4.ティーガーデン
深く息を吐いてじっと事務机の上を眺める。午前中の陽が差し込む事務室はひどく明るく、しかしクロエは机上の木目をただ見つめて動かない。
(本当にどうして……)
一晩じっくり考えてみても、ベッドフォード公爵の考えていることが分からない。なぜわざわざクロエを危険な目に合わせようとするのか。もしもクロエが前王妃の娘であると知れれば、後見人である自身にまで累が及ぶのは分かりきっているはずだ。
(ばれないという自信があるのかしら)
確かに、王女としてのクロエの顔を知っている者はほんの一握りだ。王太后にしろ他の貴族にしろ、彼女の顔を見て王女だと判別できる訳はない。一度かどわかされたあの時は、クロエではなく彼女の面倒を見ていた女が元々母の侍女であったことから嗅ぎ付けられたのだと公爵はかつて言った。
今ではもう、クロエの顔を見て王女だと分かるのはベッドフォード公爵と、アリスなどその配下の一部。
(あとはあの人くらいね)
銀髪のあの女性。しかしもう何年も経ち、クロエも成長している。彼女が果たしてクロエの顔を覚えているかと言えば怪しいところだ。となれば、公爵やその周辺が口を閉ざし、クロエ自身が特別なことをしない限り正体がばれるということもないだろう。
(……大丈夫、ばれたりしないわ。そっと目立たないようにしていれば、ずっと)
ずっと?
(私はずっと、こうしてあの女(王太后)から逃げまわるの?)
背中に消えない傷を与え、嫁げない体にしたあの女から何十年も逃げ続けるの? お母様から全てを奪い、断頭台に送ったあの女を一目と見ることなく終わるの? 世話をしてくれた侍女も拷問の末に殺され、他の多くのものを犠牲にして、それでも私はあの女に湧き上がる憎しみをぶつけることができないままなの?
――嫌だ。
(そんなの嫌……!)
許せない。あの女が許せない。悔しい、受けた苦しみのほんのひとかけらでも味わわせてやりたい。自分がそうだったように、母がそうだったように、あの女も震えて泣いて叫んで痛めつけられるべきだ。
突然クロエの耳の奥で甘い囁きが蘇る。
『貴方には取り戻すべき玉座がございます』
あの女を、あの女の息子を退け、就くべき座に就く。そうすればあの女を跪かせることも、冷え冷えとしたライガルド塔の牢獄に繋ぐことも、その体中に刺青を彫ることも、拷問によって苦痛の歌を響かせることもできる。そして断頭台へ送ることができる。
(でも……)
本当にそんなこと私にできるの?
していいの?
「構わないとも。君にはそれだけの権利がある。君は正統なる王女なのだから」
心の底からベッドフォード公爵の声を借りて何者かが語りかけてくる。
「クロエ、君が子供でないと言うならばそろそろ腹を決めてはどうだね。さあ、君の手であの女を――」
「いい加減にしろ」
ジュリアが発した声にびくっと震えたのは、クロエではなくその隣に着席しているフレッドだ。
「クロエ、昨日からずっとその調子じゃないか。暗い顔をして、こっちの気が滅入る」
「あ……ごめんなさい、ジュリア」
クロエは思索の闇から顔を上げ、引きつった表情を浮かべながら謝罪した。
「全く」
ぶつぶつと言いながらジュリアは自身の机から立ち、クロエの向かいの席、ヘンリーのすぐ傍まで進んで手を差し出した。そこに握られているのは二枚の紙片である。
