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「シルヴィスさん!」
上空から声を掛けると、シルヴィスさんが空を見上げる。顔はおっかないんだけど、それなりに整った顔立ちで、目は優しい。特に妹さんであるかなみさんの話をする時はね。あたしを確認するとシルヴィスさんは手を振ってくれた。流石に心配なのであたしは地上に降りる。
「おう。昨日の今日でそんな術を使える程回復するんだな。」
「こんにちは、シルヴィスさん。あたしも一応魔王の婚約者ですから、空中浮遊は最初に叩き込まれました。魔力なしで飛ぶのは結構時間掛かりましたけど。」
「そうか、魔力なしで飛ぶ事も可能な世界なんだな、道理で俺が気配を感じられない訳だ。ひとつ勉強になったぜ。」
シルヴィスさんは、視認さえ出来ればどんな物でも殆ど殴れる能力者だから、誰より早く視認する為に気配を探る能力も特化して鍛えている。でも、それは今まで基本的に地球上に居る生物や霊体に使われて来た能力だから、魔界では結構キツイかもね。
「昨日の結界強化はまだ鉄朗さんとその父君が続けているんだが、俺はやる事があんまりなくてな。宴脆殿に許可を貰って七人の王の領土を歩いて回って良いと言われたんだが、皆人が悪いな、最初に教えてくれれば苦労も少なかっただろう。」
昨日出会った時はそんな事も無かったんだけど、シルヴィスさんは十日くらいジャングルの中を恐竜から逃げ回ったみたいに服がボロボロだった。それにしても、鉄朗さんの領地から此処は千キロくらい離れているんだけど、一日で歩ける距離なのかな? 時速42キロ? マラソン選手の倍の速さで24時間移動出来ると考えると、藤村や鉄朗さんクラスの体力が想定出来る。普段は飛んでいるから八つ裂き丸様は単純に計算出来ない。
「何処かに境界線や国境の目印でもあるかと思ったんだが、当たり前のようにこの世界にそんな物は無く、ただなんとなく、ああ、結界の種類が変わった気がするというだけなんだな。」
「ええ、領土の広さ分魔王たちは低レベルですが結界を張っています。それにしても、シルヴィスさんには魔界の大気は大丈夫なんですか?」
「ああ、俺は我慢強いからな。この重たい空気も馴れねばならんだろうさ。鉄朗さんとの契約で、一度来訪する度に最低ひと月はこの世界に居るよう契約したからな。前に来た時は藤村王や八つ裂き丸王、宴脆殿や揚子江さんが俺の周囲を地球の空気に変えてくれていたんだな。正直鉄朗さんの結界から外に出た時は面喰ったぜ。」
自分の周囲の大気を変換なしで我慢している? そんな事が人間に出来るの? でもこうして、あたしと普通に会話してるんだから、本当なんだろうね。ただ単に視認出来る物全てが殴れる能力者じゃないんだ、凄い。鉄朗さんが王であるにも関わらず頭を下げて連れて来るだけの事はあるんだね。
「王たちの領土はもう少し平和なんだと思っていたんだが、ちょっと歩く度にバカでかい蝙蝠の親戚みたいのやら、鰐の巨大版みたいのやら、うじゃうじゃ出て来るのな? 結局、ぶん殴って逃げてを繰り返している間に、こんな所に来てしまって、迷子だぜ。」
「此処は八つ裂き丸様の領土です。藤村の領土を一気に縦断した事になりますね。」
「まあ、殆ど一日中戦闘しながら歩いていたようなもんだからな。鉄朗さんのスパルタ教育の一環なんだろうさ。お陰で空気にも大分馴れたし、戦闘訓練にもなったよ。」
当たり前かも知れないけど、魔界に望んで来た人間は肉体も神経も普通じゃないね。
「鉄朗さんには怒られるかも知れませんけど、少しズルっこしましょうか?」
あたしはそう言ってシルヴィスさんの手を掴む。野球のグローブみたいな大きな手。身長は藤村と大差ないと思うけど、シルヴィスさんは全体的にパーツが大きく見える人だ。体重も藤村の倍はあるんじゃないかな。こんな大きな荷物を空中浮遊させた事がないあたしにも良い修行相手になる。
あたしとシルヴィスさんの周囲に目に見える程度の透明度のあるシャボン玉を作り、念じると、割と簡単に浮いた。
「おお? こいつはスゲェ。この世界には何度か連れて来て貰った事があるんだが、上空から見下ろすのは初めてだ。地球のジャングルとは比べ物にならん程広い。」
上空にあるトンネルから落ちた事がある人間はあたしだけらしいね。言ってなかったかも知れないけど、この世界にはヘリコプターも飛行機も存在しないからね。だって、大抵の生物が飛べるから。
傭兵として地球上の紛争地域を転戦しているシルヴィスさんにも、この風景は珍しい物だったようで、かなり喜んでくれた。
「気配を探る能力は人間より感覚が鋭いのが魔物だから、俺が森の中を一人で歩いていた場合は殆ど先に発見されているのか。そう考えると、この世界で飛べないのはかなり不便だな。こうして飛んでいれば、360度見渡せるから、敵にも発見されやすいが、逆に発見するのも容易い。空中浮遊くらいは俺も覚えねばならんか。」
「そうですね。地球の感覚では不要な事も、この世界では不可欠だったりします。空中浮遊や防御結界、探知結界は必要じゃないかと思います。宴脆様の探知結界はこの七人の王が住む領土内全体を探知出来ます。視認しなくとも誰が何所にいるかが解っていれば、対策も立てやすいですし、昨日のミヤ様の方法で宴脆様に近付いて暗殺を狙っても、防御結界があれば先手を取られた時に防いでもくれます。」
「木の葉に化けて云々という四本尻尾を持つ黒猫か。あの猫も俺より強いんだろうな。」
