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「繭鋳さんは、シルヴィスさんの彼女さんをご存知ですか?」
「え? リンちゃんの事?」
「はい、ちょっと会ってみたいんですが、よろしいですか?」
繭鋳さんはあたしの顔を見た。脇見運転ですよ。
「どうしちゃったの?」
あたしの顔が真剣だった為に出た言葉ね。
「妹に聞いたら、凄い美少女だと言いました。シルヴィスさんの奥さんになるなら、いずれは魔界に来るって事ですから、藤村はまだしも、好色で知られる八つ裂き丸様辺りが手を出して、シルヴィスさんと喧嘩なんて事になると面倒です。」
「魔界でも、そんな事ってあるの?」
繭鋳さんは、あたしが繭鋳さんに焼きもち妬いて、藤村と喧嘩した事を知らない。魔界では力が全てだから、側室とかって制度を作っても構わないんだけど、それが火種で喧嘩になる事は充分に有り得る事なの。魔王と副官ではレベルが違うけど、シルヴィスさんの場合、そのレベルが殆ど変わらないから、魔王の領土内で喧嘩になった時、領民を多数巻き込む可能性も否定できないんだ。あたしは、喧嘩くらいなら許すけど、戦争は駄目だといつも言っている。
一見、権力争いとは無縁に見える魔界だけど、実力者である八つ裂き丸様に野心が無いとは言い切れない。そう考えると、八つ裂き丸様があたしを側室にしたい理由もなんとなく解る。あれは冗談ではなかったんだろうね。
「魔界は広いですけど、地球に比べると権力者の数は少ないですから、ちょっとした諍いが全土を巻き込む戦禍に成りかねないんです。それを防ぐのはあたしやお姉様のような地球出身能力者の務めだと、勝手に思っています。その為には、リンさんという人物を知っておかなくてはなりません。」
「俺は喧嘩上等だが、諒子様がそう言うなら、防御専門に回ろう。俺はもう独りではない。」
後部座席で聞き耳を立てていたミヤ様が、あくびをしながらそう言う。ミヤ様ならあくびをしながらでも回避出来る事なんだろうけど、あたしは生憎それ程強くはないの。
繭鋳さんが車を停めたのは、あたしにはちょっと刺激の強い場所だった。ネオンって言うんだっけ、このキラキラした看板。繭鋳さんが案内してくれた場所は、札幌最大の歓楽街、ススキノの一角にあるビルだった。まだ時間が早いから、そんなに怪しい人や酔っぱらいも居ないけど、開店準備に忙しい人々が、荷物を運び込んだり、出勤して来た女の人が、化粧を直したりしている。なんて場違いな所にあたしは立っているんだろう。
「こう言うのはどうかと思うけど、シルヴィスさんが札幌に戻って居る時は、この店か太郎先生の病院にしか居ないからね。まあ、揚子江の依頼の時は別だけど。」
階段を登って、店の看板を読んで見る。
「びすとろよーぜん?」
「ええ、ビストロ洋泉。能力者ではないけど、シルヴィスさんの後輩の経営するお店。事務所は上だから、いつもならリンちゃんは其処に居るよ。」
もう一階分階段を登る。一つ下の階の賑やかさとはかけ離れた、味も素っ気もない事務所のドアが見える。繭鋳さんは慣れているらしく、ノックもせずにドアを開けた。
「こんにちは。リンちゃん居ますか?」
「あ、三樽別川先輩。それに、諒子さん。先程はどうも。」
事務所の中にあるソファから立ち上がったのは、花梨さんだった。先程の看護士手伝いの格好からは想像も出来なかったけど、胸の大きく開いたパーティドレスに着替えている。凄く格好良い。隣には最華学園の制服姿のかなみさんも居る。あたしの勘違いでなければ、此処は大人の人がお酒とか飲みに来る店だよね?
