地底の箱庭
モーガンは剣闘士達の控え室の端でメイスの手入れをしていた。棘に付着した蜥蜴人の血をボロ布で丁寧に拭い取る。
「よう、チェンバレン」
そんなモーガンに声を掛けたのは同僚である剣闘士、ドメイル・エスパダだった。
「おぉ、エスパダか。もう試合は終わったのか?」
「勿論。毒蜘蛛が相手だったが、まぁ危なげ無く普通にって所だ」
よくよく見ればエスパダの纏う防具の至る所に粘着質の糸が絡み付いている。
彼はモーガンと同じでこの闘技場で怪我こそあるものの命は落とさず、六年間戦い続けてきたベテランの剣闘士だ。
「にしてもお前、さっきの試合えげつなかったな。瞬殺だったし、最後のあの毒の呪術強過ぎるだろ……」
「まぁ、アレは俺の自慢の〆め技なんでな。最終兵器は強くて当然だろ」
「そうだけどさ…。もっと観客の手に汗を握らせなきゃ稼げねぇだろ?」
「でもなぁ……」
闘技場では試合の直前にその日の対戦カードが発表され、観客はそのどちらが勝つかを予想する。
そして勝率が高いと思った者の札を購入し、その予想が的中した場合は利益を得る事が出来、逆に外れてしまった場合は賭け金を全て失ってしまう。
賭けのルールは近隣の国で流行している『競馬』というギャンブルと同じだろうか。
そして命を賭けた試合を演じる剣闘士には全体の賭け金の5%を入手する権利を与えられる。
それ故に彼等は出来るだけ賭け金を集め、出来るだけ利益を出そうと奮闘するのだ。
「まぁ、お前には関係無い話だろうけどな」
「………そうだな」
モーガンが闘技場で日夜殺し合いに励んでいるのはバトルマネーが欲しい為では無い。
だからこそ彼は他の剣闘士達がよく言い合いに出す『バトルマネーの量』という物には全く興味が無いのだ。
彼が重視しているのは『勝数』。ただその一点だけだった。
エスパダは防具に絡み付いた粘糸を払い落としながら尋ねてきた。
「そういやお前、最近メイスばっかり使ってるよな。お前なら呪術もあるし、それだけで蜥蜴人やら毒蜘蛛、あと豚鬼くらいなら殺せるんじゃないか?」
彼が挙げた名は全てモーガンが過去に闘技場で対峙した怪物の種の物だ。
人間と同等の体躯を誇る奴等は確信を以って強いとは言えない。
だが、駆け出しの冒険者や兵士程度なら下手すれば殺されてしまうだろう。
殺せるか殺されるかの瀬戸際に立つからこそ、奴等は対人戦が主である闘技場で重宝されるのだ。
彼は右手に握るメイスの鋭利な棘を指先でなぞりながら言った。
「メイスが一番振り回すのに楽だからだ。力任せに殴ってもダメージは確実に与えられるし、先っぽの錘で斬撃を引っ掛ければ隙を作れる」
「ふーん……それなら戦斧で別に良くないか?」
「戦斧は刃が肉に刺さって取れなくなるかもしれないだろ?そんな羽目になったら丸腰になっちまう」
「でも丸腰になったって呪術があるだろ?」
「呪術だけで怪物は殺せねぇ。毒が回る間に反撃喰らって最悪こっちが殺される」
呪術はあくまで補助装備。
その獰猛かつ繊細な毒は確かに強力で魅力的だ。
だがその効力が発現するまでに些か時間が掛かり過ぎる。
だからこそそれまでの時間稼ぎを行い、勝利への道を確かな物としなければならない。
その為にモーガンは呪術師であれば絶対に触れる事の無いメイスを手に取り、それを振るう事を決意したのだ。
「……まぁ、かなり距離が離れてたらこんなので大丈夫なんだけどな……」
モーガンは溜め息を吐きながら右手を開いた。
「……『淀み』」
刹那、彼の右手が毒々しい紫色に発光し、その上に拳大くらいのドス黒い球形の物体が現れた。
