6.復讐の時
案の定、部屋の中では赤いドレスに身を包んだ女が長椅子にしなだれかかり、その傍にジュリアが控えている。闖入者に眉をひそめ、しかしすぐに王太后はクロエを無害だと判断したのか血のように赤い唇に微笑を乗せた。
「あら、お嬢さん、部屋をお間違えでなくって?」
上気している頬を見るに、かなり酔っているのだろう。彼女の手には赤い葡萄酒が並々と注がれた細長いグラスが握られている。
「ジュリア、何てことを。赤ワインはいけないと」
ライガルド塔の時のように何らかの方法で魔種を飲まされ、寄生されるようなことがあってはいけないと、この舞踏会で提供されている飲み物は全て透明なものに限られているのだ。それはジュリアもよく分かっているはずだというのに。元侍女という肩書きからして王太后の所望を断りきれなかったのだろうか。クロエは屈辱で震える声を押さえつけながら王太后へと語りかけた。
「――い、いけません、陛下、赤ワインは危険です。もし何か混ぜ物をされれば」
「嫌よ。私は赤ワインが一番好きなの。脅迫が何だって言うの、私に盾突けるような人間がこの国にいるはずないわ。私が殺されるですって?」
大きな口を開けてけらけらと笑う王太后にクロエは拳を握り締める。
――いるわ、ここに。今すぐにでも殺せる。
だがそんなことはできるはずがない。まだ玉座に就く覚悟も何もない自分にはできないことだ。暗い衝動を胸の奥に押し殺し、首を振って長椅子へ歩み寄った。今にもワインの零れそうなグラスを取り上げようとし、手を払われる。見れば、ジュリアがクロエの手を叩いて睨みつけていた。
「ジュリア?」
「邪魔をしないでくれ、クロエ」
何を言っているのか、理解できないままにクロエは突き飛ばされた。同時に王太后の手からグラスが落ち、毛足の長い薄緑の絨毯が赤く染まる。
「がはっ」
王太后は喉を押さえて体を強張らせる。赤いドレスが舞い落ちる薔薇の花弁のようにうごめき、その下で艶かしい体が悶えるのに見入るばかりでジュリアは動こうとしない。
「ジュリア、どうしたの?」
「ぐ、ぅ」
王太后の顔が見る見るうちにドレスと同じ色に染まっていく。まさかと思いながら彼女に飛びつこうとすれば、ジュリアの抜いた剣先が突きつけられ、クロエは動きを止めざるを得ない。
「ジュリア、まさか、嘘でしょう」
「クロエ、悪いがもう少しだけじっとしていてくれ。そうすればこの女は体の内側から魔物に食い破られて死ぬ。私の復讐も果たされるんだ」
「復讐……?」
ジュリアの黒い瞳が鋭い光を帯びる。
「姉がこの女に自殺に追い込まれた。だから私は――」
彼女の言葉が途切れたのはクロエがドレスの裾をめくり上げ、忍ばせてあった短剣を投じたからだ。彼女ならば避けられるだろうという体のすぐ脇を狙えば、予想通りジュリアはそれを避けてわずかに体勢を崩す。
そこへ躊躇なく体当たりし、かすった剣先でドレスの裾が裂けるのも気にせずにジュリアを絨毯へと押し倒す。背中を打った衝撃で、ジュリアは剣を手放した。その隙を見逃さず、クロエは彼女を無力化すべく詠唱を始めた。
「第三十八の宵闇及び黎明が――」
しかしジュリアはその祈りを阻止しようともがき、体の小さいクロエにはそれが押さえきれない。ジュリアの手が一度手放した剣を拾おうとさまようのも、腕を握って止めようとするのだが力負けしてしまいそうだ。
「クロエ」
背後から聞こえたのはベッドフォード公爵の声だ。クロエが安堵の息をつくと同時に、ジュリアは体中の力を抜いた。
「……どうせ死ぬなら、あの女に断頭台に送られるよりは」
そして小さく詠唱を紡ぐ。あっと思う間もなく、クロエは公爵によってジュリアから引き剥がされた。それを待っていたかのようにジュリアの体からは無数の黒く鋭い角が凶暴な速度で突き出す。
「第三十四の歌声に祝福を」
「待って!」
公爵の紡ぐあまりに短い祈りに、クロエは彼の腕を掴んでそれを止めようとするのだが一足遅かった。一瞬で完成した青白い神代文字の紋――魔導紋が、異形と化しのたうつジュリアの体に、突き出した黒い角に絡みついていく。
「どちらにしてももう助かるまい」
公爵の言葉に反応するようにジュリアの体が激しく痙攣し、だがすぐに動きを止めた。ジュリアの体を中心に頂いた彫像のように固まり、その異形はぴくりとも動かない。
「………………」
思わず顔を背けたクロエの視線の先に、床に落ちて苦しんでいる王太后がいる。
(魔種を除かないと!)
