オーストリッチ「あれはマリーじゃないか。んー、普通に声を掛けるのも何だな」
ゲスピノッサのバーグホンド号とロブ達のストームブリンガー号は、レイガーラントの同じ造船所で造られた同型船です。マリーはバーグホンド号をコンウェイで見ていますが、ストームブリンガー号は見た事がありません。
河が運んで来る砂と打ち寄せる泰西洋の波は、河口と外洋を隔てる細く長い砂州を形成していた。
砂州には四人の男が居て、綱を引いていた。
「騒ぎ出したみたいだ、不精ひげの兄貴」
「太っちょ、船長はちゃんと捕まってるか?」
「うーん、水面近くは霧と乱反射でよく見えない」
「……ゆっくり引くしかない」
ストームブリンガー号の方からは通常の手順を飛ばし半ば投げ込むようにボートが浮かべられた。舷側を降りていたマカーティは途中で飛び降りてボートの中央に着地する。
「早く乗れ! それから装填済みのマスケットを寄越せ!」
「船長! 甲板からも撃っていいんですかい!?」
「いいわけねえだろ馬鹿野郎、撃つのはイルミナ嬢の安全を確認してからだ!」
やがて八人の漕ぎ手を乗せたボートはわいわい騒ぎながら一斉に漕ぎ方を始め、霧立ち込める水面を移動する不審な浮標物へと突進する。
「何だか後ろが騒がしいような……頼むよ不精ひげ、早く引っ張ってくれ」
水面に浮かべた古い板切れにうつ伏せに寝転び、泥と小枝だらけの汚い帆布を被っていて、あまり周りの様子の見えないフレデリクはそう呟く。しかしその声は相手に聞こえるはずもなく、依然として不精ひげとウラドとカイヴァーンは比較的ゆっくり釣り糸を引いている。
「どうしよう、もう立ち上がって大声で叫ぼうか」
フレデリクがそう覚悟した瞬間。砂州に居た四人のうち、やはり泥だらけの帆布を被り望遠鏡を構え観測に徹していたアレクが、短く叫ぶ。
「追手のボートだ! もっと速く引いて!」
「だけど、船長は」
「大丈夫後ろにくっついてる、急いで、相手はえらい剣幕だ!」
アレクに促され、残りの三人は頷き合う。
「引くのは俺一人でいい、ウラドは後ろのボートを出す準備を、カイヴァーンは船長の上陸を援護してくれ」
「心得た」「合点承知!」
細い砂州の外洋側の浜にはフォルコン号の貨物用の大きなボートがのし揚げられていて、ウラドはそちらに向かう。カイヴァーンは河口側の海へ踏み込んで行く。
「イルミナ嬢……イルミナーッ! この俺、私、マイルズ・マカーティが今、貴女を救い出す!」
不器用なマカーティが不器用な台詞を噛みながら吐き出すと、必死にボートを漕いでいた水夫達は吹き出してしまい、ボートは一瞬だけ遅くなる。だがすぐにまた、これ以上は出ないという最高速に戻る。
それを聞き悶絶せんばかりに驚いたのは、帆布の下のフレデリクである。
「なッ……!? 何でマカーティがここに!?」
フレデリクはマカーティと別れた時の事を思い出す。処刑を逃れ脱獄囚となったマカーティは、自分はお前の船に乗り組む海賊になると言い出した。だけどフレデリクは、いやマリーはマカーティをフォルコン号に乗せるのは嫌だったのでコンウェイに置き去りにした。
それでマカーティは改めて海賊になったのか? それもよりによってゲスピノッサの船に乗ったのか!
ゲスピノッサは一度コンウェイの元海賊共をリクルートに来ていた。その時は何故か急に帰ってしまったのだが、後でそれを聞いたマカーティが、その悪の求人に応じたと言うのか。
あのピンネース船の船尾で立ち小便をしていた水夫共も、自分達は海賊だと言っていた。
「嘘だと言ってくれよマイルズ……人に土下座までして海賊共と戦ったお前が、どうしてゲスピノッサの子分なんかに……」
フレデリクが捕まっていたボートが少しずつ加速して行く。状況に気づいた不精ひげ達が紐を引く速さを上げてくれたらしい。
背後からは凄い剣幕でボートが迫って来る……ぎりぎり、こちらの方が先に岸に着きそうだが、伯爵令嬢を連れて逃げる事を考えるともう少し余裕が欲しい。
フレデリクは懐を探り、懲りずに持って来た煙幕弾を取り出そうとする。しかし、その瞬間。
―― ブツッ
「ん? なに今の音」
前のボートが揺れている。そして何だか行き足が遅くなったような気がする。
「船長ぉー! 紐が切れたぁぁー!!」
岸の方からカイヴァーンの声がする。
どうやら、偽装ボートを岸から引いていた釣り糸が切れてしまったらしい。フレデリクは一度、深呼吸をする。
「わあああああああ!?」
帆布を跳ねのけ、フレデリクは板の上に立ち上がり、ボートを後ろから押しながら、一方の足で必死に水面を蹴りつける。しかし、枝で偽装されたボートは水の抵抗も大きく、なかなか前に進まない。
「な、何だあの野郎は!?」
「水面に立ってやがるぞ!?」
後ろから追うボートの上でも漕ぎ手達が騒ぎ立てる。二つの浮遊ゴミに偽装していた物の一方は謎の少年で、そいつは何もない水面に立っているように見えるのだ。そしてもう一方の足で水面を蹴って進もうとしている。
「て、手品師か何かだろ!」
「船長! どうします!?」
しかし、先程まで激しく檄を飛ばしていたマカーティは、握り締めた拳を震わせるだけで、何も言わない。
「船長?」
漕ぎ手達はオールを漕ぎながら、ボートの後部で舵を取っているマカーティの方に振り向く。
「ヒッ……!?」「ひえええ……」
恐れおののく漕ぎ手達。マカーティはもはや人間の顔をしていなかった。
「また、てめえか……グランクヴィスト……!」
拳だけでなく、肩も足も唇も眉間もくまなくブルブルと震わせたマカーティは、額から脂汗を流しながら絞り出すように呻く。そして次の瞬間には。
―― ドォォン!!
