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「お~う。俺は無事だけどぉ。みんな倒れちゃって酷いよぉ。」
情けない声を上げて、机の下で頭を抱える洋泉さん。まあ、これが普通の人間の正しい怖がり方だよね。黒服の男は五人、繭鋳さんの横に並んで、窓の外に手をかざす。この人たちも最華の卒業生か現役学生なんだね。
「生徒総代! 三樽別川先輩が限界だ! 俺に助力を回してくれっ!」
そう言えば、高等部の生徒総代はかなみさんだった。シイくんは中等部生徒総代ね。黒服の彼は良い防御結界の使い手だよ。少し体が楽になる。
「野郎共!! 染屋先輩に代わって俺たちが皆を守るんだ!!」
「おう! 刺青ベイベーの名を穢してたまるかっ!!」
圭介くんの後輩なんだ。じゃあ、最華生じゃない。暴走ダンス集団刺青ベイベーに最華学園の生徒は居ないと聞いているもん。じゃあ、なんでかなみさんを生徒総代と呼んだり、繭鋳さんを先輩と呼んだりするんだろう? それにしても、彼は強い能力者だ。名は売れていなくても、札幌にはまだまだ隠れた能力者が結構居るんだね。それに比べてあたしは、情けないな。これでは藤村に会わせる顔もないよ。
「!! くっ!! 痛いっ!! 痛いっ!!」
これはあたしの声だった。胸の痣の部分が焼けるように痛み出す。これは一体どういう事なの? 札幌上空に居る生物のエネルギー吸収による痛みじゃないよ。
「諒子ちゃん?」
刺青ベイベー隊に防御結界を代わってもらった繭鋳さんが、あたしに駆け寄る。あれ? あたし、どうしてあたしを見ているの? いつの間にか幽体離脱していたよ。
「うう…」
中途半端に幽体離脱したみたいで、今あたしの目の前に居るあたしにも意識がある。今霊体のあたしは、そう思って見れば下半身が無いよ。これは稀な経験になりそうね。
霊体が半分体から出ても、二日や三日なら生きていられる。まあ、戻れない時や、体が先に死んでしまった場合は、ちゃんと保存しないとゾンビーみたくなっちゃうんだけどね。
一人で考えるのは初めてかも知れないね。今までは宴脆様や藤村、お姉様やシイくんの案に助けられた。でも、半分霊体のあたしを視認出来る能力者は此処には居ないし、ここであたしが繭鋳さんに話し掛けても、多分聞こえない。つまり、一人で考えて、一人で解決しなきゃならないって事なんだよ。
同じ霊体なら、ミヤ様の所まで行ければ、喋る事くらいは可能かな。でも、ゆっくりだけど、札幌上空に居る未知の生物は、降下している。時間が無い。
(やってみるか。)
口に出したんだけど、誰にも聞こえていない。思った通りね。
霊体な揚句、体が半分だから、軽いのは良い事なんだけどね。シイくんの言っていたという、ロボットアニメの敵ロボって、こんな感じかな。まあ、格闘技の蹴り技はあたし得意じゃないから、両腕があれば充分だけどさ。
しかし、霊体になってもこの胸の痣はあるんだね。ちなみに霊体だから、今のあたしは裸だよ。そう思うと、下半身が無くて良かったかも。
必死にビストロ洋泉の事務所を守るのは、刺青ベイベー隊とかなみさん、繭鋳さんに任せる事にする。あたしの本体もここなら安全だと思う。シルヴィスさんも向かって来ているし、本体が死んだ時はその時だ。こうなると、藤村と肉体を使った愛情交換が出来ない事が残念だけど、あの生物が魔界に続くトンネルを通って藤村に危害を加えるような事になるなら、あたしは死んだ方がマシだよ。
それくらいの強さを感じる相手なの。
基本的な能力は体がある時と変わらないから、あたしは普通にドアノブを掴んで事務所のドアを開ける。かなみさんと繭鋳さんが訝しげにこっちを見たけど、やっぱり見えていない。この能力は便利ね。掴みたいと思えば掴めるし、通り抜けたいと念じれば、壁もすり抜けられる。あたしは下半身が無いので、歩くイメージで階段を下りてみる。階下出入り口の自動ドアは流石に反応してくれないので、通り抜けてみた。
通りに居た車はことごとくハザードランプを点けて停車している。中に居る運転手は全員苦しそう。普段霊的な能力を有しない人間にまで影響が出始めている。歩道に歩く人は居ないけど、倒れている人はかなりの数だ。助けようにも、全員具合が悪いのだから、助け起こす人も居ない。こんな奇妙な状況で動けるのは、最華生や刺青ベイベー、そして、その人たちを含んだ能力者のみ。しかも、かなり上級であるか、数十人で協力しなければ、この奇妙な感覚を防ぐのは無理ね。西区医院に居る素子は無事だろうか、シイくんは揚子江様が出撃しているので、病院に居る唯一の能力者になってしまう。強力な魔力を持っているけど、一人で素子と太郎さんを守りながら結界を張り続けるのは、限界がある。しかも、シイくんはどちらかと言うとシルヴィスさんに近い戦闘特化型の能力者だから、守りには向いていない。
ちなみに、この半分幽霊状態のあたしは、胸に少々痛みの感覚はあるけど、動きに支障はないみたい。
(見えていないんだから、能力を使っても問題ないか。)
口に出してみたんだけど、音として誰かに伝わる事はないんだね。あたしは少し上級で、危険があるかも知れないけど、瞬間移動を使って、昼前にミヤ様と一緒に出たトンネル出口に移動してみた。普段肉体がある時より簡単に術の行使が出来、あたしはトンネルの出入り口付近に出た。
「!?」
「!? 俺はもう独りではない。」
「? どうかされましたか? 八つ裂き丸様、ミヤ様。」
トンネルの前にある草むらに、二人と一匹は居た。あたしは真後ろに瞬間移動している。
