学園異能力バトルに乱入してきたうちのばあちゃんが最強だった件。
――突然ですが、現在、
暴れ狂う巨大なドラゴンから逃げまどってるとこです。
ぎゃおおおお、と耳をつんざく咆哮が、僕らの走る廊下にとどろく。
背後から猛烈なスピードで羽ばたいてくるのは、全身を赤茶色の鱗に包まれた、空想上(のはず)の巨大生物。
「こっちだ!」
さとるの声に慌てて方向転換し、脇の階段を三段飛ばしで駆け下りる。
その直後、さっきまで僕らが走っていた廊下を、ごおおおと真っ赤な火炎が通り抜けていった。溶け落ちた何かが階段の上からどろりと流れてくる。
「んとにもう誰だよ! 校内に定形外サイズの炎系ドラゴン召喚したの?!!」
僕の右横を並走するさとるが、マジギレ状態で叫んだ。
焦げ臭いにおい。謎の蒸気。周辺の気温が一気に上がり、視界全体がゆらゆらと揺れる。猛烈な蜃気楼。
さっきまでクラスメイト全員で応戦しようとしてたけど、ムリ。これまじ死ぬ。
クラスメイトの大半は教室のある4階でリタイア――つまり逃走からの下校に成功した。
「何で俺らだけ追われてんの?!」とさとる。
「知るか!」と僕。「ねぇアイツ人間って食うかな?!」
「知るか!」とさとる。
午後の授業は全部中止だ。当たり前。
ちなみに漢文の授業の最中だった。内職で世界史の年号でも暗記しようとしてたのに、これのせいで全部忘れた。恨む。
ぶー、ぶー、とかすかな音。隣を見れば、さとるがジャケットの胸ポケットからスマホを取り出すところだった。
「LINE来た。犯人、Aクラの田中らしいぜ」
「犯人探しはいいから、いま生き延びることを考えよう?!」
「本人が片付けるのが一番早いかなっておもったんだけどな……あ、今、貧血で保健室運ばれたって、田中」
「だめじゃん田中」
顔知らんけど。まぁこんなでかいの召喚すれば、そりゃ倒れもするだろ。
「今日の実技はアイツの一人勝ちかぁ」
隣の校舎に続く扉を上履きで蹴り開けて、さとるが不満そうにぼやいた直後、
「――そうはさせるかよ」
かっこいい声がわりこむ。足元に影。
目にも留まらぬ速さで僕らの頭上を通り過ぎた人影が、棒状の何かを高く振り上げた。
――がぁん!
甲高い打撃音。まじでぇぇーとか言いながら、一人の男子生徒がはるか後方へと吹っ飛んでいった。
「「委員長!!」」
僕とさとるが叫ぶ。
彼は我らがクラス委員長だ。無念。
ドラゴンの勢いは衰えない。委員長の安否も不明だけど、とりあえず逃げねば。
「こっち!」
僕が開けた扉から二人で適当な空き教室に飛び込んで、そのまま通り抜けて窓から出る。花壇を飛び越えたところで、教室内からガラガラと机と椅子がぶつかり合う音。
校舎沿いの細い小道を駆け抜ける。
「あ、あそこ窓開いてる!」と僕。
「よし!」とさとる。
二人で同時に窓から室内へと飛び込んで、
「うわあああ!」「きゃーー!」
その教室に待機していた複数人の一年生たちが、暴れ狂う巨大生物の姿に泣きそうな悲鳴を上げる。
「やべ、こっち一年校舎か!」蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う赤ネクタイたちに、さとるがめんどくさそうな顔をする。「なんでまだ残ってんの! 家帰れよ!」
「まだ真面目なんだよ……」
僕らも一年のころは勝手に帰るとかできなかったなぁ。
「げ、追いつかれ――」
花壇のレンガをばらばらに蹴り飛ばしたドラゴンが、僕らのすぐ真後ろで勇ましい咆哮を上げ――
突如、火柱が上がる。
