堕胎
強い、強い豪雨が降り頻る暗青色の雨雲の下。
泥濘んだ大地に群生する丈の低い野草が鋭い雨粒に叩かれ、パチパチと地鳴りの様に合唱している。
自然の喧しさの中で、異様な程静かな人影が二つ。
顔にあどけなさの残る少年、それなりに整っている筈のそれは苦痛と疲労に醜く歪んでいる。
力無く地面に向かって垂れた左腕は指先から二の腕にかけてドス黒く変色し、裂けた皮膚の間からは赤と黄が混じった様な色をした体液が夥しい程流れている。
明らかに満身創痍、だが彼は地に両足を付けて、正面に立つ者を睨んでいた。
「もう君は再起不能だ。脇腹から腐食は進んでるし、左腕に至っては腐り落ちる寸前。そんな身体ではもうまともに戦えないよ」
そう淡々と言うのは、銀に輝く機械弓を肩に担いだ薄藤色の毛髪の女性。
鉄製の矢を機械弓に番え、冷酷で残忍な視線を少年に向けるが、その端正な顔は額の傷から溢れ出る鮮血に染まっている。
無表情であるものの、その裏に隠れたダメージが色濃く滲み出している。
「………ぁ…!」
喘息の様に荒い呼吸を繰り返す少年に、女性は冷ややかな目線を向けながら尋ねた。
「…………そんな物、なのかい?」
毅然とした口調だが、言葉を紡ぎ出す桃色の唇は微かに揺れている。
「君が、私の元で培った腕前は……私の下を旅立とうとする決意は……そんな甘ったるい物だったのかい? 私すら倒せないなんて……」
此方を睨みつけたまま黙り続ける少年。
「今まで十年間、君は何をしていた? 死にそうになりながらも、足掻き続けてきたんじゃないのか?」
彼女は少年が必死に積み上げてきた経験を知っているからこそ、そんな非情にも思える言葉が湧き出てくる。
痺れを切らした彼女は遂に、声を荒げた。
「何処にも行かないでよ! 出ていくだなんて言わないで、私とずっと一緒に居てよ……!お願いだから……」
彼女の絶叫は、徐々に悲痛な物になっていく。
人の温かさを、側に誰かが居るという心地良さを、自らを本当の母親の様に慕ってくれる少年の純粋な愛を、其れ等に慣れてしまった彼女には、もう十年前の様な独りきりの生活に戻る事は出来なかった。
「嫌だよ、君が居なくなるなんて……嫌だ、嫌だ……!」
彼女は顔を上げ、満身創痍の少年を見る。
その顔は額から溢れ出る鮮血と温かい雨で濡れていた。
「今なら治せるから、ね? 帰ってあったかいスープでも……」
「……お言葉、ですが」
その提案を、少年は吐き棄てる様な強い口調で遮った。
「俺は、退きません。貴女が、何を、どう言おうと……俺は絶対に、貴女を、倒します」
息も絶え絶えだったが、その言葉には強い決意と闘志が見え隠れしている。
彼は腰に巻いたベルトに括り付けられた革製のポーチからヒビ割れた小さなガラス瓶を取り出すと、瞬間的に握力を込めていとも容易く握り潰した。
「『蠍星の祝福』……」
そう呟いた途端、彼の身体は突如湧き出た高濃度の毒の煙に包み込まれた。
それは師匠である女性が、初めて少年に教えた上級呪術であった。
微塵でも呼吸器に入れば確実に死に至るという凶暴性、煙という性質上至近距離まで近付かなければ術の効果が出ないという最悪の使い勝手、裏を返せば術を展開させている間は何者も近寄れないという堅牢さ。
流石、かの英雄を刺し殺したという伝説の蠍の棲まう星の名を冠するだけある。
その猛毒は、全てを朽ち果てるまで苛み続けるのだ。
毒煙を纏う少年を見て、女性は静かに息を吐いた。
「あぁ、そっか……そうだよね、やっぱり」
どこか落胆した様な、達観した様な、力の無い笑みを浮かべ、双眸を潤ませた。
