1巻 序章 決意編伍
それからの日々は思い出したくない、というより思い出せないほどの早さで過ぎていった。なんとか『健康調査』を乗り切る為に、士官学校への志望を出した夏休みは勿論、平常授業のある日や授業の無い日曜日、さらには他の同級生の進路が決定する冬休みまで、その全てを飲み込んで俺はトレーニングに没頭した。
勿論、鬼島津―島津教官に監督を頼み込んで、だ。ビンタ一発貰った甲斐はあったというべきか、教官の設定するトレーニングによって俺は、到底基準値に足りてなかった運動性能や体力を半ば強引に向上させることに成功した。もっとも、初めの方は、今までロクに継続的運動をしてこなかった体が化け物の用意するトレーニング内容についていける訳もなく、用意された嘔吐用のごみ袋に散々頭を突っ込みリバースする羽目になった。
結果として、あまりにも吐きすぎて嗚咽症気味になり、施設でもリサに、
『おえおえ言わないでよ。何だかこっちも気持ち悪くなってくるんだから。』
とまで言われるほどだった。採点はしてもらいたいが、おえおえ、ゲボゲボ言ってるのは嫌という理由から、リサが俺の部屋で勉強している時は、なぜか俺は廊下で待つというのが恒例となっていった。よく考えれば、それだったら俺の部屋で勉強する意味は何もないということに気づき、それを指摘した所、
『うるさいっ!!』
と言われ俺の部屋の扉はピシャリと閉ざされた。だが結局は理不尽な理論を掲げる思春期の多感な女の子相手に、反論も説得もする体力は残っていなかったので、廊下で眠りこけるくらいには疲弊していたのだった。
そんなわけで華の高校生最後の夏は甘酸っぱい、というよりはかなり酸っぱさと2ℓごみ袋に彩られることになった訳だが、それもこれも、晴れて無事入学許可届を受け取り、卒業式を終えた今となっては些末な事である。
クラスで記念撮影や、姫路先生の捧腹絶倒号泣スピーチなど卒業式の定番イベントを順調に消化した俺は、特にすることも無く手持ち無沙汰でグラウンドをぶらついていた。穏やかな海が見渡せる場所まで、卒業証書の入った筒をパッカンパッカンしながらトボトボ歩いていると、
「西野!!」
と聞き覚えのある女子にしてはやや低い声が俺を引き留めた。振り返ればそこにはショートカットにブレザー姿に卒業証書、ではなく徳用ミルクバーを抱えた小林がいた。
「取って。」
そう言いながら、徳用ミルクバーの箱を俺に差し向ける小林。アイスという季節でも気分でも無かったが、有難く、その一本を拝借してかじりつく。同じように小林も噛り付いたのを見てから、グラウンドからも綺麗に見える海を見渡すと、とある夏の日のことを思い出した。
そうか、あの日から、俺は。自分でここまでの道のりを辿ることを、そしてこれからの道のりを歩むことを決めたのだ。そう思うと、何だか不思議な気分に包まれた。同じことを彼女も考えていたようで、
「・・・なんか、懐かしいね。」
「そうだな。」
そっけなく答える。静寂が訪れる。だが、別に気まずくない、どこか落ち着く静けさだった。やがて先にミルクバーを剥き身にした俺は、ふと思い出したように小林に話しかける。
「そういえば、大学受かったのか?」
三年生の三学期は基本的に自由登校期間となる。それぞれの進路に向けて、就職組は先んじて技能の習得や顔合わせ、進学組は推薦も含めてその間に試験から合格発表までがある。クラスメイトや小林に会うのも冬季補講以来なので、それぞれの進路がどうなったのか全てを把握しているのは先生だけだ。
「したわよ。有難いことに。」
大してありがたくもなさそうに、小林は言ってのけた。それから、
「そうか、おめでとう。」
「・・・アンタも、おめでとう。」