巨大生物は爆音とともに右斜め後方に吹っ飛んだ。ざざざざざと校庭を一直線に滑っていく。
「お」
さとるの呟き。
「やぁっと追いついたー」と少女の声。
学年主席の高瀬さんだ。
窓枠を乗り越えて教室に入ってきて、カバンをぽんと床に放り出す。
「よぉし、」ヘアピンの位置を直した高瀬さんが、きゅっ、と上履きを鳴らす。「ここで仕留めよ!」
翼を広げて校庭を飛ぶように駆けてきたドラゴンが、でかい口をガパッと開けて、ごおおお、と火を吹いた。目の前の窓がどろりと溶けた。窓もガラスも一気になくなる。
「え? ……火ぃ吹くの?」
「おう、さっきっからそれで手こずってる」
さとるが焦げたジャケットのそでを高瀬さんに見せる。
「ガラスの融点ってどんくらいだっけ……」と高瀬さん。
「少なくとも、俺らの融点よりは高い」とさとる。
「まーいーや、やってみよ!」
トン、と上履きが軽い音を立てて打ち鳴らされたかと思うと、炎の前にひとつの影が、前触れもなく躍り出る。瞬間的に大きく跳躍した少女のほうへ、舌打ちをしたさとるが援護に駆け出す。
ドラゴンがまた火を吹いた。
「熱っつ!」
放たれた火炎を間一髪でかわした高瀬さんに、鋭い鉤爪が迫り――
「むりむり、帰ろ!」
その明るい声とほんのわずかな着地音は、僕のすぐ目の前から。
「え、……あれ?!」
いつの間にかドラゴンからものすごい距離をとった高瀬さんが、教室の端にほっぽっていたカバンを持ち上げ。
「三人でカラオケ行こ!」
「いやっ俺らこのまま市街地出たらただのテロリストだから」
「じゃあ、あたし先に帰るねー」
「え、ひどくね?」
「ほんとに帰っちゃったよ高瀬さん……」
マイペース極まりない子だ。
途端にまた僕らのほうへ向かってくるドラゴン。慌てて後退すると、さとるがドアを蹴り開けて、僕らは廊下に飛び出した。わっと広がる騒動で、ドラゴンの位置に気づいた同級生が何人か駆け寄ってくる。
教室の壁を破壊して廊下に出てきたドラゴンが、狭い廊下で窮屈そうに翼を折りたたみ、タイル張りの床に着陸するなり。
「わ、キレた!」
大きく咆哮を上げ、しならせた太い尻尾がばしんと床を叩く。地鳴りと振動。びきびきと音を立てて、放射状の亀裂が床に広がる。慌てて距離をとる。
そこへ、二階から階段を駆け下りてくる、いくつかの人影。
「三年生だ!」と誰かが叫んだ。
「どいてろ二年!」
先陣を切って駆け込んできた男子生徒が、ばっと両腕を広げて背中を丸める。洋服の繊維が引き裂かれる音。ジャケットとズボンを突き破って――両腕両足と背中から、大小様々な金属が突き出る。蛍光灯の下、ぎらりと光る金属光沢。
「あ、あの先輩みたことある。あの武装感」と僕。
「去年の体育祭で、三年生蹴散らしてMVP取ってた人でね?」とさとる。
「そーかも、そーだわ。強そう」
しきりに頷く僕の前、その先輩は両足の金属をがつがつと鱗に突き立てて、ドラゴンの広い背中を一目散に駆け上がる。先端が槍状に尖っている長い金属棒をドラゴンの後頭部に向けて構え、
「あぶな――」
横から襲ってきた右の翼をひょいと屈んでかわし、
身をよじったドラゴンの顔が、すぐ目の前に迫る。
「――!!」
太い牙に噛み付かれた金属が、バキバキと音を立てて次々に砕かれる。それに一瞬ひるんだ隙に、
「ごわ!」
先輩は奇声を上げてふっ飛ばされた。壁に激突する直前、空気のクッションにでも当たったかのように、先輩の全身が変なふうに中空で跳ね、
「だ!」
そのまま背面から地面に。