ボートの船底に並べてあった装填済みのマスケット銃の一つを取り、躊躇いもなくフレデリクに向けて引き金を引いた。
「ぎゃああああ!?」
フレデリクは慌てて水面へと飛び退く。燃え盛る弾丸は赤く航跡を引きながら、フレデリクが先程までいた空間から遠からぬ所を通過して行く。
「危ないッ! 当たったらどうするんだよマイルズ!」
「死にてえならそうしてろグランクヴィストォォ!」
マカーティは撃ち終ったマスケットを漕ぎ手の一人に放り、別の装填済みのマスケットを取り、構える。
「死にたくねえなら一人で海に飛び込んで消えろォォ! てめえにはでっかい借りがあるからなァ命までは取らねえでやる、さっさとしろォォ! 俺の気はあと五秒で変わるぞォォ!!」
フレデリクは自分が持って来た偽装ボートから手を離し、立ち上がってマカーティの乗ったボートの方に向き直る。
「五秒も……要るもんか!」
そして乗っていた幅10cm程の板の上に屈み込んだフレデリクは、煙幕弾を取り出し投げつけようと、
―― ボォォォォン!!
その瞬間、煙幕弾は暴発した。
「うええっ!? ウエッ、ゲホッ」
「ちょっとォ!? 何なのこれェェ!」
フレデリクは煙幕弾をマカーティの方に投げつけ、彼らを煙で包むつもりだった。しかし煙幕はフレデリクの手を離れた瞬間に炸裂し、フレデリクと偽装ボートを包んでしまう。
「イルミナ嬢!?」
マカーティは引き金に掛けた指を止める。やはりイルミナはあの泥と枝の中に押し込められているのだ、野蛮で凶悪な海賊グランクヴィストの手によって。
「どうします船長!?」
「今の声を聞いただろう、淑女はあの中だ、ボートを寄せろー! イルミナ嬢、いやイルミナ! 私が今、貴女を救い出しますぞー! 漕げ! 漕げーっ!」
ストームブリンガー号はマカーティ船長の指示通り、出航準備を急いでいた。
そんな慌ただしい船の中で一人、檣楼に居たコンドルはマストの影に座り込み、腕組みをして首を捻っていた。
「どうして、マリーがここに……?」
コンドルの目は誤魔化されなかった。男姿をしてアイマスクをしていても見間違えようがない、あれはマリーだ、自分の愛娘だ。
コンドルは以前ヤシュムでたまたま見掛けたマリーに声を掛けた事がある。その時の自分はオーストリッチ船長と名乗っていた。あの時も本当は後ろ姿でマリーだと解っていたのだが、わざと気が付ないフリをして声を掛けたのだ(※第二作最終話)。
―― ドォォン
霧の中から銃声が聞こえて来る。あの向こうに自分の娘が居ると思うと気が気ではない。
だけど今のマリーは昔とは違う、一廉の豪傑らしい。マリキータ島の海賊のアジトでも、レイヴン海軍の重要拠点プレミスでも、マリーの振舞いは堂々たるものだった。
それでもやはり自分は父親なので、今すぐ海に飛び込みマリーの元に行ってやりたいと思う気持ちがないでもない。だけどそんな事をしたらマリーの邪魔になりはしないだろうか? 少なくとも自分は今、マリーがここに居る理由を知らない。そんな自分が動いていいのか。
イルミナにしてもそうだ。もしかしたらマリーとイルミナは友達になっているのかもしれない……マリーとアイリが友達になっていたように。
そしてマリーがここに居るという事は、リトルマリー号の仲間達も近くに居る可能性がある。彼らにはいずれ会って全てを話さなくてはならないと思うが、今はその時ではない……そこに居るかもしれないアイリにだけは、合わせる顔がないのだから。
「思案ロッポウ、ゴケ勝負か……どうしたもんだろ」
コンドルは腕組みをして、首をひねる。







