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刺青の王女  作者: 川井
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1.クロエの秘密

序章


 やっと十になるかならないかの幼い少女の手を引いて、ただ夕日を頬に受け歩いていく。

 行き先は知れない。田舎道をとぼとぼと歩きながら見回しても助けを求められそうな人間も人家もない。あるのは深い森と高い山々、細い小川とどこまでも続く道。その先には何も見えない。

 この調子では野宿は確実だ。それも今日だけの話ではない。明日も明後日も、あるいは命を落とすまで――先のことは分からない。

 茜色に染まる空は一見温かいようでいて、すぐ後に訪れる夜の冷ややかさを孕んでいた。体に触れる唯一の温もりは、強く握った少女の小さな手だけだ。

 少女は手を引かれるままに黙々と歩いている。乱れた金髪に薄汚れた肌、ぼろの布を纏っただけの奴隷のような姿だが、背筋はぴんと伸びて足取りもしっかりしていた。何より蒼い目は力強く前を向いている。

(どうして泣かないの……? こんなに小さな体で、あれだけのことをされて)

 この少女を助けたことを後悔はしてない。二度と柔らかな寝台で眠ることがなくとも、温かなスープを飲むことがなくとも、それでも自分が取った行動が間違っていたとは思わないだろう。

 間違っていたはずがない。忌まわしい言葉を背中に刻まれ、挙句、下卑た欲望の捌け口になりかけていた少女を救うことの、一体何が間違いだと言うのだ。あの男達を殺してでもこの少女を救ったことが間違いだったとは思えない。

 狭い背中に彫られた卑猥な刺青は、この美しい少女が生きている限り蛇のように纏わりつくのだろう。それがどれだけ重いことなのか。もうこの少女にまともな結婚は望めないだろう。どこへ逃げようともこの印のせいで再びあの女の魔の手が伸びるかもしれない。

 片手で額を覆い、遅すぎる悔恨に唇を噛む。

「……ごめんなさい。もっと早く助けてあげれば」

 思わず発した言葉に、少女が目を丸くして見上げてくる。足を止め、しばらく見上げていた少女だったが、ふいに小さな唇を動かした。

「いいえ、助けてくださってありがとう。私は大丈夫」

 そして少女は優しく微笑んだ。

「だからどうか泣かないで。笑って」

 どうして――自分はあの男に従い、この少女を痛めつける手助けをしたのに。どうしてこの子は笑ってくれるの?

(だめ、許されるはずない。……今はよくても、きっとこの子は恨み続ける)

 消えない傷を与えたあの女を、そしてその一端を担った自分を。だからこの子が生き続ける限り、償いをしなければならない。ずっとこの子を守り続けなければならない。恐ろしいものから、醜いものから遠ざけ、薔薇の咲く穏やかな庭で温かいお茶を飲んで微笑むようなささやかな幸せをせめて、この小さな女の子に。

 そのためにも今は進まなければならない。泣いて立ち止まっている暇などない。

 少女の言葉に従い震える唇を無理に微笑ませ、目尻から溢れる涙を拭った。再び少女の手を引き、歩き出す。

 大丈夫、この子とならきっとどこまででも歩いていける。

一章


 人々は女神に膝を折り、頭を垂れ、祈りの言葉を捧げる。

 母なる女神の祝福を受けた者は、その祈りの言葉と自身の持つ魔導力という糧によって奇跡を起こし、魔導士と呼ばれた。

 特に大陸東部に位置するヴァーチェアル王国の民は敬虔で、そのためだろうか、魔導士を輩出する率が周辺の国々に比べ格段に高かった。とは言え、この王国においてでさえ、魔導士は数百人にやっと一人出るか出ないかという程度である。そしてもちろん魔導士の中にも優劣があった。ほんの僅かな炎を起こすだけで息切れを起こす魔導士もいれば、街一つをあっという間に炎で覆い尽くす魔導士もいたが、後者のような者は格段に数が少なかった。

 しかしそういった有能な魔導士を一点に集め、自身の手足とし、同時に切磋琢磨させることで更なる魔術の発展を望んだ王がかつてこの王国にいた。彼が作った組織はその没後も規模を大きくし、魔導士としての技量、兵士としての力量、人間としての幅広い教養を兼ね備えた人材を選抜し抱える精鋭魔導士集団として今現在も存在している。

 その集団の名を王立魔導警務局と言った。その名の通り国王のための魔導士集団で、他からの命令は一切受け付けない武装組織である。彼らは国王から委任された絶大な権限でもって王都の治安維持に当たっている。

 クロエ・バートレットはその組織に所属する魔導士の一人であった。十六になったばかりの小柄な少女であったが、王立魔導警務局、略して魔警局の局員養成学校を卒業し、つい二月前に王都西部の小さな署へと配属になっていた。

 中流層の多く済む地区の一角に構えられたその区署は広い裏庭を持っている。クロエはその殺風景な庭とも言えない土地に立ち、高い塀の方を見つめていた。塀の手前に成人男性ほどの高さの板が立っている。

 クロエは息を吸うと、小さな唇をはっきりと動かし、魔術の詠唱を開始した。

「第二十三の炎の揺らめきを凍らせ金剛石の硬き刃のごとく研ぎて――」

 数本向こうの大通りから、露天商の掛け声が風に乗って薄っすらと聞こえてくるが、それがクロエの集中力を削ぐことはない。微風に緩やかに波打った淡い金の髪を揺らしながら、彼女は蒼い目で真っ直ぐに板を、正しくはその頭頂部、いくつか小さな穴が開いている部分を見つめた。

「燃える征矢(そや)とせん」

 詠唱の最後の詞を紡ぎ終わると同時に、クロエの眼前に白いが浮かび上がる。祈りは確かに女神に捧げられた。間髪入れずその中心から炎で構成された矢が放たれ、設置された板めがけて一直線に飛ぶ。

 刹那の後、炎の矢は板の頭頂部を貫通し、その姿を空中に霧散させた。

「大当たり!」

 背後から投げかけられた大声に驚き、クロエは振り返る。区署の建物の影から顔を出して覗いていた幼い兄妹が、歓声を上げて走り寄って来た。

「こら、だめじゃない。前も言ったでしょう。勝手に裏庭に入ってはいけないわ、魔術の練習をするから危ないもの」

 眉をひそめるクロエに、子供達は笑ってしがみついてくる。やっと六つになる妹のエミリーは、クロエの赤い上着の裾を引っ張った。

「ごめんなさい、でもクロエちゃんの魔法見たかったんだもん」

「もう……」

 言いながら、クロエはしがみつく兄妹の頭を軽く撫でる。嬉しそうに笑い、兄で九つのダレルは塀際の板を指差した。

「格好いいよな、魔術って。俺もやっぱり将来は魔導士になりたいな。炎で悪い奴をやっつけるんだ!」

「この前、お父さんみたいな翻訳家になりたいって言ってたのに」

「うん、でも赤い制服も格好いいし」

 ダレルは羨ましげな目つきで、クロエの服を見つめる。立折襟の赤い軍服のような上着に、眩い黄金の飾緒、染み一つない白いズボン、磨き上げられた黒い深靴(ブーツ)。精鋭魔導士の証である魔警局員の制服に憧れる少年は少なくない。

「エミリーもなる! クロエちゃんみたいに赤い服着たい!」

 そう宣言し、しかしすぐエミリーは困り顔を見せる。

「でもお姫様にもなりたいな……」

 一瞬、クロエは返す言葉が見つけられない。エミリーに他意がないことは分かっていても、その言葉に敏感にならざるを得ない理由が彼女にはあったのだ。だがすぐに気を取り直して兄妹に訊ねた。