「誰かが瞬間移動を使ったように感じたんだが……。」
真黒い堕天使の羽を広げ、両腕を天に突き出しながら、八つ裂き丸様があたしの方に顔だけ向けている。
「ウム。俺もそう思って振り返ってしまった。俺はもう独りではない。」
霊体であるミヤ様にも見えないんだ。そして、意外だけど、揚子江様には今の瞬間移動を感知されなかった。普段超能力者らしくないあたしが、今日は妙に超能力者っぽい。
「あの、八つ裂き丸様……。」
「何だとっ!?」
「!! 俺はもう独りではない。」
上空に向き直った八つ裂き丸様とミヤ様が同時に振り返る、やっぱり揚子江様はワンテンポ遅れた。八つ裂き丸様とミヤ様にはあたしの声が聞こえたけど、揚子江様には聞こえないんだ。
「諒子か? お前何時の間にそんな術を覚えた? まさか俺に見えんとは……。」
「八つ裂き丸様、ミヤ様、なにをそんなに騒いでいるんですか? 諒子ちゃんがどうかしたの?」
「揚子江には見えもせず、聞こえてもいないというのか? ミヤ殿には見えるのか?」
「否、俺にも見えん。俺はもう独りではない。」
「札幌の街中でも人が影響を受け始めています、時間が無いので、詳しい説明はあとで必ずしますから、あたしの質問に答えてください。」
「おう。俺に解る事なら答えるぞ。」
「まさか、敵が諒子様を騙っているのではあるまいな? ヌオっ!? 殴られたぞ? 今、俺は殴られたぞ? 俺はもう独りではない。」
「あたしの姿、本当に見えないんですね?」
「ああ、俺とミヤ殿には声が聞こえるが、姿は見えん。揚子江にしては珍しく、姿も声も聞こえていない。現状だな?」
「はい、それと、ミヤ様に訊きたいんだけど、あたしとの衝突をシッポ二本と名前の二文字だけで完全に回避したのよね?」
「ヌウ。俺はこれでも第二階層の中で唯一生き残れる能力を有する猫だぞ? 殆ど素人同然の諒子様に直撃などするものか……胸の痣がどうかしたか? 俺はもう独りではない。」
「察しが早くて助かるよ。あたしはミヤ様に言われた通り、ビストロ洋泉の事務所で結界を張る手伝いをしていたんだけど、あの上空に居る生物が近付くにつれ、胸がやけるように熱くなり、気付いたら幽体離脱していたのよ。多分肉体の直接の痛みを和らげる為に無意識にそうしたんだと思うよ。でも、どうして胸の痣が熱くなるのかがわかんないんだ。」
「まさかとは思うが、諒子様は白い猫を見た事があるのではないか? 俺はもう独りではない。」
「……うちの近所に昔居たけど、それが関係あるの?」
「ああ、それなら合点が行くのだ。そいつの尻尾が何本だったか覚えているか? 俺はもう独りではない。」
「え? だって、地球に居る猫は皆一本じゃないの? そう言われると思い出せない。」
ミヤ様が難しい顔をした。猫なのにどうしてこんなに表情が豊かなんだろう。
「ひょっとして、これは俺と同じかも知れんな。出会った時期にずれがあるだけか……幼少期の記憶は曖昧なので、記憶を抜かれた事に諒子様は気付いておらんのだろう。俺は第二階層では独りだが、元々は一族を構えていたのだよ。パートナーと共にな。俺はもう独りではない。」
「パートナー?」
「つまりは俺の女だ。遥か昔だが、俺にも妻が居たのだよ、諒子様。もしその女が生きていれば、地球に呼び寄せたのは俺かも知れん。先程地球全体を覆う程の結界を広げただろう? あれに気付いたのかも知れん。俺はもう独りではない。」
「しかし、なんで今更ミヤ殿の奥方が帰って来るんだ? こんな敵意剥き出しでよ?」
「俺は魔界の全てを知る為に地球を捨てた。未だに知る事は出来ておらんがね。一方の俺の妻だった女は、宇宙に興味を持っていてな。それが原因で別れたのだよ。俺はもう独りではない。」
「それなら、ミヤ様で止められないの?」
「ウム。まさか宇宙の知識を得る為に、此処まで色々喰らい尽くしているとはな。闇の世界である第二階層で長く留まっていた俺には無理だ。俺はもう独りではない。」
「そう。それで? あたしとミヤ様の奥さんが過去に出会っていた場合、何が起きたと考えられるの?」
「俺と同じ、接触だよ。あいつが今どう名乗っているかは知らないが、俺と同じように諒子様に二文字預けた可能性は否定出来ん。俺はもう独りではない。」
「待ってくれ、ミヤ殿。それじゃあ、諒子の魔力は更に上がるというのか? まだ子供である諒子にその魔力は危険だ。それこそ肉体に収まり切らんぞ?」
「そこはそれ、八つ裂き丸殿も気付いているだろうが、諒子様には究極魔帝の相がある。魔帝と言う割に魔力が低いと思ってはいなかったかな? 俺はもう独りではない。」
「つまり、あたしがミヤ様の奥さんから、名前の二文字と記憶を返して貰えば、この現象は収まるって事なの?」
「そうなるがな……。」
珍しくミヤ様が口籠った。八つ裂き丸様は今の会話が聞こえない揚子江様の為に、頭に手を乗せて自分の記憶を聞かせている。
「駄目よ。危険過ぎるわ。」
いつになく真剣な表情で、揚子江様はあたしの居る辺りに向かって言った。その間にあたしは、ミヤ様にだけ聞こえるような小声で、重要な事を訊いていた。
「ミヤ様の奥さんの名前を教えて……。」
「揚子江はああ言っておるが、本気で俺の妻と戦うのか? 俺はもう独りではない。」
「戦わないよ? 前にも言ったかも知れないけど、喧嘩は良いけど、戦争は駄目なの。」
「ヌウ。哲学的過ぎて猫の頭では理解出来ん。俺はもう独りではない。」
「八つ裂き丸様、仲介をお願い出来ますか? ミヤ様の別れた奥さんが相手ですから、ミヤ様は護衛としての任を果たせません。揚子江様は今のあたしが見えないみたいだし、時間も無いので、依頼出来るのは八つ裂き丸様だけです。」
