2.咎なき処刑
二章
翌朝まだ業務の始まる前、早いうちからクロエは私室で机に向かっていた。昨晩のうちに下書きしておいた手紙を仕上げて早く出そうとしているのだ。宛先はアルバート・ウェルズリー。クロエの後見人であり、魔警局局長であるベッドフォード公爵である。
下書きと言ってもその手紙の内容は大したものではない。遺産のことで気に掛かることがあるので、ぜひお会いしたいというだけのものだ。クロエと公爵の間で遺産という言葉が出る時、それは大概の場合、クロエの正体や背中の刺青にまつわることを指していた。気に掛かることというのはもちろん、ヘンリーに背中の刺青を見られてしまったことである。
ヘンリーに刺青から彼女の正体が知れる可能性が低くとも、彼がどこかでそのことを口にしてしまい、そこから王太后に嗅ぎ付けられるようなことがあっては困る。ヘンリー自身は反王太后派のモントローズ公爵の子息であるから、王太后の間者ではないだろうが、貴族の子弟であればこそ、それと知らず王太后の手の者と関わることもあるに違いない。
もちろん魔警局の局長であるベッドフォード公爵が、クロエのいる区署へ新しい局員を赴任させるにあたって何も考えていないということはないはずだ。クロエが一度拉致されて後、世間的に彼女の後見人という立場になっているのだから、局長としてクロエの周辺に配置する人間に口を出しても怪しまれることはないし、そうしているような口ぶりを以前本人がしていたのである。
だから心配はないはずであるのだが、もしものことを考えてクロエは手紙を出すことにした。
「……できた」
ペンを置いたところで、階下で乱暴に玄関扉が開かれる音がした。叫び声のようなものも聞こえる。緊急事態かと、クロエは部屋を飛び出し階段を駆け下りた。玄関ではダレルがヘンリーたち三人を相手に、大声で喚いている。
「ダレル、どうしたの?」
「クロエちゃん!」
クロエの顔を見るなり、ダレルは泣きそうな顔でしがみついてきた。
「お父さんが、あいつらに連れてかれたんだ!」
「あいつら?」
「昨日のあいつだよ! クロエちゃんの服を脱がそうとした――さっきあいつらが来て、お父さんを」
そこまで言い、ダレルは涙を堪えるように下唇を噛んだ。
「――狩られたな」
ジュリアの呟きに、クロエは血の気が引いていくのを感じていた。狩られた、つまり警備隊に連行されたということは、王太后に批判的な発言をしたという嫌疑がかけられ、牢獄へと送られるということだ。ダレルの父親は主に公国の書物や小冊子の翻訳を生業としていた。その中に、王太后への批判と取られる文言があったのかもしれない。あるいはそんなものはなく、言いがかりに近い罪状で見せしめとして狩られただけの可能性もある。
だがどちらにせよ一度狩られた者がすぐに解放されるということはない。警備隊がまだ組織されたばかりで、狩られた都民も数えるほどしかいないが、それでも彼らは牢獄に繋がれたまま今どのような状態で後々どうなるのか判然としていないのだ。
「クロエちゃん、お父さんを助けてよ! 魔警局は国王様の命令で弱い人を助けて悪い奴らをやっつけるんだろ? 国王様にお願いしてよ、あいつらが連れてった人を牢屋から出してって! お父さんは何も悪いことなんかしてない!」
涙を浮かべて懇願する少年に、クロエは頷いた。
「ダレル、心配しないで。国王様にお願いしてもらえるように、知り合いに頼んでみるから。すぐにお父さんは帰ってくるわ」
「ありがとう、クロエちゃん!」
「さあ、一度おうちに帰りましょう。きっとお母さんとエミリーが心配しているから。ジュリア、この子を家まで送ってくるわ」
「悪いな、頼む」
ジュリアが頷く後ろでヘンリーが何か言いたげに口を開いたが、すぐにそれは笑みに変わった。何だったのだろうと思いながらも、クロエはダレルの手を引いて玄関を出、五分ほどかけて彼の家へと到着した。同じような家に囲まれた小さな一軒家である。低い壁の向こう、家までの狭い庭はよく手入れされており小ぶりな花がたくさん咲いている。