「実際の戦闘は揚子江様と一緒に戦っていたので、あたしは直接見ていませんけど、その魔力は藤村と同等の物を感じる猫です。木の葉に化けて宴脆様の探知結界をくぐり抜けるという策はあたしには思い付きもしませんでした。」
「ああ、あの作戦を瞬時に思いついたと聞いた時は、聞き耳立てながら俺も鳥肌が立ったぜ。改めてスゲェ世界に来たんだと思ったし、やる気も出ちまった。こんなスゲェ連中の居る世界に来たと思うと、こう、ゾクゾクするものがあるんだよな。」
藤村や鉄朗さんもだけど、シルヴィスさんは本当に戦うのが好きなんだね。あたしなんかミヤ様の策を聞いた時は自分が役に立たない事に委縮してしまって、落ち込んじゃったよ。あたしもこういう所は見習わなきゃなぁ。
「そうだ、刺青ベイベーの圭介もこの世界に居るんだったな。」
圭介くんは割と大人しそうな顔立ちなんだけど、地球に居た頃は刺青ベイベーという暴走ダンス集団の頭だったんだって。ヒップホップダンサーでバイクにまたがってパフォーマンスしながら町中を暴走する集団、あたしにはよく意味が解らないけどね。普通の暴走族との違いは踊れるって事なんだと思う事にあたしはしている。
その暴走少年であった圭介くんを知っているシルヴィスさんは、この世界について色々学ぼうと思い立ったらしい。少なくともあたしよりは深い仲なのよね。あたしが魔界に落ちた翌年に二人は出会っているの。揚子江様が助けた四分の一の魂を持つ少年ミノルさんの友達な訳。その時ミノルさんと圭介くんを含む仲間を助けたのが、揚子江様、シルヴィスさん、八つ裂き丸様だった。圭介くんはその圧倒的な強さを見て、八つ裂き丸様への弟子入りを決意したんだけど、その背中を押したのはシルヴィスさんだったの。
「圭介くんに頼まなくとも、あたしで良ければお教えしますよ? 魔王の妃候補は副官に比べると暇ですし……」
あれ? あたし圭介くんに対抗意識燃やしちゃった? 敵ではないけれど、シルヴィスさんは鉄朗さんの副官になる人だし、余計な事言ったかな。藤村に相談もしないで勝手に決めるのは不味いかも知れない。
「そうだな、俺にではなく、これから来る事になる俺の仲間に教えてくれ。結構魔界移住希望者が仲間に多いんだよな。鉄朗さんとしては俺一人を誘ったつもりなんだろうが、俺の仲間は皆仲間意識が強い。俺が行くなら、俺も僕もあたしも私もとなってしまって困っていたんだ。」
シルヴィスさんの周りにはかなり変わった仲間が多いと聞く。助力能力者で妹であるかなみさん。普段そのパートナーを務める除霊師の藤花梨さん。シルヴィスさんの後輩で、闇医者の西区太郎さん。4家のひとつ鷹刃氏家の跡取りで、現在服役中の六郎さん。そして普段はススキノという町で夜のお店のオーナーをしている洋泉大さん。それに件の彼女と言われるあたしと同い年のリンさんが居る筈ね。これは神系との戦いの後に藤村やお姉様に聞いて知った情報だけど、案外役に立つ情報だったみたい。
「しかし、そんなに能力者が移住してしまって、地球の守護は大丈夫なんですか?」
神埼を捨てたあたしに言える事じゃないんだけどね。
「ああ、基本的には魔界に半年、地球に半年を繰り返す感じになっているんでな。この前みたいな緊急事態の場合は全員地球に直行出来る契約は鉄朗さんと結んでいるし、宴脆殿にも承諾済みだ。」
流石に抜け目ない人だ。
「それに、揚子江さんの跡を継ぐシイがかなり育っている。奴の通う学園の生徒も今回の件で結構能力に磨きが掛ったみたいだしな。少なくとも日本は安泰だぜ。」
「でも、シイくんは昨日左足を失いました……」
あたしが少し暗い表情になると、シルヴィスさんが頭を撫でてくれた。
「あれはお前のせいではないぜ? シイがまだまだ修行不足だっただけだ。俺なら足を失うようなヘマはやらん。あいつは少し甘い性格だから、良い薬になったんじゃねぇかな? 揚子江さんもそう言ってたぜ? これからお前の妹を守って行かなくちゃならんのに、くだらんヘマしたって怒られてたもんな。それに、俺にいわせれば、古い考えかも知れんが、男は女を守る物だぜ? その考えは割と魔界には浸透していて、宴脆殿が任務を命令する場合、必ず女性戦士が入っているのを見れば解るだろう? 男って生き物はよ。女の前で格好付けたい馬鹿ばっかりなんだよ。」
確かに魔界の王は、シルヴィスさんが言ったみたいに結構古臭い男が多い。その連中と付き合いの長い揚子江様もそう言われれば結構性格は男っぽいね。でも、あたしの能力の無さをフォローするには欠かせない条件だけど、やっぱり悔しいな。
「ん?」
暫く空中をゆっくり浮遊していると、高速で何かがこちらに向かって来るのが見えた。
「……この場所には似つかわしくない奴に遭ってしまいました。シルヴィスさんは手を出さないでください。」
迂闊に手を出すと、王同士が一騎打ちしたりしなきゃならなくなるから、そう言い置く。向かって来ているのは謀反系の王の副官、名前は忘れちゃったわ。
あたしの作ったシャボン玉ギリギリで止まる。見た目は人間なのよね。
「これはこれは、このような場所で遊覧飛行ですかな? 藤村王のお妃様。」
言い方は丁寧なんだけど、こういうのはなんて言うのかしら? 慇懃無礼? お妃様の辺りに棘のある言い方なのよ。この一族は人間をかなり嫌っているからね。
「……ええ、新しく地球から来た鉄朗様の副官になる方をご案内していたの。」
「ホォ。それはそれは結構な事ですな。」
