらいしか居ない。
とにかくやっと陸地を踏んだのだからと、イソルダのサロンへ行ってみれば篝火はおろかランプ一つ点けていないし、裏の厨房と倉庫は焼け跡になっている。
他の酒場を覗いてみれば、やはり戸口を閉めてひっそりとしている。
そしてようやく扉の開いている酒場を見つけて入ってみると、ランプはついておらず客は居ないし、いくら呼んでも店員が出て来ない。
それでも何度も呼んでいると、やがて初老の片腕の男が奥から現れるが。
「呼んでも無駄ですぜ旦那、ここの店主は逃げちまった! ヒック。ヒヒ、今は俺がここの主だ、だが俺は酒は売らねえ、自分で飲むからね、ウヒヒヒヒ」
翌日には、ザナドゥが派遣した代理人だというアドルフの指揮の下、コインブラ砦の取引所は再開された。
しかし、普段の三分の一くらいは居るように見えた浜の商船のほとんどは実際にはヘルムセンの偽装商船だったので、市場の商品はいつもの十分の一ほどしかなかった。
砦の領袖のドロレスに関しては、数日前に病気で死んだという出所も根拠もない噂が流れていた。しかし悪党にとってそのような事は日常茶飯事だったので、ほとんど誰も気にとめなかった。







