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刺青の王女  作者: 川井
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5.舞踏会

 

 三章


「待ってくださいっ……!」

 悲鳴に近い声を上げ、クロエは自分の体を抱きしめた。伸びてくる六本の手から赤い制服を剥ぎ取られまいと必死の抵抗をしているのだ。

「や、やめてください、私……」

「まあ、そんなに恥ずかしがって。どうなさったの?」

「時間がありませんわ、早く用意しないと」

「すぐに可愛らしくして差し上げますわ」

 全く同じ顔の三人の娘がきゃあきゃあと喚きながら、クロエを取り囲む。その中心で彼女はこの状況をどう切り抜けるべきか頭を必死で働かせていた。

 公爵から命じられた王太后の舞踏会の警備、今日はその当日である。ヘンリー達と四人で開催場所である離宮まで来たのだが、クロエは別室へ通されて服を召しかえるようにと指示されたのである。

 実際に着替えさせようとしているのは三つ子らしい三人組の女官だが、彼女らはベッドフォード公爵に指示されてそうしているとのことであった。ドレスを着ていればとても警備には見えないからいいだとか何とか言いながら、三人の女官達は楽しそうにクロエを着替えさせようとしてくるのだ。

 しかしドレスに着替えるということは今着ている下着も全て脱いで別のものに替えなくてはならない。そうなると彼女達に背中の刺青を見られてしまう。いくら公爵の息が掛かっているとは分かっていても、彼女らが王宮に使える女官だ。王太后にこのことがもし知れようものならどうなるか。そうでなくともあんな刺青を見られればどう噂されるかと考えると、とにかく服を守らなければと焦ってしまう。

(あの人、一体何を考えているの)

 憤ってみても公爵がここへ来て申し開きをするわけでもない。

「恥ずかしがらないで」

「きっと似合うわ」

「お化粧も任せて」

「待っ――」

 どこまでも楽しげに迫ってくる三人にこれ以上の抵抗のしようがないと当惑していたところで、突然背後の扉の向こうから声が掛かった。

「失礼」

 ノックもなしに扉が開き、ヘンリーが姿を現す。

「まあ、いけません。着替え中ですのよ」

「すぐに終わりますから外でお待ちになって」

「殿方の出る幕ではありませんわ」

 三人の抗議の声を笑顔で受け止め、ヘンリーは口を開く。

「申し訳ないが実は彼女には服を脱げない理由があって」

「そうですの?」

 三人のうち一人がクロエの顔を覗き込む。それに大きく頷いた。

「……あの、昔の怪我の跡があって」

「だから傷を隠すまでの間、少し外に出ていてくれないかな」

「でも」

 そっくりな顔を見合わせる三人組にヘンリーは片目を瞑って見せた。

「彼女は恥ずかしがりやでね。よく知った相手以外には女性でも肌を見せるのを嫌がるんだ」

 三人は一瞬目を丸くして、それから喜色満面で短い悲鳴を上げた。彼女達がヘンリーとクロエを交互に見て意味ありげに笑いつつ、それでもおとなしく部屋を出て行ったのでクロエはほっとする。

「ヘンリーさん、ありがとう」

「さあ、時間がないから早く脱いで」

「…………………………」

 包帯を手ににこにこと笑っているヘンリーにクロエは唇を噛み、それから扉を指し示した。

「あの、一人でするので」

「今出たらあの子達に怪しまれるよ。ああ、それじゃあ僕は向こうを向いていよう」

 それじゃあ、ということはクロエが嫌がらなければごく普通に服を脱がせて包帯を巻くつもりだったのだろうか。そこでふと、クロエは三人組の反応の意味に気付いた。

「あ! あの人達、誤解してるわ。きっとヘンリーさんのことを私の恋人だと思って」

「そうだろうね。明日には噂になっているだろうけど、大丈夫、何も困ることはないから。それに今は否定する時間もないよ。さあ、早くこれを巻いて」

 クロエは暖炉の上の金色の置時計に目を走らせた。確かにもう舞踏会の始まりまで時間がない。遅れては仕事に障りがある。ヘンリーが背中を向けるのを確認してからクロエは渋々制服を脱ぎだした。裸になってふんわりと膨らんだ下穿き(パニエ)を履き、包帯を下腹部に巻こうとするのだが、どうも上手く行かない。なぜか指が震えているのだ。