それを見たエスパダは首を傾げる。
「何だそれ?」
「これは『淀み』っていう呪術で作ったヘドロの球だ。毒とか人糞も若干混ざっててもし傷口に触れたら破傷風とか確実に罹るだろうな」
「うわっ、えげつねぇ」
「少し傷付けた後にこれを投げつけながら全力で距離を取れば中型程度なら危なげ無く確実に殺せる」
モーガンがそのヘドロの球を痰壷へ投げ捨てたと同時に地鳴りの如き、それも微かな悲哀を込めた歓声が鳴り響いた。
そして剣闘士達が出入りするゲートの周囲が俄かに慌ただしくなった。
もしや。
彼等は身構える。
「うわぁ、テレスの野郎殺られちまった……」
「酷ぇ、頭がペシャンコになってやがる…」
他の剣闘士の話を聞く限り、どうやら新入りであるテレスが負けたようだ。
モーガンはそのテレスという者が正確にはどんな人物だったのかを探りながらその様子を眺めていた。
エスパダは鎧にこびり付いた毒蜘蛛の体液を拭い取りながら言った。
「テレス……あぁ、あの若い奴か。ハンドアックス使ってた」
テレスはチンピラ上がりの剣闘士でこの世界に入ってまだ一ヶ月だった。
見栄えが悪いからと兜を被らず、動きにくいからと装備は弱点を守るような最低限の物だったので「そんな装備で大丈夫か?」と尋ねた事をよく覚えている。
見るからに自信有り気で、裏路地の世界の実力が此処でも通用すると思い込んでいたらしい。
だがそれも無意味だったようだ。
「確か相手は陸竜だったか?まぁ、相手が悪かったな」
「陸竜!?新入りにそんなの当てるなよ……」
エスパダは思わず驚愕の声を上げた。
陸竜は通常の飛竜とは異なり、空を翔る翼は進化の過程で失っている。
だが、その代わりに強靭な脚力と無尽蔵のスタミナを手に入れたのだ。
あくまでも中型だが大型にも勝るとも劣らない能力を兼ね備えた竜の端くれ。慢心混じりで挑めばモーガンも無事では済まないかもしれない。
「この世界はハイリスク・ハイリターンだからな……仕方無ぇよ」
モーガンはメイスを腰の鞘に納めると、立ち上がった。
「んじゃあ、俺は帰るぞ。どうせ報酬は明日貰えるだろうし」
「お、珍しいなこんな早く帰るなんて。酒でも飲むのか?」
「違ぇよ。術の道具が無くなったから買い足すんだよ」
呪術を発動する際は魔法では杖、奇跡では聖錫といった風に必ず媒介が必要だ。
それが無ければ術は現実の物と化せず、人間が紡いだ只の夢物語でしかない。
ここで呪術と魔法や奇跡の異なる点一つ、呪術は媒体が消耗品なのだ。
壊れるという事ではなく、術一つを用いるのにとある物を一つずつ消費していくのだ。
その為戦闘が終わったならこうして買い足す必要がある。
「ふーん……何処で売ってるんだ?その術の道具って」
「東の方の地下街にある魔法薬屋だ。原料の毒虫やら毒草を安く譲ってくれる」
あの店は本当に便利だ。
一般的に流通する薬草や虫から滅多にお目に掛かれない虫や草など、何でも取り揃えられている。
普段唾棄されるような毒虫や毒草、あるいは呪いが罹った特殊な素材。其処にはモーガンの欲する全てが存在しているのだ。
「へぇ、また物騒な物を……って、毒草くらいなら普通の薬屋でも売ってあるんじゃないか?」
「とびっきりの呪術を使うのに必要な媒体の中には国が販売禁止令を出してる物があるからな。地下街にあるヤベー店でしか買えないんだよ」
「例えば?」
彼は顎に手を当てて、ここ最近で購入した取引禁止級の危険素材の名目を振り返った。