「お前はお前でへらへらしすぎだ、ヘンリー。フレッドもにやにやして鬱陶しいがこっちはまだ影が薄いからまだ我慢できる」
「えええ? ジュリア、ひどいって!」
フレッドがお菓子のレシピ本を閉じ、抗議の声をあげるのにも誰も反応しない。
「全く二人して鬱陶しい。夕方まで帰ってくるな」
「しかしジュリア、これは」
ジュリアは紙片をヘンリーの胸に強く押し付ける。
「いいからとっとと行け。クロエも早く!」
「えっ?」
何が何だか分からないままにきつく追い立てられ、クロエは立てかけてあった剣を手に取り、ヘンリーと共に事務室を、続いて玄関を出た。階段を降り、ようやく二人は足を止める。
「……相変わらず優しい人だね」
言いながらヘンリーがクロエに見せたのは、先程ジュリアから無理矢理渡された紙片二枚だ。
「ティーガーデン?」
クロエがそこに書かれた文字を読んでいるうちに区署の窓からジュリアが顔を出す。
「二人とも、早く行かないか!」
「ただ今!」
ヘンリーは微笑みながら返事をし、クロエもありがとうと一言叫んでから、二人して辻馬車を拾うべく大通りを目指して石畳を歩き始めた。
二人はしばらく後に王都西方郊外のヴォグソールというティーガーデンにいた。
このヴォグソールは、入場に労働階級の三日分の賃金が必要な高級なティーガーデン――お茶や珈琲を提供し、音楽や花火、舞踏会なども開催される娯楽施設としての庭園である。そこへ二人が無料で入場できたのはジュリアがヘンリーに渡した紙片のお陰だ。
二人は手入れの行き届いた庭園の中、花に囲まれた東屋で、柔らかなペールブルーのカップに注がれた温かい紅茶を飲んでいる。
「美味しい……」
茶葉自体はそれ程高級な品ではないようだが、それでも格別に感じるのは周囲の環境によるものだろう。
季節柄、二人の周りにそよぐ風も心地の良いものであるし、それに乗って満開の薔薇の香りが運ばれてくるのにも気持ちが落ち着く。澄んだ青空と芝生の鮮やかさも目に眩い。
よい席と茶器を宛がわれたのもジュリアの券のお陰に違いない。帰ったら、気を遣ってくれたジュリアには深く礼を言わなければならない。姉の命日の件を謝っても、気にするなと笑ってくれただけでも申し訳ないのに、今度は気晴らしにと外出までさせてくれているのだ。
(でもどうしてこの人と……)
ヘンリーが淡い笑みを浮かべながら向こうの建物に目をやっているのを見つめ、クロエは小さく首をかしげた。
確かにジュリアの言う通りヘンリーはへらへらとしていたが、それはやはりフレッドも同じだ。公爵にお菓子の腕を褒められたことで昨晩からずっとにやけ顔である。ならば彼でもよかったのではないかと思うのだが、ジュリアはなぜヘンリーの方をクロエに付けてくれたのか。
(――あ、私、もしかして)
よく考えてみれば、男性と二人で遊びに出るのは初めてかもしれない。ベッドフォード公爵に連れられて遠出をしたことはあるが彼は父親のような存在であるし、フレッドに街を案内してもらったこともあるがそれは仕事の一環だ。
だが、今こうして薔薇に囲まれた東屋でヘンリーと向かい合って美味しいお茶を飲んでいるのはそのどちらとも違うはずだ。
そう思うと急に落ち着かなくなってしまう。今まで自然にしていたカップの上げ下げもぎこちなくなってしまい、ヘンリーの顔を正面から見るのも避けてしまう。
(な、何を緊張しているの?)