「二人とも、そろそろおうちに帰る時間でしょう。きっといつもみたいにお母さんがお茶の用意をして待っているわ」

「うん、今日はレーズンの入ったティーケーキを用意してくれるんだ!」

 ぱっと目を輝かせた二人に、クロエの頬が緩みそうになる。とその時、背後からクロエを呼ぶ声がある。振り返れば、区署の窓から青年が顔を出していた。

「クロエちゃん」

「あーフレッドお兄ちゃんだ!」

 エミリーが手を振るのに振り返し、フレッドと呼ばれた青年は人懐こい笑みを浮かべる。まだ十九歳の若者だが魔導士として魔警局に所属しており、クロエにとっては先輩に当たる。

「どうしたの、フレッド」

「いや、話し声が聞こえたからてっきり例の人が到着したのかと思ったんだけどさ」

「例の人? ああ、ヘンリー・グラハムさん」

「誰?」

 ダレルが首を傾げる。

「今日からここに来る新しい局員よ。故郷へ戻ったダミアンの代わりに。……でも、来るのは三時の予定だった、のよね」

 クロエの問いかけにフレッドは頷く。

「もう四時近いからさ、ちょっと巡回がてら様子を見てこようかと思うんだけど。ジュリアも巡回に出てったきり帰って来ないし。まあ顔は分からないけど多分制服で来るだろうからさ」

「いいえ、私が行くわ。この子達を送るついでに。フレッドが行ったら五時のお茶にお菓子が出てこなくなってしまうもの」

 フレッドの背後、厨房の奥に小麦粉の大きな袋を認めてクロエは神妙な顔で言った。

「了解、それじゃ頼むよ。俺はご期待に応えてスコーンでも焼くかな」

「楽しみにしているわ。それじゃあ行きましょう」

「フレッド、今度剣術教えてくれよな!」

「エミリーも!」

「ああ、いいよ。楽しみにしてろよー」

 クロエはダレル、エミリーがフレッドと別れの挨拶を交わすのを見届けると、彼らと手を繋いで裏庭から続く細い通路を行き、区署の正面玄関前へと出る。そこには赤い上着を着た女が背中を向けてしゃがみこんでいた。

「あ、ジュリアお姉ちゃん」

「ジュリア」

 呼びかければ、女の前から白い犬が飛び出して路地の向こうへと駆けて行く。あーあと残念そうにそれを見送り立ち上がる彼女に、クロエは唇を尖らせた。

「だめじゃない、ジュリア、また野良犬に餌をやっていたのね」

「相変わらず真面目だなクロエは。いいじゃないか、可愛いんだから」

 ジュリア――三十になったばかりの、肉感的な体つきをした美しい女は黒髪を耳にかけ、苦笑を見せる。

「だめよ、ジュリア。区署が犬屋敷になるわ。そんなことになったら署長のあなたの責任になるのよ」

 はいはいとクロエの注意を適当に聞き流し、ジュリアは話題を変える。

「ところで、ヘンリーはもう来ているのか」

「いいえ、まだ。遅いから、この子達を送るついでに少し探してこようかと思っているの」

「だったら私も探してみるかな。あいつのことだからその辺の子供と遊んで道草食ってるんじゃないのか」

 言いながらジュリアは、クロエの返答も聞かずにさっさと背を向けて歩き出す。遅くならないで、と呼びかけると肩越しにひらひらと手を振って路地を曲がってしまった。

 クロエは小さく溜息をついてそれを見送ると、兄妹に声をかけて彼らの家の方角へと進み始める。彼らの家は区署の近くを流れるウェローズ川を渡った向こう側だ。数本細い通りを横断し、片側が川に面した聖マイアス通りへと出ると、穏やかな住宅街の空気とは打って変わって、呼び売り商人や露天商が張り上げる賑やかな声に満ちていた。

「魔警局のお嬢さん、インゲン豆のスープはどうだい」

「クロエちゃん、ミートパイはどうだ、半ペニーだよ」

 並んで立っていた男二人が大きな声で呼びかけてくるのに、クロエは首を振って答える。

「ごめんなさい、今日は結構です。この子達を送って、人を迎えに行かないといけないから」

「だったら、戻ってくる頃にパイが残ってたらタダであげるよ」

「俺もだ、例え売れ残りでも可愛いお嬢さんにあげたいもんだね。それに魔警局には何だかんだと世話になってるしな」

「そうだ、この前酔っ払って道に寝てたのをクロエちゃんとフレッドに起こしてもらったんだった。パイくらいじゃ足りねえが、せめてもの礼さ」

「ありがとう」

 笑いあう呼び売り商人に礼を言い、再びダレルとエミリーの手を引いて歩き出そうとしたクロエだったが、不意に左の手から温もりが消える。何かと思う間もなく、エミリーが独り駆け出すのが見えた。

「水溜りだー」

「待って、エミリー」

 呼ぶ声にも耳を貸さず、エミリーは路地の片隅、石畳が少しくぼんで水溜りとなっていたところへ飛び込んだ。浅い水溜りだったが、思い切り飛び込めば飛沫が上がる。泥の入り混じった水はエミリーのスカートと、ちょうど通りかかった二人組の、片方の男の白いズボンに染みを作った。

「何をしやがる、このガキ!」

 男の怒声に、それまで賑やかだった通りが一気に静まり返る。商人や通行人は男とその連れの青い上着を見、眉をひそめて男を睨みつけながらも唇を硬く閉ざした。

「すみません!」

 クロエはダレルの手を引き、怒る男に駆け寄ってハンカチーフを差し出した。

「申し訳ありません。さあ、エミリーも謝って」

「ごめんなさい……」

 クロエはエミリーと共に再び謝罪するのだが、クロエとよく似た格好をした二十代前半のその男は吊り上げた眦で二人を見るばかりでハンカチーフを受け取ろうともしない。

「……何だ、魔警局員か? この小娘が?」

 小娘という言葉に少々むっとしながらも、クロエは反論しなかった。男をこれ以上刺激したくないのと、実際にクロエの背格好が十六歳にしては幼いものだからだ。十三、四の子供に見えても仕方ない身長と、華奢で凹凸のない体つきである。とても魔導士として選り抜きで、同時に武芸を嗜むようには思えないだろう。今クロエが左腰から提げている剣も、右腰の拳銃も、男からすれば玩具にしか見えないに違いない。もちろん同じ魔警局の男に力では適わないが、それでも一般の男相手であればクロエにとって制すのは易いものである。

 彼女の細い体を上から下まで舐めるように見て、男は唇の端をゆがめた。

「ふん、その制服、本当に局員のようだな」

「しかしロバート様、こんな子供、どうせ女というだけで、女性王族警護の人員の予備として所属させているだけでしょう。ろくに魔術も剣も使えぬ、ただのお飾りですよ」

 連れの男の言葉に、ズボンを汚された男は大きな口を開けて笑う。

「飾りでも何でもいい、とにかく誰だろうが俺の服を汚しておいてただで済むとは思うなよ」

「…………申し訳ありません」

 誰だか知らないが、まるで古い小説に出てくるありがちな悪役ではないか。溜息をつきたくなるのを堪え、クロエは視線をロバートと呼ばれた男の汚れたズボンに目をやる。

(よりによって警備隊を怒らせるなんて……)