「泣き言なんて、らしくないですよ……あぁ、クソッ、遂に目もイカレ出した」
それを聞いて、女性はハッと息を飲んだ。
視覚への障害、それは毒が胴体から首を通じて頭部へと渡り、中枢神経である脳付近を蝕みつつある事を示唆していた。
「ッ、早く治療を……!」
「そんな物後で良い。死ぬ前に……俺は貴女を倒したい。どうせ拾われた命だし、折角なら燃え尽きるまで……」
「そんなプライドは捨てなよ! 死んじゃうよ!?」
「分かってます」
それは異常なまでに淡白な決意、そして純粋な殺意であり、女性は思わず恐怖を覚えた。
死の淵に立たされた生物は否応無しに生存本能に従い、自らの肉体の最奥に眠る力を解放するというが、少年のドス黒い、勝利への貪欲は最早それすら超越していた。
視界に映る一人の邪魔な女を殺す、ただ一つの思考に突き動かされ、今の彼は立っていた。
ただでさえ雨に濡れていた身体が、更に冷たくなっていく。
恐ろしい。
師弟という垣根を超え、今この瞬間、十年間の生活の中で、初めて弟子に対する恐怖が湧いた。
その事実は、彼女を動揺させるのには充分過ぎた。
息子の様に厳しく接し、弟の様に愛し、恋人の様に依存してしまっていた少年を、今自分は正に、手に掛けようとした。
頭部をメイスで殴打されたかの様な衝撃に、彼女は言葉を失う。
たった一瞬で彼女は、自分の存在意義を見失った。
「……師匠、今までありがとうございました」
焦点の合っていない虚ろな双眸を此方に向ける少年を、彼女は直視する事が出来なかった。
ただ少年の言葉を振り払う様に首を横に振る事しか出来ない。
「俺の師匠は、家族は、貴女だけです。だから……最後のご教授を、お願いします」
彼はポーチの中から手探りでガラス瓶を取り出した。
充血し、紅に染まった眼は最早何も映していないだろう。失明するのも時間の問題だ。
だがそれでも、彼の闘争の意志は消え失せない。
「あぁ……!」
あらゆる感情が混沌と混ざり合い、絡み合い、女性の心は悲鳴を上げる。
思わず両手で目を覆った彼女の前で、少年は静かに鉛色の空を仰いだ。
「……何も見えねぇな……雨音も激しくて、声も聞こえにくい……」
その呟きを聞いて、遂に彼女の決心は固まった。
震える両手を顔から離すと、腰のベルトに付いているポーチから少年の物と非常に良く似た形状と色をしたガラス瓶を二本取り出し、其れ等をそれぞれ両手に握った。
「……ありがとう、モーガン。私も、決めたよ」
そしてガラス瓶を勢い良く握り潰し、一寸先も見えなくなってしまう程濃度の高い『静かなる黒霧』を撒き散らした。
「私は、君の最後の壁として立ちはだかるよ。だから、来い。全部を賭けて」
これは六年前、当時十六歳のモーガン・チェンバレンが強者の集まる王都へ出る、つまり十年間生まれ育った師匠の下を離れる際に師匠エルミータ・ブラッシュが弟子に課した最後の実戦試験の一幕である。
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「あの、師匠」
「どうしたんだい?」
モーガンはエルミータと背中合わせに座った状態で、彼女に話しかけた。
彼の手前にはいつもの革製の頑丈なポーチが広げてあり、媒体の準備に不足が無いかを改めて確認していた。
「俺は本気出せないので、どうぞお手柔らかに……左腕、使えないので」
それを聞いたエルミータは機械弓の細かい技巧と間に挟まった微細な塵を払い落としながら、笑った。