(どうして――いえ、当たり前だわ、この人と同じ部屋で裸になるなんて緊張するに決まっている)

 ベッドフォード公爵とヘンリーは違う。公爵は生まれた頃からの付き合いの父親代わりの人だがヘンリーは――彼は何だろう。クロエが考えながら一生懸命包帯を巻こうとしていると、背後から指先を握りこまれた。

「貸してごらん」

「……っ!」

 頭の上から降ってくる声に息を詰め、クロエは腕を体の前に持ってきて胸を隠す。そうしているうちに手際よく包帯を巻き、ヘンリーはクロエの手に袖つきの薄い下着(シュミーズ)を握らせた。

(……後で公爵にたっぷり抗議しなきゃ)

 耳まで赤くしながらそれを着れば、ヘンリーが今度はコルセットを体の前、少し下から薄い胸を持ち上げるようにして宛がい、胸から腹にかけて金属製の留め(バスク)を留めていく。

「随分手際がいいんですね」

 単純に驚きから出た言葉であったはずだが、どこか皮肉めいた響きが混ざっているように聞こえ、クロエは我ながら驚いてしまう。ヘンリーは一瞬動きを止め、それから言い訳するように口を開いた。

「……僕は昔――いや、何でもない」

 彼は背中側の鳩目穴に通っている紐を手に取った。

「足を前後に少し開いて。締めるよ」

「がっ――」

 想像以上の衝撃に零れた悲鳴は、色気も何もあったものではない。足を踏ん張って体がふらつかないように立っているだけで精一杯だ。それでもヘンリーは容赦なく紐を引き、クロエの細い胴をきつく締め上げようとする。

「だめ、だめっ、無理! いやっ!」

「本当はもう少し締めた方がいいけれど、君は細いからこれくらいでも」

 事も無げにそう言って、ヘンリーは背後からクロエに抱きつくようにして彼女の腹右斜め前で余った紐を縛る。頭頂部にかかる吐息や下着姿の肩に触れる彼の体温に緊張してしまうのだが、今は締め付けられる苦痛がそれを上回る。

「う、苦しい……っ」

「すまない。今日は少し苦しいだろうけれど、まだ緩めにしておいたからいざという時でも動けないということはないと思うよ」

 きちんとしたコルセットをつけたことのなかったクロエにとっては、骨が軋む程に締め付けられても緩めの範疇だというのが恐怖にしか感じられない。

「まあ、コルセットまで。助かりますわ」

「私達では骨が折れる仕事ですもの」

「ここからは私達の仕事ですわ」

 扉が開いたと思うと、口々に言いながら三人娘が入ってくる。クロエは彼女達に押されるがまま鏡台の前に連れて行かれた。ヘンリーは手近にあった椅子に掛け、楽しそうに笑っている。彼女達が何も言わないところを見ると、彼はクロエの身支度を眺める権利を手に入れたらしい。

 それからクロエは一言も喋らせてもらえないままに三人の手によって身支度を整えられ、気が付けばまるで自分ではないような姿の自分が鏡の中でこちらを見ていた。

 薄化粧を施され、金髪を後ろで結われているだけで随分と印象が変わる。薄っすらと青み掛かった銀色のドレスの大きく開いた襟ぐりが若干心細いのだが、そこには小ぶりの青い石の首飾りが光り、そして耳飾りと薔薇をかたどった髪飾りも同様に青でまとめられている。

 背中や袖に大きなリボンがついいたり、フリルも多く重ねられていたりと、化粧を含めて全体的に少々可愛らしい雰囲気になっているのはクロエの年齢がまだ若いからだと三人の女官は異口同音に告げた。