 目の前の青いお仕着せに身を包んだ男達は、王都魔導警備隊という組織の人間である。

 クロエの所属している王立魔導警務局は国王に絶対の忠誠を誓う、魔導士による治安維持組織だ。その局長には国王から王都の治安維持のための絶大な権限が委任されており、軍部だろうが教会だろうが魔警局へ命令することはできない。そのため魔警局を自身の思うように御せず腹を立てた王太后がつい一月前、自身のために作った武装魔導士集団、それが王都魔導警備隊である。彼らは王太后の政を批判した者を拘束するため影のように忍び寄り都民の声に耳をそばだてる。

 元々人気のない王太后が、己の敵対者をあぶりだすために魔警局を模倣して組織した集団というだけでも嫌われるものを、王太后の権威を笠に着て今現在そうであるように傲慢に振舞えば、当然都民からの支持は得られない。

 しかし問題はそこではない。魔警局と警備隊は簡単に言ってしまえば仲が悪く、今はそれが問題なのだ。国王を至上とする魔警局からすれば、いくら幼く政治能力を持たないとしても王は王、その命令が絶対であり、いくら王太后とは言え、摂政ですらない者の命令に聞く耳を貸す必要はない。だが、事実上の女王である王太后を擁する警備隊からすれば、彼女を敬わない魔警局は不届き者である。

 しかも、警備隊を構成する魔導士の大半は魔警局への所属が叶わなかった者達であるというのがまた、魔警局と隊との関係を剣呑なものにしている大きな原因だ。

 これは面倒なことになってしまいそうだ。そう思いながら、クロエは啜り泣きを始めたエミリーを抱き寄せた。

「おい、小娘、服を脱げ」

「え?」

 ロバートの突然の命令に、クロエは目を丸くした。

「言っておくが、お前の貧相な体に興味がある訳じゃない。ただ俺の服を汚したのなら、さっさとその悪趣味な色の上着で拭えと言ってるんだ。分かるか」

「……あなたこそ、ご自分の仰っていることがお分かりですか」

 クロエは努めて冷静に、慇懃な口調で訊ね返した。彼女が纏っている赤い制服は、国王からの支給品である。それを戦時ならばともかく、平時にハンカチーフ代わりにしろなどと、局員でもない者から命令される筋合いはない。

「申し訳ありませんが、制服を使うことはできません。このハンカチーフをお使いください」

「そんな小さな布で拭いきれるものか。小娘が、とっとと脱げ」

 ロバートの連れ合いの男の言葉に、クロエは目つきを鋭くする。

「――できかねます。制服を汚してしまったことは、本当に申し訳ないと思っています。ですがこれ以上上着を脱ぐように仰るなら、国王陛下への侮辱と受け取ります」

 魔警局は国王の手足そのものであると同時に、魔警局には国王を侮辱した者を逮捕するだけの権限を与えられている。警備隊と違って今まで実際にそんなことがあった例はあまりないが、できないことではないのだ。ただ今はそういうことをしようというのではない。ロバート達にそれをほのめかし、引けと伝えているのだ。

 だがロバートは怯む様子もなくクロエを見下ろし、目を光らせた。

「ほう、ならばこちらもその子供の無礼を王太后殿下への侮辱、またお前の言動はそれを庇い立てするものとみなす。それでどうだ。我々には王太后殿下を侮辱する不届き者や、それを庇い立てる反逆者を逮捕拘束する権限がある」

 王都の片隅で突如開始された王権代理戦争は警備隊に勝利がもたらされる結果となった。クロエはまだ泣いているエミリーの頭を撫で、小さな声で答える。

「……上着ではなく、中に着ているシャツでよければ」

 僅かな逡巡の後、ロバートは鼻を鳴らした。

「いいだろう。それで許してやる、早くしろ」

 彼もあまりクロエを痛めつけすぎてはまずいと思ったのだろう。落とし所としては悪くない。

(下着姿になるくらい、大したことではないわ)

 ただ、この問題はクロエ個人のものではなくなるに違いない。同僚が警備隊に手ひどく侮辱されたとなれば、血気盛んな局員達は意趣返しを画策するはずである。そうなると今以上に組織同士の関係が悪くなり、下手をすれば魔警局の局長であるベッドフォード公爵にまで火の粉が降りかかるだろう。

(ごめんなさい、公爵)

 内心密かに謝罪しながら上着の襟元に手を伸ばせば、肘を掴まれる。見れば、それまで黙って成り行きを見守っていたダレルがクロエの動作を止めようとしていた。

「だめだよ、クロエちゃん!」

「ダレル、でも――」

「そうだ、さっきから見てりゃなんだ、こんな小さな女の子に向かって服を脱げだと?」

「威張りやがって、男の風上にも置けないふざけた奴らだ、いい加減にしろ!」

「クロエちゃん、こいつらの言うことなんか聞く必要ないわよ」

 気付けば、いつの間にかクロエ達の周りを呼び売り商人や通行人が取り囲んでいた。皆めいめいにクロエを庇うような言葉を叫び、中には箒を構えている中年女性まで混じっている。

「皆さん……」

 都民の加勢に嬉しくなる。だが、ロバートは彼らの声や勢いに眉一つ動かさない。

「庶民ごときが口を挟むな。それとも何か、全員斬り捨てられたいのか」

 ロバートと連れの男が左腰の剣に手をかけた瞬間、周囲の空気が張り詰める。しかしそれもすぐに、どこからか飛んできた野次に打ち消された。

「やれるもんならやってみろってんだ!」

「――そうだ、全員でぶちのめしてやらあ!」

「熱々のスープぶっかけられてえのか!」

「その気取った服にパイぶつけてやろうじゃねえか!」

 次々に怒りの声が上がり、クロエ達を囲む集団の輪がじりじりと狭まってくる。

「ほう、面白い」

 ロバートは剣の柄に手をかけたまま舌なめずりをしている。魔術を使える彼には、大勢に囲まれようとも余裕があるのだ。しかしこのままでは本当に血が流れかねない。

「待って、皆さ――」

 クロエが制止の声をあげた瞬間、その肩に手を置く者があった。

「お取り込み中すみません、道を教えていただきたいのですが」

 穏やかだがよく通る声が場違いな言葉を告げた。振り返れば、背の高い青年が優しげな笑みを浮かべて背後からクロエを覗き込んでいる。二十をいくつか過ぎたばかりの、品のある顔立ちの青年だ。彼の蜂蜜色を帯びた濃い目の金髪が陽光を受けて眩しい。

「え、あの……」

「この辺りは不案内なもので迷ってしまって。現在地がここでしょう?」

 青年はにこにこと笑いながら地図を指し示す。闖入者にあっけに取られ、クロエ以下誰もが黙り込んでいると、不意にロバートが剣から手を離して皮肉げに笑った。

「これはこれは、誰かと思えば」

「やあ、リヴァーズ伯爵の三男であるロバート・サマセット君、お久しぶり。お元気そうで何より」

 青年は相変わらず微笑みながらクロエの前に進み出た。彼は右手を出してロバートに握手を求めるのだが、それは果たされない。ロバートは大げさに肩をすくめてからこう言った。