この矢魔の副官が日本語を喋るのも嫌なんだけど、矢魔の一族は他の生物に融合出来る能力を持っていて、こいつはその人間と融合したのね。元の姿はカラスより少し大きいくらいの有翼人で、素早く生物の背中に回り込んで融合するのが得意技。敵の背後から近付くって所が卑怯っぽくてあたしは嫌い。嫌っている癖に人間と融合したこの副官は一族の中でも変わり者ね。
「お初にお目に掛ります。私は矢魔陛下の副官で奸魔と申します。どうぞよろしくお見知りおきください。」
「ああ、よろしくな。」
シルヴィスさんは傭兵稼業の副業で、トンネルを通って地球に出て来るこの矢魔の一族を退治する仕事をしている。敢えてぶっきらぼうに挨拶したように見えた。奸魔は人間の形をしているけど、矢魔一族の融合は前の体の持ち主の精神を完全に殺してしまう。それをシルヴィスさんは知っているので、握手の為の手すら出さない。
それを解っていてこの態度、かなりあたしを蔑んだ目で見るのよね。七人の王や副官の中で人間と婚約た結婚をしている人は殆ど居ないけど、その中でもあたしはかなり能力が低いから、こういう目で見られる事もあるんだよ。
「それで? 矢魔様の副官であるあなたがどうして此処に?」
早く追い払いたい気分で訊ねる。本当は口もききたくないんだけどね。
「ええ、八つ裂き丸様のご領地なのは承知しておりますが、昨日より今朝にかけまして、矢魔陛下の領土に侵犯した者が居るようでして、その調査です。」
「ああ、それなら俺だ。昨日から今まで、諒子殿に出会うまでの間、俺は魔界の森を好きに歩いていたんでな。結構はぐれ魔物に出くわして戦闘しながら歩いていたから、その時入ったんだろうさ。」
「なんと!?」
奸魔は大袈裟に驚きの表情を作った。気持ち悪いわ。
「許可なく領土侵犯するのは、この世界では宣戦布告と同じ事ですぞ?」
シルヴィスさんを睨みつけているつもりなんだろうけど、シルヴィスさんは簡単に目を逸らした。
「ああ、俺は昨日この世界に来たばかりでな。右も左もよくわからんのだ。これからは気を付けるからよろしくご指導ご鞭撻してくれや。」
あ、シルヴィスさんの拳が握られた。あたしよりこの人短気だ。
「それとな、奸魔……殿だったか? 俺は許可無く入った訳じゃねぇよ。この世界では実質の覇者である宴脆陛下より、七人の王の領土を歩いて見て来いと言われているんでな。それとも証文でも要るのか? それとも宣戦布告の書状でも要るのか? 男が喧嘩するのにそんなチンケな事にこだわるなよ。」
「な、なんと無礼な!?」
奸魔、腰が引けているわよ。
「諒子殿に聞いた所、此処は八つ裂き丸様の領土だそうだ。奸魔……殿は、許可を貰っているのか? 俺と遊ぶよりキツイと思うぜ?」
「奸魔殿。ここは下がりなさい。宴脆様に事の有無を確認し、出直すのが吉と存じますよ?」
あたしが少し凄む。はったりだけどね。これでもあたしは藤村の妻候補だから、権限は副官より上なのよ。奸魔にとっては理不尽な命令でも、これに従わない場合は藤村も怒る。シルヴィスさんの上司に当たる鉄朗さんも怒る。そして舞台にされた八つ裂き丸様も怒るだろう。矢魔は相魔と蝋羽と組んではいるけど、連携が出来ない王なのよね。矢魔も三人の王を相手に奮闘出来る程の能力は持っていないもの。ここは下がるしか選択肢はないよ。
「き、気を付けられよ! 今回の無礼は宴脆陛下に確認後、正式に抗議させていただく。」
「ああ、俺はそれで構わんよ。なんなら今でも構わんが……」
言い掛けたシルヴィスさんの袖を掴んで引っ張る。シルヴィスさんは玩具を取り上げられて拗ねる子供みたいな表情で、そっぽを向いた。
「では、抗議の件は後日聞く事にしましょう。あたしはこれから八つ裂き丸陛下に会わねばなりませんので、これにて失礼します。」
そう言って背を向ける。敢えて空中浮遊のスピードは変えない。残された奸魔が何か言いたそうだけど、あたしが〆たんだから、それ以降発言する権限は副官にはないのよね。
「うーん。早速喧嘩売られちまったなぁ。」
「駄目ですよ。小競り合いは結構ありますけど、戦争は駄目です。万が一王と副官が死んだ場合、苦しむのは民なんですから。」
確かにここは弱肉強食の世界なんだけど、王は一応領民を守る義務があるのよね。好き勝手に王を名乗っているも同然だけど、それを指示する領民が居るのも確かなの。思ったよりは秩序のある世界よ。
「副官見習いとはいえ、俺もこの世界の住人になった訳だから、気をつけよう。それにしても、トンネルを一度抜けて地球に出た矢魔の一族が魔界に戻れた話は聞いてねぇぞ?」
「奸魔は地球に出た事はありません。彼はあたしのように魔界に落ちた人間と融合したんです。年に数人は神隠しという現象で魔界に人間が落ちて来ますから、その中の一人でしょう。」
あたしは運良く藤村の領土に落ちた。奸魔に体を強制的に提供する事になった人間の男は、精神を食い尽くされて、さぞ苦しかっただろう。あたしが矢魔の一族を嫌っている理由はそんな所ね。向こうは一族代表を地球に送り込んでは失敗しているから、人間が嫌いなんだと思う。
「わざわざ人間と融合したのか? あいつらは自分の方が高等な種族だと信じていて、滅多に人間と融合したのは見なかったが……」
「ええ、一応地球の覇者である人間を知るには、人間と融合するのが近道と考えたんでしょうね、親玉である矢魔以外は複数回融合出来ないのに……」
矢魔は魔界の中でも特殊な生物なの。融合と憑依が違うのは解ると思うけど、矢魔は完全に生物と融合する能力を持ち、霊体に近い相魔は憑依して生物を操っても、自分の意志で分離出来るの。蝋羽はまた別の能力者だから、ここでの説明は省くわ。
「シルヴィスさんは地球で矢魔一族の融合体とも戦っていたと聞きまけど、どんなのが居ました?」