「大蠍の毒針とか沼大蛇の毒腺とか骸竜の涙とか……あ、この前なんか怨嗟の残滓なんて魔石買っちまったな。六万ダリアで」
「六万ダリア!?お前、三ヶ月分のバトルマネー使ったのか!?そんな金あったらメイスどころかグレートソード買えちまうぞ!?」
グレートソードとはただ単に直剣が巨大化し、より重量が増えた物を指す。
一般的なサイズの物でも刃渡りは成人男性の身長程はあり、その分重量は大きくなっている。
遠心力とそのトップクラスのリーチを活かして数多の敵を力強く掃討する事が出来るが、その重量故に扱いが非常に難しく、実戦で振るうには確かな技術と凄まじい筋力が必要だ。
だからこそ、持つ事は出来てもモーガンには振り回す事が出来ない。
「俺はグレートソード扱えるくらいの馬鹿力なんて持ってねぇよ」
どうせ買ったって無駄だ、と彼は付け足した。
「でもよぉ……もっと色々使い道があるだろ?家借りたり、装備新調したり、兜買ったり」
「俺は兜を被らねぇ主義だ。何より、俺が使う呪術の中には口から吐き出す物もあるからな。兜はそれの妨げになっちまう」
「うわっ、何だそれ。汚ねぇ」
「汚ねぇって何だよ……俺は至って真面目だ。何なら今からお見舞いしてやろうか?」
モーガンは口を開けて眉を吊り上げた。
「うげ、止めてくれよ…。お前のゲロなんか被りたくねぇよ俺」
「だからゲロじゃねぇよ…ったく……」
両手が塞がったままでも使用できる利便性の高い放出型の呪術。その発動方法はかなり危なっかしいが、一度なら使っても良いかもしれない。
だが、恐らく使う機会はそうそう無いだろう。これはある意味一種の切り札なのだ。
その後モーガンはエスパダに別れを告げると、転移魔法が付与された鉄製のドアを潜って地上へと出た。
街には既に夜の帳が下りていた。
このドアによる魔法の転移先はランダムで、数ヶ所ある場所の中から瞬時の内に抽選が行われ、転移が発動する。
どうやら今回は東区、王都を貫く剣の様に真っ直ぐ伸びた大通りの路地裏に到着したようだ。
今から東区の地下街に行こうとしていた為に好都合、些細な幸福であった。
モーガンは周囲に人が居ない事を確認すると大通りへ出て、その雑踏の中に紛れ込んだ。
往来は様々な人で賑わっていた。
酒でも呑んだのか、顔を赤らめて千鳥足で道を往く商人。
疲れた顔で、足を引き摺りながら歩く重厚な鎧を身に纏った戦士。
道行く男達を誘惑する、扇情的な衣装を身に纏った売春婦。
そんな人々を尻目に彼は地下街へと続く階段を見つけ出し、それを降りていく。
大通りのすぐ真下。往来の下には地層を魔法でくり貫いて作られた地下街が広がっていた。
十数年前、年々続く豊作と国間で大規模な戦争が起きなかった事から、増加の一途を辿る人口に併発した土地不足問題を解消する為に築かれたこの街。
数年前までは活気付いてたようだったが、王国の領地拡大に伴い人々は地上へと舞い戻っていった。
今やこの地下街は犯罪行為の温床となり、憲兵も迂闊に手を出す事が出来ない聖域と化していた。
俺達のような欲する者からすれば天国であり、国や一般人からすれば肥溜め同然の地獄であるのだ。
彼は年季の入った石レンガ造りの道を歩く。
「おいそこの兄ちゃん、奇跡付与の短剣は要らんかい?今なら安くするよ」
「炎属性の直剣!今なら5万ダリアで売るよ!」
あちこちから聞こえる、販売を催促する下卑た声。
それを振り払いながら進むと、モーガンは一軒の店に辿り着いた。
『魔法薬のゼルーニャ』。それがその店の、彼の目的地の名前であった。
彼はその商い中と書かれた札が掛けられたドアを開け、店内に足を踏み入れた。