王太后に駆け寄り、公爵に助力を願うべく振り返る。だが彼は動こうとはしない。
「公爵、手伝っ――」
「ヘンリーの目は確かだったようだ。クロエ、今がその時だ」
「え?」
公爵はクロエの耳に甘い息を吹き込んだ。
「これは千載一遇の好機だ。ここには君と、その忠実なる臣下である私しかいない。今こそ君の憎しみを晴らす時ではないのかね」
「憎しみ……」
背中に手を置かれる。その下にはこの女につけられた消えない傷がある。この傷のせいで私は――
「何もせずとも放っておけばこの女は死ぬ。君や母君が受けた苦しみのほんのひとかけらに過ぎないが、それでも少しばかりの痛みを味わって」
「………………」
少し。少しでいいのか。言い表せないだけの屈辱を、痛みを、悲しみを背負わされて、それなのにこの女はほんの少しだけ苦しんで終わるなんて。
それでいいのか。
クロエはつばを飲み込み、絨毯に落ちていたジュリアの剣を拾い上げる。
この手で。
「クロエ!」
悲鳴のような声が彼女の意識を引き戻す。見れば、ヘンリーが部屋に飛び込んできたところだった。彼はクロエの瞳を真っ直ぐに、今にも泣き出しそうな顔で見つめる。
「復讐なんてやめるんだ。君は自分の受けた苦しみを他人に味わわせて、それで本当に嬉しいのか?」
嬉しい?
『また一緒に遊びに来よう』
あんなにも些細な言葉が涙が出るほど嬉しかったのに、今は――
「クロエ、君は苦しんでいる人を助けたいんじゃなかったのか?」
今、目の前で一人の女が苦しんでいる。差し伸べてくれる手もなく泣き叫んだ幼いクロエ自身のように。
「わ、私は……ヘンリーさん、私は」
クロエは強い意志を瞳に宿し彼を見つめる。
そして剣を捨てた。
「第三十四の歌声響く広間を」
祈りの言葉を紡ぎながら王太后の頭を膝の上に乗せ、口の中に思い切り手を突っ込む。詠唱に呼応し青白い神代文字がもがく王太后の頭部の周りに浮かんだ。途端、王太后が少しばかりおとなしくなる。
「聖域として邪悪なる怒りを退けんがための女神の祝福を希わん!」
指先に触れた塊を強く握りこんで勢い良く引き抜いた。
「ごっ、あ、あ」
王太后の口から血と共に、クロエの手によって不気味な黒い塊が引きずり出される。正体を現したそれを絨毯の上に叩きつければ、ヘンリーによって白刃の先端が突き立てられた。ぎゃっと甲高い声で吠え、塊は動かなくなった。
クロエの膝の上から王太后を抱え上げ、ベッドフォード公爵は深く息を吐く。
「賭けは君の勝ちだ、クロエ。君は私の望むようにはならなかった。君が捜しているあの女のことはいずれヘンリーが話してくれるだろう」
「局長、お待ちください。僕がジュリアが怪しいと申し上げたのに彼女を警備から外さなかったのは、まさかこのため――」
「そうともヘンリー、私の判断が誤っていた。君の言葉に重きを置かなかった私が愚かだった、それだけのことだ。ただ、外したところで彼女はいずれ同じことをしていただろうがね」
二人に背を向け、公爵は意識を失っている王太后を抱いたまま扉へと向かう。廊下の置くから人の声が聞こえる。他にもこの状況に気付いた者がいるのだろう。
「また賭けをしよう、クロエ」
振り返って楽しげな様子でそれだけ言うと、公爵は廊下へと出て行く。
(そういうことだったのね)
危険を顧みずクロエをこの舞踏会に参加させたのも、着替えさせたのも、公爵からすれば自身の勝ちを掴むための技巧にすぎなかったのだろう。もしも正体を知られ追い詰められれば、あるいは復讐心に駆られれば、クロエは逆に王太后を手にかけるしかなくなる。そうなれば、クロエが玉座へと就くことを望む公爵が勝ちを得ただろう。
ヘンリエッタのことを知るヘンリーを送り込んできたのも、昔のことを思い出させ、復讐心を煽るつもりだったのではないかとさえ思えるのだ。
