サロモン「見ろよニコラ、エミール、本好きのお姫様が牛のウンコ拾ってるぞー」
当作品は「マリー・パスファインダーの冒険と航海」の第七作でございます。
前作未読の方は宜しければ是非、第一部「少女マリーと父の形見の帆船」から御覧下さい。ページ下部にリンクがございます!
そして、第六作「海賊マリー・パスファインダーの手配書」から引き続き御覧の皆様! 今作も是非是非最後までお付き合い下さい!
今朝も故郷の夢を見た。
私は天秤棒の両側に提げた桶に、担げるだけの牛糞をスコップで集め、牧草地からジャコブさんちの畑まで担いで持って行く所だった。
もう少し見ていたかったなあ、今の夢。畑では他の小作人に混じって、うちのコンスタンス婆ちゃんも働いていた。あとちょっと。あとちょっとあの場所に居られたら、婆ちゃんが顔を上げてこっちを見て、牛糞を運んで来た孫娘に手を振ってくれたかもしれない。
牛糞だって、村の悪ガキ共に馬鹿にされながら頑張って自分で集めたのだ。ちゃんと堆肥小屋に持って行く所までやりたかった。
辛い事もあったけれど、あの頃は良かった。婆ちゃんは元気で、私が色々な仕事を覚えて行く事をとても喜んでくれた。
ジャコブさんやオクタヴィアンさんちで仕事を貰って働いて、夕方には自分達の小さな畑の世話をして、二人で晩御飯を食べて……明日もこんな一日が続きますようにと、お祈りをして眠る。
放蕩者の父だって、年に三度くらいは家に帰って来た。
あの平和な日々はもう戻らない。祖母は私がやっと15の歳になり、そろそろ大人に交じって働けるようになる、やっと少しは楽が出来るという所で、身体を悪くして亡くなってしまった。一方の父は放蕩ぶりを加速させ家に帰って来なくなり、とうとう役所から、行方不明による死亡扱いにされてしまった。
―― トントントントン
誰かが、私が住む部屋の扉をノックする。
「船長、カンパイーニャ港が見えたよ」
あの声は主計長のアレクだ。通称太っちょ、ぽっちゃり体型の優しいお兄さんである。夢の事を思い出す間に身支度を済ませていた私は、静かに扉を開ける。
―― ザザーン……ザザ……ミャーアッ、ミャーアッ、ミャーアッ、ミャーァ……
右舷からぶつかる潮騒の音と、猫鳴きしてマストから飛び立つカモメの声。
外はよく晴れていて、一月後半にしては少し暖かかった。
ここは海の上だ。左舷前方の彼方に陸影が見えるものの、周囲は全て海に囲まれている。故郷ヴィタリスを離れて今日で217日目の朝……一本マストのスループ型帆船フォルコン号。これが私の仮初めの住まいである。
「はいこれ提出用の積荷リストと申請書。サインしといてね」
アレクは私に書類を預けると、すぐ別の仕事に向かおうとする。
「ちょっと待って、ロイ爺って今非番だよね?」
「うん、だけどもう起きてると思うよ、呼んで来ようか?」
「んー、急ぎの用事じゃないから。ありがと」
私は一度部屋の中に戻り、アレクが用意してくれた書類を机の上に置いて、それから再び部屋を出る……おっと。入れ替わりに部屋に一匹のぶち猫が入って来た。猫は勝手に私のベッドに行って寝転がる。まだ少し温かい? どうぞご自由に。
甲板には今日もいい風が吹いていた。
この時間の操舵はウラドが担当していた。青黒い肌と牙をもつオーク族の筋骨隆々の水夫で、船一番の紳士である。また非常に良い声をしているので一度歌でも歌ってみて欲しいのだが、何事にも控え目な性格なので歌ってくれそうにない。
「おはよう、船長」
「おはようウラド。舵を代わるから少し休んで来たら?」
「ああいや結構、港に入れば休む時間はいくらでもある」
私は階段を下層甲板へと降りる。船員室や士官室、会食室などは、私の部屋より一つ下のこの階層にある……そのうち会食室ではアイリとカイヴァーンが食事をしている所だった。
「おはよう船長。今朝はオートミールよ」
ああ、あれですか、砕いた麦をふやかして、少し塩を振ったお粥ですか。そりゃあ船の上でいただけるなら何だって上等だけど、ちょっと味気ない……私は正直そう思ったけれど、アイリさんが鍋からお皿に取り分けて渡してくれたのは、葱とチーズとオートミールを生地に載せて焼いた、何とも良い香りのパイだった。
よく見ればカイヴァーンも幸せそうな顔で何か頬張っているじゃないか。あの顔がただの麦粥を食べている顔な訳が無い。
アイリさんは私より10年と少々年上の大変綺麗なお姉さんだ。とても料理上手で船ではこの通り司厨長を務めてくれている。だけどこのお姉さんの特技はそれだけではない。アイリは世にも珍しい、本物の魔法使いなのだ。
カイヴァーンは昔はとある海賊団の跡取りだったらしいが、訳あって仲間になった、フィジカルの強い男の子である。船の事は何でも出来る可愛くて頼りになる私の義弟だ。
これにあと二人。船で一番のベテランで頼れる副船長でもあるロイ、通称ロイ爺と、ぐうたら水夫の不精ひげと私を加えた七人と一匹が、この船、フォルコン号の乗組員である。
「おはよう船長。おや、今日はその服でいいのかね」
そこへちょうどロイ爺がやって来た。
ロイ爺が言っている私の服というのは、緑色の上着に黒の長ズボン、私の頭の中では真面目の商会長服と呼んでいる服の事である。
私は何着か、「船酔い知らずの魔法が掛かった服」という物を所持している。この魔法はアイリさんが掛けてくれたもので、その服を着ていると、どんなに揺れる船の中に居ても船酔いしないという便利なものなのだ。
だけど、物事には必ず表と裏がある。その服はとても便利なのだけれど、着ている人間の理性に悪影響を及ぼすのだ。
「私ももう七ヶ月も船乗りをやってるんですよ。魔法なんか無くたって船酔いになんか負けませんよ」
私はそう言って、チーズたっぷりのオートミールパイにかぶりつく。美味しい。これは何切れでも食べられる!