客の来訪を告げるベルの音が鳴り響き、陳列棚を整理していた店主、ゼルーニャがこちらに目を向けた。
高い鷲鼻に彫りの深い顔、鋭く尖った眼はまるで翼人の様にも見え、一度見たら一ヶ月は忘れない程のインパクトを含んでいた。
「おっ、チェンバレンの旦那!」
「よう、ゼルーニャ」
彼はゼルーニャに右手を上げて挨拶を返した。彼は商品である大量の魔法薬を並べながら言った。
「今日はどんな用件で?」
「呪術の媒体が無くなったから買い足しに。白百足と月光蜘蛛はあるか?」
「勿論。ちょっとお時間を」
ゼルーニャは店の奥に姿を消し、再び現れた時、その胸には夥しい数の蟲がひしめき合う大瓶が二つ抱え込まれていた。
「ほい、これだ」
片方の瓶には深雪の様に白い甲殻と長く鋭利な爪を持った白百足が。
そしてもう片方には尻部を淡く光らせた小指程の月光蜘蛛が。
いずれの虫もその体液の中に猛毒を隠し持っており、月光蜘蛛の分泌する糸も脆い為に加工が出来ず、一般的な需要はほぼ無に等しい。
だが、その猛毒という観点で見れば、それを欲する者は一定数居るだろう。
例えば昆虫採集に命を賭ける貴族か、それともモーガンの様な酔狂な呪術師か。
彼は瓶の中で蠢く蟲達を眺めながら尋ねた。
「いつ仕入れた?」
「昨日の夜だ。数は恐らく二百だろうな。両方とも」
「そうか……値段は?」
「白百足は二千ダリア、月光蜘蛛は三千ダリア…だな」
「分かった。買おう」
やはり良心的な価格だ。
これと同じ物を他の業者で買えば値段はこの五割増しになるだろう。
モーガンは懐から出した銀貨と銅貨が詰まった小さな革袋をゼルーニャに渡す。
「あぁそうだ、旦那。アンタに話があったんだ」
「話?」
彼はカウンターに二つの瓶を置きながら言った。
「この街の奴等が噂してんだよ。アンタの闘技場が潰されるかもってな」
「……闘技場が?」
「あぁ。何しろ憲兵が動いてんだとよ。まぁ、彼処でやってんのは違法中の違法だからな……確か賭け事してんだろ?」
「まぁな。一対一のタイマンで戦って、どっちが勝つかに金を賭けるっていう風で」
「……そりゃ潰されるな。ガーランド王は賭け事が嫌いなお方だ、あの人にとって闘技場は障害物なんだよ」
ガーランド王国を統治するレイドール・ジェルドラ・ガーランド。
彼は民からは『白菊の親王』と呼ばれ慕われており、その性格は勤勉で誠実。また犯罪や不正行為を極端に忌避し、彼が王の座に就いたと同時に刑法が一段と強化された。
それ故に裏社会の住人からは忌み嫌われており、一時期革命を起こそうとする集団さえ出現したという話をも聞く。
モーガンはどちらかといえば王には良い感情を寄せている。
彼が居なければ地下街が形成される事は無く、それと同時にこの店が開かれる事は無かった。
彼が賭け事を嫌っているとはいえ、その実害は出ていない。そうであれば何処に憎む要素があるだろうか。
「……別に闘技場潰されても俺は何とも思わないだろうな」
「へぇ?」
実際、闘技場が潰されても彼は何のダメージも負わないだろう。
戦えればそれで充分。
この呪術を存分に振るう事が出来るなら、それだけで満足なのだ。
「まぁ、アンタみたいなお得意様が捕まっちまったらこっちも売り上げが落ちちまう。くれぐれも憲兵に捕まんなよ」
「あぁ、解ってるさ」
彼は二つの瓶を大きめの革袋に入れると、それを背負って店を出た。
そして、もし本当に憲兵が闘技場に乗り込んできたらどうやって逃げようかを思索しながらモーガンは地下街の薄暗い道を歩いた。