「痛そ」とさとる。
「あれは痛い」と僕。
「くっそ……」その先輩はすぐに立ち上がって、背中を押さえ、ぜぇ、と荒い息を吐く。「お前な! 助けるならちゃんと助けろ!」
同級生らしき別の男子生徒がそこに寄っていって、未だ金属片の残る足を蹴り飛ばす。
「お前こそペース配分考えろよ、この瞬発馬鹿が」
「うっせ。つーか二年!」壁際の群衆を振り向いて、「なに突っ立ってんだよ、手伝え、おれの役に立て!」
好き勝手に怒鳴りつける先輩。
「……どいてろ、の、意味とは……」
群衆の中から恨めしそうに呟くさとる。
「つーかてめぇも! 全部食うんじゃねーよ! 一本くらい残せよ!」
今度はドラゴンに説教をかまし始める先輩。
同級生がスコンとその頭を叩く。
「黙れ三年の恥さらし」
「――ねぇ、召喚解除は誰か試した?」
すぐ背後から別の声。周囲の生徒がいっせいに首を振る。
振り返った先には、我らが生徒会長がいた。
「おお、生徒会だ!」
群衆の何人かが気づいて騒ぎ出す。
「おい」生徒会長の右横から声。「あいつが詠唱のあいだじゅう、大人しく魔方陣の中に入ってられると思うか?」
無表情を崩さない書記のツッコミに、
「その方法を考えるのがお前の仕事だろ」
にっこりと笑顔を浮かべる生徒会長。書記の眉間に深いしわ。
「勝手に決めるな」
「頼むよ」
「下手に出るな気色悪い。ったく」
『書記』の腕章をむしりとった無表情な男子生徒が、それをぽいと廊下に放り出し、つかつかとドラゴンのほうに歩いていく。二年生の生徒会役員の一人が落ちた腕章を拾い上げる。
「先輩律儀なんだよ、これ予備のない備品だから」
友人らしき隣の生徒に小声で説明して、誇らしげに微笑む。
生徒会長が長い指を組んで目を伏せる。聞きなれない言葉の羅列がその口から流暢に綴られる。足元から謎の風が巻き上がって、周囲の人間の髪をかき混ぜていく。
ドラゴンの足元に、ぶわりと青い光の魔方陣が浮かび上がる。
「で、なんで詠唱できんの……?」とさとる。
「さあ……」と僕。
召喚者本人以外の解除術式の詠唱なんて、普通、暗唱でできるもんじゃないと思うんだけど。ハイスペックすぎる、生徒会長。
ドラゴンの喉から押し殺したような音が聞こえてくる。
その傍ら、壁を背にして両手を宙に向けて大きく広げた書記の先輩が、ぼたぼたと汗を垂らしている。
「いやこんなん……押さえとけって……無理いうなよ……!」
両腕ががくがくと震え始め――ごう、とドラゴンが再び火を吹いた。
消火用のスプリンクラーが天井から吹き出すけど気休めにもならない。すぐに蒸発して白い霧になり、ドラゴンの羽ばたきに一蹴されて消えた。
廊下のタイルの上で光っていた魔方陣が、一瞬で掻き消える。
「くっ、効かないとかー!」
誰かの悔しげな声が聞こえたと同時、後方からわっと声が上がる。
「先生だ!」
どしん、と重量系の巨体が、ドラゴンと生徒会長のちょうど間くらいに着地する。体育の先生だ。
「え、どこから降ってきたの先生」
「先生遅いよ!」
駆け寄ってくる生徒たちに、首の筋を伸ばしながら先生が答える。
「職員会議が長引いてな」
「生徒守るの第一じゃないの?」
「大丈夫だ、お前らは殺しても死なん」
きっぱり言い切る先生が、
「最低!」
何人かの女子生徒にすねを蹴り飛ばされていた。
「さて。……ふーむ、あれは定形外サイズの炎系ドラゴンだな」
「見りゃ分か」
書記の先輩が顔をしかめて言おうとするのを、疲れた顔で寄ってきた生徒会長が止めて。