通りに面した門から入り、扉を叩くのだが返事はない。もう一度叩き、扉の向こうへ呼びかけた。
「すみません、ヘレンさん。クロエです。クロエ・バートレットです。ダレルを――」
全て言い終わる前に扉が内側から乱暴に開き、クロエは慌てて後ずさった。
「クロエちゃん、まあ、ごめんなさい……ダレルを送ってきてくれたのね、ありがとう」
血相を変えて出てきたのはダレルの母である。その後ろからエミリーが赤くなった目をこすりながら顔を出す。
「ヘレンさん、旦那さんが連行されたと――」
「ええ、ええ、そうなの……そうなの。あの人が訳した公国の小冊子に、正しくない表現があって、王太后様を批判しているって」
「それは具体的にはどういう」
「……エリザベス様の亡くなられたお子様のことを王女と、それだけで……間違ったことなんて書いていないのに」
クロエは思わず唇を震わせた。
(私のこと、だ)
かつて王妃であったエリザベス、彼女が産んだ娘、つまりクロエは公には死産であったとされている。王太后メアリーはその娘を王女と呼ぶことさえ許さないつもりなのだ。
(それはそうね、私にあんなこと(刺青)をするくらいだもの。でも……)
許せない。
王太后がいくらクロエを、その母エリザベスを憎もうとも、それに国民を巻き込むことが許されるはずがない。
私が止めないと――クロエは深く思いながら、ヘレンに告げる。
「必ず旦那さんを解放させます。待っていてください。必ず――」
強い言葉で約束を残し、クロエは帰途に着く。早く帰ってベッドフォード公爵に連絡を取らねばならない。小走りに駆けて戻ると、区署の玄関の前でヘンリーが立っているのが見えた。彼はクロエに気付くと手を上げる。
「ヘンリーさん、どうかしたの?」
「君を待っていたんだ」
穏やかな笑みで、彼は言う。
「クロエちゃん、もう少し発言には気をつけた方がいい。君はあの男の子にお父さんは帰ってくると言ったけれど、それがどういうことか理解しているのかい」
「……でも、帰ってこないかもしれないなんて言えば、あの子は不安がるわ」
「安易な言葉を口にすれば、それが結果的に君を追い詰めることになりかねない。分かるね」
諭すような優しい声も柔らかな表情も、クロエの気持ちを頑なにする一方だ。
「でも私は!」
「幼い考え方では君自身が傷つくばかりだ」
「また私を子供扱い――」
苛立ちに任せて声を荒げれば、ヘンリーが人差し指を立てた。
「静かに、お客さんが来ているんだ」
言って玄関前の石段を登り、彼は扉を開けてクロエを中に促す。黙って入ると、玄関脇すぐの扉の奥からジュリアと男の声が聞こえてくる。ヘンリーはノックの後、返事がある前に扉を開き、事務室兼応接室へと足を踏み入れた。その後ろに続き、クロエが見たのはあの男だった。
「おや、お戻りのようで」
唇の端にいやらしい笑みを浮かべ、ソファに腰掛けているのはロバート・サマセットだ。昨日と変わらない青いお仕着せに身を包んでいる。
「……昨日の件ですか」
冷え冷えとした口調のクロエに、ロバートは肩をすくめて見せる。
「ふん、お前のような小娘の尻を追いかけているほど暇ではない。今日は仕事だ」
「罪のない都民を連行することがあなた方の大切なお仕事なのですね」
きつく睨みつけるもロバートはひるむ様子もなく、手にしていた筒状に巻いてリボンで結んだ紙を揺らす。ジュリアは向かいの席で黙り込んだまま、フレッドも窓際に控えて様子を窺うばかりである。
「もちろん罪があるから連行している。未だ娼婦エリザベスを信奉する帝国派の犬共は王太后陛下に仇なす者として、あるいは外患誘致を企てる者として法により処罰の対象となる。文句があるのなら奴らの解放を認めた国王陛下の勅許でも何でも用意すればいいことだ」
「犬ですって――あなたたちが連行したあの人たちはごくごく普通の」