「多かったのは熊だな。塒が洞穴の場合が多く、矢魔の一族がトンネルを抜けて最初に出会う強い生物だからだろう。次に多いのは蝙蝠やトカゲ、洞穴を住まいにしている生物だ。近くに川があれば鰐の場合もあるし、ジャングルなら象や虎の場合もあったな。結構参ったのが象だな、あれはでか過ぎて殴っても効き目が薄かった。あとはアフリカでチーターに憑依した奴にも会ったが、あれはダッシュ力が半端ではなく、完全に憑依体を殺して動きを止めてからでなくては対処出来なかったのを覚えているぜ。」
矢魔の一族に融合された生物は、基本的な戦闘能力が爆発的に上がるの。単体では弱い生物の矢魔一族がこの世界で生き残って来た理由がそれ。例えば、地球には殆どドラゴンは居ない筈だけど、それに融合した場合、神系の聖戦士くらいとなら同等の戦闘能力になる。現在一族の長である矢魔は、魔界でも珍しい白火ドラゴンと融合している筈だわ。矢魔だけは融合を何度も繰り返せるから、他に凄い生物が居れば融合を繰り返すでしょうけどね。
あたしは嫌いだけど、それが矢魔一族の進化だと言われればそこまでの話なのよ。
「象とチーターですか。」
チーターならなんとかなるけど、象を殴ったり蹴ったりしてあたしの力が及ぶだろうか。
「まあ、水中の生物に融合しているのを見た事は無いから、助かってはいるんだがな。」
「先程の話に戻る事になりますけど、防御結界さえ張っておけば、水中でも宇宙空間でも基本的に地上と同じ戦い方が可能ですよ?」
矢魔当人以外は結界を馬鹿にしている節がある、一族に結界能力者は殆ど居ないから、地球に出ても地上生物にしか融合出来ないのよね。鮫とか鯱とか、鯨に融合されたら、人間では手の出しようがないくらい戦闘能力が上がるのに。
「ああ、防御結界に探査結界、空中浮遊、これくらいは自分で覚えねばならんな。まあ、俺の場合住んでいる間に馴れるから、七人の王の領土を回り終わるくらいまでに覚えるだろう。しかし、宇宙空間で生身で戦う事なんてあるのか?」
「ええ、先日の聖戦士との戦いも、シイくんが例の堕天作戦を思い付かなければ、あたしはトンネルに到達する前段階の宇宙空間で迎え撃つ事を提案していた筈です。地上に被害を出すよりは有効だと思っていましたから。」
「成程、地球という引力に縛られている場所に比べれば、聖戦士と戦うには良い場所に感じるな。宇宙空間なら360度殴り放題か。」
「トンネル内での各個撃破よりは、戦力も集中出来ますしね。ただ、それだと成層圏までに全て倒さないと、トンネルまではガラ空きになってしまうので、それが悩み所でもありました。」
「お前も伊達に藤村殿の妻候補な訳ではないんだな。」
「それはそうですよ。あたしは藤村の為に死ぬ覚悟がありますが、弱いままで殺される事を善しとは思いません。敵わないまでも一矢報いて、藤村が戦い易いようにしてからでないと、死んでも死に切れませんから、その為の努力は惜しみませんし、例えそれが汚い手段だったとしても、使える物なら何でも使います。」
そう言ってしまえば、矢魔の一族を蔑視する事は出来ないけどね。それぞれの陣営にそれぞれの覚悟があるって話。
「藤村殿に人間の娘が嫁いだと聞いた時には驚きもしたんだが、お前は来るべくしてこの世界に来たんだな。強い意志と探究心だけの揚子江さんとはまた違う意味でスゲェな。」
「あたしの場合は藤村への愛情だけですから、揚子江様と比べられる物ではありませんよ。」
あたしは後ろに奸魔の気配が消えるまで弱い結界を張り、様子を見ていたけど、どうやら本当に引き返したようなので、少しスピードを上げた。
「……本当にでかくなってやがる。」
謁見の間で待ち構えていた八つ裂き丸様の第一声。中途半端に消えていたあたしの記憶が戻って、急激に成長した事は既に伝わっていたようだ。
あたしは特に恥ずかしがる訳でもなく、服の前をはだけて胸にあるミヤ様に付けられた痣を見せる。露出狂って訳じゃないからね。少しは大きくなったみたいだけど、本当に見せても恥ずかしくない程度の胸なんだ。昨日まで10歳くらいの体だったから、ブラも付けてないんだよ。流石にタンクトップで代用はしているけどね。
「この痣の分の記憶を取り戻したので、少しだけ成長したんだそうです。」
八つ裂き丸様は玉座から立ち上がって、ほんの数センチ浮いた状態であたしに近付いて来た。ミヤ様に記憶を返して貰ったので、痣は前より目立たなくなっていたの。
「成程、先ずはその胸をしまえよ。次回来訪する時からは、長袖長ズボンで来い。肌を露出するのは控えろ。俺が押し倒す可能性があるからな。」
「こんな貧乳に欲情するんですか?」
「……お前は綾乃や揚子江と比べて言っているんだろうが、あいつらは別の生き物だと思えよ。お前は充分に魅力的な女だよ。藤村に万が一の時は俺の側室にならんか?」
「ありがたいお申し出ですが、藤村が死ねばあたしも死にます。」
「そうか、惜しいなぁ。とにかく俺の前に現れる時は、露出の少ない服で頼むぜ? お前は自分で思っているより美人なんだからよ。」
八つ裂き丸様はあたしをからかっているんだ。藤村がこの場に居たなら、例え冗談でも八つ裂き丸様が先輩でも、喧嘩になっているよ。
「まあいいや。とにかく服の前を留めろ。それからシルヴィスを呼び入れてくれ。矢魔の所の副官……名前は忘れたが……から、抗議の手紙が届いていたぜ?」
「冒険中のシルヴィスさんを八つ裂き丸様の領地内で発見しましたので、空中浮遊して魔界を空から見せていたのですが、そこを奸魔殿に発見され、咎められました。」