クロエは公爵が姿を消すのを黙って見送った。
惨劇の現場となった部屋はすぐに封鎖され、クロエはヘンリーと共に別の部屋で待機させられていた。今は放って置かれているが、王太后への応急処置や他の客の検査などが終われば今度は彼女達が話を聞かれる番になるだろう。しかし何を話せばよいのだろう。クロエにはなぜジュリアがこんなことをしたのかも分からなかったし、あの犬の件やライガルド塔での事件、脅迫状全てが彼女の仕業だったとは未だに信じがたいのだ。
あの犬に魔種を寄生させたのはロバートを狙ってか、それとも魔種の威力を確かめたかったのか。姉の墓参りを置いてでもライガルド塔に行ったのは、あの事件を起こすためだったのか。それもロバート達を狙ったためか。
区署の窓から顔を出してクロエ達を急き立てたジュリアの顔が脳裏に浮かぶ。あれだけ優しかった人が誰かを傷つけるために魔種を使った。いやそれとも、クロエを守るために、処刑される人々を救うために、二つの事件を起こしたのか。
今回のこともアンの復讐だけだったのか、それとも王太后を排し国民に平穏をもたらしたいと考えたからなのか。彼女が口を閉ざしてしまった今となっては分からない。それでも王太后は生きている。クロエが女神に祈りを捧げ、あの女を救ったからだ。
それはジュリアが望んだことを否定したということだろうか。少なくとも、彼女が命を懸けてまで挑んだことをクロエは打ち砕いてしまった。
せめて彼女が生きていればと思ってしまう。だが、どれだけ祈ったところで彼女を生き返らせることはできない。魔術は万能ではない。
「クロエ、本当に怪我はないのかい」
「え、ええ、本当に大丈夫だから」
先程から薄っすらと笑ってはいるが、落ち着きない様子でヘンリーは度々クロエに訊ねてくる。その度に肩に手を置いたり、顔を間近で覗き込んだりと、この調子では今にも無理矢理ドレスを剥いで体中調べ始めそうだ。
「……よかった、君が思いとどまってくれて」
ぽつりと彼が零した言葉にクロエは俯く。
「あの人……苦しそうだったもの」
拷問にかけられて痛みに悶えていた侍女のように、背中に刺青を彫られる自分のように、王太后はひどく苦しんでいた。目の前で苦しむ誰かをやり過ごすことが逃げなのだと、自身がヘンリーに言った言葉があの瞬間、王太后の姿を鏡として返ってきた。
魔警局員として苦しんでいる人を助けたい、あの銀髪のヘンリエッタのように誰かを救いたい、そう心に誓って生きていたのを思い出せば、それを裏切ることはできなかった。自身を裏切ることは、救ってくれたヘンリエッタへの裏切りになってしまう気がしたのだ。
「それに、あの人を殺すことや殺した後のことを考えても、ちっとも嬉しくなかったの。でも本当に小さな、他の人からすればきっと何でもないようなことがすごく嬉しかったのを思い出して、私、あの人を殺せばそういうものを失くしてしまう気がして――それをあなたはそれを気付かせてくれたわ」
「僕は君に、今の静かな幸せを守って欲しかった。王女だとか復讐だとかそんなことを忘れて、一人の女の子として生きて欲しいとずっと思っていたんだ」
「――そう言えばヘンリーさん、私のこと知って、いたの?」
クロエの訝しがる視線から一度逃げた後、ヘンリーはゆっくりと彼女に向き直った。
「クロエ、僕がヘンリエッタなんだ。あの時君を連れて逃げたのは僕だよ」
「嘘!」
間髪入れずクロエは叫んだ。
「だって、あなたはヘンリーさんでしょう。あの人は背も小さくて髪も長くて女の子だったもの」
ヘンリーは眉を下げ、重い口を開く。
