ジャッカス号の船長「ひいいいいいいい!? 何て事すんだやめてくれぇえ!」
コインブラ砦に潜入したサリームとナーディルは砦じゅうに挑戦状を貼り出した後、乗って来たジャッカス号でそこを離れ西へ行くふりをして、慌ただしく出港したゲスピノッサ達を観察していたのですが。
ナーディル「やっぱり、あいつらも西に回頭してるぞ」
サリーム「そんなの困るよ! 考え直してもらおう」
ナーディル「どうやって? 行って頼んでみる?」
サリーム「それは名案だよナーディル君」
「ああああああああ!!」
その瞬間、デッキブラシを武器のように構えゲスピノッサとマリーの間に突進して来たのは近くで甲板を磨いていたジュリアンだった。
引き金に掛かっていたマリーの指の力が弛む。マリーの目にはただ、10歳くらいの子供が目の前に飛び出して来たように見えていた。
そしてマリーの足が甲板に触れる、しかしいかに魔法があれどこの距離を落下した後は反動もなしにはならない、全力で着地し反発したマリーの体は、目の前の少年の方へと飛んでしまう。
「……あ」
「ぐあ……」
反射的に出してしまったマリーの左腕はジュリアンの胸板に衝突する。するとジュリアンの体は突進する雄牛に跳ね飛ばされたかのように、舷側の手摺りの方に吹っ飛んで行く……
「……ぐえっ!」
跳ね飛ばされ、背中から手摺りに叩きつけられたジュリアンが呻く。
「ああ、あ……」
マリーは図らずも自分が吹き飛ばしてしまった少年の方に目を奪われていたが。
―― シュッ……!
迫り来る白刃の気配を感じ身を屈める! 類稀な豪傑であるゲスピノッサの横薙ぎのカトラスの一閃をマリーは完全に抜いていた。
刹那の間。大きな隙を作ってしまったゲスピノッサの顔に焦りの色が浮かぶ。マリーの手には短銃があり、今度はジュリアンの援護はない……
「カイ時間ないよ!」
しかしマリーは目の前のゲスピノッサを無視し舷側へと飛び退る。バーグホンド号と正面から並行に交差していたジャッカス号が、早くもバーグホンド号から離れようとしているのだ。
「先行けよ!」
カイヴァーンは叫ぶが、彼はマリーが決して一人では退却しない事を知っている。
「うりゃああ!」
「ぐわあっ!?」
手近な海賊の斬撃をかわしてその体を抱え上げたカイヴァーンは、それをネイホフに投げつけ、マリーの方に走る。
「失敗だよチクショー!」
「そうだと思ったよ!」
ジャッカス号は交差するバーグホンド号にかなり船体を寄せていた。それでも常人なら飛び越せない距離を、二人の少年はほぼ同時に飛び越えて行く。ジャッカス号の甲板はバーグホンド号よりだいぶ低いので、帰りは飛びやすいというのもあったのだが。
「全員物陰に隠れろー!」
マリーが叫ぶ。
ジャッカス号はバーグホンド号と交差し、そのまますれ違って行く。
「親分! 無事ですかい!」
ネイホフも決して凡庸な男ではなかった。カイヴァーンとの短い接近戦に耐えた副船長は、五体満足でゲスピノッサの元に駆け戻って来る。
「こっ……ここまでされて黙ってられるか! あのカラベルを海の藻屑に変えてやる、回頭しろ、済んだらありったけ帆を張り増せ、」
―― ドサバサササァァ!