別にどうということもないわ、ただお茶をしているだけだから――そう自分に言い聞かせてみても益々硬くなるばかりである。
いたたまれなくなり視線を走らせれば、左手少し離れたところに設けられているテーブルが目に入った。そこにはクロエと変わらない年頃の娘とその母親らしき女性達が三組。明るい色の衣装に身を包んだ彼女らはちらちらとこちらを見て囁き合っている。おそらくヘンリーを見ているのだろう、楽しげに、あるいは頬を染めて少女達は声を潜める努力をしている。それもそうだろう、ヘンリーは背も高く整った顔立ちをしているし、蜂蜜の色の髪も艶やかな美青年だ。しかも魔導士として精鋭である証、魔警局の制服を纏っているとなれば、振り返らない女性はいない。
「………………」
クロエは視線を自身の薄い胸元に落とした。あの少女達は、身なりからして上流階級に属しているのだろう。ならばもう一、二年のうちに社交界に顔を出すようになり、素敵な婚約者を得、嫁いでいくに違いない。行った先で奥様と呼ばれ、いずれ子供にも恵まれ――でも私にはきっとそれができない、そうクロエは思った。
忌まわしい言葉を刻まれた背中をどうして見せられるだろう。ヘンリーはそれを見ても知らない振りをしてくれているが、それはおそらくベッドフォード公爵から何かしら聞いていたからだろうし、もしそうでなくとも知らない振りをする優しさとクロエの全てを受け入れることとは別問題だ。
(……私なんか)
相手にされるはずがない。名門の公爵家の子弟があんなもの(刺青)を背負った不審な女をどうして相手にするだろう。仕事の一環ならばともかく、個人的な関心から近付いてくるはずがない。こうして今一緒に付き合ってくれているのもジュリアに仕向けられたからで、そうでなければこんなことはありえないのだ。
(私なんか……)
ヘンリーを品定めしている少女達のように可愛らしい衣装を着て屈託なく笑えたら、どんなによかったか。
(それができないのは)
――あの女のせい。
「どうかしたのかい」
不意に鼓膜が揺らされ、クロエは息を呑んだ。ヘンリーが微笑んで彼女を見つめている。
「あ、いいえ、何でもないの! あの、ええと、ねえ、ヘンリーさんは本当に……その、小さい女の子が好き、なの?」
慌てておかしなことを訊ねてしまったとは思うのだが、一度出た言葉は取り返せない。上目遣いに見つめていると、ヘンリーは笑みを絶やさないまま短く答えた。
「好きだよ」
「……………………そ、そう」
そこで会話が途切れてしまう。が、突然ヘンリーが手を上げてひらひらと振った。彼の視線の先を追えば、まだ十にもならないような女の子が母親に連れられて歩いていく。彼女もにこにこと笑ってヘンリーに手を振り返していた。
「…………………………」
本当に小さい女の子が好きなようだと実感し、クロエはそもそも別の意味で自分がヘンリーに相手にされるはずがないと納得する。
「あ、あの、大変だとは思うけど頑張っ――いえ、だめだわ。そんな小さな女の子とは結婚できないもの、頑張ったらだめ!」
「クロエ? 何を言っているんだい?」
きょとんとして瞬いた後、ヘンリーは得心したように笑った。
「誤解をしているようだね。小さな女の子と結婚だなんて、僕はそんなことを考えてはいないよ。もちろん小さな子は好きだよ、笑った顔はとても可愛いからね。小さな子の笑顔を守ってあげないといけないと思う」
そう言って、不意に声を低くした。
「……昔、魔警局員になったばかりの頃、僕が判断を間違ったせいで女の子に怪我をさせてしまったことがあるんだ。それから僕は小さな女の子を見るとつい優しくしてしまうようになって――未だにずっと。その子の怪我は治らないものだから、きっと僕のこの癖も治らないだろうね」
「そう、だったの」
思いもよらぬ打ち明け話にクロエは上手い返事が思いつかない。そよ風によって運ばれてきた女声に振り返れば、向こうの建物からせり出したオーケストラボックスの中に楽団と、一人着飾った歌姫の姿があった。帝国語で歌う彼女を建物の下から見上げるようにしてすでに多くの観客が集まっている。薔薇の咲く庭と若い恋人同士を讃えるその妙なる歌声をしばし聴いた後、クロエは訊ねた。
「その女の子は、今は」
「きっと僕を恨んでいる」
冷ややかな声で、しかし唇に柔らかな笑みを乗せてヘンリーは言った。
「あの怪我がなければと、苦しんでいるはずだよ」
「……でも、わざと怪我をさせたのではないのでしょう? だったら」
「故意だよ、半分は。僕は己可愛さに、彼女が怪我をするのを分かっていてすぐに助けられなかった」
ヘンリーの緑色の瞳が笑みの奥で鋭く輝いている。
「クロエ、君は許せるかい? 治らない怪我を負わせ、人生を狂わせた相手を」
「私は――」
許す?