「先生、弱点などご存知ですか」
「ふんぬ」
荒い鼻息と同時、両腕の三角筋がめこりと盛り上がる。
「問題ない。――生物は、叩き潰せる!」
「……出たよ」とさとる。
「でも頼もしい」と僕。
両腕に力こぶを作ったままの先生が、猛烈な勢いで駆けていく。大きく踏み切り、飛び上がり――がつん、とドラゴンのあごを下から突き上げた。
撒き散らされていた火炎がふっと途切れる。
口を閉じたドラゴンの鼻の上に、書記の先輩が軽やかに着地する。口から突き出て上向きに生えている牙のひとつを、片手でぽんと叩く。
「!!」
ドラゴンが目を剥く。喉の奥からうめき声。
鋭い牙の間から、ちろちろと細い炎の筋が漏れ出るだけになる。
「何したんだ?」
急に大人しくなったドラゴンとその鼻先に立つ書記を見上げ、先生がたずねる。
「咬合面のヒドロキシアパタイトの結晶構造をちょっといじりました」
なるほどと頷く生徒会長。
「……そうか良くやった」明らかな棒読みの体育教師。
まぁいいやと書記が呟く。
口を開けれないことに気づいたドラゴンがパニックになり、だすだすと両足を踏み鳴らす。校舎が大きく揺れる。そのまま廊下を駆けていこうとする巨大生物の腹部を、
「新校舎には、行かせんぞ!」
両腕を広げ中腰に構えた先生が、がっちりとホールドした。
「むむむむ」
低い声でうめきながら踏ん張る先生の足元、廊下のタイルにヒビが入る。
「あのセンセが押されてるよ……」
慌てて何人かが援護に入る。
そこに。
「あらあら、まあまあ」
よく聞き覚えのある声がした。
「……え? ば、ばあちゃん?!」
廊下の先に――紫混じりの白髪頭をひとつにくくって、夏っぽい着物の上にいつもの割烹着を着ている、小柄なおばあさんが一人。ええと、確か……そうだ、小千谷縮っていうのよ、って前に教えてもらった。
まぁとにかく、いつものばあちゃんだ。
「は? お前のばあちゃん?」とさとる。
「う、うん。ばあちゃん、どうしたの。なんでガッコに?」
「あつくんがお弁当忘れたってお母さんが言ってたから、お買い物のついでに持ってきたのよ。はいこれ」
「あ、やべ、ほんとだサンキュ。……ってそうじゃなくて! ここ今危ないから、逃げるよ!」
そう言ってばあちゃんの手を掴もうとした僕の手は、空を切る。
「そうねぇ。そろそろ帰らないと、お父さんが町内会の集まりから戻ってくるんだけどねぇ」
ごはんつくらなきゃー。
とか言いながら、数人の生徒を引きずったまま尻尾をぶん回し翼をばたつかせているドラゴンのほうに、とことこと向かっていくばあちゃん。割烹着を腕まくりしつつ。
「ばあちゃん!! 道!! 間違ってる!!!」
僕の絶叫。
そんなの全然気にしてない感じで、
「おばあちゃん、参戦~!」
鈴を転がしたような可愛らしい声で、ドラゴンを前に無邪気に言い放つばあちゃん。
ドラゴンを押さえつけていたままの体育の先生が、間近から聞こえたその声に顔を上げてこっちを見て――ものすごくぎょっとなる。
ドラゴンを押さえている力が緩んで、みんなしてずるずると廊下を移動する。
「ご……っ、ご無沙汰しておりますルミさんッ!!」
軍隊か何かのように緊張しきった顔で勇ましい挨拶をする先生に、「あらあらこんにちは、お元気にしてた?」などとのほほんな返事をするばあちゃん。
「ばあちゃん。センセと知り合いなの?」
「後輩よ」
「あ、なるほど」
おばあちゃんはうちのガッコの古い卒業生だ。用務員のおじさんとも知り合いだし、そう言えば校長とも知り合いみたいなことを言ってた気がする。