「君こそお元気そうで。ご家族もお元気かな。……おっと、お母上が長いご病気で臥せっているのだったな。いや申し訳ない、俺としたことが」

 ロバートの含みのある言葉に、クロエは青年を見上げるのだが、彼は相変わらずにこにこと笑っている。

「いやいいんだ、ロバート君。そんなことより君、こんなに小さくて可愛い女の子と知り合いだったなんて……人が悪いな、僕に紹介してくれればいいのに」

「え?」

 青年が肩を抱くように手を置いてくるのでクロエは慌てる。見知らぬ男だが随分と馴れ馴れしい。最初はロバートから助けてくれるつもりの善人かと思ったが、もしかすると彼の仲間なのかもしれないと僅かに疑念を抱き始めてしまう。クロエの疑いのまなざしに、青年は微笑を返してから大きな声で言った。

「ああ、それともロバート君、もしや君もこういう小さくて可愛い女の子がたまらなく好きで、声をかけていた最中だったのかな。ああ、そう言えば前に言っていたね、十歳くらいの子と結婚したいだなんて。だとすると邪魔をしてしまったね」

「な、何を言ってるんだ! そんなことを言った覚えはない!」

 ロバートが初めて焦燥感を顔に浮かべ、否定の言葉を叫んだがすでに遅い。周囲の野次馬がひそひそと口を動かし、怒りではない感情を目に浮かべてロバートを見ている。

「あれ、でも十歳くらいの女の子が好きな君にとっては、この子は範囲外だろうから、やはり僕に譲ってもらってもいいんじゃないかな」

「ゆ、譲るってそれはどういう意味――」

 クロエは青年の声に慌てて抗議するのだが、それは絹を裂くような悲鳴によって遮られてしまう。

「きゃああああ!」

 人垣の奥から響いた叫びに、思わず誰もがそちらを向くのだが人の多さに何が起こっているのか瞬時には把握できない。しかし続けざまに悲鳴が上がり、クロエ達を取り囲む人垣が崩れ、野次馬が蜘蛛の子を散らすように逃げ始める。

「え、何?」

 背の低いクロエにはまだ何も見えず、状況が把握できない。両方の腕でダレルとエミリーを抱き寄せようとしたのだが、それより早く例の青年がエミリーを抱き上げ、ダレルの手を握ってしまう。

「早く逃げるんだ」

「え?」

 クロエが言われたことを理解する前に、青年はぽかんとしている兄妹を連れ、混乱に陥った人ごみに紛れ、最初に悲鳴が上がったのとは逆方向へと駆け出してしまった。クロエはすぐさま我に返り、剣に手をかけながら振り返る。

「な、何だ……」

 まだ隣にいたロバートが呟き、見つめる先に犬のような生き物がいた。大きさも見た目も白い犬そのものなのだが、奇異なのはその背や横腹、頭部からまるで蟹の手足のようなものが数本突き出し、ぬめるその黒く硬い体をうごめかしいていることだ。

「うわああ!」

 情けない声をあげ、尻餅をついたのはロバートの連れの警備隊員である。それをきっかけに、ロバートも後ずさりを始める。その悲鳴に白く尖った耳をぴくりと動かし、ロバートとその連れの方へと犬らしき生物は尖った鼻先を向けた。それはすっかり人気のなくなった通りをゆっくりとこちらへ向かって歩き出す。あっと思った時にはすでに犬は地面を蹴り、尻餅をついていた男に飛び掛った。

「ひいッ!」

 男が手をばたばたと振って犬を払いのけるのだが、噛み付かれたのか血の赤い色が彼の手の甲を染める。

「……逃げるわけにはいかないわ、私は魔警局員だもの」

 精鋭魔導士として、王都の治安維持に当たるべく国王の命を受けているのだ。逃げることなどできない。

 ギチギチという耳にしたことのない甲高い音を発しながら再び男に飛びかかろうと姿勢を低くする犬に、クロエは視線を定めた。だが剣を抜かず斜め前へと飛び出す。石畳の上、踏まれて半分潰れていた小さなパイを二つ拾い上げ、片方を犬の頭めがけて投げつける。それは犬の目であるはずの部分から天に向かって突き出ていた黒い角に一度突き刺さり、崩れて地面に落ちた。

「ワンちゃん、こっち!」

 クロエの呼びかけに耳を動かし、犬は鼻先を向ける。パイを手に持ったまま、クロエは犬から視線を逸らさないように、慎重に足を運び始めた。向かうのは通りにかかっている大きな橋のたもと、欄干の始まりにある小さな柱だ。クロエは自身の身長程あるその柱までパイを振りながら犬をおびき寄せると、柱の装飾に足をかけてその頂へと一気に跳び上がった。身軽な彼女にとってこの程度は朝飯前である。

 犬は柱に前足をかけ、グルグルと唸る。同時に体中の黒い角が甲高い音を出しながらうごめき、柱にその鋭利な先端をぶつける。

 この間に魔導士であるロバートやその連れが何とかしてくれればいいのだがと視線を走らせても、彼らはぽかんとして見たこともない異形の犬を眺めてあっけに取られているだけだ。クロエは柱にしがみついたまま、跳び上がって今にも自身の深靴に爪をかけそうな犬を見下ろして、小さな唇を動かした。

「……第三十八の宵闇及び黎明が降り注ぐが如く秘かに顕れんことを願い――」

 この犬が何なのか分からない今、下手に攻撃して傷を負わせて、犬の中から本体と思しき黒い魔物が出てきて更に攻撃性を増すということも考えられないことではない。となれば相手の動きを封じて応援を待つのがよいだろう。その判断の下、クロエは魔術の詠唱を開始した。

「御前にこの導力と言葉を奉り……」

 魔術は神への祈りだ。祈りの言葉と体内の魔導力を糧に力を呼び寄せる。

 紡ぐ言葉によって魔導力が吸い取られるように体外へと出て行き、クロエは軽いめまいを覚える。同時に、立ち上がっていた犬の足元、石畳から薄桃色に輝く帯状の光が現れた。神代文字によって構成されたその帯――魔導紋は輝きながら身をくねらせ、犬の体に、黒い多数の角に絡みつく。しかし犬は激しく吠え、体を大きく捩じらせて拘束を解こうと抵抗した。

(お願い、大人しくして……)

 魔導力が急激に減少するために起こるめまいに、手にしていたパイを取り落とした。つい呻き声が零れてしまいそうになる。しかし声を漏らせば、まだ途中である詠唱が破棄されてしまう。そうなればまた一から詠唱を始めねばならないが、クロエの体内にはもう、この難度の高い魔術を最初からやり直すだけの魔導力が残っていない。

 不意に足に引っかかるものを感じ、クロエは柱にしがみつく腕に力を込めた。深靴に犬の爪がかかったのだ。

「……!」

 ぬめった液をまとう黒い角も数本、うごめきながら深靴に迫っている。その時、青ざめたクロエの耳に聞きなれない声の詠唱が届いた。

「闇増す宵の淵に光満つ黎明の天に」

 クロエが今詠唱している魔術への積重詠唱だ。誰かが自分の祈りを助けてくれている――顔を上げたクロエの視界に、筒の長い大型の拳銃を構えた男の姿が見えた。さっきの青年だ。風に蜂蜜色の(ハニーブロンド)をなびかせながら、こんな時でさえ薄い微笑を浮かべて詠唱句を紡ぐべく唇を動かしている。

