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前編

 十六歳の村娘ミーナがムルト準男爵家の長男、二十歳のクラウスから婚約を破棄されたのは、結婚式が一週間後にせまったある初春の昼下がりだった。

 母や友人達と花嫁衣装の最後の仕上げをしていたところに突然クラウスが現れ、


「君とは結婚できない、ミーナ。心から本当に愛する女性と出会ったんだ」


 と告げたのだ。

 クラウスは街一番の豪商の娘ライラを連れていた。


「どういうことですか? クラウス様。突然来て、なにを…………」


 ミーナはうろたえた。彼の言葉が理解できなかった。


「言ったとおりの意味だよ、ミーナ。僕は、もう君とは結婚できない。僕が本当に愛しているのは、ライラなんだ。僕は来月ライラと結婚する。もう、お互いの両親の許しも得ている」


「あ、愛しているって…………」


「君への思いは、話の合う友人とか妹に対するものだった。それを恋と勘違いしていただけなんだ。ライラに恋して、それがわかった。僕の真実の愛はライラなんだ」


 クラウスはライラの肩を抱き寄せ、真剣なまなざしで訴えてくる。切なくも苦しげな表情は、ライラの勝ち誇った嘲笑とは対照的だ。

 ミーナもじわじわと、これは夢ではないのだと理解できてくる。

 クラウスは名家の子息らしく上等の上着とタイを身につけ、ライラは胸にリボンとブローチを飾った華やかなよそいきを着て、二十歳と十四歳という年齢差はあれど『家柄のつり合いのとれた、お似合いの恋人同士』に見えた。

 それは、一介の村娘にすぎないミーナにはないものだった。


「待ってください、クラウス様。はじめから話を、もっと話を、ちゃんと…………!」


「話はそれだけだ、ミーナ。もう二度と会わない。さようなら」


 クラウスはミーナに背中を向け、ライラを連れて玄関を出る。


「お待ちください、クラウス様! これでは娘があんまり…………!」


 耐えかねたミーナの母が追いすがろうとしたが、クラウスはとりあわない。


「待って、クラウス…………っ」


 ミーナはふらつく足で二人を追ったが、玄関を出た時には、もう二人は待たせていた準男爵家の馬車に乗り込んでいた。御者が馬の尻を鞭で打つ。


「クラウス様――――!!」


 馬車はさっさと走り出し、乗っていた人物達はミーナをふりかえりもしなかった。

 ミーナが最後に見たのは、馬車の中、笑顔で見つめ合う恋人達の横顔だった。






 この一件はあっという間に村中はむろん、近隣の街にまで知れ渡った。

 ミーナの父はムルト準男爵家に抗議しようとした。

 が、下級の、正式には貴族には数えられない低位とはいえ、爵位は爵位。

 一介の村人やその娘には『不当だ』と訴える力も権利も与えられていなかった。

 ミーナに起きた出来事は「貴族の若様が世間知らずの村娘をからかい、村娘はそうとわからずにのぼせあがって、若様が飽いたら捨てられた」という、世間ではよくある話の一つにすぎなかった。






 草の先がちくちくとミーナの足首を刺す。

 ミーナは森の奥へ、奥へと進んでいた。

 クラウスの急な訪問と婚約破棄から半月。

 ミーナの心は虚ろだった。

 村人達はある人はミーナを慰め励まし、ある人は「貴族なんてそんなものだ」とあきらめることを勧め、ある人は「ライラのほうが美人で親も金持ちなのだから、ライラを選ぶのは当然だ」とミーナを笑った。

 あの日から家では母が泣きつづけ、父もずっと暗い顔をしている。

 ミーナはもうこの村から、いや、この世界そのものから消えてしまいたかった。


(クラウス…………あんなに簡単に心変わりするなんて…………)