「奸魔? あいつはそんな名前だったか……あの、魔界に引き寄せられた人間と融合した奴だよな?」
「はい、そう名乗っておりましたので、あたしもそうだと思い込んでいるだけかも知れません。正直言って、矢魔一族は好きにはなれないのです。ですから、副官の名前も覚えていません。」
「まあな。オヤジが地球を攻めるのは禁止だと言っているのに、守らん奴だから、地球出身のお前が嫌うのも頷けるな。俺も嫁さんが地球人だから奴を嫌いだし、無視しても良いんだが、早速抗議文を藤村と鉄朗がオヤジ経由で送り返していてな。まあ、隣国同盟上、俺も何か書かなくちゃならんのだ。」
流石に藤村と鉄朗さんの行動は早い。宴脆様もシルヴィスさんに許可を出しているんだから、味方と考えていいね。
「おう、シルヴィス。やっと魔界に来たな?」
そう考えていると、シルヴィスさんが圭介くんに案内されて入室して来た。
「ああ、随分悩みもしたんだが、俺も鉄朗さんに助けられた事のある身だからな。恩を返すには少々年を重ねてしまったが、遅くはないだろう。」
あたしとシルヴィスさんは椅子を勧められる。圭介くんは八つ裂き丸様の玉座の横に立っている。お姉様は? そのあたしの表情を見て、八つ裂き丸様は苦笑いした。
「綾乃は里帰りだ。あいつにしては珍しく取り乱してな。」
う……それって、あたしを庇って左足を失ったシイくんの件よね。普段呑気にさえ見える余裕のあるお姉様が取り乱すなんて。
「空中に浮けるんだから、足の一本くらい大した事でもねぇとは思うんだが、昨晩バタバタとして、今朝早くに地球に行ったよ。まあ、お前を責めている訳じゃねぇから安心しろ。」
そうは言われても、これはこれで凹んでいるんだよ。藤村もミヤ様もシルヴィスさんも、皆悪いのは未熟だったシイくんだと言ってくれる。その優しい言葉があたしを余計に悩ませているんだけど、八つ裂き丸様までこんな事を言うなんて思わなかったな。
「……なんなら責められた方が気が楽って所か?」
「ああ、そういう事か。」
シルヴィスさんの発言に何か納得したように八つ裂き丸様は頷いた。
「諒子は何か勘違いしているんじゃねぇか?」
「え?」
「俺も含めた魔界の王クラス、そして地球に住む能力者が皆お前を助ける事をだよ。お前は随分自分の能力を過小評価しているようだが、そのような事は決してない。むしろ高い方だ。皆がお前を助ける理由がわからないんだろ?」
「はい……」
「藤村もシルヴィスも、なんならオヤジも揚子江も説明が下手だからな。まあ、珍しい感覚なんで魔物やそれに近い連中には説明出来ないのも無理はねぇな。俺が簡単に説明してやろう。」
雄弁だ。こんな八つ裂き丸様も珍しい。
「此処に居る皆がお前を仲間だと思っているからさ。」
本当に簡単過ぎる説明。あたしは納得出来ないという表情を作った。
「お前の凄い所は、それを無意識に出来ている事だぜ? 普通仲間を作りたい場合、当人同士が納得行くまで話し合ったり、俺たちの場合なら殴り合ったりする訳だ。だが、お前の場合はそれを省ける能力がある。俺も藤村も鉄朗も、オヤジでさえお前を本当に仲間だと思っているんだよ。それは揚子江も綾乃もシイも、件の繭鋳もそうだ。お前を本当に仲間だと心から思っているからこそ、腕の一本、足の一本、なんならその命まで投げ出してお前を守るのさ。」
「……あたしは一体なんなんですか?」
「そうか、それも無意識なんだな。お前の中に見え隠れする本当の能力はな、オヤジでさえ持っていない『究極魔帝の相』なんだよ。それに気付いた者は皆お前の仲間になる。気付けない者はお前の中に危険な物があると信じて敵になる。少なくとも矢魔の一族でそれに気付く者は居ない。相魔一族もだな。最近大人しい蝋羽は何かに気付いたようだぜ?」
「究極魔帝の相? なんであたしにそんな物が備わっているんですか?」
「その理由を俺たちが知る事は、一生無いだろうよ。俺も結構長生きな方だが、究極魔王の相をオヤジに見た以外で、その上を行く生物に対面したのはこれが初めてなんだよな。しかも魔界の生物ではなく人間だからな。誰がお前を魔界に引っ張ったのか解れば、推測以上の情報が手に入るだろうが、生憎俺は堕天使の部類に入るからな、オヤジとお前とシイが行った第二階層とやらには入れんのだ。」
「横にも広く、縦には深い魔界……ミヤ様がそう表現していましたけど、その奥深くに入れれば、あたしにくっついているこの能力の秘密がわかるんですか?」
「まあ、能力自体は解っているぜ。その相が示す通り、お前はいつの日か魔界の帝になる。その為の試練は沢山乗り越えねばならんだろうが、お前に魅入られた生物は、それこそ命懸けでお前を助けるから、案外お前は何もしなくても良いのかも知れんな。」
魔帝、魔王より上だからそういう言葉になるんだろうけど、宴脆様やシイくんが言っていた魅了の能力もそれに含まれるんだろうね。それは良いけど、あたしが魔界を統べる女帝になるって話よね? なんだってそんな面倒な事をあたしがしなきゃならないの? あたしは藤村と幸せな家庭が作れればそれで良いのに。
「あたしはそんな能力要りません。」
「じゃあ、誰かに譲るっていう能力じゃねぇだろ? 欲しがる奴は居るかも知れんが、例え矢魔がお前に融合しても、お前のその能力を引き継ぐ可能性は皆無だろうよ。元々のお前の人生が既に普通じゃねぇんだから、今更進路変更は効かないんじゃねぇかな?」
「シルヴィスさんはどう思います?」
