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 23 打擲 (4)

 



 アデルは孤児院で司教と話した後、それまで不安で仕方の無かった気持ちも落ち着き鈍い足取りながらもおばさんの家への帰途についた。




 夕暮れの中、見えて来た煙突からは薄白い煙が立ち上っている。大抵の人が見れば安堵する帰り着いた我が家の平穏な生活の営みの光景も今のアデルには胸に支えた鉛のように感じられる。

 顔も強ばり自然と身体に力が入る。足元はまるで砂袋がくくりつけられでもしたかの様で進みも段々とのろくなり、やがて後数歩で玄関口だというのに一歩も進めなくなってしまった。


 アデルは一度大きく息を吸うと口を固く結んで扉に近づいた。伸ばした手の指先が震えている。



(大丈夫よ、アデル。しっかりするの。自分で言ったんじゃない、おばさんはもう叩いたりしないって。いざとなったら…)



 いざとなったら? いざとなったら自分には何が出来るだろう? きっと何も出来ないで昨日のようにまた我慢するだけだろうに。


 それでも勇気を振り絞って取手を握りそっと開けると昨日の光景がフラッシュバックし、一瞬恐怖心が胸を過ぎった。


 だが扉を開けてもそこには誰もおらず、ホッと肩から力が抜けた。

 恐る恐る中に入ると部屋にはスープの美味しそうな匂いが立ち込めていた。



「帰ったのかい、アデル。遅かったじゃないか」



 声と共に奥からおばさんが出てきた。思わず一歩後ずさるとおばさんは眉を顰めて立ち止まった。



「なんだい、これ見よがしにビクついて。まるであたしが悪者じゃないか。

 まあ、とにかくもっとこっちへおいで。あんたの帰りを待ってたんだ」



 そう言いながらアデルを手招くおばさんの機嫌は思った程悪くはないように見えた。けれどまだ気は抜けない。アデルは二歩だけ進んでみた。



「昨日はあたしもびっくりしたんだ。なんせ、あんたからは何も聞いてなかったから。伯母に呼ばれて行ったら、急にあんたが王都に、しかも学校に行くかもなんて聞いたら誰だって驚くだろうさ。


 あんまりびっくりしてつい手が出ちまった。悪かったね、痛かったろう」



 昨日の剣幕はどこへやら、ニコニコと話すおばさんの変わり様にアデルの目が段々と丸くなる。



「狭い家に二人で暮らしてるんだ、喧嘩してたって仕方ない。仲直りしようじゃないさ。どうだい、アデル」



 おばさんの様子のあまりの変わり様をアデルは訝しんだ。だがおばさんに面と向かってそう言われては、否やはない。アデルは用心しながらこくんと頷いた。



「だけど、あたしだけが悪いんじゃない。隠してたアデルも悪いだろう。喧嘩ってのはお互いに非があるんだ」



 一方的な暴力は、喧嘩になるのだろうか?



「だからね、アデル。あたしが謝ったんだ、あんたもあたしに謝らなくちゃね」



 アデルは自分の何が悪かったのかよく分からなかったが、とりあえずおばさんはアデルに謝って欲しいようだと理解した。

 そういえば昨日はぶたれた後はボーッとしてて何も言えなかった。おばさんは言いたい事を散々言ったら奥に引っ込んだから、あれでもう気が済んだと云うのだろうか?

 ならば折角のおばさんとの歩み寄りの機会を逃すつもりは無かった。アデルは素直にコクコクと頷き「ごめんなさい、おばさん」と言った。


 おばさんは満足そうに笑うと話し続けた。



「ああ、あたしはあんたの謝罪を受け入れようと思うよ。だけどね、その気持ちをお互い忘れないように、ちょっと紙に書いておくれよ」



 目を三日月に細め口元にわざとらしい笑みを貼り付けたおばさんはそう言っていそいそと棚から紙と墨炭を取り出すとテーブルの上に置いてアデルの背を押して促した。



「書いておけばあたしも今度また腹が立ってもそれを眺めて気も落ち着くってもんさ。そうすれば、あんたもまた叩かれたりしないで済むだろう?


 いいかい、あたしの言う通りに書くんだ。"悪いのはあたしです。全部、あたしのわがままでした。ごめんなさい" 最後に名前を書いてーーそう、それでいい」



 アデルは一瞬躊躇ったが、おばさんに言われた文章は変な内容でも無かったので大人しく言われるがままに書いた。

 これでおばさんの気が済むならお安い御用だ。例え喧嘩両成敗(あれが喧嘩というのならの話だが)なのにアデルだけが謝罪を書面に(したた)めたとしても、それは些細な事だ。



 おばさんは素早くアデルから謝罪文の紙を取り上げると目を皿のようにして読み直し、こう言った。



「これは私が大事にしまっておくよ。

 それといいかい、この事は誰にも言うんじゃないよ。

 子供のくせに謝罪文を書くほど悪い事をしたなんて知れたらあんたが外を歩けなくなるよ。


 さあさあ、話は終わりだ。ご飯にしよう。スープがもう出来てるよ」



 そう上機嫌におばさんが話すのにアデルは今度こそ本気で警戒しなければと思った。何故ならアデルの歳が十を超えた頃からおばさんがご飯のスープやらを拵えた事はなかったのだから。

 おっかなびっくり鍋の中を覗いてみると、アデルの切る野菜よりは一切れが大きいが匂いも色も普通のスープのようだった。


 食後、早々に部屋に戻ったアデルはなんだか拍子抜けした。今日一日の自分の心労は一体なんだったのだろう。






 その後のアデルの生活はそれまでと変わらず平穏無事に過ぎていった。多少今迄よりもおばさんに気を遣いはしたが、おばさんの方はまるで何事もなかったかのように学校の件にも触れもしなかった。




 サミュエル司教から「この位出来ていれば大丈夫」とお墨付きを貰えた頃、学園の入学試験の要項と手続き終了を伝えるワイデマン侯爵からの手紙が届いた。


お読みいただき、ありがとうございます。



作中に出てきました“墨炭"とは作者の造語です。

硬い炭で出来た細い棒状の物で、筆記用具です。丁度チョークのような形の鉛筆の芯だけのようなものをご想像下さい。

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