「あぁ、すまない。さっき治しておけば良かったな」
「別に構いませんよ、俺は。右腕だけでもそれなりには戦えるので」
「あぁ……でも、だからといって私も気を抜く訳にはいかないな。モーガンと渡り合うには、ちょっと私も大変だからね」
「そりゃあ俺もですよ。師匠と戦うのは、免許皆伝試験の一回で充分ですから」
「奇遇だね、私もだよ。あんな事をするのは、二度と御免だからね」
モーガンとエルミータはそんな軽口を叩き合いながら、六年前のあの豪雨の日の激闘を思い出す。
師匠と弟子、母親と息子。十年の月日を経て結ばれた信頼関係や愛情を全て唾棄し、自らの命運の為、そして信条の為に命を賭して毒を振り撒く。
左腕と脇腹が腐れ落ち、蠱毒に視界すらも白ばんだとしても、なおも炎は絶える事無く、昏く冷たい殺意に燃える。
初めて人間としての剥き出しの闘争心を見たあの夜を、モーガンはこれから先の人生で一度たりとも忘れず、そして夜な夜な怯え続ける事となるだろう。
「それじゃあ、何かルールでも作りますか?」
「あぁ、それが良い。ただの戯れが行き過ぎるのも嫌だろう」
不用意に消耗する事を避ける為に、モーガンは貴族の剣戯の様に明確かつ単純なルールを設ける事を提案し、それは見事承諾された。
「それじゃあ……俺の左肩は治癒魔法を使っても動く様になるのは時間が掛かると思うのでそのまま。従ってメイスや短剣による直接攻撃は禁止、呪術だけを使用する」
「じゃあ機械弓は問題無いね、遠慮無く狙撃させて貰うよ。勝利条件は?」
「そうですね、うーん……相手の背中を地に着けるとかはどうでしょうか」
「良いんじゃないかな。もし毒に感染したら、直ぐに解毒すれば良いから……ハハハ、普通の戦闘に比べれば子供のおままごとの様に甘ったれた試合だな」
命の奪い合いではなく、あくまで呪術の腕前の見せ合い。
当然勝利条件も甘く、禁則事項もモーガンにとっては不利な物だ。
だからこそ、負けられない。
いかに戯れ同然だろうと、気を抜けて無残に敗北すれば、少なかれエルミータに失望されるかもしれない。
それだけは絶対に避けなければならない、だからこそ勝たねば。
「覚えてるかい? 昔、これと大体同じ条件で手合わせした時、モーガンが手も足も出ずに蹂躙された事を。あの時は確か、本当に基本的な呪術しか覚えてなかったね」
「忘れる訳ありませんよ……俺、あの時から本腰入れて勉強し出したんですから、呪術の事」
「また叩き潰したら、どうなるんだろうね? 憲兵として、更なる高みを目指す様になるのかな?」
挑発とも取れるその言葉を、モーガンは鼻で笑い飛ばした。
「……逆に師匠を返り討ちにしたら、どうなるんですか?」
黒い笑顔を浮かべ、エルミータの背中を横目で見る。
こんな挑発紛いの事、昔は口が裂けても言えなかった筈なのに、何故か今では驚く程流暢に言葉を紡ぐ事が出来た。
これもきっと、師匠から精神的にも自立出来ている事を表しているのだろう。
自らの精神の成長を実感するモーガンとエルミータの間に、沈黙が流れる。
流石に言い過ぎたか、と閉口したまま困惑するモーガンだったが、直ぐに彼はエルミータの肩が揺れている事に気が付いた。
刹那、まるで堰が切れたかの様な勢いで彼女は声高らかに笑い声を上げた。
酒に酔った時でもお目に掛かれない、心の底に秘められていた筈の感情。
今、それが露見した。
「ハハハハハハッ! 言うようになったな、モーガン! 私は嬉しいよ、君がそんな事を言ってくれる様になって!」
抱腹絶倒する彼女に釣られて、モーガンも笑う。