「諒子ちゃ~~んっ!! 本当に大きくなってるぅ~~っ!!」
花梨さんを飛び越して、かなみさんに抱きつかれた。この人のテンションが妙に高いのはいつもの事だけど、まさか、此処で働いているのかな。
「どうも……。」
「洋泉くん! この子が魔界の王様、藤村王の奥さんの諒子ちゃんだよぉっ!!」
事務所の奥でお菓子の袋から飴玉を出して、籠に振り分けていた洋泉さんが、少し呆れた顔であたしを見た。そりゃそうよね。13歳で婚約している人間は、少なくとも此処にはいないんだから。
「あ~、うん。どうもこんにちは。というか、初めましてだね。いつも先輩や太郎くん、花梨やかなみちゃんがお世話になっていると聞いてます。俺は洋泉大、太郎くんの同級生で、この店のオーナーやってますんで、よろしく~。」
軽いノリの人だ。
「……花梨さんもかなみさんも、まだ高校生だよね?」
あたしの記憶と知識が確かなら、18歳以下はこういうお店で働けない筈だと思ったのね。二人は顔を見合わせて苦笑いした。
「まあ、本当は駄目なんだろうけど、私たち二人はもう18歳になったんです。実は二人とも、理由は違うけど、一年留年しているんですよ。それに、学園からは許可も貰ってますしね。」
「まあ、此処は最華学園の卒業生やら、現役学生やらの溜まり場みたいなものなんだよ。」
洋泉さんが取り繕うように言う。あたしは事務所内を見回したけど、会いたかったシルヴィスさんの彼女さんが居ないみたい。
「リンちゃんは?」
「え? ああ、あの子なら近くの本屋で立ち読み中だよ。日本語が読めるようになったんで、腕試しするとか言ってたかな?」
あたしの彼女に対するイメージに、勤勉が加わった。日本語って外国人にとっては暗号らしいから、喋れても、読み書き出来るようになるには、相当の訓練が必要でしょ? まあ、あたしは小学校も出てないから、読めない漢字とか沢山あるんだよね。
「近くの本屋なら崎森堂ですか?」
「ああ、そうだよ。」
「それじゃあ、そっちに行きますね。諒子ちゃんもこの場じゃ落ち着かないみたいだし。」
事務所から出て、階段を下りる。かなみさんがドアの閉まる瞬間まで、全力で手を振っているのが見えた。テンション高いなぁ。
「繭鋳さんも此処で働いているの?」
「いいえ、あたしはこういう所では働かないわ。彼氏以外の男の人に、お酒を注ぐというのが、どうしても出来ないのよね。まあ、あたしの彼氏はまだ未成年だけどさ。それに、あたしはそんなにお喋りが得意じゃないのよ。」
「花梨さんも大人しそうに見えるけど?」
「あの子はその冷たい感じが『売り』なのよ。スラっと背の高い美人だし、顧客も付いているよ。あたしは身長も足りないしね。」
確かに繭鋳さんの身長は、地球的に中学生のあたしと変わらない。でも、胸はかなみさんより大きい。これは『売り』にはならないんだろうか?
あたしの視線が胸に行っている事に気付いた繭鋳さんは、ちょっと恥ずかしそうにした。
「胸を他人に見られるのはコンプレックスなのよ。同性ならまだしも、それ目当てのお客さんに見せるのはちょっと恥ずかしいのね。」
「巨乳好きの人って事ですか?」
「ええ、あたし自身が、彼氏以外とそういうのはしたくないって思っているから……」
繭鋳さんが耳まで赤くなった。恥ずかしい事を言わせてしまったみたいね。どうもあたしの会話は、さっき素子に会ってから、エロエロ方向に進んじゃうなぁ。
「乙女の会話だな。もう独りではない俺が独りに戻った気分だ。俺はもう独りではない。」
ミヤ様はこの面会に絡む気はないと宣言しているように聞こえる。ミヤ様は猫だからね。
「繭鋳さんはその彼氏と結婚しないんですか?」
「そろそろするよ。彼がまだ17歳なの。彼の誕生日に籍を入れる予定だよ。」
「へぇ、それは初耳ですね。おめでとうございます。」
「……ありがとう。まあ、まだ色々乗り越えなきゃならない問題はあるんだけどね。普段法律なんて破りまくりの業界なんだけど、何故かそれだけは守らなきゃならないんだよ。」
確かに魔物や幽霊相手の商売に、日本の法律なんて何もないような物だとあたしも思う。
あたしたちは歩いてその本屋さんに向かった。看板に大きく『も堂』と書かれている。崎森堂を略して、何故『も堂』なの?