しかし、気を取り直したゲスピノッサがそう叫んだ瞬間、マリーに何かされていたメンマストのトプスルがヤードもろとも甲板に落ちて来た。
「うわああああ!?」
「狼狽えるなぃ! 落ちたもんは直しゃいいんだ、掌帆手上がれ、テークルを掛けろ!」
ゲスピノッサは波除板を握りしめ、まだ背後に居るジャッカス号の後姿を睨みつけていた。
「あれが死体を操る魔女かどうか知りませんが、あのやり方は生粋の海賊そのものですよ、そっちに気をつける方が良くないですか」
もう一度背後から声を掛けたネイホフに、ゲスピノッサは横顔を向ける。
「お前の言う通りだ兄弟……クソッ、俺とした事が何て不覚を取ったんだ」
「誰にも解りませんよ、付き合いのある下っ端の小船があんな真似するなんて」
ゲスピノッサは二つの事を考えていた。
一つは自分の衰えだ。悪の帝王だった頃の自分なら、こんな不様な真似をする事はなかっただろう。
マリキータ島で気絶したまま捕まったゲスピノッサは、彼自身が用意していた鳥篭のような檻に押し込められた。手足どころか背中を伸ばす事も出来ない、そのまま城壁などに吊るされて飢え死にするに任せられる事もある不吉な物だ。
当たり前だがあんな物に入れられた自分はおしまいだと思った。護送先のダルフィーンでは本国への回送が決まるまで、実際に町の入り口に吊るされていた。
背中と尻の痛みに苦労しながら、ゲスピノッサは膝を抱えてただ時間を過ごしていた。その間に私刑を受けて死ぬ者も居る事は、ゲスピノッサも知っていた。
しかしゲスピノッサの元には、石を投げに来る者や唾を吐きに来る者だけでなく、差し入れを持って来る者も居た。
それも案外、あれだけ虐げて来たラゴンバの者達が、水の入ったカップや黒くなったバナナなどを持って来てくれたのだ。弱っていたゲスピノッサは涙を流してそれを受け取った。
その後、護送船の中で古い友人に助けられて復活したゲスピノッサは、そういう施しの事を全部忘れるようにしていたのだが。
次に泣く時は自分が死ぬ時……いつもそう考えて非情に生きて来たはずの自分には、弱い心が芽生えてしまっていたのかもしれない。
もう一つは自分の甘さ、甘えである。魔女の奇襲を受けた自分をジュリアンが救ってくれた瞬間。あれは誠に危機一髪だった。しかしその後がいけない。
慌てた自分は腰に手を伸ばし、カトラスの柄を握り、その鞘が魔女の方を向くよう身を屈めた……その動作は身体に染み付いた洗練されたもので、普通の奴が相手なら何の問題もなかったのだと思う。だけど今回の相手は見た目は小娘だが中身は自分を上回る金貨12,000枚の手配犯、海賊マリー・パスファインダーである。
自分が放った居合い抜きは魔女に簡単にかわされ、自分はあの瞬間、完全に無防備になってしまった……まだ撃ってない短銃を持った魔女の前で。至近距離から頭を撃ち抜かれず、自分が生きてここに立っているのは魔女の気まぐれのおかげである。
自分は判断を誤ったのだ。あの時は剣などに頼らず、即座に素手で掴みかかるべきだった。
人間は弱い。弱いから銃があれば銃に、剣があれば剣に頼ってしまう。そのせいでより弱くなるかもしれないのに。
ゲスピノッサは思う。やはり自分が一番強いのはパンツ一丁の時だ。己の拳と筋肉こそが、男が持つ最強の武器であり、最強の防具なのだと。
「……ジュリアン!」
ゲスピノッサは少年に背を向けたままその名を呼ぶ。ジュリアンは大人の水夫達に助け起こされ、その活躍を称えられていた。ゲスピノッサは肩から提げていた剣帯を鞘に収めたカトラスごと外す。
「おめえは一人前以上の立派な海賊だ、もう二度と見習いを名乗るな」
ゲスピノッサはそう言って剣帯のついたカトラスを放り投げる。ジュリアンの近くに居た大人の海賊がそれをしっかりと掴み、身を翻しジュリアンに押し付ける。
「すげえぞジュリアン! 親分が自分のカトラスをくれるってよ!」
「マジかよ!? 親分の剣を受け継ぐのか!?」
魔女の強襲にいいようにしてやられ、消沈していたバーグホンド号の甲板で、ジュリアンの出世は唯一の明るいニュースだった。
当のジュリアンは。ロングストーンで遠くから見た範囲では、何で威張っているのか解らないちんちくりんの痩せた田舎娘に見えた姉の上司、マリー・パスファインダーに乗船を強襲され、精霊か鬼神のような凄まじい機動力を見せつけられ、勇気を出して立ち向かった途端一撃で吹き飛ばされ舷側に叩きつけられ……その圧倒的な実力差に、ただただ呆然としていたのだが。
「お、おいらが船長の剣を!? でもおいら何にも出来ませんでした、こんなの受け取れません……」
しかしゲスピノッサは既にジュリアンに背を向け指令所の方へ向かっていた。ネイホフはそれに従いながら囁く。
「やっぱり気に入ってるでしょう、あの小僧」
「んな事ねえって、いらねえからくれてやったんだ、魔女相手には役に立たなかったからな……早くトプスルを直せ、船首砲用意しろ、今度はこっちの番だ畜生!」