八つ裂き丸様と同等の権限を持つ、藤村の婚約者であるあたしからのお願い事を、八つ裂き丸様は断れない。ちょっとずるっこかな。
「その内、魔界の王が九人になる予感がして来たよ。オヤジは纏めるのが面倒だろうがな。」
「あたしは藤村と別れる事はありませんから、そんな人事を宴脆様がするなら、魔界を出ます。勿論ミヤ様も連れて出ますから、九人の王体制は有り得ません。その時が来れば、八つ裂き丸様とは親戚でありながら敵になる可能性もありますが、少なくとも今は味方でしょ?」
「屁理屈だが、俺はお前のそんな所が好きなんだよな。良かろう。俺が付き合う。」
揚子江様が何か言いたそうだけど時間が無い。あたしは八つ裂き丸様と一緒に空に向かった。
「諒子、お前はこの一カ月で爆発的に強くなったな。」
「皆さんそう仰いますますけど、あたしの考え方はシンプルで、変わりませんよ? 藤村が危険であれば、体を張る。それだけです。魔界にも第二階層の犬たちが攻め込んでいるそうですけど、藤村が危険なら、地球とトンネルの危機を放棄してでも、魔界に戻り藤村の為に戦います。今は、このトンネルにミヤ様の奥さんを入れると、藤村が窮地に陥ると判断しています。藤村の隣で戦えないのは残念ですが、あたしが此処に居て、対応出来るのがあたしだけなら、全力を尽くすだけですよ。」
そうでも思わないと、感情的になって、地球もトンネルも放り出し、藤村の元に戻るよね。
「俺は嫁選びを間違えたんだろうか?」
「お姉様が聞いたら、怒られますよ。それに、あたしの魔力が上がっても、あたしの戦闘能力はさっぱりです。一対一でシルヴィスさんと殴り合えと言われれば、完敗ですね。それはお姉様でも、シイくんでも同じです。」
「通常は魔力が上がれば、その分戦闘能力も上がるんだがな。オヤジがお前を観察したい気持ちが少しだけ理解出来た気がするよ。」
あたしと八つ裂き丸様は、空高く舞い上がり、札幌上空に黒く厚く掛る雲の中に入った。乱気流と放電の嵐かと思ったけど、中は調子外れなくらい静か。ただ、この雲の成分に問題があるみたい。球状にした結界の中から一歩外に出れば、霊体のあたしでも跡形も無く溶けてしまいそうな程、濃密な消化液が主成分。ミヤ様が言ったように、宇宙を漂いながら、文化や科学のある惑星を食べて、その考え方を理解吸収しているなら、敵になった場合あたしたちに勝ち目なんてない。ミヤ様の奥さんで、話の通じる相手であれば、話し合いも可能だろうけど、すっかり色々吸収して、性格が破綻していた場合は、なんとか本体である奥さんの命を貰って、この場を収めるしかない。
出来れば戦闘は回避したいのが本音だけど、地球という人間を含めた種の存続が掛っていて、その後の狙いが魔界であるなら、此処で死んでも止めなくちゃならない。
「中心に何か居るな。まあ、話の流れ上、ミヤ殿の奥方なんだろうが、このヒステリーのババアみたいな、凶悪なのに大人しい雲をなんとかせにゃならんな。俺の最大防御結界でも、10分まで持たんぞ?」
その中心に向かう。向かえば向かう程、雲の密度が上がり、髪の毛がチリチリと痛むような、体全体を電撃で貫かれながらも、意識だけははっきりしているような、不思議な感覚。あたしが魔界に落ちた6歳半のあの日に、トンネル内で感じた無重力感と、魔界に着いてその空気に馴染めずに死にそうになった感覚を、足して倍にしたような不快感ね。
中心は光の球にしか見えない。それがミヤ様の奥さんの本体なのか、体の内部なのかは不明。
中心は、ちょっと広い野球場くらいの大きさ。こんな厚い雲の中に、これだけの光源を持つ空間が存在するのは、ちょっと考えられないけど、それが事実。
「消化液の中心が奥方の胃袋とか言わないよな?」
「可能性は否定出来ませんけどね。ブラフで無ければ、この中心に本体は居る筈です。」
「まあ、神系ではないんだから、卑怯な真似すんなとかは言わんが……。」
中心に何かがある。あたしたちはその何かに近付く。
「……ブラフか? 俺の知る物だが、あれは生物じゃねぇぞ?」
その光球の中心にあるのは、あたしでも知っている物だった。
「煉瓦?」
昔の塀とか倉庫とかに使われていた、あの煉瓦ね。その塊が中心に浮いているの。
「私は独りだが、そなたは独りではない。」
何かの呪文のように、そんな言葉があたしたちの頭に直接響く。煉瓦の塊の下側に、その猫は居た。重力とか上下とかは無視なのね。真っ白い猫。それがミヤ様の奥さん。
「あなたがミヤ様の奥さんの『ミリコナ』様?」
「私は独りだが、そなたは独りではない。いかにも我が名は『ミナ』である。ミヤは我が夫にして、異世界に興味を持つ探求者。其処の霊体の者は何者か? 名乗られよ。」
「あたしの名前は神埼諒子。魔界に落ちた娘。魔界の王の一人、藤村藤村の婚約者。」
そう名乗った途端に、雲がミナ様の体に集まって来た。それと同時にあたしの胸にある痣も光を放つ。
「諒子ちゃんっ!!」
あたしが一瞬瞑った目を開けると、目の前には繭鋳さんが居た。体から出た霊体が戻ったんだ。ビストロ洋泉の事務所内は、倒れた元最華生を刺青ベイベーの人たちがソファに寝かせたり、心臓マッサージしたり、人工呼吸している所だった。机の下で震え上がっていた筈の洋泉さんが指揮をしている。
「あれ?」
夢でも見ていたのかな。自分の体に異変が無いか、念を体の中に巡らせる。特に問題は無いみたい。起き上がると、かなみさんに抱きつかれた。
「ふう。ヒヤヒヤしたぜ。」
その声はシルヴィスさんだ。あたしは気を失って倒れただけだったの? 夢オチ?
