鋼に映る双眸
「はぁ……はぁ……!」
剣の柄を握り締め、アンナは型を整えた。
両手を眼前に掲げて胴や頭部への攻撃にも対応出来る様な、防御に特化した構え。
これはウィッテンの『来たる時まで命を落とすな』という心情を基に、同じ剣士のガンザとアスコウの助言を得て確立した型だ。
相手の攻撃を受け流しながら、突然生まれ出る一瞬の隙を虎視眈々と狙う。
「…………」
静かに息を殺し、螻蛄の一挙一動に注目する。
いつの間にか剣先の震えは収まり、恐怖に苛まれていた気持ちも落ち着いてきた。
アンナは細い息を吐き、呟く。
「さぁ……!」
彼女が柄を握り締めたその時、螻蛄は両前脚を大きく広げて飛び掛かってきた。
(来たッ!)
アンナは左足に力を込めて後ろに飛び退いた。
だが、着地の瞬間右足首が痛んで思わず体勢を崩す。
地面に背中が着いたが、何とかそこから後方へローリングして螻蛄の腕の軌跡から逃れた。
「うっ……!」
鎧が泥に塗れて汚れてしまったが、その事を気にする余裕も無い程にアンナは激痛に支配されていた。
そんな中でも、螻蛄は追撃の手を止めない。
アンナは横に転がっての回避、剣を振って襲い掛かる頑丈な前両脚を薙ぎ払うなど、様々な策を弄して、その魔の手から身を翻し続ける。
反撃が止まったのを見計らうと、その隙を縫って後転をし、何とか間合いを取る。
悔しそうに脚先を舐める螻蛄を睨みながら、アンナは必死に思考を巡らせる。
(やっぱり足が潰れてる分、此方が不利……! 剣じゃ到底太刀打ち出来ない……!)
彼女は下半身を引き摺って体勢を立て直すと、再び防御の構えを取った。
『…………』
螻蛄は相変わらず無機質な黒い目を不気味に輝かせながら、静かに様子を伺っている。
このまま防御に徹しているばかりでは体力を消費するだけ。
出来れば一撃、一瞬で終わらせたい。
ならば、と。
アンナは視線を螻蛄から逸らさぬまま、静かに左手をポーチの中に手を伸ばした。
そして、再び螻蛄が襲い掛かってきた瞬間、彼女は吼えた。
「喰らわせろッ、『毒霧』!」
彼女は咆哮と共に、ポーチから小さな試験管を取り出すとそれを地面に叩き付け、ガラス片と共に地面に撒き散らされた紫色の粉末を掬い上げた。
刹那、その粉末は霧と化し、アンナの周囲を、延いては螻蛄を包み込んだ。
「やった、成功した……!」
毒霧。
それは毒性を持つ霧を放つという効果を持つ、攻撃呪術の一種であり、汎用性の高さから呪術師であれば誰でも会得している。
白百足や陽光蛾などの数種類の毒蟲に乾燥させた紅蓮茸の粉末を混ぜた媒体を用いて発動する、比較的易しい呪術。
そんな物を、何故呪術師でもないアンナが使えるのか。
そう、彼女は呪術師モーガンから呪術の直接指導を受けているのだ。
正義を執行する為の強大な力を求めるアンナはモーガンの操る呪術の持つ圧倒的な可能性に魅了され、それを自らの物にしようと決意した。
結果、数ヶ月の訓練を得て簡単な下級呪術であれば扱える程の実力を身に付けたのだった。
毒霧に充てがわれた螻蛄は毒こそ効かないものの、視界を奪われ、思わず脚を止める。
それはアンナにとっては絶好の好機だった。
「ッ、今……!」
彼女は左足に力を込めると跳躍すると、決死の思いで螻蛄の背中に這い登る。
「たぁッ!」
そして、甲殻と甲殻の間、即ち首部分に狙いを定めると、其処に剣を突き刺した。
『……!?』
思わぬ衝撃に螻蛄は動揺し、背中に這い蹲る狼藉者を振り落とさんと遮二無二のたうち回る。
アンナも負けじと、深々と突き刺さった剣の柄を固く握り締めて、甲殻の間に足を掛ける。
そして、螻蛄の抵抗が止まった隙を見計らって彼女は全体重を掛けて剣を引き、傷口を広げていく。
「たあぁぁぁぁぁぁッ!」
肉が裂け、甲殻が砕ける嫌な感触が手から伝わり、アンナは思わず眉を顰めた。
だが、その嫌悪を振り払うかの様な勢いで剣を横へ横へと動かしていく。
そして遂に、鋼の刃は螻蛄の分厚い肉を斬り裂いた。
独特の臭気を放つ濃緑の血液が傷から、さながら噴水の様に湧き上がり、アンナの全身を汚した。
「うっ!」
アンナは大きく仰け反った螻蛄に振り落とされ、地面に投げ出される。
遠くまで飛ばされた彼女の身体は地面を転がり、道端に放置された木箱に当たって漸く止まった。
力無く地に伏した彼女の視界の端に映ったのは、地面に仰向けに倒れて脚をピクピクと痙攣させる螻蛄の姿だった。
「はぁ……はぁ……」