「いらっしゃいませ~っ!! ようこそ、も堂へっ!! お探しの本などありましたら! 是非お声を掛けてくださいねぇっ!! ぬお~~~っ!! もぉ~~~~っ!!」
なんだかこの街にまともな人間は居ない気がして来た。この人も最華学園の卒業生なんだろうか。そして、ミヤ様と同じく、言葉の最後に付く意味不明言語は何?
「……札幌の町にはまともな人間も沢山居るからね。たまたま行く先々に奇妙な人物が居るだけだから、あんまり気にしないで。」
繭鋳さんもそう思っているんだろう。シルヴィスさんの仲間内と訂正するよ。
その奇妙な程テンションの高い店主の大声を、気にした様子も無い女の子が、一人真剣な表情で立ち読みしている。長い髪を後ろで束ねて、体の大きさに合っていないぶかぶかの服を着ている。横顔は真剣で、本の活字をその目が追っていた。あたしたちが入って来ても、その視線が活字から離れる事はないみたいね。
「二人きりで話してみて、あたしは店主と話すから。ちなみに、あの店主との会話に耐えられる時間は5分が限界だから、よろしくね。」
そう言って繭鋳さんは、一度深呼吸してから、店主の陣取るカウンターに進んで行った。あたしの足元でミヤ様は眠そうにしている。何かが聞こえそうになると、重要な事以外は耳をたたんで聞かないって体は便利よね。
「リンさん?」
「……。」
物凄い集中力だね。軽く無視されたけど、こんなに集中していると、危ないんじゃないかな。例えば痴漢とか、変質者が目の前に居ても気付かないかも知れない。まあ、あたしにそういう趣味はないから、単純に目の前に手をかざしてみた。本との間の異物に気付いたリンさんは顔をこちらに向けた。素子が言う美少女というのは、こういう顔立ちなのね。言われてみればシイくんに少し似ているけど、やっぱりシイくんは男の子で、リンさんは女の子の顔立ちだけどね。髪は黒いけど、あたしを見つめるその目は、日本人にはない色の目だよ。一文字に結ばれた唇は薄め、顔の作りが小さい。
「あたしは魔界の王の一人、藤村の婚約者で、神埼諒子。あなたがシルヴィスさんの恋人のリンさんね?」
「はい。肯定します。」
一言だけど、アクセントにおかしい部分の無い日本語が返って来た。
「読書の邪魔をするのは、あたしも気分が良くないけど、少しあなたとお話ししたいの。近くに話せる場所はないかな?」
「ビストロヨーゼン或いは近くの公園。」
「それじゃ、公園に案内してくれない? あたしはこの街に詳しくないんだよ。」
「了解。」
リンさんは本棚に本を戻して、あたしの前を歩く。またもや店主が大声で何か叫んでいたけど、リンさんは振り向きもしない。あたしはその大声に体がビクっとしたけどね。
「歩きながら、質問しても良いですか?」
「ええ、あたしに答えられる事ならね。」
「シルヴィスは元気にしていますか? 手紙をくれると聞いていたのに、まだ貰っていません。彼は約束を破らない人間の筈なのですが、魔界とは手紙も書けない程忙しい場所ですか?」
「ええ、元気だったよ。あたしが向こうを出発する時はね。二日前の話。手紙の事は聞いていないけど、今はまだ書けないんじゃないかな?」
魔界の森を暴れながら歩くシルヴィスさんに、その余裕があるとも思えなかった。
「魔王の婚約者とお聞きしましたが、あなたも魔人ですか? 見た目は人間にしか見えません。」
「魔界にもあたしたちと同じ見た目の魔物が居るけど、あたしは人間だよ。」
「失礼に該当した場合は謝りますが、あなたは見た目通りの年齢ですか?」
「いくつに見えるかにもよるけど?」
「リンと同い年くらいかと思います。リンは13歳です。」
「ええ、それならオッケー。あたしは13歳だよ。」
崎森堂近くの公園は、入口以外を全て高層ビルに囲まれた場所にあった。公園と名乗るのもおこがましい程狭い。遊具はブランコがひとつだけ。子供が二人遊んでいれば、もう満杯という感じのする場所だね。今は誰も居ないので、あたしたちはブランコに腰を下ろした。
