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究極魔王の無茶ブリ。  作者: 大久保ハウキ
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3

 この世界の気温は宴脆様が調節しているので、特に暑苦しいとか寒いとかの感覚はないの。春と秋しかないような感覚の世界ね。あたしは部屋の裏にある中庭に出て、そこで作っている地球の作物に水を与える。これが育たないとあたしがこの世界で食べる物って殆ど無いのよ。藤村は形だけ見れば人間なんだけど、ご飯を食べる事はない。それは宴脆様も八つ裂き丸様も鉄朗さんも同じ、それを考えると人間って不便な生き物なのよね。魔界の出身者は魔界の大気から必要な栄養を摂取出来るように進化している。あたしはまだ魔物に成り切れていないから、大気から栄養を摂取出来ない。

「あたしって……役に立ってないなぁ……」

 一人呟いて水を与え終わったあたしは、雑草の処理と作物の剪定をしてから部屋に戻る。ベッドの上に起き上がった藤村が副官から手紙を受け取って読んでいる所だった。

「どうしたの? 何か緊急の呼び出し?」

「ああ、宴脆様からだ。シイの奴がこちらに向かっているので、お前も来いと書いてある」

 昨日の今日で報告に来るシイくんは凄いけど、向かっているという事は、トンネル内を歩いているという事なんだろう。本来トンネル内は自分の周りに結界を張って球状になり進む事で移動出来る場所なんだけど、お姉様の言われた通り、シイくんは極度の乗り物酔いをする。普通に人間が歩ける場所ではないんだけど、シイくんくらいの能力者ならそれも出来る。でも、それって無駄な能力だから、有能なんだかどうだかわからなくなるわ。

「あいつの足なら三日も歩けば着くだろう。こっちから迎えを出しても良いが、奴を何かに乗せると使い物にならなくなるからな」

 シイくんは他人の結界に入って移動するのも乗り物酔いするの。あれから5年は経過していると思うけど、其処だけは変わらないのよね。あたしが小さい頃会った時は揚子江様の背に背負われて具合悪そうにしていたのしか覚えていない。厳密には揚子江様の背中にも乗っている訳だから、これも乗り物酔いの対象になるんだけど、母親の背中だけは別物らしい。

 そして、シイくんは現在あたしの妹と結婚を前提にお付き合いしているらしいのよね。作戦の結果報告と日本に存在する能力者の束ねである4家の崩壊を防ぐ為の嘆願に来る事は昨日の間に宴脆様には報告してある。

 藤村の予想通り、シイくんは三日掛けて魔界に来訪した。シイくんの通ったトンネルはあたしが落ちたトンネルとは別のトンネルで、出口は空中ではなく陸地。八つ裂き丸様の領地内だった。そこまであたしが出向き、一緒に歩いて宴脆様の元に向かう。瞬間移動しても良かったんだけど、万が一それも乗り物に乗った事に該当するとシイくんは動けなくなってしまうから、歩くのが安全と思えた。八つ裂き丸様の副官である圭介くんともう一人が360度がっちりガードしているから、他の魔物に襲われる心配もない。

「染屋さんは見た目あんまり変わらないけど、僕と初めて会った時に比べると格段に魔力が上がったねぇ」

 染屋は圭介くんの苗字ね。

「それはそうよ、八つ裂き丸様の弟子で副官にまでなるくらいだもん」

「そうだね、八つ裂き丸さんは魔王の中でも武闘派だからねぇ。其処で数年修行して生き残れば当たり前か」

「そう言われるとあたしは少し凹むね。あたしは藤村の弟子でもあるけど、圭介くんほど魔力は上がっていないから」

「そんな事もないと思うよ。宴脆様が君に作戦遂行を任せたのも頷ける程、初めて出会った頃に比べると君も魔力は格段に上がっているさ」

「そう? ありがとう。ところで、素子は連れて来れなかったの?」

「うーん。4家の人間でも、魔界の空気には耐えられない人が殆どだからねぇ。多少の耐性はあると思うけど、宴脆様の前で挨拶出来る元気は無かったかな? 僕はこれでも小さい頃から母さんに連れて来て貰っていたから、大気生成の術は上手くなったほうだけどね」

 確かにあたしよりシイくんは自分の周りに地球と同じ空気を作る術に長けている。

「揚子江様にただ単におぶさっていた訳ではないのね」

「はは、君には出会う度に醜態ばかり晒していたからねぇ。それに母さんの結界移動はジェットコースターみたいに早いから、あれは僕じゃなくとも耐えるのは難しいよ。去年弟子入りした三樽別川先輩も別に乗り物に弱い訳じゃないけど、気分悪くなっていたもの」

 ここでも繭鋳さんの名前が出るか。藤村の言う通り少し気にし過ぎなのは認めなければならないね。これからもこの世界で暮らして行く限り、あたしは4家と付き合うんだ。その4家の長である揚子江様の弟子である繭鋳さんとも付き合うんだから、いつまでも誤解が解けていないフリをするのは止そう。

「素子は元気にしているの?」

「君が居なくなった時と、ご両親が飛行機事故で亡くなられた時は流石に取り乱していたけど、今は大丈夫だよ。どうして会いに行ってあげないの?」

 あたしは魔界に落ちてから一度も地球にも実家にも戻っていない。先日の作戦時もトンネルの出口付近で外の見える位置まで行ったけど、地球に出なかった。

「どうしてかな? それを考えると凄く曖昧な答えしか出せないの。妹が嫌いな訳じゃないし、お父様お母様が亡くなられた時も凄く心配したよ。素子はあたしより体が弱かったからね。でも、なんて言うのかな、精神力はあたしより強かった……元々の霊力もね。姉としてのプライド? あたしの言語能力じゃこれが表現の限界ね」