「さすが、ベッドフォード公爵の見立ては素晴らしいですわ」

「瞳の色と同じ青がよく似合いますわね」

「男勝りな制服よりずっと可愛いわ。そうですわね」

 同意を求められ、立ち上がってこちらへと近付いてきていたヘンリーがクロエの前で足を止めてにっこりと笑う。

「そうだね。とても綺麗だよ、クロエ」

 かっと顔が熱くなる。唇を閉ざしたまま、クロエは高鳴る胸に無意識のうちに手を当てていた。

「さて、そろそろ行かないと。もう始まってしまったようだ」

 ヘンリーは言いながら白い手袋を嵌め始める。耳を澄ませば、彼の言葉通り扉の向こうからささやかな音量で音楽が流れ出していた。



「緊張しているのかい」

「………………」

 閉ざされた扉の前、クロエは小さく頷いた。とにかく色々なことで頭が破裂しそうだ。舞踏会そのものが初めてで緊張するというのにこんな格好をさせられ、ヘンリーに綺麗だと言われ、手を取られてエスコートされ、そして今から――

(いるんだわ、この向こうに)

 あのいくら憎んでも足りない女が扉の向こうにいる。自然と膝が震えるクロエの耳元でヘンリーが囁いた。

「クロエ、話したとおりにしていれば大丈夫だよ」

 使用人によって扉が開かれ、二人は広間へと足を踏み入れた。あちこちに立てられた大量の蝋燭によって真昼のように明るく照らされ、生花もふんだんに飾られている中、煌びやかに着飾った数十人の男女が談笑し、あるいは踊っている。

 部屋の奥の方には給仕の格好のフレッドが慌しく歩いているのが見える。元々地方の貴族の邸宅で下働きをしていたというだけあって、彼の立ち振る舞いに違和感はない。その手前では壁際に制服姿のジュリアがひっそりと佇んでいる。他にも数名、貴族の子弟らしき魔警局員が制服姿で参加しているようだ。

「今日は内々の小さな会だからね。それ程の規模ではないし、緊張することはないよ」

 ヘンリーがそう言う間にもクロエは視線をせわしなく走らせ、憎悪の対象を探す。すると広間の中央から少しずれたところで小集団が出来上がっているのが目に入った。その中心には鮮やかな赤いドレスを着た三十代半ばの艶やかな女がいる。顔を見たことはないが、それでもその女が王太后だというのはすぐに分かった。彼女が身に付けているドレスも宝石も一見して他の女達とは格が違うと、そういったことに疎いクロエにすら分かる代物であったし、周囲との力関係も観察するまでもなく明らかで、何よりその表情に見て取れる圧倒的な自信が彼女を王太后だと判断する大きな理由だ。

 その集団に近付く男がいる。ベッドフォード公爵だ。彼は魔警局の黒い制服姿で、地味なはずの格好であるのに美貌とその威圧感とで周りの目を引いている。公爵はあの赤いドレスの女に声をかけ恭しい仕草でその手を取り口付ける。それからほんの一瞬、クロエへと視線を送った。

(やっぱりあの女が……!)

 この世の全てが我が物であるかのような満ち足りた顔をしたその女を、クロエは刺すような視線でねめつける。それを諌めるようにヘンリーが囁いた。

「――クロエ」

「ヘンリーじゃないか」

 二人して振り返れば、人のよさそうな老人が目尻に笑い皺を刻んで立っている。その隣には雰囲気の似たふくよかな老女がやはり笑みを浮かべていた。

「ロード・ウォートン、レディ・ウォートン、ご無沙汰しております」

「久しいな、ヘンリー。少し見ない間に、顔立ちも随分精悍になったではないか。モントローズ公もお元気かね」

「あなたのご指導のお陰です、ロード・ウォートン。お元気そうで何よりです。父はすっかり隠居暮らしになってしまいました。あなたを見習うべきだ」

「あら、元気が過ぎるのも困りものよ。でもヘンリー、あなた本当に立派な青年になって」

 ヘンリーはにっこりと笑った。

「ありがとうございます。レディ・ウォートン、あなたは相変わらずお美しい」

 まあ、お世辞も一人前ね、と老女が笑う。その傍でクロエは目を伏せた。

(……他の人にもそうやって同じ顔で笑って綺麗だって言うのね)

 自分だけが特別だと、どうしてそんな勘違いをしてしまったのだろう。

(そうだわ、私はそんな勘違いができる身の上ではないもの。私は普通じゃない、あの女にそんな風にされてしまった――)