「魔界は13歳でも結婚出来る場所ですか?」
「ええ、特に日本の法律が及ぶ場所じゃないしね。あたしが魔界に落ちたのは、7歳の時で、8歳になる前に婚約したけど、正式には結婚していないよ。」
「そうですか。リンからの質問はこれくらいです。そちらのお聞きになりたい事をどうぞ。」
「シルヴィスさんが魔界に就職したんでね、その家族構成や将来の奥さんを知っておきたかったの。シルヴィスさんが魔界に永住する場合、あたしとは御近所になるからね。」
「鉄朗さんには会った事がありますが、他の魔王やそのご家族にはお会いした事がありません。お会い出来て嬉しいです。」
「ええ、そうね……」
あたしがこれからリンさんに質問しようと口を開き掛けた時、狭い公園の唯一の光源とも言える出入り口付近に、男の子が三人現れた。振り返るまでもなく、崎森堂を出た瞬間くらいから、あたしは気配で誰かに尾行されているのを感じていたから、驚きもしない。
「YO! YO! お姉ちゃんたち、俺らと一緒に遊ばなぁ~い?」
ヨーヨーお姉ちゃん? あたしは手にヨーヨーなんて持ってないし、スケ番でもないよ。まあ、冗談はさておき。変にズボンを下げた、頭の悪そうに見える少年が三人、こんな昼間から13歳の少女二人をナンパでもしようという事なんだろうけど、あたしがそれにホイホイ付いて行く女に見えるのかな。
まあ、確かにビルに囲まれた公園で、出入り口は一ヵ所しかないから、女の子を襲うには良い場所かもね。無意味に生垣があるから、ブランコに座っているあたしたちは、歩道からは見えないし、ナンパというより、暴行目的と考えられるね。遊ぶという意味を完全に履き違えた不良少年って感じかな。
「遊ぶ気もないし、興味もないから、どこかに行ってくれない?」
「うっヒャーっ。超クールじゃん! 俺この女惚れそう!!」
日本語ってこんなに乱れているの? 小学校にも通っていないあたしの方が、日本語が上手い気がするよ。
「不逞の輩ですね。殺しますか?」
リンさんが物騒な事を言う。後半は彼等に聞こえない程度の小声だった。独裁者国家で反政府ゲリラの指導者の娘として育てられ、親衛隊でもあったリンさんは、勿論人を殺した事もあるんだろうね。
「うひぃーっ! ふていのやからって何処の日本語? 俺そんな言葉聞いた事ねぇ。」
数の利、地形の利は彼等にあると思っているんだろうけど、それ以前の問題なんだよね。あたしはリンさんの前に立って、彼等を睨んでみた。
「うひぃーっ! コワいコワい! 空手でもやってんの?」
構えた訳じゃないけど、この程度の少年の頭で考えられる事なんだろう。3対2で一人を庇って前に立つ女の子は、空手か中国拳法を習っているとでも思っているようね。こういう人間に出会うと、宴脆様が地球を滅ぼしてくれとあたしに言ったのが、なんとなく解る気もするよ。
「諒子様が相手をするような輩ではないぞ? 俺はもう独りではない。」
そう聞こえたかと思うと、真ん中でへらへらしていた少年がいきなり吹き飛んだ。少年にミヤ様は見えていないよね。霊体なんだから。
少年は空中高く舞い上がり、道路向こうに違法駐車していた乗用車の屋根の上に落ちた。屋根がクッションになったから、死んではいないみたい。吹き飛んだ少年を見送った他の二人は、呆然とあたしに視線を戻す。やったのはあたしじゃないんだけど、説明の通じる相手でもない。まあ、説明してあげる理由もないよね。あたしが魔王の妻候補じゃなくても、こいつらちょっと失礼だもん。
ミヤ様は、真ん中の少年の腹に一発頭突きを入れて吹き飛ばし、着地と同時に左右に飛んだ。頭突き二発で他の二人がビルの壁に吹き飛ばされる。途中で無意味な生垣に足が引っ掛かり、勢いが死んだので、強く壁に当たって気絶程度で済んだみたい。それ以前に、ミヤ様が素人相手に本気で頭突きなんてする訳もない。ミヤ様の魔力を込めた頭突きであれば、彼等は確実に体が粉々になって、誰にも死体も発見されないね。