 ライラはたしかに街一番の豪商の一人娘で、祭りの時は街中の男達が踊りたがる美少女で、ライラの父は娘をとびきりの名家に嫁がせると豪語してはばからなかったけれど。

 そういうライラに対して、


「ライラはたしかに可愛いけれど、僕が愛しているのはミーナだ。それが真実だよ」


 と言ったのはクラウス自身だったのに。

 美人とかお金持ちの親がいるとか、そういう理由で女を選ぶ人ではないと信じたからこそ、好きだったのに。しょせんはクラウスも、そういう男達と同類だったのか。

 ミーナは視界がにじむのにもかまわず、下草をかき分けて森の奥へと進んでいく。

 ふいに森から抜けて青空が広がり、風と陽光にさらされる。

 行く手の地面がとぎれて高い崖となっていた。

 ミーナは崖に近づく。

 ここから飛び降りれば、まず助からない。

 愚かな行為だとは理解している。

 でも、もう耐えられないのだ。

 もう、この世がつらくて苦しくて、現実を背負って生きていくことなど到底できない。ここから飛び降りさえすれば、こんな苦しい思いからは解放されるのだ。

 さらに崖に近づく。その時。


「よし。これでいいかね…………」


 独り言のような声が聞こえて、ミーナはどきりと、そちらを見る。

 ミーナから十歩ほど離れた右側、崖のすぐ手前で、かごを背負った一人の老婆が太い樹の幹に縄を結び、その結び目の強度を確かめていた。

 老婆もミーナに気がつき、手招きしてくる。


「ちょうど良かった! どこの誰だか知らないが、少し手伝っておくれ!!」


 ミーナが困惑しつつ歩み寄ると、老婆はミーナに縄を見せて頼んできた。


「突然で悪いんだけどね。この縄を持っていてくれるかい? 今からあたしが下に降りるから、合図したら引きあげてほしいんだ。あれを採って来たいんだよ」


 と、老婆は崖の下を指さした。ミーナが慎重にのぞくと、崖の途中に白い小さな花が十数輪ほど咲いている。


「熱さましの薬草だよ。よく効くんだけど、この辺りではあそこにしか生えていないんだ」


 老婆は自己紹介した。


「あたしはヴェーラ。隣村の薬売りだよ。一昨日の夜に孫が熱を出してね。夕方までにあれを煎じて飲ませないと、これ以上、熱がつづいたら命に関わるんだ」


 その名前にはミーナも聞き覚えあった。腕の良さから、この辺りでは『魔女』とあだ名されている薬売りだ。


「今日、会ったばかりの他人に頼むのも、心苦しいけどね。お礼はするから、もし縄が切れてしまったら、その時はできれば隣村まで行って、あたしが死んだと家族に伝えておくれ」