「当たり前でしょう、俺もう二十二ですよ? 親離れ……いや、師匠離れくらい出来てなきゃ」
「だけど、ほんの前まで子供で、私の言う事を聞くだけだった弟子がそんな事を言うなんて夢にも思っていなかったから、驚いたよ、フフフ……」
エルミータは両膝をパンと叩くと、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、と……やるかい? 私は準備万端だ」
「俺も、もうそろそろ準備出来ますよ……」
先程紹介された『毒の大剣』や煙幕代わりの『毒霧』、解毒用の『平穏よりの使者』など、使えそうな順から取り出し易い様に上部分に積み上げていく。
メイスは、機械弓から射出された毒矢を弾き返す為なら有用だろう。
極力は避けるが、どうにもならない場合は危険を顧みずに弾くしか無い筈だ。
闘争に於いて重要なのは臆病であり、勇敢である事。
相反する感情を共生させる事がいかに戦況を左右するか、モーガンは身に染みて理解している。
だからこそ、準備は怠らない。
「それなら、お言葉に甘えるよ」
不意にエルミータは両手をパンと合わせると、その掌を石畳の上にくっ付けた。
余りにも自然で、流れる様な一連の動作。
何か途轍も無い事が起きる気配を感じたモーガンは弾き飛ばされる様な勢いでエルミータとの距離を離した。
「『眠れぬ赤子たち』」
途端、形容し難き寒気が背中を駆け巡り、その内部に詰まった脊髄に齧り付く様な錯覚を覚えた。
不適な笑みを浮かべるエルミータから更に距離を広げようとしたが、不意に体勢を崩して無様にも地面に倒れ込んだ。
右足が、右足がまるで鋼鉄の蔦に絡まれたかの様に少しも動かない。
恐る恐る足元に目を向けると、彼の視界に映ったのは自らの足首に蟻の様に群がる奇妙な小人の大群だった。
枯れ木の様に水気の無い皮膚、異様に長く細い四肢、それに反比例して丸々と膨れ上がった腹、そして此方を見上げる暗い眼窩の奥底から溢れ出す赤子の様に甲高い鳴き声。
干からび、くぐもったそれは地鳴りの様にも、断末魔の様にも聞こえ、モーガンの恐怖心を凄まじき勢いで摩耗させていた。
「う、うわぁぁぁぁぁぁ!!」
彼は絶叫しながらブーツを脱ぎ捨てて、何とかその拘束下から逃れた。
冷静になって周囲を観察してみると、地面の至る所からそれと同じ物が姿を現していた。
「……キツイな、これは」
かつて遊び癖の激しい貴族に捨てられた女がその苦しみと怨みの末に創り出したという呪いを改良した上級呪術『眠れぬ赤子たち』。
呪詛により殺された子供達の無念が形となって現れるというが、実の所詳しくは分かっていない。
それが本当に怨嗟が昇華した怨霊なのか、それとも質量を持った幻影なのか。
どちらでも構わないが、モーガンはその正体不明な異質さと生理的、精神的なダメージを容赦無く負わせる外見から術を発動させる事を敬遠していた。
結果、今の今まで一度も『眠れぬ赤子たち』を使った事が無いのだ。
彼は眉を顰めて、エルミータに目を向けた。
彼女はその場にしゃがみ込んで、石畳の隙間から顔を出す赤子たちを愛でていた。
「ちょ、いきなりこれは無いでしょう……!」
「フフッ……さーて、昔はこれを乗り切れなかったが、今はどうだろう?」
「……人が悪いですね、ったく!」
そう悪態を吐きながらも、モーガンの口元は獰猛に歪んでいる。
今こそ修行時代の雪辱を晴らす時。
モーガンは勇んで、メイスを自由の利かない左手に持つと、空いた右手の内で呪術の媒体が詰まった小ガラス瓶を握り潰した。