「まったくだ。俺も藤村への面子が丸潰れになる所だったぜ。」
あたしの後ろに八つ裂き丸様が腕を組んで、羽をたたんで座っていた。その横にはミヤ様と揚子江様。往診道具を持った太郎さんと素子も居る。何? この全員集合は?
「あっ!?」
思い付いて、皆の居る前で服の前をはだけて見る。
「えっ? 何このでっかいの……」
あたしの胸だった。これはどう見ても貧乳で通って来たあたしの胸じゃないよ。左の上側にあった筈の痣が無くなっている。
「……シルヴィス。かなみに頼んで服を調達してもらってくれ、俺の嫁が調達した服ではもう合わないだろう。諒子、服の前を留めろ。襲いたくなる程育っているぞ?」
「一体どうなったんですか? ミヤ様に能力を返してもらった時と同じ現象って事? いえ、それよりあの生物、ミヤ様の奥さんは?」
「私は独りだが、そなたは独りではない。諒子様、お久し振りの対面があのような形だったので、私はショック死する所でしたよ?」
この場で意識のある者は全員がぎょっとしたね。ミヤ様はある程度の霊視能力が必要だけど、ミナ様は肉体を持っているから、どんなに鈍い人間でも、目さえ開けていれば見える。シッポ4本は許すにしても、日本語を喋る猫だからね。
「ごめんなさい。あたしはミナ様に会った事も忘れていたんだよ。第二階層でミヤ様に会った時もそうだった。大事な記憶なのに抜けているんだ。」
「私は独りだが、そなたは独りではない。その事ではなく、久し振りに会った諒子様が体半分の霊体になっていた事ですよ。私よりずっと若いのに、亡くなられているのか思いましたわ。まあ、肉体のままであの雲状の消化液に触れば、本当に跡形も無く溶けていたでしょうけど。」
「俺は一応無事なんだが……。」
「私は独りだが、そなたは独りではない。八つ裂き丸殿は元々天使系でありましょう? あの雲の中に私を閉じ込めたのは、神を名乗る者でしたから、八つ裂き丸殿で正解ですよ。折角宇宙の深淵を覗きに行く機会を得たというのに、神を名乗る者は知識の独占を謀り、私を肉体のままであの雲に閉じ込めたのですよ。諒子様が来て下さらねば、永遠にあの中の煉瓦の上で暮らす所でした。」
「じゃあ、札幌上空に居たあの雲は、神系の攻撃だったの?」
「私は独りだが、そなたは独りではない。ついこの間、その神を名乗る者の使徒たちが大量に送り込まれたそうで、殆ど地球にダメージも与えられずに撤退の憂き目を見た神を名乗る者は、私が入ったままの雲を地球に落としたのですよ。あれならば、地球の技術や魔界の技術でも止める事は不可能でしたのでね。あれを止められるのは、肉体を有している時の私の夫であるミヤと、諒子様に預けた能力を返して貰った私くらいでした。諒子様が生きている事を信じて、痣に呼び掛けた結果、霊体となった諒子様が私の目の前に現れ、愕然としたのです。流石の私も、死体や灰になった諒子様から、能力を返して貰う術を持っておりませんのでね。」
この前の堕天作戦を根に持った神が、本気で怒って地球に落としたのが、あの雲って訳ね。知らずに生身のまま空中浮遊して突っ込まなくて正解だったよ。その神の能力は驚嘆だけど、やっぱり何か抜けているとしか言えない。皆が『名乗る者』と表現するのは、そいつが偽物なんだろうって意味なんだね。人間の頭で考えられるような完璧な神の攻撃であれば、こんなに防げる訳ないもん。
「私は独りだが、そなたは独りではない。それにしても、あなた! こんなに諒子様に苦労をさせるとは、一体どういう事ですか? それでもあなたは私の愛した闇の王ですか?」
これはミヤ様に向けられた言葉だ。この中ではミヤ様が見えない人も居るから、数名が更に驚いた。
「お前だって大海の王ではないか。俺はもう独りではない。」
ミヤ様とミナ様、逆さに読むとヤミ様とナミ様、闇と波なのね。どういう冗談で二人の名は付いたんだろう。それにしても、ミヤ様は少し劣勢に見えるよ。
「私は独りだが、そなたは独りではない。私は宇宙の波に乗って旅をしている所を、神と名乗る者に捕まり、あの消化液の雲の中に閉じ込められました。あなたは魔界の第二階層の闇の中で怯えていただけではないの?」
ミナ様は手厳しい。
「犬の成れの果ては、神を名乗る者より凶暴で、雌猫はその者たちより怖い。それなのに何故捕まった? 探究心ではあるまいな? 俺はもう独りではない。」
ミヤ様反撃に転じるも、ミナ様肩すかし。二匹の化け猫は、口では言い合いながら、お尻の辺りをコツンコツンとぶつけ合っている。4本のシッポがお互いの方向に曲がり、正面に居るあたしにはハート型を形作っているように見える。正反対の性格で、色も陰と陽。片方は魔界探検、片方は宇宙探検を選び、袂を分かつも、その愛情は深い。そして二匹は今も惹かれ合っている。これはあたしの理想の夫婦像でもあるよ。
「あっ。そう言えば、魔界に出て来た第二階層の魔物はどうなったの? 普段は宴脆様の言う事を聞かない三人まで戦っているって聞いた覚えがあるよ?」
「それは殆どオヤジと藤村と鉄朗で片付けた。というか、押し返したが正解か。犬の成れの果てってのは、真黒な球体の毛皮みたいな玉でよ、でっかい口を開けて第二階層に落ちた魔物を襲って食うんだが、それは闇の世界である第二階層用の進化なんだよな。あんなでっかい黒い玉なら、テキトーに腕をぶん回しても、当たるぜ?」
確かに、闇の世界である第二階層に初めて入ったあたしは、見えない恐怖に怯えた。でも、太陽の光も月の光も存在する、魔界第一階層に出て来た犬の成れの果ては、簡単に視認できたんだ。それなら怖くはないよ。闇が突然口を開けるに等しい第二階層での攻撃とは、意味合いが違うもん。