「ロバート君、うちの部下がすまないね。ところで今日は」
ヘンリーがクロエの肩に手を置き、ロバートの機嫌を伺うように口を開く。それもクロエの神経を逆なでするのだが、ジュリアが諌めるような視線を送ってきたので一度口を閉ざした。ロバートはヘンリーの顔を見て再び笑う。
「今日はその犬共の件で。奴らの処刑の日時が決定したのはいいのだが、何せ急な話で、お忙しいことは重々承知の上で魔警局の皆様にこうしてお手伝いをお願いして回っている」
「処刑ですって」
「それはいつになったのですか」
クロエの言葉を遮り、ジュリアが訊ねる。彼女もまだそこから先は聞いていないようだ。
「明日の正午、ライガルド塔の中庭で。今まで捕らえた者は全員」
「明日?」
それでは今から公爵に手紙を出したところで間に合いはしない。直接訪ねてお願いしても間に合うかどうか。クロエが顔を青くしているのを視界の端に捉えてほくそ笑み、ロバートは手にしている巻紙のリボンを解き始める。
「お忙しいところ申し訳ないが、よろしく頼む」
思ってもいないことを口にしながら彼がジュリアに向けて開いて見せた紙には、国王チャールズの幼い手によるサインがあった。
「勅許……」
そこには帝国派の政治犯の処刑の許可が記されている。また、魔警局員は帝国派の政治犯の逮捕や処刑に際し、警備隊から協力依頼があった場合は即応する必要がある、という内容まで但し書きしてある。
(そんな――)
こんなものがあれば、いくら公爵に嘆願したところで無駄だ。公爵から幼い国王に何を言ったところで、すでにこうして王太后によって先手を打たれていてはどうしようもない。それどころか、まだ十を過ぎたばかりでまだ幼いとは言え国王がこうまで王太后の肩を持っている、あるいは言いなりであるというのならば、いずれ魔警局も王太后の意のままになってしまうだろう。
(何て奴なの……)
クロエは胸の奥底に濁ったものが湧き上がるのを感じていた。
幼い国王の母として権勢を揮い、クロエの母への私怨のために国民に害をなすあの女。いや、クロエの背中に消えない辱めを刻んだ女。何より母を断頭台に送り、今なお侮辱し続ける女。
あの女さえいなければ。悔しい、私欲に塗れたあの女が国民の命を握っているなんて。握りつぶそうとしているなんて。あの女にも思い知らせてやりたい、お母様がどんな思いで、皆が、私がどれだけ苦しんで――でも。
「一体、どうすれば」
ついクロエが呟いたのに、ロバートは紙を再び巻きながら答える。
「どうもこうも。我々としては誰でもいいが、とにかく明日の朝、八時までに塔に二人寄越してくれればそれでいい。小娘でも胡散臭いのでも年増でも影が薄いのでも何でも」
「では、年増と影が薄いのがお伺いしましょう」
ジュリアがすかさず答えると、ロバートは短い別れの挨拶を告げながら立ち上がる。それから彼はヘンリーに視線を向けた。
「グラハム、お前随分と小娘を庇い立てしているようだが……なるほど、血は争えないということか。お前もお母上と同じ病気だな」
ヘンリーは答えない。ただ穏やかな、宗教画の聖職者のような笑みを浮かべてロバートを見つめるばかりだ。ロバートは舌打ちし、自身の言葉が怒りとなって返ってこなかった落胆をあからさまに顔に浮かべて、さっさと出て行ってしまう。その後姿を睨みつけながら、クロエはわざと聞こえるように言った。
「何が警備隊なの、魔物相手に怯んでいただけのくせに……」
しかしロバートは振り返らず、区署を出て行ってしまった。
「ジュリア、明日は休みだったはずだね」
ヘンリーが珍しく困ったように眉を下げてジュリアに向き直っている。
「いい。仕方ないだろう」
「しかし……僕とフレッドが行けば」
「いいんだ、ヘンリー。私が行く」
「ま、待って、私が行くわ!」
クロエの発言に、ジュリアが激しく首を振った。冗談じゃない、という顔つきである。