「僕の母親は後妻で、嫁いできた時すでに男の子が三人もいたから、娘が欲しいという父のそう重くもない願望にひどく萎縮してしまったらしくて、生まれた僕が男だったことに落胆して、女の子の格好をさせてヘンリエッタと呼んで――いつの間にか、僕を女だと思い込んでしまったんだ。それは今でも……」
ロバートやバース侯爵の悪意の篭った言葉の意味がようやく理解できた。
「あの時十六だった僕はまだ背も低くて髪の色も薄くて、女の子のような顔立ちだったから、母親のことと合わせて周りからはヘンリエッタと呼ばれていたんだ」
「それじゃ、本当に」
「……気味が悪いだろう。魔警局の養成学校に通っている間でさえ、実家に帰ればコルセットを着けて可愛いドレスを着て、口調も仕草も女の子のようにして、それで周りからも馬鹿にされて――そんな僕は」
クロエはいつの間にか震えているヘンリーの手を握った。
「ヘンリーさん、私は貴方を気味が悪いだなんて思わない。あの時私を助けてくれたあなたは本当に強くて優しくて、立派な人だったもの。だから見た目や仕草なんて関係ないわ」
「…………」
白い手袋を嵌めたヘンリーの手は大きく、クロエの小さな手のひらではとても包みきれるものではない。それでも彼女はできる限りの強さで握りこむ。
「それに私はあなたを恨んでもいない。あなたにはあなたの守るべきものがあったから、王太后の命に従って、あの男の言うことを聞いていたのでしょう。それを捨ててまで苦しんでいた私を助けてくれた――本当にありがとう。私を助けてくださって、ありがとう」
底冷えのする石造りの部屋から逃げ出した時も、人気のない田舎道を追っ手に怯えながら急いだ時も、ヘンリエッタは強く手を握ってくれていた。それがどれだけ心強かったか。クロエは強くヘンリーの手を握った。
「……ねえ、ヘンリーさん、どうしてあなたがあの人だったと黙っていたの?」
「気味が悪いなんて思われたくなかったし、恨まれていると思って。それにあまりあの時のことを思い出して欲しくもなかったから。街で君を見た時に僕がこの区署へ配属された理由が分かった気がしたよ。そして背中を見て確信したけれど……すまない、僕は卑怯だったね」
「少し安心したわ」
きょとんとしたヘンリーの顔が少しおかしくてクロエは口に手を当てて小さく笑った。
「いつもにこにこして何を考えているか分からなくて、私のことを子供扱いする隙のない大人の男の人かと思っていたけれど、でも本当はちゃんと感情豊かな人で安心したわ」
ヘンリーが困ったように口角を上げる。それを見てクロエは眉頭を寄せた。
「……ごめんなさい。私、あなたがつらいことを我慢していたのに、笑って逃げているなんて言って。痛みに耐える苦しさは私も知っていたはずなのに。本当にごめんなさい」
「いいや、僕こそ、君の言う通り逃げていた部分はあったんだ。でも君は自分が誓ったことから逃げなかったから、祈るより復讐する方が余程楽だっただろうにあの人を助けたから、僕も――」
ヘンリーは絞り出すような声で言った。
「君はどうしてそこまで……そんなに、強く」
「え?」
「ジュリアにも君のような人がいてくれれば、きっと」
「………………」
ジュリアとは同じ憎しみを抱いていたはずなのに、互いにそれに気付けなかった。もっと早く彼女の心のうちを知っていれば、あるいは誰かが彼女の支えであったならばこんなことにはならなかったかもしれない。
(私は彼の言葉で踏みとどまることができたけれど、ジュリアは)
彼女が不憫に思えてクロエの目尻から涙が一筋落ちた。それをきっかけに、堰を切ったように涙が溢れ出す。
「クロエ――」
「ヘンリーさん、クロエちゃん、公爵がお呼び……わ、だ、大丈夫?」
部屋に入ってきたフレッドがクロエの涙を見て慌てる。ヘンリーが差し出したハンカチで目元を拭って微笑を見せ、クロエは立ち上がった。
「ええ、私は大丈夫。行きましょう」