 クロエは重い頭を振り、詠唱を再開する。

「この斎庭(ゆには)堅磐(かきは)に」

 それに応えるように、青年は穏やかな声を彼女の詠唱に沿わせた。

「淵と天よりこの庭に」

 途端、犬に抵抗され今にも引きちぎられそうだった帯状の魔導紋が数と勢いを増し、犬の体と黒い角を地面に倒すように動いた。想像以上の威力の増加に驚き、クロエは青年の顔を見つめてしまう。視線が交錯するや否や、青年は優しく微笑んだ。なぜか心臓が大きく脈打ち、体が熱くなるのを感じながら、それを振り払うようにクロエは大きく息を吸った。青年もそれに呼吸を合わせる。

静寂(しじま)(もたら)さん!」

 最後の句を二人で重ねて詠唱した瞬間、薄桃色の魔導紋が眩い光を放つ。魔術の完成だ。一瞬後にはもう、異形の犬は帯状の魔導紋によってその不気味な体を石畳に縫いとめられていた。

「やった」

 思わず呟いた瞬間、ぐらりと体が傾く。まずいと思う間もなく、クロエの体は力を失って柱の上から落ちていた。背中を叩き付ける痛みと、その後に襲う息苦しさ――自身が地面ではなく川に落ちたのだと気付いた時、クロエは早くも冷たい水の中で意識を失い始めていた。

 だがぼやけていく感覚の中、何かが水に落ちてくる音が鼓膜を震わせる。そしてすぐに、誰かの腕に強く抱きしめられたような気がした。

(なつかしい……)

 どこかで感じたことのある――でも、どこで、だれ――駆け巡る思いは形にならず、クロエは意識を手放した。



 窓から差し込む陽光は明るく温かい。女神の慈悲と呼ぶに相応しいものである。しかしそれを受けながら、幼いクロエは悪魔の所業と呼ぶに相応しい辱めを受けていた。

 一糸纏わぬ彼女の白く狭い背中の下部に、青味がかった文字が浮かんでいる。もう何日もかけて激痛と共に肌に掘り込まれたその言葉は、少女にはまだ意味の理解できない、ひどく下卑たものであった。

「うっ……う……う、ぅ」

 押し殺してすすり泣く声が、石造りの部屋に響く。本当は泣きたくはないのだ。だが耐えかねる痛みに、どうしても涙が零れてしまう。背中から腰に響く鋭い痛みを飲み込めない悔しさに、まだ十歳を過ぎたばかりのクロエは先程やっと拘束を解かれた拳を強く握った。

 冷たい石造りの寝台の上、うつぶせに寝かされた格好のまま動けないでいる彼女の腰を、大きな手が撫で回す。

「よかったな、一つ彫り終わったぞ。帝国の娼婦の娘であるお前に相応しい名前だ」

 言いながら、その手は彼女を仰向けに転がした。

「っ……!」

 彼女が痛みに顔を歪めるのもお構いなしに、赤い制服を着た男が唇に下種な笑みを浮かべて覗き込んでくる。

「だがまだだ。メアリー様に命じられた通り、体中に、そうだ、手にも足にも顔にも彫ってやるからな。ああ、烙印も押してやる。楽しみにしておけ」

「う……」

 寒さと恐怖にクロエが体を震わせるのを、とても面白いものを見る目つきで眺めてから、男は彼女の白い腹に手を置いた。

「それにしても王女か……。普通の娘と変わらないようだが、しかしこれから先、王女に触れる機会など――」

 独り言のような男の言葉に耳を傾けながらも、幼いクロエにはその意味が理解できないでいた。男がクロエの小枝のような足を掴んで引きずり、寝台の端から両足を垂らしても、更にその両足を持ち上げようとしても、彼女には男がこれからしようとすることが分からない。

(こんどはなにをするの……?)

 痛いことでなければいいのに。それか、いっそ殺してくれれば、あの(メアリー)の前に引きずり出されるくらいなら、体中に刺青をされ、王都へと、王宮へと、あの王太后と名乗る資格のない女の前に連れて行かれて嘲笑されるくらいなら、いっそ殺してくれれば――クロエが覆いかぶさってくる男をうつろな目で見ていると、不意に男の体から力が抜ける。のしかかられた重さと驚きで呼吸が止まった。

 しかしすぐに男の体は地面に落ち、横たわる。何が起きているのか分からないクロエの顔を覗き込んだのは、銀に近い髪色の美しい人だ。

(きれいないろ……)

 ぼんやりと見上げるクロエに、その少女は今にも泣きそうな顔で囁く。

「は、早く……逃げなきゃ」

 その細い声だけでなく、少女が手にしている先端を血に染めた剣もまた小刻みに震えている。血と同じ色の、いや、倒れた男と同じ色の赤い制服を着た少女に、クロエは不思議に思う。仲間割れ?

 不意に床に横たわっていた男が小さく呻いた。

「……ッタ……」

 一瞬少女は怯えた顔で動きを止めた。だが、男がそれ以降何も言わず動きもしないため、死体になったと判断したのか少女は長い髪を揺らし再び唇を動かす。

「早く!」

 この少女があの男の部下であると数日のうちに理解していたクロエだったが、自身を抱き起こす彼女の細い腕の温かさに嫌悪感はなかった。

(たすけてくれたの……?)

 訊ねる気力さえ残っていないクロエを抱きかかえるようにし、少女は死体の上を越えて扉へと向かおうとする。クロエが細く頼りない腕にしがみつけば、いとおしむように強く抱きしめられた。

 深い安堵感に再び泣きたくなるのを堪え、クロエは力を振り絞って地を踏みしめた。少女は泣きそうな顔でクロエの小さな手をぎゅっと握り、足早に歩き出す。



「っ…………」

 気がつくと、クロエは柔らかな寝心地の寝台に横たわっていた。視線を走らせれば、よく知った部屋である。区署の一角に与えられた私室だ。

(夢を見ていた気がする……)

 ぼんやりとした頭で今まで見ていた夢の内容を思い出そうとするのだが、曖昧で掴みどころがない。何気なく頭に手をやり、自身の髪が湿っていることに気付いた。

「え?」

 水。そうだ、異形の犬を魔術で無力化し、欄干から川に落ちたのだ。しかしそれからの記憶がない。慌てて体を見下ろすと、尻まで隠れる丈の長い真っ白なシャツを着ている。それはよく乾いており、川に落ちた際に着ていたものとは別のもののようだ。それどころか、胸元に手をやってみればシャツの下につけているはずの下着がない。前で締める簡単なコルセットのようなものだが、慌てて周囲を見渡しても見当たらない。誰かがクロエの濡れた服を下着まで全て脱がせ、新しいシャツを着せたのだ。

 寝台から飛び降り、クロエは真っ青になった顔を鏡台に映した。

「見られた」

 震える声で呟き、鏡に背中を向けて長いシャツをめくり上げる。肩越しに覗けば、露になった臀部の上に忌まわしい言葉が刻まれている。この刺青を、服を脱がせた誰かに見られてしまった。何と言って誤魔化せばいいのか――いや、それよりもこの刺青を元に、自分の正体を知られてしまったら。

(まさか……いえ、でも)

 可能性がないとは限らない。

 クロエが先王の第一子にして正当なる王妃の娘として生まれてきた王女だと、この刺青をきっかけに知られてしまうという可能性が、ないとは限らないのだ。

 クロエの母、時の王妃エリザベスを死に追いやったのは王とその愛人であるメアリーであった。クロエの父である王リチャードはメアリーに吹き込まれた讒言を信じ、隣国から嫁いできた王妃を数年と経たないうちに監獄として名高いライガルド塔へと追いやった。その冷たい牢の中で予定より早く産まれ落ちたクロエは、当時魔警局の一局員として偶然ライガルド塔で警備にあたっていたベッドフォード公爵によって匿われ、王都から遠い田舎で無事十歳まで養育された。