「クロエ、処刑だぞ。手伝いなんて何をさせられるか分からんが、そんなところにお前が行くべきじゃない。それに今のお前が行けば、余計な問題を起こすばかりだ」
「じゃあ、ジュリアは警備隊に狩られた人たちが処刑されるのを平気で見ていられるの? ダレルやエミリーがどれだけつらい思いをするか――」
「少なくともクロエ、お前よりは平気でいられるはずだ。いいか、お前にもよく分かっているだろうが、ベッドフォード公爵に頼んだところでもう無理だ。おそらく王太后が、明日の処刑まで陛下に公爵を会わせはしないだろう。だが陛下の命があれば我々魔警局はそれに従わなければならない。もし表立って我々局員が陛下の命に背くようなことをすれば、それを幸いとして王太后が魔警局を潰しにかかるはずだ。反乱だの何だのと言ってな。そうなれば我々はもちろん、一番危ないのは公爵だ。それを後見人に持つお前もだぞ、クロエ」
「………………」
返す言葉もない。俯くクロエから視線を離し、ジュリアはフレッドに振り返る。
「フレッド、悪いな勝手に決めて」
「いや、俺は大丈夫だけどさ」
フレッドは窓際からちらりとヘンリーを見る。
「ああ、ヘンリーはここに残っていてくれ。副署長だからな」
ジュリアの決定に頷くヘンリーの顔には、もう薄い笑みが戻っていた。それを見上げながらクロエは眉を寄せる。
(やっぱりこの人、少し変だわ。こんな時にもにこにこ笑っているなんて)
先ほどの皮肉らしいロバートの言葉にも彼は微笑むだけだった。おそらく母親が患っており、それを酷く言われているのであろうにもかかわらず、へらへらとするばかり――なぜ腹が立たないのか、文句の一つも言わないのか、クロエには理解できなかった。
翌朝、ジュリアとフレッドを見送ったクロエは区署を抜け出す頃合を、事務室で見計らっていた。あまり早くに出てもヘンリーに気付かれて連れ戻されてしまうだろうし、かと言って遅いと正午までにライガルド塔に間に合わない。
(そろそろね)
「そろそろだね」
考えを見透かすような言葉に驚いて顔を上げれば、向かいの机でヘンリーが懐中時計に目を落としている。
「十一時だ、お茶にしよう」
彼は立ち上がり、事務室を出て行ってしまう。今まで監視するようにすぐ傍にいたのが、随分あっさりと抜け出す好機を作ってくれたので少々拍子抜けはしたが、これを逃す手はない。クロエは足音を立てないように部屋を忍び出てすぐ脇の玄関へと進んだが、足を止めた。
「なるほど、あっさりと目を離す訳ね。念入りだわ」
玄関扉から薄く魔導力の気配が漂ってくる。内側から開けば術者に分かるようにしているのだろう。細やかな技術の必要な難度の高い魔術だ。へらへらとして掴みどころのないヘンリーだが、魔導士としての腕は確からしい。クロエは息を潜めたまま踵を返し、二階へと階段を上る。私室に入り、通りに面した窓を開けて下を覗き込んだ。人っ子一人歩いていない。
改めて右腰に拳銃、左腰に剣が提げられているのを確認し、窓枠に足をかける。そのまま躊躇いもなくひらりと飛び、石畳に舞い降りた。着地の際の足音で気付かれないかと不安であったが、おそらく建物の奥までは聞こえなかっただろう。安堵しつつ、クロエは王都南西部のライガルド塔目指して走り出した。
もちろん、行ってどうするかというのは決まっていない。一晩かけて考えたが、何も思いつかなかったのだ。誰かと話して処刑を日延べしてもらうにも、誰に頼めばよいか分からない。処刑を直接止めるにもどうすればよいか、色々と考えてもまだ何一つ決まらないままに走っている。それでも走らないよりはいいと、彼女は思った。
(何とかしなきゃ)
ダレルとエミリーの父親は、クロエのことを――死産とされた娘のことを王女と文字にしただけで断頭台に送られてしまう。
(私のせいで……私が、私が助けなきゃ……)
それだけではない。他の人々も似たようなことで斬首となるのだ。それを自身が手をこまねいていていいはずがないと、クロエは思った。
(私は王女なのだから……助けなきゃ!)