「鉄明様が負傷したと聞きましたけど?」
「ああ、鉄朗の親父殿は、服に五月蠅くてな。結界を破って出て来た最初の犬の牙に、お気に入りの革ジャンの袖を破られてよ。心に深い傷を負ったとか言って引き篭もっているだけだ。鉄朗が結構真面目な奴なんで、そうは見えんかも知れんが、結構ふざけたオッサンなんだぜ?」
「染屋先輩の主様、俺はその気持ちが手に取るように判るぜ。革ジャンは男の命だもんな。」
凄い、この刺青ベイベーの今のリーダー、八つ裂き丸様に敬語も使わずに意見したよ。あたしには革ジャンの意味は判んないけど、なんか命懸けな感じなの。八つ裂き丸様は苦笑いしている。
「お前は圭介の部下だな? 良い感覚しているぜ。やっぱりチームごと魔界に来てもらうべきだったか……。」
「八つ裂き丸様、そんなに兵士や副官を増やして、どうするおつもりです? 魔界の王の戦力差が大きくなってしまいますよ。それに地球にも能力者は残していただきませんと、今回のような場合に対処出来なくなります。諒子ちゃんがいつも地球に居るならば、話は別ですけどね。」
「まあ、そう言うなよ。最近の出来事から考えて、俺ももっと修行に身を入れねぇと駄目なのは痛感しているんだよな。シルヴィス、此処が落ち着いて、魔界に来訪する時は、俺の所に寄ってくれ。格闘だけでも諒子を凌駕しないと、俺の地位も危ねぇからな。諒子。」
「はい?」
「俺は先に魔界に戻るぜ。ミヤ殿はまだしも、ミナ殿を連れて帰る場合は、オヤジに一言断れよ。藤村の所に戻るとなると、副官の数も合わんし、戦力差も大きくなっちまう。バランスが悪くなれば、オヤジを除く6王で喧嘩にも成り兼ねん。お前がオヤジを抜く日も近いのかも知れんなぁ。それから、一応その姿を俺の目に焼き付けて、藤村に記憶として見せておかなけりゃならんな。お前、育ち過ぎだぜ?」
確かに、恥ずかしいくらいあたしは成長してしまった。特に胸が。立ち上がってみると、揚子江様と身長が並んでしまっているし、この中では繭鋳さんが最も胸が大きかった筈なのに、今はあたしが一番デカイよ。
「ええ、少し体に慣れないと、なんか重くて歩けない気がします。」
「お姉ちゃん、一気に育ち過ぎだよ? 13歳の体じゃないよ。」
「ミナ様、揚子江様、この胸なんとかなりませんか?」
「私は独りだが、そなたは独りではない。私が能力を返してしまったから、育ってしまったのですね。もう一度、私の名を預ければ、先程までの姿には戻れますが、折角私も元の能力を取り戻し、神を名乗る者に復讐出来る力を手に入れましたので、ご容赦ください。それに、一度契約が解除されると、10年は再契約出来ません。」
「まあ、今の諒子ちゃんならすぐに慣れるでしょ?」
「そ、そんな殺生な。こんなバレーボールみたいなの付けて歩けませんよ。皆さんよくこんな重い物くっつけて歩けますね。あたし、猫背になるか、肩コリが酷くなるか、なんなら重さで背骨が変形しそうです。」
「この中で名前を預けられる人間は居ないのか? ミヤ殿、その術は簡単にマスター出来る物なのか?」
「ああ、教えれば。能力者であればすぐに覚えられるぞ? 俺はもう独りではない。」
「苗字は駄目なのか?」
「私は独りだが、そなたは独りではない。ええ、名前でお願いいたします。それと、人間同士の場合は同性が望ましいわ。」
この中で女の人は、揚子江様、かなみさん、花梨さん、繭鋳さん、リンさん……。
「花梨ちゃんの『り』と、リンちゃんの『り』くらいかしら?」
「素子の『こ』はどうですか?」
その素子の提案に、全員の視線が素子に集まる。
「成程、姉妹の方がより強固に契約が結べるんじゃねぇか?」
「そうだな。一文字での契約は弱いからな、少しでも血縁が近い方が良いかも知れん。俺はもう独りではない。」
「あの……素子の名前を使うのは構わないんですけど、そうすると素子は素子じゃなくて、素になっちゃうんでしょうか?」
「私は独りだが、そなたは独りではない。それは問題ないわ。あなたが地球に居る限りは、フルネームで名乗って大丈夫。魔界に用があって行く場合は、素と名乗る事になるけどね。あなたの夢が宇宙飛行士の場合でも、宇宙に出る時は、素と名乗る事になるわね。」
「……それなら問題ないかな……。」
「私は独りだが、そなたは独りではない。では、諒子様が胸の重さで骨折しないうちに、済ませましょう。あなた、暗黒結界を張りなさい。」
「ヌウ……相変わらず猫使いが荒いな、お前は。諒子様、素子殿、俺を間にして、向かい合わせで立ってくれ。俺はもう独りではない。」
言われた通りにすると、いきなり視界が暗黒に支配され、目の前の素子以外見えなくなった。ミヤ様の暗黒結界は、外に探査結界を飛ばす事も出来ないくらい強力。
「諒子様、済まないが、上着を脱いで素子殿に背を向けてくれぬか? 俺の暗黒結界内であれば、誰も覗けぬから安心してくれ。まあ、俺は見えているんだが、猫に見せて恥ずかしいなどというトンチキな事は言わんでくれよ。俺はもう独りではない。」
苦笑しながら、上半身裸になり、素子に背を向けた。一応胸は両腕で隠す。
「ウム。それで良い。素子殿は、頭に『もみじ』の葉をイメージしてくれるかな? 俺はもう独りではない。」
「もみじ?」
少し嫌な予感。
「ウム。そうして、手を振り上げてくれ……。」
まさか背中を叩いて、跡を付けて『もみじ』とか言わないわよね?
