26 手紙 (3)
長らく間が空きまして、すみません。
「ご教授いただきありがとうございました」
スカートを摘んで軽く持ち上げ、頭を垂れて腰を落とす。
1 2 3…
落としていた腰をゆっくりと戻し面をあげる。
向かいにはサミュエル司教が優しげに目を細めて、マナーに適った礼をするアデルを見ていた。
「すっかりマナーも身についたようだね。アデルは覚えも早くてなんの造作もなかった。私が教えられる女性のマナーなど高が知れているが、それでも今のアデルならばどこへ出しても恥ずかしくないと思うよ」
「司教さまに沢山教えて頂いたお蔭です。それに大伯母さまにまで頼んで下さって。本当にありがとうございました。司教さまのお口添えが無ければ大伯母さまが私に淑女の基本を教えて下さる事もなかったと思います」
そう、あれはサミュエル司教が大伯母の家に来た時のこと。いつものように居間で大伯母と司教さまにお茶とお菓子を持って行った時にサミュエル司教が突然言い出したのだ、アデルのマナーを見てやってはくれないかと。
「男の私ではやはり及ばないようです。それにお身内の子女の教育も夫人の義務の内なのでは?」
大伯母の眉間が僅かに寄せられるのを見越して司教は話を続けた。
「勿論夫人が充分な配慮を持ってアデルを保護されているのは周知の事実です。私も常々貴女の慈悲深い精神と敬虔な態度に深く感謝し敬意を払っております。
何も特別に高度な淑女教育を施す必要は無いのです。貴女の知る品格ある基本的なマナーを花嫁修行と思って施してはどうでしょう。
騎士の妻として立派に差配されていた貴女ならば容易い事なのでは?」
そうサミュエル司教に買い被られて、大伯母がどう受け取ったのかはアデルもよくは知らないが、とにかく大伯母はそれからアデルにきちんとした作法などを事ある毎に注意し教えるようになった。
大伯母の亡くなった旦那様はこの辺境に於いては名の知れた騎士だった。それ故に大伯母はこの地で夫亡き後も周囲に尊重され、夫の遺した財産で安穏と余生を送ろうとしている。
そしてアデルの養父も驚いたことに騎士の端くれだったそうだ。幼いアデルはちっとも気づかなかったが、養母はかつて大伯母に送った手紙でそう伝えていたそうだ。
だからなのか、ワイデマン侯爵はアデルにしきりと学園ではなく学院への入学を勧めてきた。
身分もお金も無いとアデルは遠慮したが、その時の侯爵との会話はアデルの胸をきゅっと締め付けその後小さな貴石のような静謐さでもってひっそりとうちに秘められている。
ワイデマン侯爵から王都の学校へ誘われた当初、アデルは一旦返事を保留した。
いつもの如く夜一人になって布団の中でゆっくりと考えていた時の事だ。
学校に行く。それはいい気がする。でも、アデルの実力でやっていけるのだろうか。しかも場所は王都。見たこともない都会だ。
私が、一人で、都会の、学校…
そこで礑と思いつく。自分には学費が無い。無論、自分を居候させているおばさんがそんなお金を持っている筈もない。例えあったとしてもアデルの為にそんなお金を使ったりはしないだろう。身元引受人の大伯母はどうだろうか。大伯母は少しばかりの蓄えがあるようだが、それだってやはりアデルの為には…。それに行き先が王都となると…。
やはり自分には無理な高望みだと断ろうと思っていた処を後日、司教さまが話しかけて来たのだった。
司教さまと話した後も中々踏ん切りの付かないアデルに侯爵は、アデルの心配を見越したようにこう言った。
『後見につくからには費用面でアデルが心配する事はない。学費も寮費も、その他諸々の面で自分はアデルの面倒を見る用意がある。学院を卒業した後もアデルは将来を自由に選択すれば良い』
アデルは夢のような話に幻を見るかのような眼差しを侯爵に向けて尋ねた。
「どうして私なんかに、そんなに良くしようとして下さるんですか?」
アデルにしてみれば、何の深い意味もなく、単純に疑問に思った事をそのまま言葉にしただけだった。
だがその時の侯爵の、アデルが思ってもみなかった表情を、なんと表現すれば良いのだろうか。
侯爵は半分泣き出しそうな、半分苦虫を噛み潰したような、欲しい物が欲しいと言えない幼子のもどかしいような、少し悲哀のようなものの混じった切実な顔をしていた。
そうしてしばし躊躇った後、侯爵は。
「私はね、昔、妻がいて、理由あって離縁となった。私が至らなかったせいで、其れは致し方なかったと思っている。けれど、偶に思うんだ。若しその時に私に娘や息子がいたなら、私はこんなに愚かで虚しい人生を歩んではいなかったのではないかと。そしてそんな後悔はこの先しないと固く誓っているんだ」
侯爵は一つ一つの言葉を噛みしめるようにゆっくりとアデルに話して聞かせた。
(そう、あの時私がもっと彼女を大事にしていれば。そうだったなら君は今頃……)
続けて私に娘がいれば丁度君くらいの年頃だよと呟くように言って目を細めて笑われれば、アデルもそれ以上は何も聞けなくなってしまった。
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