「……少なくとも俺は欲しいとは思わんな。味方が増えるのも結構重要な事だが、その分敵も増えそうだしな。俺の感覚は先程も話したが、男は女を守るのが当たり前だ。そこにその相は要らん。」
「そうですよねぇ……」
「だが、八つ裂き丸殿も言った通り、舵の変更は出来んのも事実だろう。これは自分なりに受け入れて昇華させるしかないだろうな。」
「シルヴィス、お前はその結果が魔界での修行に繋がったのだから、相談に乗ってやれよ。」
「え? シルヴィスさんにもあたしと似た能力があるんですか?」
「ああ、シルヴィスは地球帝の相、そして揚子江は異世界帝の相の持ち主だよ。他に政帝の相を持つ者が確認されているが、それはお前は知らん奴で、現在は北海道知事をしている高橋ハルミンという人物だ。所謂超能力者だが、それぞれがそういう相を有している。そうでなければオヤジが地球を観察対象に指定する事はねぇよ。俺もオヤジに言われるまでは自分がただの堕天使だと思っていたんだが、俺にもその相と呼ばれる能力がある。天界帝の相だ。」
「あたしだけが持っている訳じゃないんですね?」
言われて少し安心した。だって、あたしだけが持っているなんて、有り得ないよ。あたしが求めているのは、普通の家庭を作る事であって、魔界の王になるとか、領民をまとめるとか、そんなの出来ないもん。
「ああ、相を持っているからと言っても、実現出来ない奴も居る。揚子江が良い例だ。あいつは魔界を含む異世界全体を統括する能力を有しているくせに、異世界を調べ回るのに夢中だからな。シルヴィスはまだまだ戦い足りない戦闘バカだから、地球に居る自分より格下の連中に見切りをつけて、魔界での修行を選んだ。だから、地球帝の相を持っていても、何の役にも立たん。」
「戦闘バカは酷ぇな。」
「事実だろ? 俺もそうだが、俺は堕天して天界を捨てた。故にこの相を持っていても、此処では何の役にも立たん。相を持っていても、役立てるかどうかは、当人の心掛け次第なんだよ。諒子はまだ若い。だから、今はその能力に甘えておけばよいのさ。いつか必ず選択せねばならん時が来るからな。」
「ちなみに藤村や鉄朗さんは?」
「あいつらは持っていて王の相だよ。帝相は数える程度しか発見されていないのも事実だ。今の所魔界で帝相を持つのは俺とお前の二人だけだよ。まあ、これからはシルヴィスも数えられる事にはなるな。」
「その帝相同士は喧嘩にならんのか?」
「ならんな。なった場合は両方が滅びるだけだからよ。その相を持っているからと言っても、無敵って訳じゃねぇ。勿論魔力差等でどちらかが完敗という例もあるにはあるんだが、帝相を殺した奴は必ず呪われる運命が待っているんだ。ここで話は戻るが、矢魔の奴がそうなんだよ。」
すっかり矢魔からの抗議の件から、話が外れてしまっていたよ。
「あの羽付きの小動物がか?」
「あいつはその能力の特性上、肉体を貰うが実質殺している訳だろ? あいつが確認を怠ったのも事実だが、あいつの融合した中に帝相を持つ者が居たのさ。それであいつは呪われ、折角持っていた空帝の相を失った。あいつはそれでも生き残り、魔王には留まれたが、魔界の空を統べるには至っていない。そして、俺と諒子が帝相を有している事に腹を立ててもいるんだな。あいつがやたらとオヤジの命令に反発する理由はそこにある。まあ、本人は帝相の存在も知らないんだが、無意識に敵を見つける能力にだけは長けているんだよな。」
それはあたしも同じだ。今までなんとなく矢魔の事が嫌いだって思っていただけだもん。
「……今ここに三人の帝相が居るのに、反発しない理由はそれか?」
「ああ、好例とは言えんが、矢魔は帝相を失った。失ったが故に、今まで出来た事が出来なくなった。出来る奴への歪んだ憎しみ、妬みが俺たちに向いている。俺たちにしてみればくだらねぇ事や当たり前な事が奴には出来んからな。だからちょっとした事で奴は何とか優位に立とうと、こうして抗議なんて大馬鹿な真似をするのさ。」
「しかし、その矢魔を宴脆殿が排除しないのは何故だ? 他にも王の相を持つ者なら結構魔界には居るだろう? 代わりになる者が居るのに、何故更迭しない?」
「簡単だぜ? 帝相を失った王はこの世界に一人しか居ないからだ。矢魔はオヤジの観察対象なんだよ。余程の事が無い限りは、オヤジは矢魔を殺す許可は出さねぇな。それは俺やお前、諒子にも当て嵌まる事だ。」
「俺たちは珍しい観察対象って訳か?」
「ああ、全てはオヤジの観察対象だよ。わざわざ神系との戦いの戦闘指揮を、帝相に気付いていない諒子にやらせ、なんとなく能力に気付き始めた頃に第二階層に付き合わせ、シルヴィスを魔界に迎え入れ、好きに歩かせたのも観察対象だ。俺がこうして種明かしして、お前たちが驚くのも計算内だろうさ。オヤジが究極魔王なんて呼ばれる理由は、その能力の高さも勿論だが、観察眼を指す言葉でもあるんだ。帝相を持つ者の観察は、あの暇そうな爺さんの唯一の娯楽でもあるからな。あの爺さんがやっぱり悪魔なんだと思えるのは、観察はするが決して助けはしない事だよ。運命に抗う者を見るのが娯楽なんてのは、悪趣味だとは思うがな。」
確かに揚子江様が第二階層に行って戻らないから、身動き出来ないと宴脆様は言って、あたしに地球を滅ぼすか、神系を殲滅しろと命令した。ご自分では動いていない。第二階層で犬の成れの果てに殺されそうになったあたしを助けたのは、シイくんだった。宴脆様はその時、あたしの横に居て、特等席で観察していたって事になるね。どれもご自分でやろうと思えば出来る事ばかり。