「なんで、知っているんだ。」
何だか妙なデジャブに襲われるが、
「自分がどこの小隊所属か忘れたの?」
と言って、小林はさらに俺のデジャブを強めただけだった。だがすぐに、マジシャンが手品のトリックを明かすように、
「士官学校は入学者が新聞に出されるのよ。知らなかったの?」
流石に姫路先生もそこまで個人情報をばらすことはしないだろうし、島津教官はもっと言わなさそうだったので、かなり疑問を抱いていたのだが、ようやく、士官学校の合格者は推薦・一般に関わらず、一律で公的メディアに開示されることを思い出した。合格通知はそれより前に届くため、そちらは露ほども意識してなかった。
「わざわざ見てくれてくれたのか?」
「あそこまで大見得切って落ちてたら、大爆笑してやろうと思ったのよ。」
そう言っていつの間にか全部食べ切っていたミルクバーのバー部分を、ポイっと俺に投げつけた。それを難なくはたき落とすと、再び静寂訪れる。
「・・・あそこまで頑張ってるのを見たら、少しは応援しようって気になるでしょ、普通。それに、隊員の監督は小隊長の義務なんだし。」
そっぽを向き、ぼそっと小林が呟いた。
「それに、B組の皆も、応援してたんじゃないの。きっと。」
「そっか・・・。」
正直言って、地獄のトレーニングを始めてからは周りが見えなくなるくらい追い込まれていたので実感は無かったが、周りは俺を見てくれていたらしい。
そう思うと、少し気恥ずかしいが、有難いという気持ちが沸き上がってくる。こんな俺のことを気にかけ、見てくれている人がいるという事実は、とても心強いと共に、少しだけ自分に自信を持つことができたような気がした。
「・・・まぁ、あんだけ強烈な匂いを放って、顔真っ青な人、注目しない人もいないと思うけど。」
「俺の感謝と自信を返せっ!!」
そう突っ込むとニヤニヤ笑いを浮かべる小林。
「でも、アンタがあそこまでやるとは流石に思わなかったけど。」
「あそこまでやらないとパスできない位、厳しかったんだよ。」
「常に、机の横にごみ袋常備する位?」
「悪かったよ。」
そこまでの異臭を放っていたのか。小林がここまで言うならもしや、クラスメイトの甘酸っぱい思い出の酸味は俺に依るところが大きいのかもしれない。その自責の念から菓子折りでも持っていこうかと、急遽検討する。
「でも、」
そこから急、に今まで腰かけていたベンチから立ち上がると、
「今の西野みたいな人がこれからこの国を守ってくれるって考えたら、皆、すごく安心したと思う。皆どこかで、何もしなくても、この平和な状態がずっと続くって思いたがってるから。でも本当は違うんだよね。西野や西野と同じような人達が戦争に向き合って戦ってるんだって。だから私も考えなくちゃって。戦わなくちゃって。今の西野を見てると、そう思うんだ。」
桜吹くなか、相変わらずよく似合うショートカットを揺らし微笑んだ小林の顔を見て、それまでにうだうだ悩んでたこと、そして教官応接室で決意した時の事を思い出した。俺はこの笑顔を守りたかったんだ、と。
小林とひとしきり話した後、B組の連中と姫路先生と共にお疲れ会へと向かった俺が施設に辿りついたのは、深夜を回って少し経ったくらいだった。明かりは当然のように灯って無く、音を立てないように、鍵を開け自室へと向かった。すると、ぴったりと閉じられたドアから少し明かりが漏れていた。そこには、
「卒業おめでとう、お兄ちゃん。」
と言いながら、相変わらずのクソダサパジャマ標準装備で、こたつに入ってグダグダしているリサがいた。冬の私立受験に向けてラストスパートという時に、俺が用意したものだ。最初こそ、
『なんか臭いし、嫌!!』