(あの女を許す? そんなこと)
できるはずない。
「とても許せないだろうね。だから僕は一生を懸けてでも――」
ヘンリーはそこで言葉を切った。
「君はどうして魔警局に?」
急に変えられた話題に驚きながらも、クロエは紅茶を口に運ぶヘンリーへと答えた。
「私は……私を助けてくれた女の人のようになりたくて。前に言った、事件に巻き込まれた時に助けてくれた人。せっかく魔術も使えて、体も人並み以上に丈夫だから、私も誰かを助けられるようになりたくて。魔警局員であれば、目の前で苦しんでいるような人がいたらきっと少しくらいは助けてあげられるから」
「そう、とても立派な志だね」
「……それは、子供扱いしてるんですか?」
にこにこと笑うヘンリーに対し、処刑場で言われた高邁な理想という言葉を思い出してつい疑り深くなってしまう。
「ああ、すまない。気に触るような言い方だったかな。でも本当に立派だと思ったんだ。せっかくこんなところまできて君の気分を損ねるなんてしたくないのに、すまなかったね。僕はいつも考えなしで君に嫌な思いをさせてばかりだ」
「あ、いいえ、私こそごめんなさい、突っかかったりして」
素直に謝り、クロエはそっと切り出した。
「……あの、ヘンリーさん、付き合っていただいてこんなこと言うのはおかしいかもしれないけれど、あまり私に気を遣わないで。私は大丈夫」
「え?」
「処刑場でのこと……私の前で首を刎ねたこと、気にしているのでしょう。何度も謝ってくれたし。でも大丈夫、人が死ぬのを見るのは初めてじゃないもの。もっとひどいものを見たこともあるから、私は大丈夫。どうか気に病まないで」
「………………」
ヘンリーは眉を寄せたが、すぐに困った笑顔になって黙り込んでしまった。クロエも己の発言が良くなかったと気付いてしまう。彼に気に病まないで欲しいと思って発した言葉が逆に彼の気分を害してしまった。
(私……きっと不気味に思われているわ)
もっとひどいものというのと、刺青や事件に巻き込まれたと言ったことがヘンリーの中で繋がらないはずがない。取り繕う言葉も見つからないままクロエは俯いてしまう。じわじわと闇に囚われていく心の隅にぼんやりと浮かんだのは若い女の姿だった。栗色の巻き毛が可愛らしい、二十代後半にはとても見えない幼げな女性。十歳頃までクロエの面倒を見てくれていたその人は、元々帝国から母の輿入れについてやってきた侍女の一人であった。
彼女はある日襲来した魔警局員――あの銀髪の少女を含む三名によってクロエと共に拉致され、彼女らを庇護する人物の名を吐くようにとひどい拷問を受けた。眼前でそれを見せ付けられたクロエには、今でも忘れられない記憶だ。彼女を助けようにも、こういった事態を予測していたのか公爵の名前も地位も告げられていなかったクロエには手立てなどなかった。
彼女の絶命の瞬間のこともよく覚えている。もう言葉を発する気力さえなくした侍女はうつろな顔で脚を大きな万力のようなものに挟まれるのにも抵抗せず、そのまま締め上げられるのにも呻くような悲鳴を上げるばかりで公爵の名を口にすることもなく、挙句クロエの鼓膜に骨の砕ける音が刻まれた。その瞬間、背後に立っていた銀髪の少女が庇うようにクロエの顔の前に手を差し出そうとし、だが間に合わず陰鬱な音と同時に、その衝撃をきっかけとした侍女の死の瞬間もまたクロエの青い瞳に刻まれたのだ。魔警局員の男は銀髪の少女を強く詰り、殴り倒し――
『……リ……ッタ』
名前――それはあの男が叫んだ、銀髪の少女の名前だ。しかし靄に包まれたその単語は再びクロエの脳裏へと消えていく。
「クロエ」
顔を上げれば、明るい日差しに照らされた美しい庭園を背景にヘンリーが微笑んでいる。
「君にはこんな、薔薇の咲く庭でお茶を楽しむ姿がよく似合うよ」
言いながら彼は右手を行く若い夫婦を視線で示した。夫は縁に銀糸の刺繍がわずかに施された黒の上着、妻はリボンのついた流行りの小さな帽子と、同じ色の柔らかな薔薇色の衣装で腕を組んで歩いている。
「また一緒に遊びに来よう。今度はお互いあんな風にお洒落な格好で。そうしたら、きっともっといい気分転換になるよ」
「また……」
こんな私を誘ってくれるなんて。
クロエは震える手で紅茶のカップを急いで口に運び、動揺を誤魔化すようにしてからほんのりと赤くなった顔で小さく頷いた。




