その他の危険
清水は長時間の運転に疲れていた。
助手席で呑気に眠る友人を、朝早くに迎えに行った帰りだった。
大手企業に就職したは良いが、北海道で暮らす事になったこの友人は、突然の自主退職によって地元へと帰って来る事になった。
あまりに急な話で、彼の家族が誰も迎えに行けなかったため、日中が暇になる職業に就いた清水が呼び出されたのだ。
飛行機はチケットを取るのが当日に近いほど、割高になる。そのせいで空港から、長距離バスや列車で帰る金も苦しいという、非常に身勝手な理由だった。とはいえ、清水はそれほど憤慨しているわけではなかった。距離的にも地位的にも遠くに行った気のしていた、かつての学友が身近に帰って来た気がして、少し嬉しくもあったのだろう。
兎に角、小言の一つ二つ言ってやろうとは思ったが、清水は健気に運転手を務めて居た。
生来のまじめな性格が働いたとも、または災いしたとも言えるだろう。
彼は少しずつ襲ってくる眠気を、つい我慢してしまった。
◆
「あれっ…………うわあ!」
何秒間程度の話だろうが、清水の意識は途切れて居た。
目を開けると車はまだ走行中で、その事実を理解するのにも一、二秒の時間を要したが、やっと脳が働いた清水は、慌ててブレーキに足を突っ張らせた。
がくん、と大きく車が揺れ、甲高い音を立ててアスファルトにタイヤの跡が刻まれる。
助手席で寝て居た友人は、力が抜けて居た分だけその衝撃を強く受けた。身体が浮き上がり、それがシートベルトに無理やり押さえつけられ、強い圧迫感を与える。
「うわ、な、何だ? どうした?」
「あ、悪いな、長沼……つい居眠りしちまってた」
長沼と呼ばれた友人は、清水よりも遥かに深い眠りに落ちて居た。その分だけ、突然の衝撃に対して慌てて居るようだった。
「おいおい、勘弁してくれよ……危なかったら起こしてくれれば、運転くらい代わるのに」
「あんまり気持ちよさそうに寝てたから、声、かけ辛くてな」
「相変わらず良い人っていうか、人が良いな、お前は」
学生時代から変わらぬ清水の様子に、長沼は苦笑しつつも嬉しそうだった。
結局、もう自分は十分に寝たからと、長沼が運転手を交代する事になった。
◆
「ところでよ、清水。今これ、どの辺を走ってるんだ?」
地元から空港までの道のりは、片道でも二時間はかかるものだ。
その間には山道があり、広い道を走るよりも横道に逸れた方が近い為、現在は鬱蒼と茂った木々の中の狭い道を通って居た。
アスファルトで舗装はされているが、落ち葉もろくに掃除ざれず、むしろ抉れた縁石や朽ちたガードレールが、あぜ道などよりも遥かにみすぼらしい雰囲気を感じさせる。
まして今日は霧が濃く立ち込めており、一人歩きはしたくない景色となっている。
とにかく、長沼には見覚えの無い道だった。
清水も詳しい現在地を把握している訳ではないが、答えた。
「いや、少し近道したから、道なりに行けば国道に当たる筈なんだけどな」
「ふーん、しかし、この山にこんな道があったとはな。キツネとかタヌキでも出そうな雰囲気だ」
「流石に熊は居ないだろうけどな、北海道と違って」
「いや、あそこは本当に熊が出るからなあ……」
他愛も無い話をしながら、長沼は清水の車を運転する。
霧で視界も悪く、他人の車故に運転も慎重に、木々が茂って暗い道を走っていく。
すると、目の前にぽつん、と、一本だけ標識が立っているのが見えた。
速度標識ではない、いわゆる黄色の注意標識だ。
ただ、その標識の示すマークは、あまり見覚えの無い物だった。
「……清水、この標識、なんて言うんだっけ?」
「ああ、これは……」
『!』
黄色い標識には、ただ、そのマークだけが描かれている。
清水は自動車学校での記憶をなんとか浮かび上がらせ、その標識の名前を捻り出す。
「たしか、『その他の危険』じゃなかったっけ?」
「あー、そう言えば有ったな、そんなの」
清水と長沼は、その標識の図柄をしっかりと記憶と合致させ、少しすっきりした気分になった。
と、同時に、長沼は軽口交じりに口を開く。
「でもよ、その他の危険って、具体的に何よ?」
「さあ、落石でもカーブでもないし、動物飛び出しとかじゃないの?」
清水の回答に、長沼は首を横に振った。
「いや、北海道では割と目にするんだけど、動物注意の標識はちゃんと別にあるんだよ」
「あー、それじゃあ動物でも無いのか……何だろうな?」
素朴な疑問だったが、素朴すぎてそれほど気に留めるほどの事でもなかった。
それに対する答えは保留にしたまま、車は曲がりくねる道を走り続けた。
◆
しばらく運転した後、長沼が口を開いた。
「なあ、これ、あとどのくらい走ったら良いんだろうな」
うとうとしていた清水は時計を確認して、頭を掻きながら答える。
「おかしいな、三十分もすれば山道を抜ける筈なんだが」
時計を見るに、車はもう一時間近くも走っていた。
にも関わらず、相変わらず景色は木々と霧に包まれたまま、でこぼこのアスファルトの道が続くだけだった。
「おかしいよ、これ。道まちがえたんじゃないか?」
「いや、だって曲がったら一本道だし……」
互いに愚痴を言いながら走ると、霧の向こうにうっすらと、道路に立つ物が浮かび上がってきた。
ぽつん、と一本だけ、黄色い看板が設置されている。
『!』
二人にとっては一時間ほど前に見覚えのある看板だ。