とお父さん世代真っ青な暴言を吐いていたが、ひと冬越すうちにお気に入りになったようで、リサに譲ることになった。中古とは言え、結構値が張ったので惜しいには惜しいが、そもそも士官学校の寮は基本的には、あらゆる私物の持ち込みが禁止されているので、リサに使ってもらった方が、このこたつも喜ぶはずだ。
それに、プレゼントは何が良いかと聞くと、
「これで良い~。」
とぬくぬくしながら、随分と至福の顔を浮かべていたので、俺もプレゼント代が浮いて正直助かった。何せ、トレーニングに励むようになってからは、バイトも出来なくなった上に、スポーツ飲料や体重を落とし過ぎない為に食費にかなり資金を費やす事になったからだ。
「・・・おいおい、そんな気抜いて大丈夫なのか。あの私立に合格した学生さんが。」
そう、リサは見事、受験していた私立に合格したのだ。ここまで一心不乱に努力してきた結果が実ったのだ。俺のような半ば付け焼刃のようなものでない、長い長い積み重ね。
先に俺の合格が決まっていたため、リサの合格発表は一緒に見に行ったのだが、発表当日は今までに見たことがないくらい不安そうな顔を浮かべていた。ずっと俺のコートの裾をギュッと掴んでトボトボしていたのだ。
だがリサの受験番号をこっちが先に見つけ、思わず号泣しているのを見ると、一気に冷めた様子で、
『いや、先に泣くとか、無いわ。』
と言って足早に施設に戻ってしまったのだ。
いや、言わせてもらうが、リサが一番頑張ったことに文句のつけようは無いのだが、勉強見たり部屋貸したりと、例えそれが砂の粒ほどの貢献とは言え、俺も一緒に今まで頑張ってきたという思いがあるのだから、感慨深くなるのは当然だと思う。流石に鼻水か涙かわからない位、顔をぐっちゃぐちゃにして泣いたのは悪いとは思っているけど。
そんなこんなで晴れてエリート街道まっしぐらな人材になったと言うのに、手をだらんと伸ばし、顔をこたつテーブルに接地させながら、ふごふご答える。
「大丈夫だよ、今日は卒業式だから休んでるだけだもん。おめでたい日まで勉強してたらバチが当たるって知らないの?」
「リサのじゃなくて、今日は俺の卒業式だけどな。」
「―だから、おめでたいんじゃん。」
そう言うと、急にダラけモードを解除して、立ち上がり目の前に迫る。
「おめでとう、お兄ちゃん。そして、今までありがとう。」
少しはにかみながら、柄にもない事を言うリサを見て、ちょっと泣きそうになるが、ここで泣くのは流石にかっこ悪い。何とか涙を抑えながら彼女を抱きしめる。
今月末、俺はこの施設を出ていくし、彼女は彼女で自分の道を歩むことになる。無事、二人で夢を叶えられたけど、この別れは悲しい。
多分、きっと、いや、絶対に高村リサは俺にとってこの世界で唯一温かみを感じられる『家族』だったし、彼女にしても俺のことを『家族』として思ってくれていたはずだ。二人で生きてきたのだ。支えあって、寄りかかって。喧嘩もして、小競り合いもして。そんな一つ一つの出来事を幸せに感じてきた。そんな存在と別れなきゃならないのは、辛い。でも俺は『お兄ちゃん』だから。彼女が『お兄ちゃん』にしてくれたから。感謝の言葉を伝えないと。次に進むために。その思いだけで、言葉を紡ぐ。
「―こっちこそ、今までありがとう、リサ。君がいたから、俺は本当は自分が何をしたいのか、最後の最後に見つけられた気がする。」
今度こそ自分が大切にしたい人を自分の手で守りたいという、意志と覚悟。
そこまで言ってリサの髪に涙がこぼれ落ちているのに気付いた。やっぱり、俺は情けない。
「・・・お兄ちゃん。」
リサも声を震わせて言う。
「・・・やっぱり、お兄ちゃんの泣き方ってキモイね。」
「うっせ。」
そう言ってから、俺はより強く彼女を抱きしめた。