「ふぅん。やっぱり姉妹だね。似たような事を素子ちゃんも言ってたよ」

 藤村はご両親の顔も知らないから、家族の話をした事がない。あたしが素子の話をしたのも出会った時くらいね。だからこんな会話は久し振り。

「素子が頑張って4家の人間になろうとしてあなたを訪ねたのは解ったけど、去年の夏に一体何があったの?」

「まあ、札幌には魔物が多いって事は知っているよね?」

「ええ、お姉様に聞いているし、あたしも元々は4家の人間だから、札幌にあるトンネルが世界でも有数の大きさなのも知っているわ」

 先日神系が攻めると宣言したトンネル20ヶ所は全て大きなトンネルで、札幌にあるトンネルも含まれていたの。大きなトンネルは出口も勿論大きいので、魔界から地球に出て悪さをするのに向いているから、魔物の中で宴脆様の命令に従わない連中は結構頻繁にトンネルを通っているの。勿論あたしたちや揚子江様が結界を張っているから、そんな簡単には出れないけどね。それでも世界各地に比べると格段に札幌に出る魔物は多いの。

「素子ちゃんは4家の人間だけど、神埼家の能力をそれほど多くは受け継いでいなくてね。持っている霊力は高いんだけど、使い方を知らなかったんだ。それを教えるべきご両親とお婆さんは死んでしまったからねぇ。ついでに言うと、そんな幽霊退治や魔物駆除なんて仕事をしていたから早死にしたんだとお爺さんが言い出してさ。君の実家でもあるのであまり悪く言いたくはないんだけど、そのお爺さんが素子ちゃんに一切教えていなかったんだよ」

「JJ様が? 確かに入り婿だし、JJ様はその手の能力に関しては殆ど持っていなかったけど……それでも長年BB様と連れ添った方だし、あたしが居なくなった事で素子に修行させているんだと思っていたわ」

「それがさせていなかったんだねぇ。小学校を卒業する段になってその事が他の4家の耳に入ってさ。先日も言ったけど、4家は存亡の危機に陥っているんだよ。そこで本人の意思を尊重して、修行させる事になったんだね。これを決めたのは母さんだけど、母さんも忙しい人だからさ。僕と三樽別川先輩で初期の修行を行う事になったんだ」

 10歳より上の年齢になってから能力を開発するのは難しいと聞いた事がある。この数十年では今話に出て来た繭鋳さんと、シルヴィスさんが15歳で能力に目覚めた遅咲きで、特例扱いの筈。4家の人間なら小学校入学と同時に修行に入る決まりがある。あたしと素子のかくれんぼもその修行のひとつだった。JJ様がその決まりを破るなんて。

「勿論本人の意志次第だから、僕としてはあまり危険な事は素子ちゃんにして欲しくなかったんだけど、彼女の神埼家を継ぐ意志は固かったんだ」

「それで小学校最後の夏休みに北海道に行ったのは理解したけど、繭鋳さんの口振りではそこで何かあったんでしょ?」

「うん、まあ」

 珍しくシイくんの言葉が詰まる。

「なんか恥ずかしい行為に及んだとか言わないでしょうね?」

「それは誓ってないよ。僕も一応人間だからね。魔王のような事はできないよ」

「……あんたが親戚になるから言っておくけど、藤村とあたしも何もしていないわよ?」

「え?」

「藤村は魔物なのに紳士だと言ったの」

「ああ、そうか。いや、そういう意味で言った訳じゃないんだよ。その夏休みの合宿の最中に素子ちゃんが魔物に襲われてね。ちょっと危なかったんだ」

 それは初耳。

「丁度僕が別の仕事で学園から離れていて、三樽別川先輩も別件で母さんと行動中になってしまっていてね。二時間程彼女を一人にしてしまったんだよ。姉さんは既に卒業証明を貰っていたから、魔界に行って、八つ裂き丸さんとべったりだったしねぇ」

「其処を狙いすましたように襲われた? そんな偶然あるの?」

「うん。これは後で母さんに聞いたんだけど、素子ちゃんは素質があるのに鍛えていなかったから、魔物が感知し易いんだって」

 成程、それならあたしにも解る。魔物の感知能力は人間より鋭いから、霊力の高い人間が修行もなしにその辺歩いていれば襲われるね。時々肝試しなんて称して学生さんが幽霊屋敷に偶然入った揚句、本当に帰って来れなくなる話と原理は同じ。素子が札幌に入った瞬間はシイくんや揚子江様が周囲に居たに違いない、修行をある程度積んで結界を張っている場合は幽霊も魔物も殆ど警戒して近付かないもん。