「?? 今のはなんという技ですか?」
あたしの後ろでリンさんが呆然としていた。あたしはブランコに座り直す。
「あたしの護衛がその任務を果たしているだけだよ。リンさんは霊視能力を持ってないんだね。だから、あたしの護衛が見えないって事だと思うよ。」
「シルヴィスがこの前、魔界に旅立つ前日に、シルヴィスより強い魔物が、魔界には沢山居ると教えてくれました。その一人ですか?」
「そうか、お前には俺が見えんのか。俺はもう独りではない。」
そう言って、ミヤ様がリンさんのスカートを捲った。ブランコに座っているから、中は見えないけど、女のあたしでも興奮しそうな色気のある太腿が露わになった。
「このエロ猫!」
リンさんには、ミヤ様が見えないから、代わりに殴っておく。驚きのあまり、リンさんは捲れたスカートを直そうともしなかった。
「魔物はいやらしい事が好きだと聞き及んでいますが。リンのような幼さでも、興奮する物なのですか?」
「ええ、そりゃもう……じゃない。魔物の中にも色々居るよ。たまたまあたしの護衛にくっついている黒猫は、悪戯が好きなだけ。」
そこまで言って、あたしは気付いた。この子、感情が全然表情に出ない。
「リンの事を女だと思ってくれるのは、シルヴィスと死んだ養父くらいだと思っていました。」
横顔に翳が見える。この子の育った環境がそうさせたのかな。此処にはシルヴィスさんが居ないから、確認出来ないけど、シイくんが言ったように、シルヴィスさんを見る目は違うんだろうか。あたしの会った事の無い翳を持つ子なんだ。
「ちなみにリンさんに冗談は通じている? 通じていないなら、ミヤ様をもっと殴って折檻しないとダメだわ。」
「冗談ですか? 通じていますけど、頭の中では笑っていても、表情に出る事はありません。リンの生まれた国は、笑うのは不吉の前触れなのです。リンの両親は収穫祭のお祭りで、一緒にダンスを踊っている時に、国軍の兵士に村が急襲を受けて、死にました。リンを拾ってくれた革命軍指導者は、シルヴィスと歓談中に、銃撃されて死にました。笑っていても死なないのは、シルヴィスだけです。」
「ちょっとごめんね。」
あたしはそう言って、リンさんの頭に手を乗せた。リンさんに話を聞くより、リンさんの記憶を覗いて映像化した物をあたしの頭の中に入れた方が早い。
燃え盛る炎、充満する煙、飛び交う銃弾、飛び散る血。転がる誰かの死体と、嘲笑する軍服の兵士たち。口に入れられた銃口。破れた服、涙、恐怖、痛み、憎悪。
「つっ!!」
思わずリンさんの頭から手を避けた。同じ13歳とは思えない程、彼女は過酷な世界で生きて来たんだ。笑顔の不吉さを語るリンさんをあたしは理解したよ。
「その術は鉄朗さんが使っているのを見た事があります。あまり深く探ると、戻れなくなる事があるとも聞きました。育った環境が違う人間は、リンの記憶を見ない方が良いと思います。」
「そっか、ごめんね。リンさんの事を知るには、これが早いんだ。代わりと言ってはなんだけど、あたしの記憶を見て。」
あたしはリンさんの手を取って、あたしの胸に充てた。あたしの魔界に行ってからの記憶の殆どは、心臓に集積されているんだよ。リンさんの脳の処理速度に合せて、記憶を見せる。藤村に見せた以外で、他人にあたしの記憶の最深部を見せるのは初めて。
「くっ!!」
何処で引っ掛かったのか、リンさんもあたしと同様、胸から手を強引に引き剥がした。出会ってからそんなに時間は経っていないけど、これがリンさんの初めて見せる表情の変化だった。
「奥深い記憶です。リンがそうなった場合、生きている可能性は限りなくゼロに近いでしょう。」