それを見た瞬間、二人の頭には、まるでぐるっと回って元の道に戻ってきたかのような感覚が芽生えた。
「……おい、ここ、さっき通らなかったか?」
「……まさか。枝道も交差点もなかったのに、同じ道を通るわけ無いだろ」
「だよな……そうだとしたら、この道、円になってる事になっちゃうもんな」
清水の何気ない一言に、長沼は思いのほか、ぞっとしたらしい。
顔色の悪くなっていく長沼に代わり、今度は清水が運転することとなった。
あまり走るとガソリンも不安であるため、清水は回転数をなるべく抑えながら、一定したペースで車を走らせる。
「でもさ」
清水は再び眠気が襲ってこないよう、なるべく会話を続けることにした。
「実際、その他の危険って、なんだろうな」
「さあ、滑りやすいとか、でこぼこした路面とか、トラクターが通るとか……」
「そう言うのって確か、全部標識や看板があるはずだよな、個別に」
「そうか、そうだよな……じゃあ、何だろうな」
「下にさ、小さい補助標識がついてる場合もあるよな? あの白いやつ」
「ああ、あそこに具体的な事が書いてあるのか」
「だからさ、次に見かけたら、それ探してみようぜ」
次に見かけたら、などと軽い気持ちで口にしたが、実際に再び、まったく同じ標識を目にしたら、もはやそれは不気味に感じられる事だろう。
そして、その予想は意外に早く、実証される事になった。
『!』
今度の標識は、三十分程度走ると現れた。
霧の中からぼんやりと現れる様子は先ほどと全く同じで、やはり同じ道に帰って来たのではないかという不安を抱かせる。
しかし、今度は先ほどの半分の時間で、再びこの看板を目にした事になる。
だが車はスピードを上げておらず、もちろん、今まで全て一本道だったのだ。
清水は思わず、その看板の近くに車を停めた。
「……やっぱり、戻ってきてないって。早過ぎるもん」
「だよな、じゃあ逆にいえば、確かに進んでるってことだもんな」
二人は前向きに考える事で、漠然とした不安を無視する事にした。
だが、清水は気付かなくても良い事に気づいてしまった。
「……でも、無いな」
「何が無いって?」
清水の呟きに長沼が訪ねる。
「いや、補助標識。やっぱり『!』マークしかないんだな」
「……じゃあ、完全に意味不明じゃん、この看板」
長沼は半分笑いながらだったが、声はひきつっていた。
むしろ、精神的な焦燥は清水よりも早いように感じられたが、清水はその理由も解らない。
長沼の、そして自分自身の不安も払拭するべく、清水は携帯電話を取り出した。
「もうさ、使うか。GPS」
カーナビのついていない車で位置確認をするために、GPS地図を起動させた携帯電話を長沼に渡す。
「それで道、指示してくれ。それなら迷いようもないだろ」
長沼は、少しの時間をおいて起動した地図の画面を眺める。
そして――――みるみる内に青ざめていった。
「お、おい、どうしたんだよ」
長沼の豹変に、清水もすぐに気付く事が出来た。
そして、長沼が無言で差し出した携帯電話の画面を見て、彼が青ざめた理由が直ぐに理解できた。
「……なんだよこれ」
『!』
画面上には、そのマークがアイコンとなって表示されている。
そして地図の指し示す場所は、道など無い、完全に山の直中となっていた。
◆
清水達は、車を止めたままで霧が晴れるのを待つ事にした。
というより、これ以上進むのが怖くなったのだろう。目の前に立つ看板を眺めながら、茫然と車中で待ち続けて居た。
「猟師のじいちゃんがさ、言ってたんだ」
しばしの沈黙の後、清水は唐突に口を開いた。
「山には神様が居るから、怒らせたらいかんぞ、って」
「何か怒らせるような事したか? 俺たち」
「してない、と思う」
清水は自分の言葉に何の意味も無い事を理解したようで、それ以降は口をつぐむことにする。
その代わり、今度は長沼が口を開いた。
「もうさ、寝て待つわ。真昼間になれば霧も晴れるだろ、たぶん」
そう言うと、長沼はシートを倒して横になる。
「何が何だかしらないけどさ、やっぱ俺たち、霧で道を見落としてるんだよ」
「そうだな……のんびり待つか」
そう言って数分後には、助手席の長沼から下品な寝息が立ち始める。
清水もそれを聞きながら、つられるように眠りに落ちて行った。
◆
外がうるさい。
そう思って、清水は目を覚ました。
「…………は?」
そして、一瞬で顔から血の色が消え去った。
清水の声にならない絶叫で、長沼も目を覚ます事になった。
◆
車の窓は、汚れて居た。
泥や埃ではなく、端的に言うならば、子供が掌でべたべたと手垢をつけたような。
どうにかして、窓や扉をこじ開けようとしたような。
そういう跡が、無数に、車中にへばりついていた。
◆
清水は、自分が律儀に車の鍵をロックしていた事に気付いた。
それと同時に、外の霧が晴れ、近道を急ぐ車が自分の車の横をびゅんびゅんと走り抜けていくのを見た。
日は高く昇り、おそらく、時間は正午を過ぎたのだろう。
清水は声も出せないまま、汗まみれに成りながら隣の長沼に目をやると、彼もまた同じように間抜けな顔を晒していた。
そして、二人して窓へと目を向けて、カラカラの喉から声を絞り出した。
「…………なんだか解らないけど、危険だったんだなあ」
GPSは、普段通りの山道を指示していた。
標識は変わらず、その場に佇み続けて居た。