「それで、襲った魔物がちょっとエッチな奴で、彼女の貞操を奪おうとしていたんだよ……」

 それは話たくないね。あたしなら一生隠しておきたい話だもん。それにしてもそんな類の魔物が札幌に居るなんて、次のトンネル結界強化作業にはあたしも参加しよう。

「まさか奪われたんじゃないでしょうね?」

「それは防いだよ。そりゃもう必死にね。ただ、本体は僕が倒したけどその魔物の精神の一部が素子ちゃんに憑依してさ、暫く素子ちゃんがエロい子になってしまって……」

「それであんたが奪ったんじゃないわよね?」

 あたしが凄むとシイくんは両手を上げて降参のポーズを取る。

「いや、だからそれは誓ってないよ。ただ、予定がかなりずれちゃったんだ」

「予定?」

「うん。僕から素子ちゃんに告白兼プロポーズをする予定がね……」

「ひとつ確認するけど、素子はあなたの事が好きなの?」

「……君と同じで小さい頃の僕は母さんに背負われているイメージしか持っていないと思うんだよね。魔物の精神憑依のお陰で聞き出すには聞き出せたんだけど」

「あんまり良く思われていなかった?」

「いや、逆だったんだよ。僕に会うのを楽しみにしていて、神埼の家の事が無ければ僕に告白するつもりだったみたいなんだ。僕は素子ちゃんがそんな想いを抱えて来札しているなんて思っていなくてさ。二時間でも席を外した事をかなり後悔したんだよ」

 あたしが言うのもどうかと思うけど、シイくんは幼いイメージがある。でも、揚子江様のご子息だけあって顔立ちは整っているんだよね。あたしの好みで言えばシイくんは合格ラインに入る美男子。能力も申し分ないよ。

「両想いで良かったんじゃない?」

 この会話は単なる世間話だとあたしは思っている。それと最近の地球の情報収集も兼ねているかな。シイくんがこの話を本気であたしに相談しているようには見えない。単なる惚気話にしか聞こえないもの。だって、両想いなんでしょ? 何か悩みがあるにしてもそれは贅沢というものよ。

 それにしても、素子が同い年の男の子を好きになるなんて思わなかったな。魔界に落ちたあたしを迎えに来た時のシイくんのイメージは確かにあんまり良いとは言えない、それと同じ状態の具合の悪い男の子を見て好きになるかな? 久々に再会して自分が魔物に襲われている所を間一髪助けたのはポイント大きいかも。でも、それより前から好きだったって事は、素子は最初に出会った時の印象で物事を言っているんだろうね。

「君が藤村さんに一目惚れしたのは頷けるんだよね。藤村さんは格好良いし強いから」

「まあ、それだけじゃないけどね」

「でも、僕は素子ちゃんの前では格好悪い所しか見せていないんだよ。どう思う?」

「いくら双子でも、そこまで感覚が似ている訳じゃないよ? あたしなら惚れないね」

「だよねぇ……」

 このシイくんの弱点が過去に見せた醜態であっても、今現在はかなりの能力者に育っているんだからなんの弱みにもならない。この男の子はあたしより上の能力者なの。

「あたしにはまだそんなもの身に付いていないけど、母性本能じゃない? 弱いシイくんを見て何か心に響いたとか、そんな感覚が素子の中にあったんじゃないかな」

 一応義理の兄弟になる予定の男の子に優しくして見た。シイくんはそれで何か納得したみたいで、何度も頷いた。

 歩いていても宴脆様の領土には辿り着けないので、あたしはシイくんに空中浮遊で乗り物酔いするかを確認する。他人の空中浮遊の術に巻き込まれた時は酔うけど、自分で飛ぶ分には問題ないと答えを貰う。ちなみにこの世界の移動手段は基本的に空中浮遊なの。今あたしたちが歩いていたのはたまたま道に見えるだけで、遥か昔、八つ裂き丸様が敵の魔物を殴って吹き飛ばした跡なのよね。

「じゃあ、飛ぼうか」

 そう言って宙に浮いたシイくんは、やっぱりあたしよりも圭介くんよりもこの術に長けていた。あたしは隣に並んで飛ぶのが精一杯だ。ちなみにスピードはジェット機くらいのスピードね。それくらいスピードを出さないと宴脆様のお住まいに今日中に着けないから。

「ちなみに訊くけど」

「何?」

 このスピードで飛んでいるのに会話出来るって凄いわ。シイくんはテレパシーも使える、頭に直接聞こえる感じのやつね。こんなに幼くして能力を色々極めてしまうと、将来が心配になるよね。

「君は僕が素子ちゃんとお付き合いするのに反対だったりする?」

 会話内容は恋に取り憑かれた子供だけどね。

「素子が選んだのがシイくんであればあたしは問題ない。シイくんが一方的に素子の事を追い掛けているのであれば、例えシイくんが揚子江様のご子息であっても、相殺してでも止める。それが神埼を捨てたあたしに出来る唯一の事ね」

「怖い事言うなぁ……」

「あたしにあんまりそういう怖い事を考えさせないでね。あたしは馬鹿だから、勘違いでもやる時はやっちゃうわよ?」

「素子ちゃんと双子とは思えないくらい性格が真逆だねぇ」

 それに反論しようと思ったけど、あたしは頭の中だけに留めて口に出さなかった。性格の話ね。あたしもこの世界に来てから気付いたけど、あたしの中には魔人の心がある。それは魂を分け合った双子の妹にも勿論あるのよ。素子はまだシイくんに自分の全てを出していない。それをあたしの口から言う事は出来ない。シイくんは素子の中に魔人の心があっても動じないだろうけど、それは二人の話し合いでしょ。いくら姉でもあたしが口出しして良い所と悪い所があると思うんだ。