「あなたの記憶もだよ、リンさん。あたしはたまたま日本で生まれ、更には日本の陰の守護者である4家に生まれたの。そうではなく、あたしがリンさんの国で生まれていれば、あたしはこの年齢まで生き残る自信はまったくないよ。」
「シルヴィスもそう言っていました。彼は15歳の時に超能力に目覚めたので、7歳であの武力は流石に有していなかったと言っていました。」
シルヴィスさんだって、そりゃあ生まれた時から化け物じみた能力を持っていた訳じゃないよね。あたしの能力だって、最近ミヤ様に出会って伸びたくらいだもん。平和過ぎる国日本で生まれたあたしにとって、地球上にこんなに過酷な環境がまだあるのは信じられないもんね。他人の記憶を見せて貰うのは、何より世界の勉強になるよ。
「リンも修行が必要でしょうか?」
表情を元に戻したリンさんに訊かれる。あたしは少し黙ってリンさんを観察しながら、考えた。
「今の所必要ないと思うよ。シルヴィスさんがリンさんを守ると約束しているんでしょう? それとも、リンさんは男に守られるだけの生活は嫌?」
「出来れば、共に戦い、最期は二人で居たいです。それがリンの唯一の望み。」
やっぱりシルヴィスさんを愛しているんだね。シイくんの見解は正しいわ。最強の武人を目指すシルヴィスさんの隣で戦うというのは、相当な修行が要るもん。あたしだって、まだ藤村の横で守られる事もなく戦うなんて真似は出来ない。足を引っ張らないように一生懸命にやるだけだからね。そういう意味ではリンさんとあたしは、近い感情の持ち主かも知れないよ。
「諒子様。ちと厄介なのが街の上空に居るので、俺はそっちに行くぞ。俺はもう独りではない。」
リンさんには、この声も聞こえないんだよね。
「ミヤ様。待って、厄介な奴ってのは何?」
「俺と同じ霊体のようだが、地球の者ではない。諒子様を狙っている訳ではないようだが、俺たちが出て来たトンネル辺りが狙いのようだ。流石に揚子江は気付いたようで、今向かっているな。念話がされているが、魔界に直接緊急要請も出ているようだ。宴脆の念を感じる。あいつめ、俺に念話を聞かせないように結界を強めたな。揚子江の念は滅びた北海道部族の言葉を使用しているようだ。聞き取り難い。神系の侵攻にしては、随分急だな、あいつらは卑怯な真似、つまり奇襲は禁じられている筈だが。俺はもう独りではない。」
緊急事態のようなので、リンさんに説明するのは後だと言い置き、あたしは空を見上げる。今のあたしの能力で視認出来ないレベルの生物が、札幌の上空に居るらしい。ミヤ様が魔界は深いと言ったけど、地球も外に目を向ければ広く、人間なんてちっぽけな動物には見えない程、強力な外敵が居るって事ね。
「さっきあたしが能力を発動したから呼んでしまったって事はないよね?」
「それも不明だ。諒子様の魔力を嗅ぎつけたという感じではないが、敵意は感じられる。話し合いや堕天でどうにかなる奴ではなさそうだ。俺はもう独りではない。」
「諒子ちゃん! リンちゃん!!」
通りの向こうから、繭鋳さんがすっ飛んで来た。不良少年たちの気絶している姿に一瞬視線を飛ばしたけど、それどころじゃないという勢いね。
「繭鋳。お前には感じられるタイプか? 俺はもう独りではない。」
「いえ、揚子江から連絡がありました。考えて見たら、諒子ちゃんもリンちゃんも携帯電話持ってないじゃない!?」
言われて見れば、あたしは生まれてから6年半で魔界に落ちたせいもあるけど、携帯電話を使った事がない。今では持っているのが常識であるらしい携帯電話だけど、魔界では意味が無い物だから、持とうと思った事さえ無かったよ。
繭鋳さんがあたしの近くに来たのを確認してから、ミヤ様が防御結界を球状に張る。あたしはブランコに座ったままのリンさんを結界に入れるように、ミヤ様を睨んだ。