「ところでヘンリー、そちらのお嬢さんは」

 クロエは慌てて引きつった笑顔を作った。夫妻は目を輝かせるようにしてクロエを見ている。

「彼女はクロエ・バートレット。ベッドフォード公爵が後見されているのですが、今日はエスコートが難しいということで僕がお預かりした女の子です。クロエ、こちらはウォートン侯爵ご夫妻だ」

「お初にお目にかかります、クロエ・バートレットと申します。以後お見知りおきを」

 軽く膝を折って二人と挨拶を交わす。侯爵夫人が口を開き、何かを言いかけてクロエの手を取ろうとしたのだが、それは背後からかけられた声に遮られた。

「ロード・ヘンリー・グラハム。また随分と可愛らしい子を連れているな」

 続いて声をかけてきたのは中年のやせぎすの男である。ウォートン候夫妻と交わしたのと同様の挨拶を終えると、バース侯爵と名乗った男はクロエに目をやってから言った。

「ロード・グラハム、彼女は誰かに似ていると思えば……ヘンリエッタにそっくりじゃないか」

「ヘンリエッタ……?」

 どこかで聞いたことのある名前だ。でもどこで――

『ヘンリエッタ!』

 古い記憶が閃光のように脳裏に蘇る。

 クロエを侍女の死の瞬間から庇おうとして叱責され、殴り倒された際にあの銀髪の少女がそう呼ばれていたのだ。そうだ、クロエを救ってくれたあの(ひと)の名前だ。

「失礼」

 脇を通り抜けようとした小太りの男とぶつからないようにと、ヘンリーがクロエの腰を抱いてそっと引き寄せる。その手は腰骨の辺りに触れ、そのまま落ち着いて動く気配がない。だがクロエからすればそれどころではなかった。ヘンリエッタ、あの少女とヘンリーに繋がりがあるかもしれないのだ。

 ウォートン夫人が困り顔で何か言いたげに口を開くのだが、それより早くバース候が続ける。

「もう彼女にお目にかかれないと思うと寂しい思いをしていたんだが。お母上にはもう彼女は紹介したのか? お喜びになるだろう、こんなに可愛らしい、しかもヘンリエッタに良く似た娘が本当に自分の娘になってくれると知れば」

「娘?」

 クロエにはバース候が言っていることの意味が理解できない。だが、彼が自身の言葉に嘲りを隠すことなく込めているのには気付いた。ヘンリーの横顔を見上げれば、やはりそこには柔和な微笑が浮かんでいる。

「それとも喜びのあまり逆に調子が悪くなってしまわれるだろうか。そうなると困るな、彼女が怖がって逃げ出してしまうかもしれない」

 バース候の刺々しい言葉にもやはりヘンリーは笑みを湛えたまま。

(どうしてそんなに笑ってばかりなの……)

 ひどいことを言われていると、他人のクロエにも分かるのになぜ一言も言い返そうとしないのか、へらへらと笑ってばかりなのか。

 何とも思わないのか。

「…………?」

 右腰に違和感がある。クロエの腰に置かれたヘンリーの手が、密かに震えているのだ。再び彼の横顔を見上げても、しかし相変わらず彼は笑っている。

 ライガルド塔でのことが思い出された。そう言えばあの時も、彼は笑いながら一方で拳を強く握り締めていた。

 クロエは左手をさりげなく腹の前に回すと、右腰に置かれたヘンリーの手の上に自身の手を重ねた。びくりと震え、逃げを打った大きな手を強く押さえつけるように掴んだ。

「まだ――」

 クロエの発した小さな声に四人が目を向ける。

「まだモントローズ公爵夫人にはお目にかかっていません。ですが、会える日を楽しみにしていますわ」

 それまで引きつっていた表情を消し、クロエは小さな子供のようににこにこと笑った。

「……クロエ」

「ええ、そうね、きっとモントローズ夫人も喜んでくださるわ。ヘンリーが選んだ子ですもの」

「そうとも、すっかり調子も良くなってわしのように周りから呆れられるくらいに元気になるに違いないとも」

「まあ」

 ウォートン夫妻の言葉に笑みで返事をし、それからクロエは未だ目を丸くしているヘンリーの耳元に、伸び上がって囁いた。それを受け、ヘンリーが再び笑みを浮かべる。

「失礼、この子が少し疲れてしまったようで」

 バース候とウォートン夫妻にそう告げ、二人は彼らの前を辞す。



 二人は休息室が用意されていたのを避けてバルコニーへと出てきた。夜風が冷たく、休むにしても体が冷えてしまうため人気はない。遠くに聞こえる音楽とさざめきを背景に、クロエは口を噤んで佇んだ。