 ちょうど良い具合に宴脆様の館が見えて来たので、二人の馬鹿な会話はこれで途切れた。

「ホウホウ。来たの」

 宴脆様は相変わらず全ての事に関して余裕な表情で、あたしとシイくんを部屋に招き入れた。こんなに何にもしていなさそうなお爺ちゃんが、この世界の気候や気温を今も操っているんだから、恐ろしい魔力を持っていると再認識させられる。

 勧められた椅子に座り、先日の神系との戦闘結果を報告。その後シイくんが素子とのお付き合いを報告し、件の子供が生まれた場合の話を切り出した。

「まあ、出来ればの。八つ裂き丸にも藤村にも言い含めてはおこうかのう」

 ゆっくりと顎鬚を撫でながら、宴脆様の視線があたしに向く。

「作ろうと思えば今でも作れます。でも、正式に結婚するまでは、藤村との約束ですから、今は作りません」

 まったく、女の子に何を言わせるのよ。地球ならセクシャルハラスメントだったかで、訴えられるわよ。

「諒子ちゃんには作る気があるようじゃ。ここは少し待ってくれんかのう?」

「はい、宴脆様の意のままに」

恭しく頭を下げるシイくんはさっきまでの恋愛中毒患者の顔を見せていない。

「それに関しては儂から条件を出させて貰おうかの? 藤村と諒子ちゃん、八つ裂き丸と綾乃の間に子が出来た場合の話じゃが、その子供たちに儂が魔界に必要と認める能力を授かっていた時、儂はその子らを地球には出さぬ。出しても良い程度の能力者であれば喜んで養子に出そう。魔界は地球より厳しい世界で、能力が低ければ駆逐される。それが王の子であってもじゃ」

 宴脆様の表情は変わらないけど、魔界の厳しさはあたしにもわかっているつもり。あたしの子供が藤村ではなくあたしに似て能力が低かった場合、あたしは4家を頼らずにでもその子供を地球に逃がすつもりなの。この世界の王は世襲制じゃないからね。

「しかし、それは決して地球をないがしろにしているという意味ではないので、そこは勘違いせぬ事じゃ。神埼の跡取り二人のうち一人をこの世界で受け入れた時からそれは揚子江とも相談しておった。しかし、諒子ちゃんの妹ちゃんがシイちゃんとお付き合いとは思わなんだでのう。その辺りは揚子江を見つけてからじゃの」

 妹ちゃんって。

「揚子江様はまだ見つかっていないのですか?」

「ウム。綾乃に探らせた所、生きてはいるようじゃが、何者かに捕えられたようじゃな」

「母さんが何者かに捕まる?」

 揚子江様は宴脆様にでさえ捕まえる事の出来ない能力者の筈。シイくんの疑問符は正しいよ。行方不明ならよくある事だけど、揚子江様が捕まるなんて事は考えられない。

「揚子江が自分の意志でその世界から出ないという事はよくある事なんじゃが、その理由を必ず誰かに連絡する。それが今回はまったく無いんじゃよ。念の為シイちゃんの義父になる予定の少年とも連絡して見たんじゃが、これも色好い返事とはならんかった」

揚子江様はお姉様とシイくんを生んだ後離婚している。夫になった人が揚子江様の能力をまったく理解出来なかったからなの。それに揚子江様は昔恋仲だった人の魂が転生するのをずっと待っていて、150年近く待ち疲れたので、自棄になってその男と結婚した節があると藤村に聞いた覚えがある。魔界ならまだしも、地球で年を取らない人間は揚子江様以外に居ないと言っても過言じゃないからね。それで、あたしが藤村に会う一年くらい前にやっとその人の魂の四分の一を持つ少年に出会ったの。確かお姉様の二つくらい年上かな。ミノルさんというのだけれど、そのミノルさんが揚子江様の今の彼氏に該当するのね。でもまだ本人に覚悟が決まらないんで、告白もお付き合いもしていないのが現状なの。ミノルさんは16歳からずっと日本代表に選ばれているスポーツ選手で、凄く忙しい人、去年なんとなく入ったプロチームで年間最多アシスト記録を塗り替え、MVPに選ばれたそうよ。ちなみに超能力者ではないの。

魂というのは分割されるのね。死んだ人から魂は抜ける。勿論抜けた瞬間は一つ。それが成仏したいと願う魂と生き返りたいと願う魂の分量で分割してしまう。揚子江様の探し求めた大事な人の魂は四分の一が成仏し、四分の三が転生に回ったと言われているの。じゃあ、残り二分の一は何所かと言うとね。それが繭鋳さんなのよ。繭鋳さんは聖戦士の魂と揚子江様の大事な人の魂が半分ずつ合体して生まれた転生体なの。繭鋳さんが妙に正義感が強かったり、妙に日本古来の武術に秀でていたりする理由は其処にあるんだって。だから揚子江様は四分の一の魂を持つ男の子と付き合いたいのね。流石の揚子江様でも、同性との結婚には抵抗があったみたい。

「そこで相談なんじゃがのう」

 宴脆様の相談はイコール実質の魔界覇者からの命令、あたしは固唾を飲んで宴脆様の次の言葉を待った。

「揚子江を探して連れ帰ってくれんかのう? 勿論お前さんたちの自由意志は尊重するがの。儂にとって揚子江は地球ひとつより、魔界全土より重い存在なのじゃ。あやつは儂と同じ探究心を持ち、行動出来る能力もある。地球全体を武力で制圧出来る程の能力を持ちながら、それをしようとせぬ。地球の覇権などより世界の成り立ちを見極めるのが優先な女子じゃ。儂ももう年じゃて、流石に恋愛感情はないがの。居ないと不便なんじゃよ」