ばちーーんっ!!
「アウっ!!」
右肩の下辺りに素子の掌大の痛みを感じる。
「お姉ちゃん! ごめんなさい。だってミヤ様がシッポで押すんだもん!!」
成程、普通に叩かれた痛みじゃない訳だ。そして、後ろを向かせたのは、あたしが結界を張るのを防ぐ為だね。妹に一日二回本気で叩かれるとは思わなかったよ。まあ、ビンタよりはマシかな。その痛みの間に、あたしの体が少し縮む。ああ、身長はそのまんまでも良かったのに。
「うわわわわ!?」
「?」
振り返ると、素子が慌てていた。あたしに名前の一文字預けた分だけ、胸が大きくなり、身長も伸びている。成程、ミナ様の注意はこの事だったんだね。きっと、同性同士じゃない場合、男の人でも胸が出ちゃったりするんだろう。
「元の器の大きさが双子なので似ているのだ、まあ、一文字分なので、諒子様の方が弱冠大人に近い姿かな。俺はもう独りではない。」
ミヤ様が、あたしと素子の胸の大きさを見比べていたので、頭を小突く。
「このエロ猫。奥さんが帰って来たんだから、そっちに集中しなさいよ。」
「まあ、俺も一般の猫と大して変わらんから、妻を見て欲情しているのは確かだが、いかんせん、俺は現在霊体だし、久し振りに会ったので、照れているのだよ。俺はもう独りではない。」
「私は独りだが、そなたは独りではない。それに、再会を喜んでいる場合でもないですからね。私は今すぐにでも、取り戻した力を使って、神を名乗る者に一撃喰らわせに行きたいのですよ。私を閉じ込めた事を後悔させてやらねば、気が済みません。」
こういうのはどうかと思うけど、魔界と地球にまた一人、戦闘バカが増えちゃった。ミナ様はミヤ様や揚子江さんより好戦的で、八つ裂き丸様や藤村と同レベルに戦闘が好きそうなのよね。神を名乗る者って人が、地球侵略と魔界侵略を諦めてくれれば良いんだけど、地球はまだしも、魔界は宇宙並みに広いから、領土欲があるなら欲しいよね。本当の神なら、領土欲なんて無いんだろうけど、どうやらこの神を名乗る者は、そっちに興味のある生物らしいもん。
「ミナ様は魔界に来てくれないの?」
「私は独りだが、そなたは独りではない。私は幼少時の諒子様に名を二文字預けましたが、ミヤと違って主従の関係は結んでおりません。女同士の主従関係は、男を巡ってこじれる場合もございます。それに、魔界の均衡を崩す事になりかねない私の存在は、魔界には不要でしょう。そして、私は魔界に興味がございません。私の目指すのは宇宙です。更に、あの忌々しい神を名乗る者によって、私は滅びずとも良い惑星をいくつか滅ぼしております。私は煉瓦色の結界の上で見ている事しか出来ず、歯痒い思いをいたしました。結果的に魔界に協力する事になりますが、神を名乗る者を倒せば、ミヤも魔界の探索に精が出せる事でしょう。故に、私は諒子様とここでお別れしなくてはなりません。」
「そっか、あたしの魔力も上がっているし、魔界王達の戦力バランスも悪くなるから、此処で別れた方が無難なのね?」
「ムウ……お前が俺と来てくれれば、魔界深部の探索も容易になるのだが、お前の決意が固い事は俺も知っているからな。それに、その神とやらをぶっ飛ばすのには、流石の平和主義者である俺にも賛同出来る意見だ。俺はもう独りではない。」
ツッコミたいけど、あたしは堪えた。脱いだ服を着る方が先だからね。折角お姉様が買って来てくれた服がもう小さくなってしまったのは残念。そして、あたしの初めてのブラがもう合わないのは、かなり残念だよ。上着だけ羽織って、あたしはポケットに小さくなってしまったブラを押し込んだ。ミヤ様はそれを見計らって、闇の結界を解除する。結界の中での時間は殆ど止まっていたみたいで、外に居た人たちに驚かれる。
「お? 少し小さくなったな。」
「代わりに素子の胸が大きくなりました。」
視線が素子の胸に集まり、素子は胸を腕で隠した。やっぱり好きな人以外の男の人に、胸を凝視されるのは恥ずかしいよね。