「ロイ爺もオートミールパイにする?」
「いやあ、わしは柔らかく煮た方で」
ロイ爺は席に着きながら、パイとは別の小さな鍋の方を指差す。ああ、普通の麦粥も別に作ってたのね。アイリは頷き、麦粥を椀に盛る。
「ええっ、このパイの方が美味しいよ、ロイ爺」
「ハハハ、そうとは思うがの、この歳になると朝食は柔らかくてさっぱりした物でないと落ち着かんのじゃ」
「ごちそうさま。艦首の見張りに行かなきゃ」
カイヴァーンはアイリさんに元気に皿を返すと、会食室を出て行く。私は一枚目のパイを一瞬で食べてしまった。
「アイリさんおかわり」
「大丈夫? もう少しゆっくり食べなさい」
アイリはそう言いながらも私の皿に二枚目のパイを載せてくれた。それからカイヴァーンが返した皿と、麦粥を入れていた小さな鍋を持って廊下の向こうの厨房へと出て行く。
会食室は、私とロイ爺の二人だけになった。ちょうどいい。この話をしようと思ってロイ爺を探していたのだ。
「天気が良くて良かったね……陸に降りる時に」
「有り難いのう。この辺りは冬は毎日のように雨が降るんじゃが」
一昨日の事。ロイ爺が珍しく、このカンパイーニャ港で少し降りたいと言い出したのだ。ロイ爺は陸を歩くと疲れるからと言って、普段はあまり船から離れない。
「でも本当に一泊二日だけでいいの? それじゃ慌しくない?」
「ホッホ、大丈夫じゃ、むしろ日帰りでもいいくらいじゃ……ちょっと、知り合いの様子を見たいだけじゃから」
「あの、やっぱり私もついて行っちゃだめ?」
私が身を乗り出してそう言うと、ロイ爺は天井を見上げ、目を細める。
「有り難い言葉じゃが……ワシは船長が一緒に来ると余計な騒ぎが増えるような気がしてならないんじゃ……」
「ちょっ……そんな事ありませんよ! 失礼しちゃうなあ」
ロイ爺は間もなくこの道50年にもなろうかというベテラン水夫で、海の事なら何でも知っているが、勘はそこまで当たらない、人の好い爺ちゃんだ。
私は鍋の蓋を開け、三切れ目のパイを自分の皿に移す。
「船長、オートミールは見た目より腹持ちするんじゃ、そんなにたくさん食べない方がええ」
「大丈夫ですよ! 私、成長期なんだから。それに食べれる時に食べておかないと、いつまた食いっ逸れるようになるか解りませんからね!」
「マリーちゃんはもう、食いっ逸れるような事は無いと思うがのう」
祖母コンスタンスの教えは、私の骨の髄まで染みている。怪我をして働けなくなった時の為に、作物が育たぬ寒い夏が来た時の為に。私は働いて働いて飯を食い、我が身を肥やさなくてはならないのだ。
◇◇◇
「何で俺の非番の時にちょうど入港なんだ」
三十代後半のぐうたら水夫、不精ひげも起きて来て不承不承操帆に加わる。一応この男がこの船の掌帆長で、航海全般の仕切り役である。
カンパイーニャはサフィーラの北300km程の泰西洋岸にある港町だ。
白い壁とオレンジ色の屋根で統一された町……規模は小さいけどサフィーラに似てるわね。旧アンドリニアの港。フォルコン号はそこに寄港した。
カンパイーニャの錨地に錨を降ろし、私達は不精ひげが漕ぐボートで桟橋へ向かう。
桟橋では港湾役人さんが新規に入港した私達を待ち構えていた。この港の港湾役人さんは随分とお洒落をしたとても愛想の良い人だった。
「カンパイーニャへようこそ! 何と、貴女がこの船の船長さんなのですか! 私も長く港湾役人をやっておりますが、こんなにも見目麗しい船長さんに御会いしたのは初めてです!」
役人さんはそう言って、先に桟橋に降りたアイリさんの手を取る。
「嫌ですわ役人さん、当船の船長はこちらの……」
アイリさんがそう言って照れ笑いを浮かべながら指差した瞬間、私は力尽きた。
「ひゃ×●ぴっ……ぐえ◎×ぇ★ぇ△●○ぅぇ~」
アイリやロイ爺の忠告も聞かず朝からオートミールパイをドカ食いした私は、船とボートの揺れに負け、豪快にリバースしていた。
「ι⊃れレヽ……ま゛└|─・ノヽ°ず┐ァぃ・/勺″─ー⊂もぅιます」
桟橋まであと一歩だったのになあ。私は不精ひげの手からオールをもぎ取り、水面に浮かんだ未消化のオートミールをかき混ぜる。
私はマリー・パスファインダー。未だ船酔いも克服してない新米船長である。