「僕は行きます」

 あたしは即答出来なかった。揚子江様は尊敬する人物だけど、あたしには家庭がある。まだ何もしていない家庭だけどね。神系との戦いでも死ぬ事は考えなかったし、藤村も一緒に行動していた。シイくんは揚子江様とシルヴィスさんの次に地球では役に立つ能力者だと言われているけど、二人での捜索に自信が持てない。

「勿論儂も一緒に行くがの。なんというても未知の生物との戦いになるやも知れぬからのう。神とやらには暫く襲って来れぬ程のダメージを先日与えておるし、敵対しておる三人の王の抑えは八つ裂き丸と藤村、鉄朗に任せるとして、この世界では一応最大戦力の儂が動くのじゃ。後学の為にも良いと思うんじゃが?」

 相変わらずあたしの考えている事なんてお見通しね。確かに宴脆様が戦っている姿は見た事がないから、興味はあるよ。それに魔界一の能力者が一緒なら危険は少ないのかも知れない。

「でも、あたしは自信がありません」

 思った通りに口に出してみた。

「先日の作戦でも、あたしは集まった能力者の中で最も能力が低かったと自覚しています。あたしはそんな弱い自分が許せないんです。」

「フム。そう思うかの?」

 宴脆様の視線がシイくんに向いていた。彼はあたしの顔を凝視して何か考えているみたい。

「そうは思いませんが……此処に繋がるトンネル内の諒子さんはその能力を発揮していましたよ? 自分で気付いていないだけなんじゃないですかね?」

 意外な答えだった。

「あたしの能力って何?」

 思わず訊いてしまった。宴脆様もシイくんも苦笑いだ。

「自覚してしまうと発動しなくなるかも知れないから、僕の口からは言えないよ。」

「儂にも言えんのう。」

 無意識に発動している能力というのがあるのは知っている。素子がエロ魔物に襲われたのも、自分で意識していない状態で魔物を引き寄せるオーラみたいな物を発していたからよ。あたしにも自覚していない能力があるって事なんだ。しかし、それが見当もつかない。

「ヒントくらいなら良いかの?」

「気付いてしまって能力が発動しなくなっても、僕は知りませんよ?」

 この二人は年齢をあまり感じさせない会話をするのね。宴脆様は多分一万年くらい生きておられるし、シイくんは13歳の筈なんだけどね。まるで昔からの親友みたい。

「諒子ちゃんは先日の作戦で依頼した戦士たちに何か対価を払ったかの?」

「対価?」

「簡単に言うとお給料を出したかって事だね。」

「地球や魔界の危機を救うのに給料が発生するの?」

「ウム。何事も対価なしには成立せぬ。勿論給料は例えじゃが、それ以外に何か支払った物はあるかの?」

「……何もしていません。シルヴィスさんにも繭鋳さんにもお礼を言ったくらいです。」

「ホウホウ。そうじゃな、それも対価と言えば対価じゃ。まあ。シルヴィスの名が出た所で引用するが、あ奴は傭兵という職業じゃ。その文字の通り雇われた兵士なのだから、地球では金を用意せねばならん。あ奴の所属する会社という組織では、様々な計算式での対価が払われる仕組みになっておっての。今回のように相手の人数が解っている場合、あ奴は一人につき百万円程の単価が支払われる。今回は出撃しておらんも同然じゃが、その会社の規約によると、時間給が発生したりもする。それと成功報酬じゃな。今回は敵を完全に追い払っていて、しかもこちらの被害はほぼ無い。所謂完勝じゃ。成功報酬と時給で2千万円くらいは稼ぐ算段じゃな。この作戦に参加した人数を掛けると結構な金額じゃが、諒子ちゃんはそれを支払っておらぬ。」

「あたしはこの世界に落ちて来てから、一度もお金を使った事がありません。」

 そりゃそうだよ。だって魔界に通貨はないんだから。

「しかし、皆手を貸してくれる。ヒントはここまでじゃ。藤村に訊いても良いが、藤村も気付いてはおらぬぞ。」

 藤村でさえ無意識にあたしに力を貸しているというの? そりゃあ、思っていた程魔界の生物は凶暴って訳でもなく、ある意味紳士的とさえ言える。あたしがそうして貰えるのはあたしにそういう能力があるから? 

「ちなみにウチの一族は元々無償でしか働かないから、含まれないよ。宴脆様もですね?」

「ウム。これ以上のヒントは無いのう。殆ど言うてしもうたも同然じゃ。」

「あたしには、能力者でもタダ働きさせる能力が無意識に発動している?」

「ネーミングセンスは藤村並みに無いのう……もう少し格好良い名前を考えるんじゃな。」

「……自分の能力を知っても今の所無くならないようですね。」

「名前が確定した時が問題じゃな。無意識を意識した時、発動するか否か……諒子ちゃんは興味深いのう。ホウホウ。それから注意事項じゃ。その能力の事、藤村に話すまでは良いが、他には漏らさぬ事じゃ。揚子江にもシルヴィスにも、八つ裂き丸や綾乃にもな。能力が解ってしまえば破るは容易いのは知っておるじゃろう?」