「解った、入れるよ。俺も含めて三人と一匹分の防御結界を俺だけで作るのは難しいのだ。なんとか助力系の能力者の所まで行くとしよう。先程の洋食屋改めキャバレー系の店に助力系の能力者が居たな? 俺はもう独りではない。」
助力系能力者はかなみさんの事ね。
あたしたちは、ビストロ洋泉に向けて走り出す。この場合、瞬間移動は札幌上空の生物に感知され、攻撃される可能性があるので使わない。夕方を迎える街は結構人通りが多くなって来ている。この街にその生物が降りれば、確実に死人が出てしまう。
そろそろ営業時間の筈なんだけど、ビストロ洋泉のネオン看板が消えていた。階段を駆け上り、事務所のドアを開ける。能力者ではない洋泉さんを、机の下に花梨さんが押し込んでいる所だった。かなみさん以外は全員がパーティドレスだけど、最華学園の卒業生の溜まり場とはよく言ったものだね。他の人は全員が魔力を有した能力者なんだよ。スリットの入ったスカートを捲り上げて、その場で座禅し、結界を張っている十人の能力者、真ん中に立ったかなみさんは、両手を天に向けて、結界強化をしている。そこにあたしと繭鋳さんも加わる。
「ありがとう~っ! 諒子ちゃんが加わってくれると助かるよぉ。」
この中で最も魔力が高いのはあたしらしい。繭鋳さんはどちらかと言えば神系の魂を持つ能力者だから、相手が神系ならめっぽう強いんだけど、今の場合はそうでもないんだよ。ミヤ様は揚子江様の向かったトンネルに向かって出発してしまったしね。
『諒子様。』
あたしの頭の中に直接響く声、ミヤ様だ。念話の時は余計な言葉が付かないのね。
『今揚子江と合流したが、こいつは宇宙から来たようだ。俺たちの考える生物と違い、肉体を持っておらん。最初から霊体の奴だ。宇宙に広がる星々に住む生命体の生命エネルギーを食いながら成長するタイプで、大喰らいだ。地球の生命体の出すエネルギーを食いに来て、魔界に続くトンネルを見つけたようだ。』
「それに生命エネルギーを食べられるとどうなるの?」
『霊体も魂も残らず抜け殻になるな。つまり人間はただの肉の塊になって、転生も出来んよ。魔界からは緊急事態につき、八つ裂き丸が出撃したとの事だ。念話に割く魔力が勿体ないので、話はあとにしよう。』
ミヤ様でさえ、念話に割く魔力が勿体ないという程の生物。あたしに出来るのは、この街全体に結界を張って、少なくとも人間に死者を出さない事だけど、なんでこう立て続けに、地球が狙われるのかな。
机の下に押し込まれた洋泉さんは震えているけど、リンさんは落ち着いた様子で、引き出しから拳銃を一丁取り出していた。シルヴィスさんの職業が傭兵でも、日本国内に拳銃を持ち込んだら犯罪じゃないの? それに、今は拳銃なんて役に立たないよ。
そう思ったけど、それはリンさんの落ち着く方法なんだと、彼女の記憶の中から思い出した。リンさんは椅子に座り、机の上で拳銃を分解掃除し始めた。手早く分解し、シャツのボロで拭き、組み立てる。銃弾を入れずに構え、引鉄に指を掛ける。それがワンセットらしく、また分解し始めた。彼女の落ち着く方法は、日本人では考えられないような事ね。
それに、能力者ではないリンさんに出来る事は、今は無いのも事実。
机の上にある洋泉さんの携帯が振動している、着信バイブって奴ね。この中で最も余裕があるのはあたしだから、片手でそれを持って通話ボタンを押してみた。初体験だよ。
「もしもし? 洋泉さんの電話で、あたしは諒子です。」
変な自己紹介だ。
『おう、諒子か? 俺だ。シルヴィスだ。』
「シルヴィスさん!? 魔界から携帯は通じないんじゃ?」
『おう、だから通じる所まで八つ裂き丸さんに連れて来てもらってよ。今からそっちに向かうぜ。ところで、リンは拳銃の手入れをしているか?』
「ええ、先程から繰り返しています。」
『そうか、じゃあ、結構ヤバいんだな。』
「え?」