私を王女と呼んでくれた、母を娼婦ではなく王妃と呼んでくれた人のために。
王族が国民を守るという当然の道理のために。
クロエは重い気持ちを抱えながら細い足を懸命に動かし、固い石畳を蹴った。
塔に着き、手伝いですと言えば、女の局員ということで物珍しそうな顔はされたが、怪しまれることなく中に入ることができた。中庭に進めば、すでに囲いをされた処刑場部分以外は観衆で埋め尽くされている。皆口々に、この処刑に対する怒りや嘆きを囁き合っている。クロエは囁くばかりの人々の群れの中に無理矢理に体をねじ込ませ、囲いの前まで進んだ。
見れば、左手にダレルとエミリーを連れたヘレンの姿がある。声をかけようと更に人ごみを進もうとすれば、突然後ろから二の腕を引っ張られる。
「クロエ」
瞠目しつつ振り返れば、困ったように、しかし笑っているヘンリーの顔があった。
「――どうして」
「それは僕の台詞だよ。困った子だね、所を抜け出したりして。さあ、帰ろう」
「でも!」
「今日は何の日か知っているかい」
突然訊ねられ、クロエは眉をひそめる。ヘンリーはクロエを自身の方へと向き直らせ、ゆっくりと告げた。
「今日はアンの命日だったんだ。ジュリアのお姉さんの」
「え……?」
「亡くなったのは随分前だけれど、ジュリアは毎年この日は必ずお墓参りに行っていたんだ。でも今年はここへ来た。ジュリアがどういうつもりか、君にも分かるね」
「……あ、私」
クロエを独り留守居にすれば必ず処刑を止めようと何か問題を起こすだろう。誰かしらは一緒に残し、他の二人が塔へ行かなければならない。そう考え、ジュリアは墓参りを諦めたに違いない。
「帰ろう、ジュリアの気持ちを無駄にして欲しくないんだ」
「……でも、でもヘンリーさん、あなたには分かりますか、親を殺された子の気持ちが。ダレルやエミリーにはそんなこと知って欲しくない。でも、この処刑を誰も止めてくれないし、止められない。王権の名の下に不幸な国民が増えるばかりなのに誰もそれを正せない」
群衆の嘆きで騒がしい中、ヘンリーにだけ聞こえるようクロエは震える声で言った。
「だからこれは私が止めなきゃいけないことなの、私が……!」
王女である私が。本来であれば父の死を受けて女王となっていたであろう私が。
(私にはその責任がある――)
ヘンリーはクロエの潤む瞳を見つめ、ゆっくりと首を振った。
「クロエ、それは君がしなければならないことじゃない」
「え?」
「君のような、ただの小さな女の子に何ができるんだい。君にはこれからの処刑を止められるだけの力があるのかい」
「…………っ、それは、でも」
ヘンリーは柔らかな笑みで、しかし冷ややかな口調でクロエの言葉を制する。
「王族でも何でもない、国王陛下の命にただ従うだけの魔警局員の小さな女の子が、そんな高邁な理想を掲げる必要はない。それも君の言い方だと、君自身が本当に好きでそうしたいと思っているようには思えないよ。無理に背負わされた義務に急かされているようだ。クロエ、君には君の守るべきものが――」
「これはこれは」
すぐ近くから聞こえる声に振り返れば、木製の囲いの向こう側にロバートがいた。一人部下を連れている。その背後にも数名彼と同じ青い制服の男たちが姿を見せ始め、その中にジュリアとフレッドも目立つ赤い制服で混ざっている。ロバートはにやにや笑みながらあごに触れた。
「グラハム、わざわざ手伝いに来てくれたのか? それはありがたいことだがもう準備も終わって、後は執行を待つのみだ。いや、後片付けならたんまりあるがな」
「悪いけれど僕らはすぐに帰るよ」
「ふん、まあ最前列の特等席で犬共が死ぬのをゆっくり見物していくといい、お嬢さん」
ヘンリーを見つめたままそう言ったロバートに、クロエは腹の底が焼け付くような怒りを感じるのだが、一方のヘンリーは相変わらずの微笑である。まるで何も感じていないような顔だ。
(どうして……!)
悔しさに思わず俯けば、視界の端に震える拳が映った。赤い袖から出た大きな手、それは一部が白くなるほどに強く握り締められている。そこから上に視線を辿らせれば、その先にあったのはヘンリーの淡い笑みだった。
「えっ?」
クロエの唇をついて小さな声が出る。まるでそれがきっかけであったかのように、次の瞬間、彼女の胸元に何かが飛散した。正面に視線を戻せば、木の囲いの向こう、ロバートが連れていた部下が口から泡を吹いている。
「な――」
驚く間もなく、その男の胸元から突き出した黒く鋭い角が、囲いの隙間から自身の制服に引っかかっているのにクロエは気付いた。胸にかかったのは彼の血だ、そう理解した瞬間、ヘンリーによって体を抱き寄せられる。制服に引っかかっていた黒い角、いや、まるで昆虫の足のようなそれが暴れ、クロエの制服を切り裂き、その一部を剥ぎ取って囲いの向こうへと引っ込む。