……でもこの、なんだろう、センセのぎこちない態度。昔の先輩後輩の上下関係ってそんなに厳しかったのか。
「じゃなくて! だからばあちゃんここ今あぶないから――」
僕は助けを求めて隣のさとるを見る。そこに、いつになく真剣な表情があって、僕は一瞬言葉を飲み込んだ。
「あー。まぁ、言われてみれば口元の辺りとか鼻の形とか、あつに似てんなぁ」
「は!? いまそこ!?」
「って、あれ? あつのばあちゃんが持ってるの、木しゃもじじゃね?」
「いや持ち物とかどうでもいいっ……って木しゃもじ!?」
暴れるドラゴンに向けて、びしりと木のしゃもじを構えるばあちゃん。
「いやいや……」
どうしようこの状況。
「まずい!!」壁際に立っていた書記の先輩が青ざめて駆け出す。「結合、切れ――」
ごぅお、とドラゴンの口から猛烈な火炎が吹き出し、ドラゴンを押さえつけていた全員が慌ててその手を離し――
ドラゴンの腰のあたりに、こつん、と木しゃもじが当たる。
そこから、カッと謎の閃光。
視界が一気に白くなる。
「――?!!!」
僕が再び目を開けたときには、もうもうと一帯を覆う土煙の中で、地にめりこむように伏せてぴくりとも動かないドラゴンの巨体と、その上にちょこんと腰かけてころころと笑うおばあちゃんと、その前の廊下にひれ伏すようにしている体育の先生の姿があった。
何が起きたのか分からなかったけど……倒した。
倒したよ。
「なんで?」とさとる。
「さぁ……」と僕。
ばあちゃんは体育の先生に何か言うと、ドラゴンの背からぽんと下りて、とことこと僕のほうに寄ってくる。僕の手にぽんと弁当箱を置き、
「じゃあね、おばあちゃん帰るからね」
「え、あ、ちょ……」
僕の制止なんて一切聞かずに、体育の先生と生徒会長に一礼するとさっさと昇降口のほうに向かっていく。
僕は混乱したまま、手の中の、まだほんのりとあったかい弁当箱を見下ろした。汚れひとつない紺色の弁当包みの上に、竹の模様の一筆箋。ばあちゃんがいつも使ってるやつだ。
とても達筆な字で、
――残さず食べること
まだ乾いてないインクが、僕の指にちょっと付いた。
「……いつ書いたんだ?」
僕の肩越しに一筆箋をのぞきこんで、さとるが呟く。
「さぁ……」
「お前のばあちゃんっていったい何者?」
聞いてくるさとるに、
「うん、僕が知りたい」
僕は真顔で返す。
どうやら少しは生き残っていたらしい放送設備から、昼休みの始まりを告げるチャイムが間抜けに響いた。
***
で。
半壊の校舎で午後の授業なんかできるわけもないので、急遽、点呼とって解散になった。田中と担任と実技のセンセと、それから召喚時に居合わせた田中のクラスメイトは、これから現場検証らしい。
あと、行方不明者の捜索。たぶんほとんどが勝手に帰っただけだと思うけど。
ドラゴンの暴走についての現場検証は、居合わせた人数が多いので、生徒会メンバーと体育の先生が代表で残ることになった。
追い出されるように学校を出たせいで、昼飯食べる時間も場所もなくて、重たいままの弁当箱を手に持ったまま、僕は通学路を歩く。
「はぁ、散々な目に遭った……」
「あら、あつくんおかえり」
通学路の途中にあるばあちゃんちから、いつも通りのばあちゃんの声。
「……うん、ただい――ばあちゃん?」
「今日は、学校終わるの早いのね」
庭の生垣に水やりをしているばあちゃんの姿がある。
「うん。だって、さっき……うん?!」
まぁ二度見したよね。
……あれ?