 その間に王リチャードは死に、幼い息子、クロエの異母弟チャールズが新たな王として即位、王妃となっていたメアリーは王太后として権勢をその手中に収めた。彼女はどこから聞きつけたのか、死産とされていたはずのクロエが生きていると知り、捕らえ、自身が王妃の席に就くことを妨げた憎い(エリザベス)の娘であるクロエの体に刺青を彫り、ありとあらゆる拷問を加えた上で処刑するようにと命じた――のだが、それは未遂に終わった。刺青が一つ完成された時点で、クロエはベッドフォード公爵によって密かに奪還されたからである。

 それからは敢えて王都に住まい、王の忠実な僕として魔警局へと所属することで王太后の目を欺いているのだ。もしもこの刺青のことを誰かに知られれば、自身とベッドフォード公爵の身を危険に晒してしまう。

 シャツを下ろして向き直れば、鏡の中に動揺で震えている少女が映っている。クロエは下唇を噛み、強く拳を握り締めると勢いよく部屋から飛び出した。階段を駆け下り、事務室へと駆け込むとフレッドが一人で円卓を拭いていた。

「うわ、クロエちゃん、ちょっとその格好――」

 素肌にシャツ一枚のクロエに驚き、フレッドは手を止める。しかしそれどころではない。クロエはフレッドの腕を揺さぶりながら声を被せた。

「誰! 誰が私を着替えさせたの? フレッド?」

「い、いや、違うけど」

「ジュリアね!」

「違う違う」

 腕にしがみつくクロエをやんわりと遠ざけながら、フレッドは首を振った。

「ヘンリーさんだよ、新しく赴任してきたヘンリー・グラハムさん」

「何でその人が……いいえ、その人今どこ!」

「え、奥の部屋に」

 奥の部屋とはヘンリーの私室とするため、先日掃除した部屋のことだろう。クロエはフレッドが諌める声を背中に受けながら事務室を飛び出し、廊下を奥へと疾走する。目当ての部屋の扉に飛びつき、乱暴に二度ノックすると、返事もないうちに部屋へと飛び込んだ。

「失礼しま――」

 部屋の中では、背の高い青年が白いシャツを片手に上半身裸で立っていた。

「した!」

 頬を染め、クロエは飛び込んだ勢いを反転させて部屋の外へと出る。後ろ手に扉を閉めたが、すぐに扉は内側から開き、そこからシャツを羽織った青年が顔を出した。蜂蜜色の(ハニーブロンド)の、穏やかな笑顔はどこかで見た顔だ。

「あなたは……さっきの!」

 川に落ちる直前、一緒に魔術を完成させたあの青年ではないか。青年――ヘンリー・グラハムはにこにこと笑いながら片手を挙げた。

「やあ、気がついたようだね、よかった」

「………………」

 次々に襲う思いもよらぬ出来事にクロエは言葉を失う。だがヘンリーはそれを気にかける風でもなく、美形と呼んで差し支えのない整った顔に笑顔を浮かべている。何となく視線を下ろせば、ボタンの留められていないシャツの袷からしなやかな筋肉のついた胸が覗いている。長身で細く見える男だが、実はそれなりにたくましい体をしているようだ。不意に心臓が大きく打った。

(や、やだ私……はしたない)

 クロエは我に返り、頬を染めた。その瞳を覗き込んでヘンリーが笑う。

「怪我はないかい。さっき着替えさせる時に体中調べはしたけれど、どこか痛いところは――」

「体中?」

 やはり見られている。背中の刺青どころか、全て。あんなところもそんなところも、何もかも。恐怖と恥ずかしさとで真っ赤になり、口をぱくぱくと開けたり閉じたりしていたクロエだったが、すぐさま気を取り直しシャツの裾を握り締めて口を開いた。口止めをしなければ。

「あ、あの、私……体のことで気にしていることがあって……」

 クロエの潜めた声に、ヘンリーは穏やかな笑みでもって頷いてみせる。

「大丈夫、皆が知っていることだから」

「え?」

 見る見る血の気の引いていくクロエに対し、ヘンリーは笑んだままだ。

「大丈夫だよ。深く思い悩むことじゃない。君の体が年齢にしては幼いのは、皆が分かっていることだし、世の中には僕のように小さくて可愛い女の子が好きな人間もいるんだから」

「え、あの、ちが」

 慌てて彼の顔の前で両手を振ってみせるのだが、果たしてクロエの抗議の声は聞こえているのかどうか。ヘンリーは相変わらず微笑んでいる。

「た、確かに私は子供っぽい体型だけど、でも」

 自分で認めていても他人に指摘されると少々腹立たしく、つらいものだ。

(え、ちょっと待って……)

 今、この男は何と言った?

『世の中には僕のように小さくて可愛い女の子が好きな人間もいる』?

 クロエは一歩後ずさり、ヘンリーとの間に距離をとった。変質者を自称している男に体中調べられたということが、今までとは違った意味で怖くなったのだ。

「ひっ……嫌」

「それにしても君は本当に可愛いね。こんなに可愛いのに魔術もあんな難度の高いものを完成させる技量を持っていて、こんなに細くて小さな体で欄干の柱に飛び上がるだけの身体能力……」

 ヘンリーは湿って艶々とした髪と緑掛かった瞳をクロエの鼻先に近づけるように迫り、大きな手のひらを伸ばしてくる。思わず後退するのだが、背中を廊下の壁にぶつけ、クロエは身動きが取れなくなった。

 シャツを着ただけの華奢な肩にヘンリーの指先が触れそうになった刹那、二人の視界の端に小さな影が飛び込んでくる。

「っ!」

 避けられない、と咄嗟に頭を守ろうと顔を背け、手で庇ったクロエだったが、一拍置いてみても何の衝撃もない。目を開ければ、クロエの顔のすぐ脇でヘンリーの手のひらが何か狐色のものを受け止めていた。

「……スコーン?」

「おっと、少々狙いが外れたか。悪いな、クロエ」

 見れば、廊下の向こうにスコーンを片手にジュリアが立っていた。その背後にはスコーンを山盛り乗せた皿を手に、フレッドが困り顔で控えている。ヘンリーは握ったスコーンを軽く持ち上げ、ジュリアに笑いかけた。

「やあ、ジュリア。久しぶり」

「ヘンリーお前、相変わらずのようだな」

 クロエはヘンリーと、苦笑するジュリアの顔を交互に見つめた。



 ジュリアが陶器製の白いティーポットを片手にヘンリーに訊ねる。

「お前、ミルクは後だったな」

「以前あなたの部下だった頃からもう三年も経っているのに、まだちゃんと覚えてもらえているなんて嬉しいよ」

 にこにこと笑うヘンリーにジュリアは溜息を吐きながら、彼のカップへと紅茶を注いでやる。芳香が円卓の上に広がり、少々張り詰めていた空気を和ませた。

「忘れるものか。お前は色々と印象が強すぎるんだ」

 ジュリアはフレッドの、先にミルクを注いでいたカップに、続いてクロエの何も入っていないカップに、ようやく最後に自身のミルクを大量に入れたカップにと、四つ並べられた白い簡素なカップに紅茶を少しずつ注いでいく。

 クロエとフレッドは黙ってその様を見つめ、自身に話題が振られるまで敢えて口をきかないでいようと考えているのを互いに感じあっていた。しかし落ち着かず、予備の制服の袖をそわそわとついいじってしまう。

