冬の朝
冷えた指先に白い息をかけたけど、そんなのは気休めにもならなかった。
すごく寒くて、雪が降ってた。
じゃんじゃん降り積もるような大粒の雪じゃなくて、街全体をゆっくりヴェールで覆うような、静かな小さな雪だった。
それでも一晩中降り続いていたので、この住宅街を白く染めてしまうには充分で、
僕がレストランに出勤する時間になってもまだ玄関先の雪かきをしている人が沢山いた。
最初の十字路まで歩くと、角の家の主婦がめずらしく庭に出ていた。
たしか二、三年前に嫁いで来た人だ。
あまり外へ出ないらしく、僕はその主婦の事をあまり目にした事がない。
近所の公園でも、近所のスーパーでも、近所のビデオレンタルでも見た事はないし、
割とランチタイムに主婦が集う、近所の僕の職場へも来た事はなかった。
このあたりの主婦達は「無口でまるで幽霊みたい」と陰口を叩いている。
「!!」
主婦が、僕の気配に気づいてこっちを振り返った。
僕は咄嗟に右手で口元を押さえてしまう。
しまった!
無意識のうちに出た自分の素直な反応に、一瞬で後悔する。
主婦の顔は、痣で青くなっていた。
腫れて左右の目の形が違っていた。
下唇の左端に血の塊が出来ていて、傷口の場所を示しているようだった。
僕が前にこの主婦を見たのはいつだっただろう……。
いつでもいい。とにかく以前見た時よりもひどく痩せて、頬がこけて、目が窪んで、美しかったはずなのに今はミイラみたいだ。
虚ろ気な瞳の中に、強い怒りと深い絶望が渦巻いている。こんなドロみたいな瞳の色を、今だかつて見たことがない。
飲み込まれそうで恐怖を覚えた。人間がこんな風に変貌するなんて知らなかった。
そんな目の前のリアルが気持ち悪くて、吐き気がした。
あまりに素直なリアクションを見せてしまったから、僕はそんな心の内を取り繕う事ももう出来なくなった。
目線さえ逸らせなくなって、その場でじっと立ち尽くすしかなかった。
無言で立ち去る勇気もない。かと言ってかける言葉なんか見つけられない。
僕はただじっとそこに立っていた。
「おはようございます」
主婦は僕に言った。
僕の目をしっかりと見据えていた。
「おはようございます」
凛とした声で、もう一度主婦ははっきりと言った。
唇の端をきゅっと上げて、笑顔を作って見せた。
腫れた顔を覆い隠したりもしなかったし、震える声を露わにしたりもしなかった。
「……おはようございます」
小さな声で僕は返した。そして、逃げるみたいにして走った。
超然とした様を貫いた主婦に、今度は目を合わせていられなくなった。
舞い降りてくる、静かな小さい雪。
冷えた指先に白い息をかけたけど、そんなのは気休めにもならなかった。