「それは無論心得ていますが、ひとつ質問です。」

「なんじゃ? 儂に解る事ならば答えよう。」

「あたしが魔界に落ちて来て、藤村に救出された時も、その能力が発動していたんですか?」

「諒子ちゃんは地球で生まれたその瞬間から能力を発揮しておるよ。勿論藤村と出会った瞬間も今もじゃ。しかし勘違いするでないぞ? 藤村は諒子ちゃんに心底惚れておるという事をの。その能力に魅了された為に藤村が諒子ちゃんを嫁にしたいと申しておったならば、儂は認めておらぬよ。」

 言われたあたしの心に何かが響いた。

「良かった……藤村の愛情があたしの刷り込んだ物じゃなくて……藤村はあたしの能力であたしを愛していると思い込まされている訳じゃないんですね? あたしと両想いなんですね?」

「そうじゃ。諒子ちゃんの欠点はその思い込みで塞ぎ込む事じゃな。」

 宴脆様が頭を撫でてくれる。シイくんがポケットからハンカチを差し出していた。あたし、泣いてたんだ。この世界に来てから泣いた事なんて無かったのに、藤村に厳しい修行をつけられても、他の魔物や王に少々蔑まれて見られても、泣くまで凹む事はなかったんだよ。それが何? この涙は一体どうして流れているんだろう。藤村の事よね。あたしが変な能力を使って無意識に藤村の心を奪ったんじゃないから、安心してしまったんだ。なんて女々しい考え。それでも神埼の長女かよ。弱い、弱いなぁ、あたし。

「泣かせるつもりはなかったんだよ。ゴメンね。」

「……ありがとう。でも、あたしの能力を見破っている二人はどうしてそんなに優しいの?」

 宴脆様とシイくんが顔を見合わせた。そして、同時に口を開く。

「興味深いから(じゃ)」

「呆れた。あたしを見ているのが面白いから放って置いているの?」

 今日のあたしは怒ったり泣いたり笑ったりが普段より激しい。

「ホウホウ。儂は諒子ちゃんがこの世界に落ちて来てからずっと見続けておるぞ?」

「僕はあまりこちらには来ないからね。そんなに監視とかしている訳じゃないけど、見る度に能力が増しているから結構驚いたりしているんだよ。」

 そんな会話がされ、結局あたしも揚子江様の捜索を手伝う事になった。一旦報告の為に藤村の私邸に帰る。藤村の副官が随行する以外で、男の人を連れて私邸に帰るのは初めてだった。

「……成程、こんな気持ちなんだな。」

藤村がシイくんを出迎えながら、そんな言葉を呟いたのをあたしは聞き逃さなかった。

あたしの作った畑の野菜とハーブティをいただきながら、藤村に宴脆様の命令を伝えると、藤村は苦笑いする。

「今回は遠出になるな。宴脆様は俺を試しているんだろうか?」

「愛情の深さって話?」

「ああ、まあ、そんな感じだな。俺が任務で他の女性と居るとお前が怒り、逆だと俺がどう思うか試しているんじゃないかと思えてならんな。」

「僕は諒子さんに手を出したりしませんよ?」

 ハーブティを啜りながら、シイくんはどこ吹く風って感じ。

「それは信頼しているぜ、なんといってもお前は義弟になるんだからな。」

「魔王が二人も義兄になるなんて、流石に僕も計算していませんでしたよ。」

 それが本当なのかはあたしには解らない。シイくんは結構策士だとあたしには思えるからね。中庭での午後のお茶の時間はあたしがここに来てから決めた事。藤村は任務を与えられていない限りはこのお茶に付き合ってくれる。今日はそこにシイくんが居るけど、たまに副官が同席する事もあるから、そんなにあたしも藤村も気にはしない。

 シイくんには此処に泊まってもらい、翌日の午後に鉄朗さんの領土で宴脆様と待ち合わせた。揚子江様の居なくなったという地面に開いた大穴は、鉄朗さんの領土にあるからよ。

「鉄朗、くれぐれもこの穴に入るでないぞ? 矢魔、相魔、蝋羽が動いた場合は、八つ裂き丸と藤村に任せ、お主は此処の結界を強化する事に集中するのじゃ。」

「ええ、わかってますよ。」

 短く答えた鉄朗さんは、藤村と似た黒いロングコートに身を包んでいる。魔界の王の中では最も若く、顔も体格も能力もシルヴィスさんに似ている。

「では、行こうかの?」

 宴脆様は簡単に言うけど、この穴は、宴脆様の作る太陽の光を完全に遮断している。地球から続くトンネル内でも、多少の光は確認出来るのに、此処にはそれがない。つまりは闇の世界ね。その穴が下に続いている事は判るけど、足を入れた途端にその足が無くなってもおかしくないくらいの深い闇を有している。魔界は不思議な世界だね。

「宴脆様、結界は張らないのですか?」

「ウム、防御結界を張り巡らせて進入するのは容易いが、先ずは肌で感じねばならぬのう。なに、入った途端に死ぬという事もあるまいて。揚子江も単独で入れた穴じゃからの。」

 揚子江様とあたしじゃレベルが全然違うけどね。それでも、宴脆様が入られたので、あたしたちも続いた。穴には重力があり、下に落ちるのは地球と一緒。空中浮遊を使って、ゆっくりと地表まで降りる。見上げても入って来た穴が見えない。降りた距離感に間違えが無ければ、500メートルくらいかな。暗闇だから、地表もあんまり見えないのよ。足から伝わる感覚では、土じゃないみたい。