車輪の跡が深々と刻まれた土を眺めながら、アンナは静かに拳を握り締めた。
こんなにも、命を奪うという行為は容易い物だったのか。
アンナは一人驚いていた。
「……早く他の皆さん達と合流しなきゃ……」
濃緑の血液で濡れた剣を杖代わりに、彼女はゆっくりと立ち上がった。
その足はフラフラと覚束無く、右足首からは滝の様な血が流れている。
早く止血しなければ貧血状態に陥り、剣を振るう事はおろか立つ事さえ厳しくなってしまうだろう。
それだけは避けなければ。
ゆっくりと歩き出したその時、突然倒れていた筈の螻蛄の六本の脚が蠢き出した。
「え、う、嘘!?」
首が半分切断されているというのに、螻蛄はまだ生きていた。
執念と怨嗟、其れ等が混ざり合って作られた糸に操られているかの様に動くその姿と蟲の持つ底無しの生命力に、アンナは這い寄る様な恐怖を感じた。
螻蛄はまるで何度も何度も死の淵から立ち上がる屍人か何かだ。
そして奴は重心を上手く動かすと、何と身体を翻して立ち上がったのだ。
「そんな……!」
目の前の衝撃に一瞬狼狽えたが、直ぐに冷静さを取り戻して剣を構えた。
歯を食い縛り、右足に走る激痛を打ち消して螻蛄を睨む。
奴が強靭な両前脚を広げ、アンナの身体を挟み込もうと飛び掛かったその時、
その頭に突如、細い棒が生えてきた。
「…………え?」
いや、それは只の棒ではなかった。
矢だ。細長く、真っ直ぐな木材の先に鉄製の鏃が付いた、特製の矢。
通常の弓で使われる物よりも、圧倒的に長い。
生臭い緑色の血液がモロに顔に掛かった事も、今だけは気にならなかった。
思わず身体から力が抜けて、アンナは地面に座り込んだ。
「こ、これは…!?」
混乱しながら周囲を見渡していると、不意にその背中に声が浴びせられた。
「アンナちゃん、大丈夫!?」
それは大弓を携えた長身の麗女、アテンシア・クレイド副隊長だった。
彼女は硬い竹材が湾曲する程強く張り詰めた鋼鉄のワイヤーに矢を番え、いつでも発射出来る様な状態を保っている。
その鏃は溶けてしまいそうな程に赤熱していた。
『炎の矢』、特殊な魔法によって炎を纏った矢だ。
「クレイド副隊長、何故此処に……!?」
「最前線から応援を頼まれたから、第二陣から早馬を飛ばして来たの。アスコウちゃんと一緒にね。でも、まさかこんな大きい蟲が居るなんて……」
クレイドはアンナの足を指先で撫でると、険しい表情を浮かべた。
「……筋が切れてる。こんな状態で、よく立てたわね…」
「ははは……どうしてもその蟲だけは倒したかったので……死んでます、か? それ」
アンナは視線の先で痙攣する、巨大な螻蛄を指差した。
「多分死んでるわ。だって首を剣で、頭を矢で貫いたんだもの。…………動かない、わよね?」
不穏な気配を感じたクレイドは大弓を手に取るが、螻蛄が二度と立ち上がる様子は無かった。
「……よし、多分大丈夫よ。でも、一応ダメ押しにもう一本」
彼女は素早い動作で大弓を構えると、その鋭利な矢を螻蛄の頭部に向けて放った。
ヒュンっという風切り音と共に撃ち出されたそれは空を切り裂き、螻蛄の頑丈な甲殻を貫き、その肉体に風穴を開けた。
「これで安心ね……」
クレイドはその場に屈み込むと、腰に括り付けた小さなポーチから小さな瓶を取り出した。
その中では植物が圧縮したかの様に濃い緑色の液体が揺らめいている。
魔法薬、手先が器用なクレイドが材料を集めて作った特別品だ。
「この魔法薬を傷に注げば、痛みは和らぐ筈よ。治りはしないけど」
「治りは、しないんですか……」
「仮にも応急処置だから……でも、治癒魔法を受ければきっと筋も繋がるわよ、きっと」
アンナはクレイドから魔法薬の瓶を受け取ると、それをひっくり返して薬を右足首に浴びせた。
「冷たっ……」
皮膚を伝う冷たい感触と共に、少しずつ痛みが薄れていく様に思えた。
「ありがとうございます……」
「別に構わないわ。それより立って、早くこの場を離れるわよ」
「え……?」
クレイドは不意に、真剣な表情を浮かべた。
「貴女が倒したのと同じ蟲が、大量に出てる。既に砲撃隊は半壊状態よ。ほら聞いて、もう砲撃の音も無いでしょう?」
慌てて耳を澄ましたが、あの空気を揺るがす程の轟音は聞こえてこなかった。
どうやらクレイドの話は本当らしい。
「手の施し様が無いって隊長達が判断したの、残った兵には退却命令が出てるわ」
「そう、なんですか……」
ふとその時、彼女達の頭上を巨大な影が覆い尽くした。