違和感に気づいて素早く周囲を見回す。
庭の真ん中にある物干し竿には、干し終えたばかりに見える、まだ湿った二人分の洗濯物。雑草のぎっしり詰まったゴミ袋が3つ。草むしりを終えた一画はまだ黒い土が見えている。
あと、それから、僕の足元には打ち水の跡が残っていて……
「あれ?!」
「あぁそうだ、佃煮できたからお夕飯に持ってってね」
そこで電話がジリリと鳴って、はいはいと返事をしながら、ばあちゃんが縁側を上がって居間に向かう。
僕は門を開けて庭を横切り、縁側の端っこで爪を切っている、じいちゃんのとこに寄っていく。
「おかえり、あつ」とじいちゃん。
「うん、ただいま。――あのさ、じいちゃん、今日の昼飯って、ばあちゃんと食った?」
じいちゃんはとても不思議そうな顔をして。
「ああ」
ちなみに、じいちゃんの近くには、きゅっとひねられた白いお絞りと、砕いた氷を入れた麦茶のグラスが、木のお盆に載せられて置かれている。
ばあちゃんが居間から戻ってくる。
「お父さん、自治会長さんからお電話ですよ」
「今行く」
のそりと立ち上がって居間に向かうじいちゃんを見送ってから、ばあちゃんが僕を呼んだ。
「あつくん、もしかしてまだお昼食べてないの? ここで食べてく?」
「ああうん、そうする」
「じゃあ煮物も出しましょうか。佃煮も食べる?」
「食べる。……って、ばあちゃん、あのさ」
テキパキと言ってさっさと台所に向かうばあちゃんを、僕は小走りに追いかける。
いつも通りだ。
「あ、あのさ、ばあちゃん、さっきの……」
「さっきの?」
「いやだから、さっき」
「何かしたのかルミ子」
電話を終えたじいちゃんが、どっこらしょ、と居間の座椅子を引いて座った。
「いえいえ。小蝿を追い払っただけですよ」
恥じらったように言うばあちゃん。
「小蝿」
まじか。
うーん、昔の人の感覚はよく分からない。
困惑しながらじいちゃんの対面に座って、ちゃぶ台に弁当を広げる僕。僕の弁当を見て不思議そうな顔をしたじいちゃんが、柱の時計を見上げて、ああと言う。
「今日は半ドンだったのか、あつ」
「……半ドン?」
「半日授業のことよ」
台所のほうから、ばあちゃんの補足。じいちゃんのデコ付近のしわがちょっと増える。
「言わんか、半ドン」
「うん、初めて聞いた」と僕。
明日さとるに言ってみよう。
ばあちゃんが麦茶と煮物を持って台所から出てきた。
これがな、とじいちゃんが煮物の中のささがかれたゴボウを指さす。
「さっき町内会の集まりで、自治会長さんからもらってきた」
「さっき」
ちなみにじいちゃんは男子厨房に入るべからず、の信念の人だ。
だからこれ作ったの、ばあちゃんなわけで。
僕は煮物に箸を伸ばした。よく煮込まれてて美味い。
作ったのか。あのあと。
美味い。
……時間軸、おかしくない?
「ねぇ、手慣れた主婦って、そんなにマッハで動けるもんなの?」
「なんの話だ?」
じいちゃんのデコのしわがひゅっと消えた。
***
空になったグラスを持って、麦茶のおかわりを取りに行くついでに、僕は台所掃除をしているばあちゃんに小さく声をかける。
「じいちゃんに内緒なのは分かったから。あのさ、ばあちゃん。さっきのどうやったの?」
「そうねぇ、あれよ、ツボ押しの要領よ」
「ツボ押し?」
「ここだ、ってところをグッて強めに押すの。コツをつかめば、あつくんにもできるわ」
「いや、しゃもじで強めに押すだけで、火ぃ吹いてるドラゴン一撃瞬殺できるの……世界でばあちゃん一人だけだと思うよ?」
「あらそう?」
なんでそんな能天気に嬉しそうなんだろ。
僕の疑問と困惑を置き去りに、今日も日は暮れていった。