 紅茶が注がれてしまい、それぞれにミルクや砂糖を入れ終わったところで、ジュリアが一度手を叩いた。

「さて、お茶も入ったことだし紹介しよう。ヘンリー・グラハムだ」

 ジュリアの声に、クロエとフレッドは改めてテーブルを一緒に囲んでいる美青年の顔を見つめた。

「どうも――」

「あの名門、モントローズ公爵の四男で二十三歳。三年前、十四区の署で私の部下だった男だ。ご存知の通り、可愛い女の子に目がない。私のような美女には目もくれないがな。ヘンリー、フレッドとクロエだ」

 ヘンリーが挨拶しようとしたのを遮るように、ジュリアが一気にまくし立てる。

「改めまして、フレッド・グローヴァーです。よろしくお願いします」

「……クロエ・バートレットです」

 フレッドは困惑を押さえて人懐こい笑顔で挨拶をしているが、クロエにはそれだけの余裕がなかった。体中を見られたこと、背中の刺青のこと、両方が気になって仕方ない。

「ほら見ろ、がっつくからクロエが怯えてるじゃないか」

 ジュリアはフレッドの焼いたスコーンを半分に割りながらヘンリーに視線をやる。

「いや、こんなに可愛らしい女の子があんな難度の魔術を展開するなんて、興奮してしまうのが当然だよ。そう思いませんか?」

 目配せされ、フレッドがクロエの隣で肩を小さくすぼめる。

「え? ええ、まあ……確かにクロエちゃんはすごい子です。何も知らない人はお飾りなんて言うけど全然そんなんじゃない。あ、ところでヘンリーさん、俺は後輩なんで敬語ではなく」

「ああ、それなら僕も。ジュリアの方針だろう?」

 署長であるジュリアは、区署の中で年齢や性別、生まれの別なく局員同士互いに気さくに話し合うという方針を採っている。と気取ってみても、実際のところは敬語を使うのも使われるのも堅苦しくて好きではないということらしい。

「ところでクロエちゃん、君は公国の出身か何か?」

 それまで黙って成り行きを見守っていたクロエだったが、突然ヘンリーに話しかけられて体を震わせる。

「え、あ、ええ、私はその、父が公国からの亡命貴族で、でもこちらで王国民の母との間に生まれた庶子だから」

 こうしてアルヒアン公国風の名に王国風の名字というちぐはぐな名前を持っているのだと、お決まりの嘘をついて誤魔化す。確かに父とされる亡命貴族は実在したが、本当は何の関係もない人だ。生まれたてのクロエをライガルド塔の牢獄から連れ出し養育してくれたベッドフォード公爵がかの貴族を保護する代わりに名を借りたに過ぎないし、その貴族もクロエが一歳になる前に亡くなっていて顔を合わせたことすらない。

 クロエという名も、母の生地であるケルブデルト帝国ともこのヴァーチェアル王国とも関わりがない言葉だというだけで公爵が公国風に名付けただけのものである。

「なるほど、とても可愛らしい名前だね」

「え、あ、ありがとう」

 ぎこちない返事をしても、ヘンリーは変わらない穏やかな笑みを浮かべるばかりだ。初めて声をかけてきた時も、廊下で迫ってきた時も、今この時も全く同じ笑顔である。

(何だかこの人の笑顔……)

 どこか不自然だ。

「クロエ、そう怯えるな。全く、こんなことなら後処理をお前にさせて私がクロエをつれて帰るんだった。まあ偶然通りかかったらあんな騒ぎだ、私も混乱していたんだろうが」

 ジュリアに睨まれてもヘンリーは微笑んでいる。

「そう言えば結局、何だったんだ? ヘンリーさんに軽く聞いたけど、変な犬が出たって」

「あ!」

 フレッドの言葉にクロエは小さな悲鳴を上げる。刺青のことを考えていたばかりに、川に落ちる前のことをすっかり忘れていた。あの異形の犬は、ダレルとエミリーの兄妹は、ロバートら警備隊はどうなったのか。

「犬は魔警局本部まで連行された。あれはおそらく魔種だな」

「ましゅ?」

 クロエとフレッドの疑問符のついた声が合わさる。ヘンリーはスコーンにクロテッドクリームを塗っていた手を止め、呟く。

「やはりそうか。でも一体どうして魔種が」

「待って、魔種ってあの魔種のこと?」

「ま……ましゅ?」

 クロエは、まだジュリアの言葉の意味を理解していないフレッドへと向く。

「フレッド、学校で習ったでしょ。昔、まだ召喚魔術が盛んだった頃、悪魔を召喚して種みたいに小さく封印して、携帯して難しい魔術なしにいつでもすぐ孵化させて使えるようにしたって。あの犬も魔種が孵化して現れた魔物なのね……」

「あ、ああ、あれか! でもあれはもう悪魔召喚の技術もほとんど失われて、作られなくなったとか何とか」

 フレッドの言葉に、咀嚼していたスコーンを飲み込んでヘンリーが答える。

「今はもう作られてはいないよ。ただ昔作られた量があまりに多く、数百年以上経った今でも田舎の民家の床下や好事家の遺品、教会の奥から出てくることがあるんだ。……もちろん、悪魔が封印されているというその危険性から、所持しているだけで重罪に問われる代物だけどね」

 悪魔と言っても、魔種に封印されているのは言葉の通じない下等な魔物ばかりだとされている。一度魔種が孵化すればその魔物は本能のままに人間の血肉を求めるのだ。しかも魔種を孵化させるために、魔導士による簡単な詠唱を設定している場合がほとんどだと言われている。今回の魔種も、誰かしらの手によるものだとすれば――。

 クロエが眉を寄せるのを見て、ジュリアが声をかける。

「大丈夫だ、あの犬も本部で詳しく調べられる。そう心配する必要はない。もちろんしばらくは魔警局としても警戒して巡回も増やす必要はあるが、今回は怪我人も出なかったんだ。クロエ、お前が川に落ちた以外は、商人達の商売道具がちょっと壊れた程度ですんだし、お前に絡んだとかいう警備隊もそのことを蒸し返す様子はなかったから、安心しろ」

「ええ……」

「それよりクロエ、ヘンリーにあのことは訊かなくていいのか?」

 あのこと――ヘンリーが赴任してくる前から、必ず訊こうと思っていたことだ。ジュリアにもフレッドにも初めて会った頃に聞いたことだし、それをヘンリーに訊ねるというのも二人に言っていたのだから、今更訊かないという選択肢はない。

(でも、訊いたらきっと刺青のことと繋げられてしまう……)

 そうすれば、今のところ刺青のことを知らん振りしてくれているらしいヘンリーにも、もしかしたらクロエの正体を知られてしまうかもしれない。

「クロエ?」

「あ、ええ……あの」

 ジュリアの訝しがる顔に頷き、二個目のスコーンを手にしていたヘンリーに視線を向ける。

「あの、ヘンリーさん、あなたの知り合いに女性の魔警局員が何人かいると思うんだけど、その中に今二十代くらいで、銀に近い薄い色の金髪の女の人に心当たりはない……?」

「銀髪……さあ、そんな女性は知らないけれど、どうして?」

「いえ、昔そういう女の人と係わり合いになって、その人を探しているのだけど」

「いつ頃?」

「六年くらい前……この赤い制服を着ていたから魔警局員だとは思うんだけど、もう顔もはっきり覚えていないし、名前も忘れてしまって……でも、銀髪に近い髪色の若い女の人だったから」