「ま、種明かしは此処までだ。今は矢魔の奴にどんな返事を書くかが問題なんだよな。そのまんま喧嘩がしてぇなら、俺も藤村も鉄朗も手伝うし、回避したいなら適当に詫びの言葉のひとつも書けば良いだろう。オヤジは相変わらず高みの見物って所だ。」
「向こうが仕掛けて来たなら、迎え撃ちますけど……戦争は回避したいです。」
「戦闘の場合は、俺の庭でやるのか?」
「あたしが決めて良いかは判り兼ねますが、藤村の領土にて迎え撃ちます。奸魔は捜索の為とはいえ、あたしの上から降りて来ましたから、それを盾にしましょう。」
「成程、作戦行動中を除いて、副官が上司の上を飛ぶ事を許さずって事だな?」
あたしは頷く。屁理屈だけど、奸魔があたしと同じ位置を飛んでいるつもりでも、あたしの身長より頭一つは奸魔の方が高い場所に居る。それを魔王の婚約者であるあたしが不快に思えば、副官の言い分が正しくとも、充分逆転出来る。
「これで良しっと。」
八つ裂き丸様が机に向かって書状を書き、圭介くんに渡す。
「返事は要らねぇから、お前はこれを矢魔に渡してすぐに戻れ。追撃があった場合は俺の領地までは反撃するな。矢魔本人が追って来た場合も全速力で此処に戻れ。あいつはそれ程頭は良くねぇが、戦闘力だけは一丁前だからな。」
「はっ。」
書状を受け取った圭介くんは懐にしまい、額の前に指を二本持って来て、何か呟いた。瞬間移動する方法のひとつね。藤村も瞬間移動が得意ではないから、術を使う時に呪文が要る。八つ裂き丸様や鉄朗さんは何も唱えない。
「さて、これで当面の問題は解決しただろう。万が一圭介が矢魔に殺されでもした場合は、流石に俺も怒るがな。それは無いだろう。俺と藤村と鉄朗を一度に相手に出来る程、矢魔は強くねぇからな。」
そう言い終わる頃にお姉様が帰還したとの報告が、もう一人の副官からされる。謁見の間に入って来たお姉様は大きな風呂敷包みを抱えていた。
「ああ、間に合って良かったわぁ。」
とても今朝まで取り乱していたようには見えない。普段通りのお姉様だ。
「なんだその荷物は?」
「ごめんなさいねぇ。八つ裂きさんのじゃないのよぉ。」
前言撤回。二人きりの時はどうだか知らないけど、あたしや他の人が居る前で、八つ裂きさんと呼ぶのは見た事がなかったから、お姉様はまだ取り乱しているようね。そしてその大きな風呂敷包みを、あたしの座っている目の前に置いた。
「母さんから聞いて、諒子ちゃんが急に大きくなって困っていると思ったのよぉ。だから母さんと二人で久々に札幌でお買い物してたの。楽しかったぁ……」
風呂敷包みの中身は服だった。基本的に揚子江様もお姉様も殆ど同じ服を着ているのしか見た事が無かったので、少し意外。
「こんなに沢山……ありがとうございます、お姉様。」
「いーえぇ。諒子ちゃんこそ怖い目に会ったのに、気丈にしていて偉いわぁ。母さんと宴脆様のせいで、酷い目に遭ったもんねぇ。」
ここ最近は怖い目だらけですけど。
「それより、お姉様。シイくんの容体は?」
「そうねぇ……流石に母さんでも、噛み千切られた膝から下を元に戻す方法は知らないみたいねぇ、黒猫ちゃんに教えてもらった義足の作り方は、地球ではなんか上手く出来ないらしいのよ。今はシルヴィスさんのお友達の闇医者さんの所で養生しているわぁ。」
「太郎の所で?」
お姉様は何処か舞い上がっているみたいで、シルヴィスさんの存在に気付いていなかったみたい。少し驚いてから、咳払いして取り繕ったけど、遅いと思う。
「そうよぉ。西区太郎さんは闇医者の中でも、普通の医者としても超が付くくらい一流なんですもの。母さんの未来彼氏が怪我した時もすぐに治してくれたしねぇ。それにぃ、シイくんは、なんだかのアニメに出て来る敵ロボットに成り損ねたみたいで面白いとか言ってたわぁ。」
「なんのアニメかは知らんが、最初から足のない敵ロボットならまだしも、途中で方足のもげたロボットなんて聞いた事ねぇぞ?」
ああ、言い忘れてたけど、魔界に住む王は基本的にアニメとか吹き替え版の映画とか、かなり見ているの。日本語の勉強の為だと説明されたけど、あんまり信憑性は感じなかったね。あたしも付き合いで藤村と一緒に見るけど、藤村が持ってくるアニメがかなり偏っているのは、八つ裂き丸様のせいなのよね。まあ、地球から持って来たのはお姉様なんだけど。
ついでにシイくんもかなりのオタク。見た目が格好良いだけに、ちょっと残念にさえ思えるくらい、アニメの話をし出すと止まらないの。
「どちらかと言うと、セリフの事みたいよぉ? 足なんて飾り云々とかいう……」
「まあ、飛べるんだから、足なんて要らんけどな。」
「スポーツ義足を用意して貰ったからぁ、一人でなんでも出来るみたいなのぉ。あの子の事だから、車椅子ごと空中に浮く事も考えていたみたいだけど、母さんに止められていたわぁ。」
そりゃそうよ。地球上で空中に浮いているのは、漫画の中だけだもん。実際に空を自由に飛んでいたら、世界中のマッドサイエンティストに狙われ兼ねないもんね。4家の人間でも普段は普通の生活をしているんだから、必要以上に目立っちゃいけないの。
「まあ、そんだけ動けりゃ大丈夫だろう。諒子が責任を感じてしまっていてな。」
お姉様が不在の間の話の流れを八つ裂き丸様が説明した。
「あら、そんな事気にしないで良いのに。諒子ちゃんは優しい心の持ち主ねぇ。そう考えると、究極魔帝の相って何なのかしらね?」
お姉様はそう言ってあたしの頭を撫でる。
「それは日本語に訳した奴に言えよ。まあ、これから諒子がどのように育つかは解らんが、魔界の帝王になる素質だけは確実に持っているって事だ。それに、心の優しい奴が帝になってはいけないという法もあるまい?」
