三十六 悪意はどこから来てどこから生まれるのか
性善説では、生まれたばかりの人には悪意など一欠けらも無いはずだ、という事になっている。悪意は環境の変化によって心に入り込むものなのだ。よって、いざという時には悪意に染まった心でさえも、生来の良き心によって溺れた子供を助けようと自己の命さえ試みずに水に飛び込んでしまう。
性悪説では、生まれた時から悪意は心の中にある。
だが、悪意のある人間のくせに、溺れた子供を助けようと水の中に飛び込んでいく。
それはなぜか?
悪意の塊だからこそ、他人に自分を良き人と騙し思わせるという習性によって、水に飛び込んで命を失わせてしまうのだ。
これは亨が書き残していたノートにあった文章の書き出した。
この文の後に彼の後悔と告白が綴られる。
俺は友人を殺してしまったかもしれない。
性善説の様に悪意が勝手に心に入ったわけではない。
性悪説で元々あった悪意が発露したわけでもなく、単なる嫉妬で殺してしまったのだ。
俺は死んでいき、彼は俺の望む世界を歩いていく。
俺が病に倒れる前の時点で俺は望んだ道を歩けなかった、それなのに、俺は自分の不甲斐なさを全て病のせいにして、見舞いに来てくれた最後の友人の背に死んでしまえと言葉を投げつけたのである。
彼が無茶をして遠い地方で命を失ってしまったのは、俺の言葉のせいかもしれない。
違うよ、亨。
熊谷を殺したのは、俺の指揮が甘かったからだよ。
そして、立神の勝手なことを許したのも俺だ。
妻が臨月近かったからと、村田省吾と熊谷を勝手にトレードしたのは立神だとしても、俺が最終的にそれを許したのだ。
だが、あの二人はきっと熊谷の死を自分の責任だと悔やんでしまった事だろう。
俺が亨の介護に逃げている間、彼等はきっと罪悪感ばかりを重ねていたに違いない。
また、死んだと思われていた間、ずっと拷問らしきものを受けていた熊谷。
この世界が彼らの起こしたものだとしても、俺は彼等を人殺しのろくでなしだと断罪できない自分がいた。
俺だったら、死んでいたはずの熊谷の状況を知らされたらどう思う?
「あの。女の人を知りませんか?亨君は名前も知らない人だと思う、だって、イメージだけだもの。赤ちゃんを抱いている真っ赤な女の人のイメージだけだもの。」
美梨の突然の言葉に俺は物思いから覚まされた。
完全に死んでしまった弟の骸をずっと抱いてくれている幼い少女。
彼女は涙の溢れた瞳で俺を見つめ、赤い女がマザーだと言い出したのである。
マザー?赤ちゃんを抱いている?
――あなたが苦しいと弟様がより苦しいのでは無くて。
あれは、誰だった?
俺はぎゅうと目を瞑った。
彼女は医者だったか?看護師だったか?
出会ったのは病院だったか?
――赤ちゃんを抱いている真っ赤な女の人が。
そうだ、あれは村田の家だ。
俺は彼の子供が生まれたと聞いて、彼の誘いを受けて彼の自宅に招かれたのだ。
俺は彼等のもてなしを受けて、冗談として病院のシャワー室を使っていると口にした。
すると、彼の妻、村田紗莉があのセリフを言ったのだ。
「あなたが苦しいと弟様がより苦しいのでは無くて?」
村田は煩いと怒鳴った。
お前はわかった風な口を利くな、とも。
俺は村田を諫め、すぐに村田の家を出て村田の妻が言ったように自分に与えた罰としてのボロアパートに戻ったのだ。
どうして記憶がぼやけているのだ?
どうして俺は紗莉の顔だけは思い出せないんだ?
赤ん坊の顔だって。
赤ん坊の顔は見ただろう?
誕生祝で村田の所に行ったのだから。
村田は煩いと怒鳴った。
怒鳴った、だけか?
あいつは妻を怒鳴っただけか?
――真っ赤な赤ちゃんを抱いた人が!
キッチンのカウンターの下部に、頭を打った赤い女が寄りかかっている。
腕には赤ん坊だったもの。
部屋は黒蠅で一杯で、村田は煩い煩いと騒いでは腕をぶんぶんと振り回していた。
俺は壊れてしまった部下の肩をぐっと掴んで引き寄せてから、彼の頭を掴んでぐるっと回した。
紗莉は俺を呼びつけ、生まれたばかりの赤ん坊の顔を見せるどころか、ペスト事件後の村田の様子がおかしいと相談してきたのだ。
紗莉と俺は付き合っていたこともあり、紗莉には体の関係もあった。
結婚後に付き合いは途絶えたが、それを知っている村田が俺を子供の誕生祝に呼ぶはずもない。
どうして俺の頭は嘘の記憶を植え付けたのか。
「隊長じゃないって、あなたはそんな生活をしているの?省吾さんもそうよ。娘が生まれて幸せな筈なのに、子供の顔が見たくないと家に帰って来ない。同僚を死なせたと真帆の顔を見ると思い出すからって。笑うこともしなくなったわ!そしてあなたもそんな生活を!あなたが苦しいと弟様がより苦しいのでは無くて。私は今辛くて仕方が無いのよ!」
感情を溢れさせた紗莉が俺の胸を両手で叩いた時、ちょうど村田が帰ってきた。
彼は激しく紗莉を責め、俺を薄汚いと罵った。
「あの、どうしたのですか?」
俺を心配する美梨の声に俺はようやく瞼を開けた。
意識を共有する化け物。
それは俺達が抱いている罪悪感だ。
美梨が覗き込んだ俺の罪悪感。
赤い女。
俺は村田に罵られるまま村田の家を飛び出し、数日後に彼の家に再び赴き、そこで村田によって紗莉と真帆が殺されていた事を知ったのだ。
「ねえ、美梨ちゃん。俺は同僚を殺していたよ。昔の恋人だった女を殺していたからさ、俺は村田を殺したんだ。」
「それで、不在の村田の代りに上条が一班に入れられて都庁で死んだのですね。」
「ああ、全部俺のせいなのかな。」
「あなた一人で東京壊滅ですか?うぬぼれるのもいい加減にしてくださいよ。」
「いいじゃないか。あと数時間後には死ぬんだろ?どうせ死ぬならラスボスみたいな気持ちで死にたいものだよ。」
「最悪だ。最悪なシャバ僧だ。」
高杉はぶつくさ言いながらナースステーションを出て行った。
「どこに行く気だ?」
「あなたがさっきまで転がっていたあそこ、月がよく見えますからね、月見ですよ。」
俺は美梨の隣に腰かけた。
「最低男が隣に座ってごめんね。」
「いいえ。亨君のお兄さんだから良いです。」
「ありがとう。」
俺は膝を抱えて目を瞑った。
美梨を殺さずに済んで良かったと思いながら。