反射的に目線を上げると、その先で翼をはためかせていたのは大鷹メッセンジャーだった。
そして、その屈強な足にしがみ付いている小さな人影が一つ。
それは彼女達も見知った魔法使いの少女、サヴィルア・バルディリスだ。
彼女はゆっくりと地面に降り立つと、ニヘラと薄い笑みを浮かべた。
「サヴィルアちゃん! 無事だったんだね!」
「うん……アンナもアテンシアも………無事で良かった………」
「トレイスちゃんは?」
「トレイスはね……」
すると、彼女達の元へ二人の女憲兵が駆け寄って来た。
トレイスとアスコウだ。
「副隊長! トレイスも連れて来たばい!」
「ありがとう、アスコウちゃん。これで第二部隊も揃ったわね。それなら急ぎましょう、脱出用の『帰還の日向石』を人数分貰って来たわ」
その言葉に、アンナは反論の言葉を上げた。
「ち、ちょっと待って下さい! まだモーガンさんとガンザさんが来てません! あの蟲に馬車に向かっていったばっかりで……」
「…………彼等は別行動よ」
「えっ、で、でも!私とモーガンさん達は同じ部隊に所属する仲間です、彼等が今何をしているかを知りたいんです!」
クレイドの顔は一瞬戸惑いの色を見せたが、瞼を静かに閉じて口を開いた。
「私も隊長から聞いただけなんだけど、モーガンくんとガンザくんは今……あの蟲の背中にある塔の中に居るわ」
刹那、それを聞いていた少女達の間に衝撃が走った。
彼女達は直ぐ側まで近付いている蟲の方を見て、その規格外の体躯と明かされた真実に顔を驚愕の色に染めた。
「嘘、あの中に!?」
「な、何でそんな事せんといかんとね?」
「馬鹿げてる……」
「二人とも……頑張れ………」
皆が驚きの言葉を口にする中、サヴィルアだけは塔を見上げて薄い笑みを浮かべていた。
何せ自分も彼等の塔内への侵入に加担していたのだ、驚く筈が無い。
ただただ彼女は静かに、二人の同胞の武運と無事を祈っていた。
「でも、何でそんな事が……」
「あの蟲は外殻が硬い分、塔で守られている背中部分が弱いみたいでね、それを内側から攻撃するのが彼等に与えられた任務なの」
クレイドは立ち上がり、大弓を背負った。
「それしか方法が無いみたい。無茶苦茶な事だとは思うけど……ね」
その話を聴きながら、アンナは改めて彼等と自分の間に聳え立つ実力の壁を感じた。
やはり彼等は途轍も無く危険で、自分には到底辿り着けない修羅場へと足を踏み入れている。
「援護などは、出来るんでしょうか?」
「無理よ。あの塔は元々監獄みたいで、凄く頑丈に作られてるの。それに入り口も簡単には入れない。転移魔法も場所を設定してなきゃ使い物にならないもの」
「じゃあ、私達には手を出せないという事ですか?」
「……そういう事よ」
「そう、なんですか……」
改めてアンナは蟲を、そしてその背中に聳え立つ石塔を見上げた。
石塔は太陽を背に受けており、まるで影がそのまま立ち上がっているかの様にも捉える事が出来る。
「私達に出来る事はただ、彼等の武運を祈るだけよ」
「……です、ね」
彼女は拳を固く握り締めると、その中で戦っているであろう仲間二人を想い、胸の中で彼等の無事と活躍を祈った。
「……マズイわね、蟲が湧いてきた」
「え?」
クレイドの言葉で周囲を見渡していると、遠くで先程倒した螻蛄と同じ蟲達が大量に地面から出て来ているのが見えた。
じきに此方にも近付いてくるだろう。
その前に、急いでこの場から離脱せねば。
「さぁ、行きましょう。後陣でウィッテン隊長が待ってるわ。周りへの警戒を忘れずにね」
「了解……!」
アンナが立ち上がろうとすると、彼女に手を差し伸べる人間が居た。
アスコウだ。
「手ぇ貸すばい、アンナ」
「あ、ありがとうございます……」
アンナはその白い手を取ると、彼女の肩に右腕を回した。
「にしても、頑張ったんやね。あの蟲、アンナが倒したんよね?」
「はい、そうですけど……」
「よくあんな大きい蟲の首斬れたね、凄いばい!」
彼女の浮かべる朗らかな笑みに釣られて微笑んだ。
やはりアスコウは温かい人だ、側に居るだけで無性に笑顔になる。
「でも、その足の怪我は大丈夫とね? 結構深そうやけど……」
「副隊長から貰った魔法薬で手当しましたけど、やっぱり痛いし、足に力が入りません……歩けそうにないですね……」
「そうね……帰還したら治癒魔法で本格的に治すばい」
「はい……」
彼女達の背中を、硝煙と鉄の混じった、所謂『戦場』の臭いを含んだ生温い風が撫でていた。