「お前、本当にスゲェ奴なんだな?」
そんな事言われても、あたしに実感は沸かないし、シイくんの左足が元に戻る訳でもない。
「ご歓談中失礼します。」
振り向くと、圭介くんがもう戻って来ていた。本当に全速力で使いに行ったのね。
「おう、どうだった?」
「……矢魔殿は書状を破り捨て、激昂しておりました。俺はそのまま城を後にしましたが、木端兵に追われ、少し帰還が遅れました。」
「戦闘は?」
「言われた通り避けました。こちらの領地に入ったので、迎え撃とうとしましたが、木端兵は矢魔殿の領地からこちらに入って来ませんでしたので。」
「へぇ、矢魔の所の雑兵にそんな知能があったとはな。」
矢魔は魔界に住む王の中では珍しく、軍隊と呼べる集団を持っているの。まあ、数が居るって話ね。ちなみに藤村の戦力は本人と副官二人、そして数えられるなら妻候補であるあたしと護衛のミヤ様で五人。八つ裂き丸様の所は四人。鉄朗さんの所は時々引退した筈の鉄明様が出て来るので、シルヴィスさんも含めて四人。宴脆様は一人。霊体である相魔は数を数えられないくらい分裂出来るけど、基本十体だと言われている。蝋羽には副官が五人居るので、六人ね。そうやって考えると、矢魔の兵力だけが突出して多いのよ。副官が八人、今話に出た雑兵と呼ばれる使い魔が約八百人。一人の副官に八十人の部下が居て、残りは矢魔本人が直轄している。ただ、この世界の戦力は魔力の積み重ねで計算されるから、これで七人の王のバランスが取れているのね。
「奸魔とか言う副官が先頭で追って来ましたが、こちらの領土に入る前に追跡を止め、部下に命令を出していました。」
「ふぅん。その奸魔だか言うのは策を使えるタイプなのか?」
「俺が見た感じでは、単純に気が弱いだけにしか見えなかったがな。」
「そうか……よく今まで淘汰されずに生き残れたもんだ。いや、弱いからこそ、慎重に行動していると考えておいてやるか。圭介、御苦労だった。綾乃が地球土産を買って来たようなので、今晩はそれでジンパ(ジンギスカンパーティの略語)と行こう。」
「はっ。それでは人数分用意いたします。」
八つ裂き丸様も藤村同様に食事をしなくても生きて行けるけど、お姉様が妻だから、合せて食事をしている。あたしはラム肉不得意なんだけど、考えて見ればお姉様も圭介くんも、シルヴィスさんも北海道出身だね。此処には居ないけど、揚子江様もシイくんも、繭鋳さんも北海道出身、札幌にあるトンネルは世界最大級で、4家の長は揚子江様だけど、実際に魔界に関わっている人って、殆ど札幌の人なんだね。
圭介くんはお姉様と一緒に謁見の間から出て行ってしまった。あたしも手伝いに行こうとしたんだけど、お土産の服が膨大で、椅子から立ち上がるタイミングを逸した。
「諒子は服を選んで着替えろよ。そのツンツクテンの服は、男には目の保養だろうが、やり過ぎると奇人変人の類になっちまうからな。」
確かに小学生サイズの服はもう体に合わない。身長も伸びたみたいで、おへそが出ているし、スカートがミニになってしまった。そう言われると、藤村以外の男の人に見られるのは恥ずかしい格好ね。あたしはおとなしく服を選ぶ事にした。
「俺は御馳走になって行っても良いのか?」
「ああ、綾乃もお前が魔界に来た事を知っているからな。いくら取り乱していても、人数分買って来ているぜ。多分余る程の量だろう。冷凍庫を作っておいて正解だったぜ。」
基本的に食事をしない人々の住む世界に、冷蔵庫も冷凍庫も必要ないのよね。テレビもあるけど、放送局がないから、放映はしていないの。家電って呼ばれる物の殆どが頭の中に内蔵されている人たちみたいなものだから、主にビデオを見るのに使うだけ。
ウチは自家発電機を藤村が何所からともなく入手して来た。八つ裂き丸様はこれも何所からともなく、太陽光発電パネルを入手して使っている。鉄朗さんの所は少し変わっていて、風力発電の大きな風車が三つある。これは鉄明様が修行用に持って来た物なの。鉄明様は風を起こす術を得意にしていて、その練習用だそうよ。ちなみに城や邸宅の明りは、各王が無意識に行っているので、電球も蝋燭もないよ。まあ、携帯電話なんて此処では使わないけど、副官クラス以上であれば、手で握るだけで充電出来る。
あたしはあれこれ服を取り出しては、自分の前に当てて、鏡代わりの窓ガラスに映して見ている。いただいておいてなんだけど、揚子江様とお姉様の趣味って、かなり偏っているよ。むしろオタク全開かな。看護士服やメイド服が混ざっているのは何故?
藤村が居れば何か感想を言ってくれるんだけど、八つ裂き丸様とシルヴィスさんはジンギスカン談義に花を咲かせているのね。ラムも良いけどマトンも捨て難いとか、タレを付けながら食べるのも良いけど、味付きもなかなかおつだとか、タレに山葵を少し入れて食べるのが好きだとか邪道だとか、おろし生姜の方が合うとかね。あたしは一味をタレに混ぜて、苦手な臭いを消して食べるのが好きだけど、藤村に辛過ぎると怒られる。あたしの味覚が正しいとも思わないけど、藤村は甘い方が好きみたい。
それから数日、魔界は奇妙なくらい平和だった。矢魔は激怒していたみたいだけど、戦争は起きていない。強いて言えば、腕自慢の魔物が鉄朗さんに勝負を挑んでボコボコにされたくらいかな。鉄朗さんは最後に王になった人だから、弱いと思い込んでいる魔物は結構多いのね。八つ裂き丸様は普段から魔力を開放してその強さをアピールする傾向があるんだけど、鉄朗さんは内に溜め込んでいるから、気付かれないという理由もあるんだよ。