気が付けば男はそこに居て
ぼろぼろの、朽ち果てかけている荒寺に住んでいる男が居た。
髪はボサボサ。着ているものは体に引っ掛けているだけとしか思えない、薄汚れた布だった。男は唯一、雨漏りのしない本堂で寝起きをしていた。蓆の上に布を敷き、その上に寝転び、何処から手に入れたのか、女物の着物を掛けて眠っていた。
男が何処から来たのか、いつの間にここに住み着いているのか、村の者たちは誰も知らなかった。ただ、気が付けば男はそこに居て、山に入っては川で魚を捕り、山菜を採っていた。その折に村の者と顔を合わせる事があったので、男がそこに居ることを、村人は知ったのだった。
男は、村人の姿を見れば異様に白い歯をむき出しにして、子どものように笑いかけてきた。男の風体に異様さを感じ身構えた村人は、その笑みを見た瞬間に警戒を安堵に変え、反射的に笑みを返していた。
男と言葉を交わすことは無かったが、男の姿を見止めて笑みを交し合い、会釈をし、収穫物を交換したり分け合ったりしているうちに、村の人々は彼を招くことはしないまでも、受け入れ、時折口の端に彼の話を上らせては、彼の衣が貴族や武家の衣装が乱れたような形状であることに、権力争いに負けて追い出されたのだとか、跡目争いで命を取られそうになったところを逃げてきたのだとか、さまざまに語り合った。けれど誰も、彼にそれを問う事はしなかった。――村の人々の誰も、彼の声を聞いたことが無かったからだ。
村の人が天気のことなどを話しかけてみても、男は頷いたり笑みを深くしたり渋い顔をしたりして、音が聞こえ、話を理解している様相を見せるが、音を発したことは無かった。それで、村人たちは彼に出自を問う事をしなかった。知ったからと言って、どうということも無いだろうと、村人たちは思っていた。男が村に危害を加えることは無かったし、気にする必要も無いと、考えた。ただ、隣人を気にする程度の気持ちを彼にかけて、畑の収穫を分けに荒寺に行ったり餅をつけば届けに行ったり、という事をするようになった。それは男が、ボロボロの衣をまとっているというのに、腰に見事な長剣を下げており、それで獣を仕留めては食べきれぬ分を村に分けに来ていたので、その返礼のようなものであった。