シイくんが顔を赤くしていた。初めて見る表情だよ。いつもは何でも余裕で流すくせに、流石に素子の前に立って皆の視線から隠す。
「……僕のです。」
その言葉を聞いて、周囲の人々も赤面した。勿論シイくんの背中に隠れた素子が一番赤いね。刺青ベイベー隊の人たちは見なかったフリをして、視線を逸らせる。花梨さんと繭鋳さん、洋泉さんも逸らせる。かなみさんだけは普段と変わらないハイテンションで、二人の周囲をグルグル回って見物中。八つ裂き丸様と揚子江様は既に興味を失ったのか、今後の魔界についての会談を立ち話でしている。シルヴィスさんは太郎さんと話し込んでいた。リンさんは、机の上に出したままになっていた拳銃をもう一度分解清掃してから、引き出しにしまっている所だ。
「とりあえず、地球の平和は守られた……と、言っておこうかな。」
こうして、いきなりの問題も解決し、あたしは10日間の休暇兼里帰りの続きに戻った。その間、釧路に居る4家神社野家の当主と会談し、帰りに旭川の刑務所で同じく4家鷹刃氏家の跡取り六郎さんとも面会した。勿論休暇中だから、釧路では繭鋳さんが美味しいお寿司を御馳走してくれたし、旭川では全国的に有名な動物園にも寄らせてもらったよ。札幌に戻って、最華学園の理事長と懇談し、北海道知事とも極秘会談の場を設けてもらった。その間、早く神を倒しに行きたいミナ様を引き留めたのは、エロいけどよく働いてくれているミヤ様へのご褒美だよ。車の後部座席でかなりイチャイチャされて、繭鋳さんは迷惑そうだったけどね。
「なんか……探索とか探求とかじゃなく、こうして旅みたいな事をするのもいいですね。」
「そうね、これがお互いの彼氏や夫だったら、もっと最高の旅かもね。」
「そう言えば、新婚旅行ってした事ないです。帰ったら藤村に頼んでみようっと。繭鋳さんは彼氏さんと結婚したら、旅行はどうするんですか?」
「揚子江が休暇をくれればね。ちょっと行ってみたい国はあるんだけど……あたしの彼は出不精だからね。家でゆっくりイチャつくわ。」
あたしは車中泊というのをしてみたかったんだけど、繭鋳さんは絶対にダメだと言って、その願いだけは叶わなかった。9月の北海道だからね。結構夜は寒いらしいよ。
その一週間の旅行後、ミナ様とお別れした。ミナ様自身に宇宙に飛ぶ能力はなく、種子島から打ち上げられるロケットに掴まって、宇宙に出るという方法を聞いたよ。基本的に能力者は隠れるのが得意だから、そういう方法を使うんだって。時折テレビニュースで流れる機材トラブルによる発射延期は、隠れるのが下手な能力者が、機材に触れて壊してしまうのが主な原因なんだってさ。勿論地球に住む科学者にその原因を見破れる人は居ないんだけどね。繭鋳さんと一緒に人工衛星の打ち上げ中継を見ていたあたしには、ロケットの先っぽに掴まっているミナ様がはっきり見えた。
「ところで繭鋳さん。」
「なに?」
あたしは休暇最後の一日を、繭鋳さんの実家に寄らせて貰っていた。繭鋳さんの実家は父子家庭で、お父さんという人はかなり普通の会社員。寄らせて貰った時間帯は会社に出勤していて、不在だったけど、茶の間に繭鋳さんと一緒に撮った写真が飾られているので、印象は残った。有り勝ちだけど、優しそうなお父さんだ。
「お父様に、ご結婚の報告はされたのですか?」
「……諒子ちゃんに、そんな事言われるとは思わなかったよ。」
まあ、あたしは藤村と婚約したのを、お父様にもお母様にも事後報告だったからね。
「ちゃんと報告したよ。あいつとは長い付き合いだから、父も意外には思わなかったみたいね。喜んでもくれたけど、その晩は珍しく一人でお酒を飲んで、泣いていたわ。」
茶の間には、二人の写真の他に、繭鋳さんが学生時代に活躍した剣道の大会の賞状も飾られている。さぞ自慢の娘なんだろうね。しかも一人娘。その娘が20歳で結婚する。自棄酒という奴ね。あたしと藤村の間に子供が出来たら、4家に養子に出す約束を割と簡単にしちゃったけど、その時はあたしも泣くんだろうか?