 石造りの冷たい部屋から救い出してくれたあの人。王太后の手からクロエを救い出したのは、正確にはベッドフォード公爵ではなく一人の若い女だった。クロエが今着ているのと同じ赤い制服を纏った銀髪の華奢な少女は、クロエを捕らえた男達の仲間であったはずなのだが、それでも彼女によってクロエは外へと連れ出され、気付けばベッドフォード公爵に保護されていた。公爵に訊ねてもなぜか、そんな女はいなかったと言われ、魔警局員になってから周囲に訊ねたり、自身で記録に当たったりと手を尽くしてみたが、彼女を未だ見つけられていない。

 魔警局に所属できる女性はそう多くない。ただ魔導士として才能があるだけでなく、一定以上の教養や武芸の嗜みも求められ、基本的に女性王族の護衛要員かその予備としての最低限の数の採用だからだ。今現在魔警局にいる女性はクロエとジュリアを含めても両手の指で充分足りる程である。かつて所属していた人数もたかが知れている。なのにあの人を見つけられないのがクロエには不思議で仕方ない。

 ヘンリーは横に水平に切ったスコーンの片方にバターを塗りながら言った。

「ちなみに場所は?」

「リースディア山脈の麓の田舎で、私――事件に巻き込まれたことがあって、その時に助けてもらったから。でもなかなか見つからなくて。赤い制服を着ていたの。だからもし知り合いにそれらしい人がいたら」

 事件という言葉に、おそらくヘンリーはクロエの背中の刺青のことを思い出したのだろう。少し伏し目がちに、しかし唇に笑みを浮かべて呟く。

「悪いけれど、その女性に心当たりはないな。ただ今後気にしてみるよ」

「……ありがとうございます。あ! あの、川に落ちたのを助けてくださったのは――」

 クロエは慌てて席を立ち、目を丸くするヘンリーへと向き直った。

「すみません、お礼が遅くなって、ありがとうございます!」

「いや、僕こそ君の魔術の才能に助けられたし、何より君のような小さくて可愛い女の子と仲良くなれて嬉しいよ」

 優しい声に気を取られていると、突然両手を取られ、大きな手でぎゅっと握り込まれる。

「ヘンリー!」

 ジュリアの叱責の声で解放されはしたが、突然手を取られたことに驚いて黙り込んでしまう。だがヘンリーは相変わらずにこにことしているのだ。とんだ食わせ者のようだと思いながら、クロエは渋い顔で席に着いた。



 洗った茶器を食器棚に戻しながら、フレッドが突然笑い出す。何事かと、クロエはカップを拭いていた手を止めて振り返った。

「どうしたの?」

「いや、ヘンリーさんに手を握られた時のクロエちゃんの顔を思い出してさ。ちょっと変わった人みたいだな」

 笑い事じゃないわ、とクロエは唇を尖らせた。窓から差し込む西日で、厨房の中は橙色に染まり始めている。その光を横顔に受け、フレッドはまだ笑っていた。

「フレッド、そもそもどうして私を着替えさせるのをあの人に任せたの? フレッドもあの人も男の人だけど、どちらかと言うとあなたの方が付き合いが長いのに」

「長いって言っても二ヶ月だし。まあ初対面の人よりはマシか。……いやでもさ、ほら、本当ならジュリアが着替えさせれば一番よかったんだろうけど、あの騒ぎの後始末でいなかったし、俺とヘンリーさんだと向こうの方が立場が上だし、副署長だからな、それに女の子の扱いも彼の方が慣れてそうだと思ったんだけど」

 フレッドが困り顔で言うのにも、クロエは恨めしげな視線をやるのを止めない。

「あ、でも一応クロエちゃんを着替えさせる時、俺もいたんだって。部屋の扉開けて、廊下で背中向けてたけど、一応念のためにさ」

「……私の裸、見てない?」

「見てない見てない」

 ほっと安堵の息をついた。背中の刺青を見たのは、ヘンリーだけらしい。クロエは拭いたカップを食器棚へと戻す。

「ありがとう、フレッド」

 どういたしまして、と苦笑気味に答える彼を置いて、片付けを全てすませたクロエは厨房を出る。殺風景な裏庭へ向かい、西日を受けてそよ風にはためいている自身の制服に触れた。まだ少し濡れている。隣に干されているヘンリーの服も同様だ。

「クロエちゃん」

 振り返ると、廊下の窓を開けてヘンリーが手を振っている。

「もう乾いたかな?」

「いいえ、まだ。あの、本当にありがとうございます。服まで干してくださって」

 お茶の前に、上着やズボンと一緒に干されていた下着は回収して部屋の中に干してある。干してくれたこと自体がありがたいので、下着まで一緒くたにして庭に干されていたことについては文句を言うまいとクロエは思った。

「……あの」

 物干しから離れ、クロエは窓のすぐ傍まで寄る。

「あなたにお願いが」

「お願い? どうぞ、君のような小さくて可愛い女の子からのお願いならどんなことでも喜んで――」

「お願いします。私の背中のこと、誰にも言わないでください」

 クロエが潜めた声で囁くように告げると、ヘンリーは一瞬笑顔を消して黙り込む。が、すぐに微笑んで穏やかな口調で言った。

「君の背中がどうかしたの?」

 思わぬ返答にクロエは言葉を失う。

「ああ、確かに狭くて、小さな子のような背中だったね。もう少したくさんご飯を食べた方がいいかもしれないけれど」

「いえ――いえ、何でもないです」

「です、だなんて他人行儀だよ。せっかく仲良くなったのに」

 はあ、と曖昧に答え、クロエは俯いた。

(やっぱり、刺青のこと知らん振りをしてくれるんだわ……)

 だとすると悪い人間ではないようだ。一々発言が怪しいが、今のところ実害はない。ロバートとの諍いの際の、譲れだの何だのという言葉もおそらくは助けてくれるつもりだったのだろう。

(そうよね、私のこと川に飛び込んで助けてくれたのだし)

 疑ったことを申し訳ないと思いつつ、クロエは顔を上げて美しく整った青年の顔を見つめる。笑んだ唇でヘンリーは優しく諭すような言葉を紡ぐ。

「そう言えばクロエちゃん、いくら君が小さな女の子だとしても、女の(レディ)は女の(レディ)だよ。公衆の面前で下着姿になろうだなんていうのはよくないね」

「でも、あの時は他にどうしようもなかったから。助けてくださってありがとう」

 クロエの謝辞にヘンリーは笑ったまま首を振ってみせる。

「それにあの犬の時も。君のような子は、ああいう時は逃げるべきだ」

「え?」

 きょとんと目を丸くしたクロエだったが、すぐに眉間に皺を寄せた。

「あの、私は……私は魔導警務局員です。背も低くて子供に見えるのは分かっています。年もまだ十六歳です。でも、国王陛下から拝命した正式な魔警局員で、王都の治安維持が私の仕事です。小さな子の前で誇りある魔警局員が逃げるなんてできません」

「君も小さな子だよ」

「子供扱いしないでください!」

 苛立ちを隠さないクロエの声にも、ヘンリーはまだ笑みを浮かべている。出逢ってから数時間、ほとんど同じ笑みを貼り付けているその顔に、クロエはかすかな怒りさえ感じ始めていた。

(変な人……この人のこと、好きになれない)

 ヘンリーはクロエの内心など知らぬ様子で、柔らかく微笑むばかりだった。


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