「………………」

 ヘンリーはバルコニーの欄干に手をつき、目を伏せて微動だにしない。つい先程までにこにこと笑っていたのが嘘のようで、今にも淡い月明かりに溶けて薄闇の中に姿を消してしまいそうだ。

 本当は今すぐにでも彼にヘンリエッタのことを聞きたい。だが、いつでもへらへらとしてクロエからすれば大人に見えるヘンリーが、彼女の、そして母親の話ではあんな風に震えていた。それに今見せている暗い横顔、きっとそれは怒りではなく恐怖や悲しみのような感情から来るものだろう。

 そう思えばとても切り出せはしない。それよりも、どうヘンリーに声をかければよいのか、慰めればよいのか、思いつかないことに心がざわめいていた。

「あ、あの」

 おずおずと唇を開けば、ヘンリーが顔を上げて振り返る。そこにはもう薄っすらと笑みが浮かんでいた。

「すまなかったね、気を遣わせてしまって」

「いいえ、私、見当違いなことを言わなかったかしら」

 ヘンリーはゆっくりと首を横に振った。

「ありがとう」

「…………あの」

「多分今夜何度も同じようなことを言われるだろうから、話しておくよ。僕の母親は発狂してしまったんだ。貴族階級の中では有名な話だよ。挨拶代わりに色々と聞かれるようなことも最近はもうなかったけれど、今日は君のような可愛い子を連れているから皆面白がっているのだろうね」

 どう返事をしていいか分からず、クロエは声を出せない。

「だから何を言われても、君は気にしないでにこにこ笑っていればそれで――」

「でも、そんな……お母様のこと悪く言われて笑っているなんて、私は」

 王太后が未だに母を貶め続けるのを許せないのだ。笑えるはずがない。

「クロエ、笑っていれば全部すむんだ。ライガルド塔でも言ったように、君には君の守るべきものがあるだろう。君自身の局員としての立場や、後見人のベッドフォード公爵の立場が」

「ええ。確かに言い返せない時もあると思うし、我慢しなければいけない時もあると思う。でもお母様のことだけじゃない、ライガルド塔の時のように目の前で誰かが傷ついていても自分のせいで誰かが苦しんでいても、それでも何もかも笑ってすませるの? それはきっと逃げているのと同じだわ」

「君にだけはそんなことを言われたくない」

 そう告げた声はまるで氷だ。普段は穏やかなヘンリーにここまではっきりと拒絶され、追いすがることもできなくなった。

「…………ごめんなさい」

「――っ、いや、すまなかった。戻ろう」

 クロエは頷き、歩き出すヘンリーの後ろに続く。そのまま言葉を交わすことなく広間へと戻ると、ヘンリーが不意に足を止めた。

「いない」

 その言葉にクロエは広間を見渡す。フレッドがせわしなく銀の盆を持って歩き、ちょうどウォード公爵に声をかけられているところだ。ベッドフォード公爵は太った女性と踊っている。しかしジュリアの姿が、いや、王太后の姿も見当たらない。そこへ声をかけてくる老人がいた。

「ヘンリー」

「――ニューマン猊下」

 クロエは慌ててヘンリーから離れた。ここで枢機卿相手に二人とも捕まればもしもの時に動けない。ヘンリーが挨拶をしているのを横目に見ながら、クロエは広間を出る。廊下を進み、休息室に顔を出してみるのだがそこには知らない女性が二人談笑しているだけで、ジュリアも王太后の姿もない。

 ジュリアや他の局員が付いていればいいのだが、もしそうでなければ脅迫状の主にとっては王太后を狙う絶好の機会だ。クロエは周囲を見渡し、どうすべきか迷う。一度広間に戻ってベッドフォード公爵に声をかけるべきか。

 ふと、すぐ傍の扉の向こうで声が聞こえた。

「ジュリア……」

 その声にもしやと思い、ノックをして返事もないうちに部屋に押し入った。

 

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