「フム……石畳じゃの。」

「と言う事は、この穴は人工的に作られた物ですね。」

「そうなるかの。自然に刳り抜かれたにしては、断面が奇麗過ぎるからのう。しかし、魔界の地下にこれ程巨大な人工物が存在するのは驚きじゃ。儂も長年魔界の調査をしておるが、わざわざ地下を掘り返そうなどとは思わなんだ。」

「この穴はいつ頃出来たんですか? 発見されたという意味ですけど。」

「そうじゃな。発見されたのは今から6年程前かの。諒子ちゃんが魔界に落ちて来た日に、これは出来たのだと思うのう。」

「あたしが落ちて来た日に?」

「ウム。それがはっきりとは判らんのじゃ。その頃の儂らは、この魔界の傍にある異世界に問題を抱えており、揚子江と藤村は其処の調査、鉄朗は地球に赴任しておった。留守の間の領土の管理は儂と八つ裂き丸で行っていたんじゃが、この穴が出来た日は、何故か二人とも穴が開いた事に気付かなんだ。藤村がたまたま任地から帰還し、諒子ちゃんを発見した日でもあったんじゃが、これ程の大穴が開いたのを見逃すとは、儂も耄碌したかの。」

 あたしって運が良いんだね。この時藤村がたまたま任務の途中経過を報告に帰ってなければ、あのままあたしは窒息死していたんだよ。

「石畳の傷み具合から見て、数千年は経過していると推測出来ますね。」

 シイくんが掌に光を集めて床を照らす。

「つまり、何かが、少なくとも数千年はこの穴の中で暮らしているって事よね?」

「そうなるね。母さんはこういう遺跡みたいなの好きだから、夢中になって連絡もしないで探検している可能性が出て来たよ。」

「問題は、その何かと揚子江が共存共闘しているのか、敵対しているのかだのう。この穴に住む生物は、どうにも儂の探査結界に引っ掛からん。まるで誰も居ないかのように、わざとそうしているのかも知れぬな。シイちゃんや、掌に光を集めるのは、敵かも知れぬここの生物を呼び寄せ兼ねんので、止めておくが良かろう。」

「ああ、そっか。それもそうですね。」

 ちなみにあたしたちの目は、光が無くてもある程度物が見えるようになっているんだよ。

「防御結界に切り替えて、儂らも捜索に入るとするか……。」

 言い掛けた宴脆様が、何かを感じたようで、言葉を切る。あたしとシイくんも探査結界は飛ばしているけど、何も引っ掛からない。宴脆様は探知したみたい。流石は究極魔王だよね。

「否、まさか、儂ともあろう者が……これ程近付かれて、気付かぬとは!!」

 宴脆様が叫ぶなんて見た事ないよ。宴脆様の視線の先に何かが居るんだ。その辺りを見てみるけど、あたしの目には何も映っていない。暗闇にしか見えないよ。

 そう思って宴脆様を振り返ると、宴脆様の眉間に皺が寄っていた。

「囲まれておるぞ!!」

「えっ?」

「嘘でしょ?」

 宴脆様が腕を前に突き出して、掌を広げる。指先から爪が急激に伸びて、暗闇を貫く。何かが其処に居たんだ。でも、宴脆様が外した。当たったようには見えない。究極魔王の攻撃を咄嗟にかわせる、見えない生物って何?

考えていたあたしの目の前の空間に、切れ目が出来た。1メートルくらいの横長の切れ目。

「?」

「諒子さん! 離れて!!」

 普段余裕の顔のシイくんまで焦っていた。横長の切れ目が開く。それはどう見ても、何かの口だった。中には人間としては有り得ない牙がガタガタに生えている。闇の中に突然赤い中身の口が現れた。それは、当たり前のようにあたしを食べようとして開いた口だよ。開いた口は、あたしを一撃で頭から足まで食べれそうな程、大きい。

「くっ!!」

 防御結界を張りながら、あたしは下がる。口が物凄い勢いで閉まって、防御結界の端っこに触れた。

「!!」

「防御結界を食ったぞ!?」

 球状に張った結界を、その口は、文字通り食べた。

「おのれっ!! 儂を究極魔王と知っての狼藉か!?」

 宴脆様が切れ目に向かって攻撃するが、またもや空振り。口を閉じてしまえば、あたしたちにこの生物は見えず、気配も感じられない。あたしの防御結界を食べた生物は、簡単にその場から一歩引いたか、横に逃げたんだ。

 開いた口の感じから、巨大な生物の筈なのに、かなり素早い。あたしたちは背中合わせになって周囲を警戒する。この中で一番弱いのはあたしだ。この生物に目があり、脳があり、考える力があるなら、それは既に見抜かれていると考えられる。

「!!」

 あたしの右腕の辺りに痛みが走る。何か、鉄製の束子で引っ掛かれたみたいな痛み。袖が破れ、血が流れる。そんなに深い傷じゃない。

 その右腕の痛みに視線が闇から逸れた。戦闘中に自分の腕なんか見ている場合じゃないけど、痛いとどうしても神経がそこに集中してしまうのよ。

「諒子さん!!」

 顔を上げると、シイくんの掌が見えた。あたしを突き飛ばす。そのシイくんの後ろに、大きな口が開いていた。

「ウワっ!?」

 シイくんは体を回転させて横に逃げたけど、左足が間に合わなかった。

「シイくん!!」

 口が閉じられ、一撃でシイくんの左足の膝から下が闇に消える。

「くっ!! 血液噴射と光照射!!」

シイくんは食われた左足の傷口から、自分の血を周囲に撒き散らす。掌から光を照射して、闇の中で血が地面に落ちない場所を特定し、血液が光を反射して、その生物の全体像を闇に浮かび上がらせた。