繭鋳さんが淹れてくれた珈琲を、ほっこりした気分で飲む。ミヤ様は一人になりたいと言い残し、外を散歩中。ミナ様がまた宇宙に行ってしまったから、結構ショックだったみたいよ。
「普通の家庭って、どんなものなんでしょうね? あたしは、生まれた時から4家という変な家柄で、小学校入学時には修行が始まっていたし、その直後に魔界に落ちたので、普通という言葉に妙な憧れがあるんです。」
「あたしの家も普通とは言えないかな? お父さんは普通の人だけど、あたしは全然普通じゃないもんね。それでも、15歳の時までは割と普通だったのかな。」
繭鋳さんは15歳の時に、異世界に召喚されて、その世界で奇妙な体験をした後、能力者の道に入った。確かにそれまでの繭鋳さんは、普通の中学生だったんだよね。
「繭鋳さんは、退魔士になる事に抵抗は無かったんですか?」
「そうねぇ……無かったと言えばウソになるかな。彼はあたしの考えを理解してくれているけど、一般的な会社員と比べての話、退魔士の死ぬ確率は格段に高いもんね。でも、何かの遣り甲斐みたいな物は感じたよ。短い人生なら、気高く生きたいってのが、あたしの信条だからさ。」
「長い人生を持つ魔王も、よくそんな事を言います。あたしが普通に憧れるのは、おかしな事でしょうか?」
「……どうだろうね? あたしから見ると、諒子ちゃんはなんでも出来て羨ましいくらいよ? それに、まだ諒子ちゃんは13歳じゃない? そんなに未来の事ばかり考えていると、老けこむわよ?」
「……このひと月で、色んな考えを持つ人々に出会いました。今までは感覚で、こいつ嫌いとか思っていたんですけど、それぞれの陣営に、違う正義が存在して、話し合いもなく喧嘩して、戦争して、多くの犠牲を出しているのに、まだ、止めない。そんな考えに中てられちゃって、ちょっと疲れちゃったみたいです。」
「完全に魔物になりきれない、魔王の婚約者の悩みだね。あたしも15歳まで、悪魔っていうのは、文字通り悪い奴なんだと思っていたよ。諒子ちゃんの旦那さんになる藤村や、揚子江に助けられ、聖戦士を殺すという行為をした後でも、暫くその考えは変わらなかったのを覚えてる。でもさ、人間って凄く自分勝手な生き物だから、自分を助けてくれる側にしか居られないんだよ。あたしは聖戦士の魂を半分持っているけど、だからと言ってそれを寄越せと強引に襲われたら戦っちゃう。聖職者向きじゃないのは自覚しているよ。だから、少なくとも、この世界であたしに味方してくれる人間や魔物だけは裏切らない人生を送りたいと思っている。」
「繭鋳さんはまだ若いのに、大人ですね。」
「諒子ちゃんも、13歳にしては大人だよ。」
そう言って頭を撫でられる。あたしはまだまだ不安定な人間だなぁ。
「経験の差ですかね? エロいのはミヤ様だけじゃないから言いますけど、繭鋳さんはもう、しているんですよね?」
「女同士での会話なんてそんな物よ。ミヤ様はエロ過ぎの雄猫だけどさ。男も女も、色んな意味でエロ話が好きなのよ。興味を持つ事が悪い事だとも思わない。でも、あたしと彼の関係を深く突っ込まないでくれる? そりゃあ、あたしは健康的な女の子だもん。近日結婚する予定の男の子と何もしていない訳がないじゃない? それでも敢えて言えば、あたしは処女だよ?」
それは意外だった。驚くあたしの表情を見て、繭鋳さんは苦笑い。
「なんでもかんでも、エッチで解決なんて有り得ないでしょ? これでもあたしは、150年近くも愛した男の魂の転生を待ち続けた、揚子江の弟子だよ? 愛情表現が体の交わりだけだなんて考えは、あたしには元々無いんだから。」
「そっか、そうだよね。どうにも最近のあたしは、焦っているみたいなんですよ。この前も藤村を思わず押し倒しちゃったし、素子ともそんな話で盛り上がるし、皆さん人生短く考え過ぎ、なんて思っていたのに、経験の浅いあたしが実は最も焦っているんだと思っちゃって、失礼な事を訊きました。ごめんなさい。」
「皆が諒子ちゃんを、可愛いって言う理由が判る気がするよ。なににでも一生懸命になっている女の子は可愛いよ。究極魔王の難題である聖戦士の襲撃に気丈に指揮を採り、魔界に開いた穴の調査に出向き、魔界内の争いを必死に止め、札幌の危機に立ち向かう。そんな女の子が居たら、あたしが男だったら確実に惚れるね。」
はぁ。繭鋳さんって良い人だなぁ。逆にあたしが男だったら、こんな女の子に惚れるけどね。まあ、先ずは自分を鍛えなきゃ。
繭鋳さんとあたしを一緒に行動させているのは、揚子江様なのね。揚子江様はあたしが藤村と大げんかした原因を知っている数少ない人間なのよ。そして、あたしが子供っぽく、繭鋳さんに密かな恨みを抱いている事も知っている。今のあたしは、一週間繭鋳さんと行動して、すっかり仲良くなってしまっているの。流石はシイくんの母親だね、こういう簡単な計略で、あたしの中の繭鋳さんの悪女イメージを払拭してくれたよ。
「とにかく、あたしも諒子ちゃんもまだまだこれからだよ。沢山の悩みとか抱える羽目にはなるんだろうけど、お互いの居場所で、全力を尽くすって事で、良いんじゃない?」
繭鋳さんの車に乗り、魔界に続くトンネルに向かう。次に繭鋳さんに会うのが明日なのか10年後なのかは判らないけど、とりあえず、あたしの誤解と気持ちの整理だけは出来たみたい。繭鋳さんはあたしの友達になってくれた。多分あたしと違って、繭鋳さんは年齢を重ねるだろうけど、あたしたちは生涯の友になった。
「明日、神が地球に攻め込んで来た時とか、魔界の王が反乱して地球に出て来た時は、すぐに会うでしょうけど、その時まではお別れね。まあ、何も無くても、あたしに子供が出来たら、魔界に自慢しに行くわ。」
「ええ、その時はあたしも、魂も体も本当の意味で藤村と結ばれていますから、負けませんよ。子供を神埼に養子に出す事になった時は、よろしくご指導ください。」
「任せて、魔界に居なかった事を後悔するくらい、しごくから。地球は魔界に比べて狭い場所だけど、能力者では負けていない所を見せてあげるわ。」
トンネルの前には、見送りに揚子江様が来てくれていた。素子はシイくんとべったりだから、今日は来られないって。代わりというのはおかしいけど、刺青ベイベーの隊長さんが居る。八つ裂き丸様が彼の事を気に入ったみたいで、トンネルの前まで呼んだとの事。そして、あたしの迎えに圭介くんを寄越していた。
「染屋先輩っ!!」