 しわだらけの老婆の顔には悲壮な覚悟がただよっている。

 ミーナは事情に驚き、そして少し考えた末、


「私が代わります」


 と申し出た。


「馬鹿言っちゃいけない。あたしの孫のことで、赤の他人が死ぬ必要があるもんか」


 老婆は反対した。

 けれどミーナにはミーナなりの考えがあった。

 この老婆が死んだら家族は悲しむだろうし、孫も息絶えるしかない。

 一方、自分はここで死んでも惜しくはないし、そもそもそのために来たのだ。

 ミーナが死ねば、両親は悲しむだろう。

 けれどもミーナ自身は死を、すべてを終わらせることを望んでいる。

 ならば、自分が行くべきだ。

 死ぬ前に人助けができれば、それはそれで悪くないし、両親も娘がただ自殺するより、他人の役に立とうとして死んだほうが少しは慰めになるかもしれない。

 それにミーナが死ねば――――クラウスは悲しんでくれるだろうか――――

 しばらく押し問答がつづいたが、けっきょくミーナが押しきり、縄はミーナの腰に結び直された。

 ゆっくり、ゆっくり、ミーナは爪先で足場を探りながら崖を降りていく。

 やがて完全に崖にへばりつく格好になった時、ミーナの胸を恐怖が襲った。

 自分は今、死のすぐそばにいる。

 この足をちょっと動かすだけで、なにもない空中に飛び出すことができる。

 縄は結んでいるが、どれほど耐えられるか。案外あっさり切れてしまうかもしれない。

 そう考えた時、どっと血の気が引いて、『死』を生々しい現実として実感した。

 ふるえ出す指先や爪先に必死に力を込めて、ミーナはじりじりと崖を降りていく。

 ようやく目的の薬草のもとにたどり着き、教えられたとおり、若い葉を三十枚ほど摘んだところで崖上に声をかけ、縄を頼りに今度は上へ登っていく。老婆も縄を引っぱっているようだが、実質的にミーナ自身の筋力だけが頼りだ。

 ミーナはとにかく下を見ないようにして、必死の思いで手足を動かす。

 どれほど時間が経ったろう。

 崖の上の地面に膝を乗せた時、ミーナは心から安堵した。


「大丈夫かい? 怪我はないかい? ああ、ありがとう。これだけあれば充分だよ」


 老婆はミーナをいたわりながら、彼女が背負っていたかごの中身を確認する。

 強い緊張と恐怖から解放されたミーナは、喉が渇ききって返事もできない。

 老婆はミーナのかごを背負い、礼の言葉をくりかえしながら、いそいで隣の村へと帰って行った。

 座り込んだミーナはその背中をぼんやり見送る。

 やがて空は暮れはじめ、さすがに(家に帰らなければ)と思い、よろよろと立ちあがる。

 死ぬ気の大半は失せていた。






 五日後。ミーナは隣村の薬売りの来訪をうけていた。


「礼が遅くなって、すまないね」


 ヴェーラ婆さんいわく、あのあと、ミーナが摘んでくれた薬草のおかげで孫の熱は下がったものの、容態が安定せず、経過を看ていたらこの日になった、ということだった。


「あの時は助かったよ、これは少ないけれど、お礼と思っとくれ」


 そう言って老婆がさし出したのは、小さな瓶だった。


「あたしの特製の塗り薬だよ。切り傷や打ち身によく効くんだ」


「まあまあ、こんないい品を」


 恐縮したのはミーナの母だ。村人にとって、薬はちょっとした高級品である。

 それからしばらく雑談で盛りあがった。ミーナの母はふさぎ込んでいた娘がいつの間にか人助けをしていたと知り、嬉しそうに顔をほころばせる。

 その反応に、ミーナは崖に行った理由は絶対に母には教えまいと、心に誓う。

 やがてヴェーラ婆さんが「よっらしょ」と立ちあがり、礼と別れを告げる。

 ミーナも村の外れまで付き添うことにした。


「ところで、ミーナ」


 歩きながらにこやかに話していたヴェーラ婆さんが、ふいに口調を変える。


「噂を聞いたんだが…………ムルト準男爵家の若様に婚約を破棄された『ミーナ』というのは、あんたかい?」


 突然の問いに、心の準備ができていなかったミーナはさっと表情を変える。

 でも、考えてみれば当然のことだ。あの一件はミーナの村のみならず、この辺り一帯に知れ渡ってしまったのだから。


「ああ、責めたり、からかっているんじゃないんだよ。そんな顔をしないでおくれ」


 ミーナの背をさすりながら、ヴェーラ婆さんはさらに問いを重ねる。


「ただね、少し気になったんだ。あの日、あんたがあの崖にいたのは、ひょっとして飛び降りようとしていたんじゃないかってね」


 ミーナの顎がこわばり、なにも言えなくなる。

 ヴェーラ婆さんは痛ましげな顔と口ぶりになった。


「かわいそうにねぇ。あんたはそこまで追い詰められていたのに、若様ときたら、今の婚約者と二人で、毎日楽しく買い物三昧だそうだよ。婚約者いわく『貴族の家に嫁ぐ準備』だそうだけど…………ミーナは心無い男に引っかかってしまったね」