そこに宴脆様の攻撃が集中する。

宴脆様の一撃は、その生物を吹き飛ばした。今、一瞬見えたその生物は、あたしには巨大な『海胆』にしか見えなかった。あたしの右腕を掠ったのは、その針状の体毛みたいな物。丸くて、そこに1メートル近い口があるだけの生物。そこに目がある事も確認出来なかった。一度視認してしまえば、宴脆様の敵ではない。宴脆様がその一匹以外の周囲に居た連中を次々と退散させた。

「ヌウ……こんなバカげた生物がウロウロしているとは……なんという世界だ。」

「シイくん!!」

 足を抑えて止血する。シイくんの左足の膝から下は、食べられて完全に無くなっていた。

「……防御結界ごと食べられちゃったよ。宴脆さん。今のは一体何ですか?」

 自分の足が食い千切られたのに、意識を失う事も無く、シイくんは宴脆様に質問していた。あたしの魔力じゃ止血するのが精一杯だ。宴脆様は周囲に尚も警戒しながら、口だけ動かす。

「儂の記憶に間違えが無ければ、あれは『犬』じゃな。」

「犬? 犬って、地球にも居るけど、あの犬ですか?」

「ウム。この暗闇の支配する世界で、独自の進化をした犬じゃよ。体毛の色を暗闇と同化し、気配を絶ち、近距離で口だけ開けて獲物を食う。魔界では既に絶滅した種じゃが、こんな世界で生き残っていたのか……これはお主らのレベルで探検出来る場では無かった、シイちゃん、許せ。」

「体全体食べられて、跡形も無くなっているよりは、マシな状態だと思いますよ。母さんがあれに食われた可能性も出て来てしまったなぁ。」

 足を食べられて、かなりの痛みがある筈なのに、母親の心配している場合じゃないよ。

「揚子江の気配は一応感じてはいる。今の犬共が、揚子江を捕まえて拷問するような知能の持ち主ではないだろうから、単独で行動して、戦っていると考えられるな。見えていれば、問題なく対処出来る生物じゃが、凶暴な事に変わりはない。魔界ならまだしも、地球に出現されれば、国のひとつくらいは滅ぶような戦闘能力じゃ。」

「放置出来ずに、戦っているなら、母さんらしいと言えば、らしいな。この前の聖戦士みたいに堕天なんてお手軽な方法じゃ片付けられないもんね。」

 シイくんはあたしの肩を借りて立ち上がった。座っていれば、見逃してくれるような生物じゃないのは理解したよ。少しだけ空中浮遊を使って浮き上がる。こういう時は便利な能力だよね、シイくんは足が無くても立っていられるから。

「宴脆様、あいつらがこの世界の住人と考えてよろしいですか?」

「ウム、あれ以上の奴が居れば、既に駆逐されて絶滅しているじゃろう。まあ、素が地球にも居る犬じゃからな、群れで行動している可能性があり、揚子江単体では対処し切れないのやも知れん。なんとか合流して、此処から抜け出す事を優先するとしよう。調査は後日改めてとするかのう。」

 こっちは怪我人も居るから、それどころじゃない筈なんだけど、シイくんの目もまだやる気に満ちている。やっぱりこの人たちは基本的に戦闘バカなんだよね。

「光結界!」

 宴脆様が叫ぶと、宴脆様を中心に、大きな光の玉が出来上がる。これなら真黒な犬たちが入って来た場合でも対処出来る。まさか気配さえも消して近付いてくるタイプの生物だとは思っていなかったから、油断したと言えばそれまでね。あたしは左肩をシイくんに貸しながら、右腕の傷の事は忘れて、あたしの出来る最大放出系術の準備をした。今度口を開けたら、その中にたっぷり喰らわせてやるんだ。

「お? あそこに居るのは揚子江ではないか?」

 結構離れているけど、見覚えのあるアイヌ紋様の入った服を着た揚子江様が、壁を背にして座っているのが見える。それに向かって浮遊し、降り立ったあたしたちは愕然とする。

「母さん!」

 どう見ても、それは血の気の無い顔で、あたしには死んでいるようにしか見えないよ。

「ヌウ……息絶えておるわ。しかし、何故犬共は揚子江を食わずに放置しておるのだ? 死体でも肉は肉であろうに……。」

「そんな! 揚子江様の気配を感じていると仰ったではありませんか?」

「ウム、今も感じておるが……幽体離脱か? それならば、霊体となって犬と戦っているのやも知れん。シイちゃんや、迂闊に動かしてはならんぞ? 元に戻れなくなるからのう。」

 母親の遺体に近付こうとしたシイくんにそう注意する。それにしても、宴脆様の言う通り、揚子江様の遺体に噛まれた跡もない。犬は揚子江様を何故食べないんだろう。

「あらあら……折角私が綾乃ちゃんもシイくんも五体満足に産んだのに……台無しねぇ。」

 その声があたしたちの後ろからしたので、宴脆様までが仰天して振り返った。其処にはあたしたちの目の前でぐったりしている筈の揚子江様が苦笑いの表情で立っていたんだもん。そして、更にその揚子江様の足元からも声が聞こえて、あたしは飛び上がりそうなくらい驚いた。

「お前が宴脆かよ? まあ、俺は独りなんだが。」


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