「きゃああああ!」
隣にいた若い女のあげた悲鳴に我に返り、クロエは自身の悲鳴を喉の奥に飲み込む。
「逃げろ!」
ヘンリーの叫びに呼応するように、周辺で悲鳴が上がり始めた。
「吐け! すぐに腹の中のもの全部吐くんだ!」
ジュリアの張り上げた怒声は、悲鳴や一部の人間が逃げ出そうとし大勢の人間が状況がつかめないままという混乱の中で掻き消されそうになっている。しかし囲いの中の無事な男たちは、フレッドも、慌ててそれぞれの喉に指や手を突っ込んでえづきだした。だがすでに彼らのうち二人が、クロエの目の前の男と同じように腹から、また頭、背中から黒い角を突き出して痙攣している。
「何だ、何が」
「ロバート、早く吐け!」
ヘンリーにそう命じられ、ようやくロバートは自分を取り戻したのか口に手を入れるのだが、直後それが血に染まった。喉の奥から出血しているのだ。クロエは囲いに足をかけ、腕の力に任せて体を持ち上ると囲いを飛び越えた。
「じっとして!」
体を地面に横たえて悶絶するロバートを押さえつけようとするのだが、クロエの力では適わない。しかし周囲を見渡しても加勢してくれそうな者は誰一人としていなかった。クロエ同様囲いを越えたヘンリーは、クロエの制服を引きちぎった黒い艶やかな足をうごめかして男が襲ってくるのを、剣でさばくので精一杯のようだし、ジュリアは自身の吐き出したらしい黒い塊を剣の柄で叩きのめしているし、挙句フレッドは未だに喉の奥に手を突っ込んでえづいている。警備隊の男たちも、勇敢にもつい今まで仲間だったものを抑えようとしている者から、怪我をして囲いにしがみついて叫んでいる者まで様々だが、とにかくひどい有様である。クロエはロバートの頭を乱暴に地面に叩きつけ、唇を開いた。
「第三十四の歌声響く広間を聖域として」
とにかく可能な限りの速度で詠唱し、対悪魔に効果的な魔術を完成させるのが一番だ。そうすればヘンリーや他の者が相手にしている得体の知れないものも、ロバートの喉の奥で暴れているものも少しは大人しくさせられるはずだ。どう見てもこれは魔物に近い何かだ。
「邪悪なる怒りを退けんがための女神の祝福を希わん!」
クロエが最後の句を叫んだ刹那、断頭台の真上に人間の頭部程度の輝く球体が浮かぶ。青白く発光する神代文字によって構成されたそれはあっという間に膨れ上がり、狂乱の中に身を置くクロエたちを包んだ。
本来ならば倍以上の長さの詠唱を無理矢理短縮したので少しばかり不安はあったが、祈りは通じたようだ。クロエの手のひらの下でロバートの頭は大人しくなったし、ヘンリーが相手をしていた男も糸が切れたように地面に崩れ落ち、その腹から突き出た鋭い足も動きを止めている。
(よかった……)
ほっと息を吐いたクロエの視界が暗くなる。振り返れば、口から黒い足の束を突き出している男が彼女を見下ろしていた。
「あ――」
魔術の効きが悪いのか、男の口から伸びる足は獲物を求めているかのように盛んにうごめいている。その一本が勢いよくクロエの鼻先へ向かい――しかし白刃に弾かれた。その刃を操るヘンリーはすかさず踏み込む。躊躇いのないその剣筋は、血肉を求める本能の塊となった男の首を容赦なく刎ね飛ばした。
「っ……!」
重く鈍い音を響かせながら、想像以上にあっけなく男の頭が地面に落ちる。しかしなぜか血飛沫は上がらない。代わりに切断面から黒く細い角が無数に突き出す。それを眼前にしながら、クロエは息を呑んだ。頭を失った男はその勢いのまま、彼女の体の上に倒れこんでくる。
「クロエ!」
その異形の体を突き飛ばし、彼女を守護するように抱いたのはヘンリーだった。彼の胸にすっぽりと収められ、クロエは体の自由が利かない。
思わぬ温もりに抱かれ、クロエはつい今しがたの光景で固まった体がほぐれていくような感覚を味わった。男の人にこんな風にきつく、息もできないほど強く抱きしめられるのは初めてなのに、なぜ緊張も嫌悪もないのだろう。
「すまない、ひどいものを見せてしまった。……本当にすまない」
頭上で囁くのはまるで泣いているような声。
(どうして?)
君に何ができると冷たく言い放ったばかりなのに、どうして今度はこんなにも悲しそうに言うのだろう。
それを問うべく身を捩ってヘンリーの顔を見上げれば、そこには今にも涙を零しそうな悲痛に満ちた表情があった――が、見間違いであったのかと思うほどの速さで、それは微笑へと変わってしまった。
「すまなかったね、クロエ」
「………………」
また同じ笑顔だ。
(どうして、笑っているの?)
クロエは問いかけを胸の奥にしまい、顔を背けてヘンリーの腕の中から逃れた。