「いえ…………もともと身分違いだったし…………やっぱりふさわしくなかったんです」


「それは言い訳にならないよ」


 うつむいたミーナの言葉を、ヴェーラ婆さんはきっぱり否定した。


「身分が違おうが、村娘と貴族の息子だろうが、いったん決まったからには、婚約者として誠実な態度を貫くのが、男の礼儀ってもんだよ。もちろん、女もね。婚約を解消するならするで、通すべき筋ってもんがある。そこに身分の差なんてあるものか。あんたは単純に軽んじられたんだよ、ミーナ。礼儀を尽くされるべき相手に、そうしてもらえなかった。傷ついて当たり前だ。若様は不誠実な男だったんだよ」


「不誠実って…………クラウス様は優しい、いい人でしたよ? 頭が良くて、いろいろなことを知っていて、立ち居振る舞いも優雅で…………」


 ヴェーラ婆さんは首をふった。


「本当に優しくて人柄のいい人、頭のいい人は、一方的に婚約を解消したりなんかしないよ。相手の傷や周囲の迷惑を考えられるからね。それをしなかったってことは、若様の本性は身勝手な男だったってことさ」


「身勝手?」


 その単語はあのクラウスにはもっともふつりあいに思えた。

 彼女の知るクラウスは常に穏やかで気品があって気遣いができて、そういうところが村の若者達とは大違いだと娘達に大人気で、ヴェーラ婆さんが語る単語とは正反対の印象をうけてきた。

 しかしヴェーラ婆さんの声には確信がこもっている。


「本当に誠実な人間は、心変わりしても筋はとおすさ。ミーナの目に若様がいい人に見えていたとしたら、それはその時点では若様はミーナに気があったから、優しくしていただけだよ」


 ヴェーラ婆さんは笑う。経験豊かな年長者の笑みだ。


「あんたは運が良かったんだよ、ミーナ。あんたの元婚約者は身勝手で不誠実な男だった。他の女に奪われたからって、嘆く必要はないよ。むしろ、その娘に同情しておやり。その男と結婚せずに済んだのは幸いだったんだ。今はぴんとこないだろうけどね、別れ話をまともにできない男はろくなもんじゃない」


 ミーナは、どう返事すればいいのかわからなかった。

 村の外れの街道で空っぽの荷車を馬に引かせた男が一人、待っている。

 ヴェーラ婆さんと同じ隣村の男で、乗せていってもらうのだそうだ。


「ここまででいいよ」


 ヴェーラ婆さんは足をとめると、腰のベルトにさげていた小袋から小さな瓶をとり出した。瓶はきらきら光るガラス瓶だ。


「そうは言っても、理屈じゃ割りきれないのが男女の仲、恋心ってものだからねぇ。どうしてもあきらめられない時は、これをお使い」


 しわだらけの手がミーナの手をとり、ガラス瓶をミーナの手の上に乗せる。


「恋の媚薬だよ。俗にいう『惚れ薬』さ」


 ミーナは目をみはった。『惚れ薬』なんて、物語でしか聞くことのない単語だ。


「満月の晩、このガラス瓶に月光をあてながら、若様の名前を五回、唱えな。それから若様に飲ませるんだ。そうすれば若様は一生、ミーナを愛しつづける。今の婚約者を捨てるなんて、造作もないさ」


 ミーナはうろたえた。


「飲ませるといっても…………私はもう、クラウスに近づけさせてもらえないわ」


「結婚の祝いに、館の庭で盛大に祝宴を催すそうだよ。こっそり忍び込んで、若様の飲み物にでも混ぜてしまえばいい。他の人間が飲んでも効き目はないから、心配しなくていいよ。ただし」


 老婆は念を押した。


「これは本当に強力な薬だし、恋心も時と場合によっては諸刃の剣となる。本当に若様を忘れられないか、どうか。満月の晩までよく考えて、お決め」


 そう言い残して、『魔女』の異名を持つ薬売りの老婆は荷車に乗って帰って行った。

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