『ああ、お前は知らんだろうが、リンが拳銃の手入れを繰り返しているのは、落ち着く為でもあるんだけどな、本当にヤバい時なんだよ。お前の使う探査結界みたいなもんだ。』
そんな効果があるとは気付かなかったよ。リンさんは無意識だから、記憶を覗いても気付けないのは仕方ないか。やっぱりシルヴィスさんの仲間で普通なのは、洋泉さんだけだね。流石はシルヴィスさんの未来の奥さんだと感心した。
「藤村は来れないんですか?」
『そうか、お前が出発した後だったな。今魔界も大変なんだ。第二階層とかいう地下勢力が地表に当たる魔界に出て来てしまって、この間の喧嘩騒ぎ所じゃねぇよ。鉄朗さんと鉄明さんの結界を破り、鉄明さんが負傷した。シイの足を食い千切った奴等だ。俺も数匹ぶん殴ったが、単純武力では奴等の方が上だぜ。各王の領土に攻め入ったので、流石に矢魔や相魔、蝋羽まで出陣中だ。宴脆殿と藤村さんが最前線で戦い、各副長が八つ裂き丸さんの城に能力の低い魔物たちを集めて匿っている状態だ。』
「なっ!? なんであたしに連絡しないんですか!?」
思わず電話に向かって大声を張り上げてしまった。
『連絡しに行く魔物が居なかったんだよ。だからこうして俺が許可を貰って来たんだよ。揚子江さんと宴脆殿は何か特殊な連絡方法を使っているみたいだが、念話の念を練っている暇も無い程忙しいらしいぞ。そこに今回の宇宙からの来訪者の報だ。地球だけでなんとかしろと八つ裂き丸さんが怒鳴ったくらいだからな。』
「くっ!」
あたしはなんてタイミングの悪い時に、地球に里帰りしているんだろう。ミヤ様に返して貰った筈のシッポの痣が痛む。何故だか解らない。
『とにかく、俺がそっちに行くまではそこで待機してくれ。八つ裂き丸さんと揚子江さんと黒猫で防御しているから、簡単にトンネルには入らせない筈だ……お? 丁度良い所に単車が落ちているな……ではまた掛けるから、この電話の充電だけはしっかり頼むぞ。』
シルヴィスさん、それは落ちているんじゃなく、駐車してあるんだと思いますよ。
「先輩戻って来てるのぉっ!?」
机の下から洋泉さんに訊かれる。
「ええ、こちらに向かっているそうです……っ!!」
答えたけど、胸の痣がまた痛む。
「諒子ちゃんっ!?」
胸を抑えて蹲るあたしに気付いたのは、かなみさんだった。かなみさんを中心に皆外側に向けて結界放射しているから、気付くのがかなみさんなのは当たり前かな。
「かなみさん。シイくんを呼べますか?」
「え? かなみシイくんの携帯番号知らないよぉっ!? 花梨ちゃん!!」
札幌上空に向けて念の放射を行っていた花梨さんが倒れる。他の最華卒業生も次々に気を失う。結界をぶつけただけでかなり消耗してしまう相手のようだ。でも、あたしの胸の痛みは何か違う気がした。
「太郎先輩に電話すりゃいいでしょっ!?」
一人残って奮闘する繭鋳さんが叫ぶ。かなみさんは事務所の固定電話に飛びついた。
「もしもしぃっ!! 太郎くんっ!? そっちにシイくん居るっ!? えっ? 何っ? 聞こえないよぉっ!?」
全員がパニックだ。かなみさんから受話器を取り上げたのはリンさんだった。この子だけはこの中で最も落ち着いて見える。
「はい。リンに代わりました。はい。はい。それではこちらに向かう事は出来ないと伝えて良いですね? 了解です。」
そう言って電話を切る。かなみさんは繭鋳さんの助力で手一杯になってしまっているし、洋泉さんは机の下で頭を抱えている。胸を抑えてしゃがんでいるあたしの背中をリンさんが撫でてくれる。
「シイは来られないそうです。素子を守る為に全力で結界制御中との返事です。携帯電話で喋る余裕も無いと言っていました。」
頼りに出来る人材で、札幌に居る人間、シルヴィスさん以外で、この変な生物のエネルギー吸収に対抗出来る能力者を思い付かないよ。
「洋泉社長っ!! 無事ッスか!?」
事務所のドアを破壊する勢いで開け放ったのは、あたしの知らない黒服の男たちだった。