祖母の形見を手放して彼氏にコートを贈ったのに、彼がそれを着せたのは幼なじみの女だった
五年続けて、七夕になると榊原直人は「七夕くじ」と称する小さな遊びを用意していた。
恋愛系のSNSで見つけたのだという。木箱の中には何枚もの木札が入っていて、私と、直人の幼なじみである宮下千夏が一枚ずつ引く。何が当たるかは、その年の運次第――そういうルールだった。
私が引くのは、いつも千円もしないような小物ばかり。木製のヘアブラシ、小さな鏡、マグカップ、安いアロマグッズ。
それに比べて千夏が引き当てるのは、高級腕時計や限定バッグ、ジュエリー、高価な旅行券だった。
私はずっと、自分のくじ運が悪いだけだと思っていた。
今年の七夕の前日までは。
胃を悪くして仕事を休んでいた私は、直人が閉じ忘れたパソコンを何気なく見た。画面には、LINEのトーク画面が開いたままになっていた。
千夏から、ついさっきメッセージが届いていた。
「今年の七夕くじ、どうする?」
直人は、ほとんど間を置かずに返していた。
「いつも通り。星の印がある札は千夏用。残りは美月に適当に引かせればいいよ」
その二行を見つめているうちに、指先から少しずつ体温が失われていった。
五年間。
一度だって、運になんて任せていなかったのだ。
1
そのとき、寝室のドアが開いた。
「起きてた?」
反射的にパソコンを閉じた。
直人は保温バッグを提げて入ってくると、買ってきた卵粥をテーブルへ置き、私の額に手を当てた。
「熱はなさそうだな。胃を悪くしたばっかりなのに、七夕のプレゼント探しで無理するからだよ」
心配そうな目は、あまりにもいつも通りだった。さっき見たLINEを、私が勝手に悪く受け取っただけなのではないか。ほんの一瞬、そんな考えまで浮かんだ。
「どこ行ってたの?」
「お粥食べたいって言ってただろ。駅前の店、混んでて三十分くらい待った」
小さな器によそい、梅干しも添えてくれた。
「少しでも食べたほうがいい。先生にも、空腹は避けろって言われたんだろ?」
私の胃が弱いことも、お粥は柔らかすぎないほうが好きなことも、梅干しは箸で少し崩してから食べる癖も、直人は覚えていた。
私はずっと、そういうものを愛情だと思ってきた。
「直人」
スプーンを持ったまま、顔を見た。
「私に隠してること、ない?」
直人の手が、ほんの一瞬止まった。けれどすぐに笑った。
「どうしたんだよ、急に」
「……なんでもない」
お粥を一口食べた。
ちゃんと温かいのに、少しも身体が温まる気がしなかった。
2
三十分ほどして、インターホンが鳴った。
直人が玄関へ向かった。
立っていたのは、紙袋を提げた千夏だった。
「直人くん。美月ちゃん、少しはよくなった?」
「さっき、やっと食べたところ」
直人は彼女を中へ入れ、受け取ったバッグを玄関のフックへ掛けた。あまりに自然な動作だった。きっと、何度も同じことをしてきたのだろう。
「美月ちゃん、まだ具合悪いんでしょ? 今年のくじ、やめてもいいんじゃない? 無理させたらかわいそうだし」
そう言いながら、千夏の目は部屋の隅に置かれた木箱へ向いていた。
直人はそれを取り、軽く振った。
「年に一回なんだから、やろうよ。いつも通り、運次第」
運次第。
その言葉を聞いた瞬間、カップを持つ手に力が入った。
「じゃあ、千夏から」
例年通り、直人が先に千夏へ促した。
彼女が手を伸ばすより先に、私は木箱を取った。
「今年は私が先に引く」
直人が明らかに動きを止めた。
「美月、千夏は客なんだから」
「くじでしょ? どっちが先でも変わらないよね」
私はそのまま手を入れた。
3
指先で、一枚ずつ木札をなぞっていった。
すぐに見つかった。
裏側に、小さな星形の刻みがある札。
顔を上げると、直人の背筋がわずかに強張っていた。
それだけで十分だった。
私は星の札を残し、その隣にあった何の印もない木札を引いた。
千夏はほとんど迷わず、星のついた札を手に取った。
「じゃあ、遠慮なく」
紙を開いた彼女の目が、一気に輝いた。
「直人くん、あの会員制旅館のペア宿泊券!」
予約がなかなか取れないことで有名な温泉旅館だった。直人は以前、撮影の仕事で一度泊まったことがある。帰ってきた夜、いつか私も連れていきたいと言っていた。
「本当に、もらっていいの?」
「当てたんだから千夏のものだよ」
直人は笑った。
私は自分の札を開いた。
木製ヘアブラシ。
それを見ても、もう驚かなかった。
胸の奥に残っていた、彼を信じようとする気持ちだけが、静かに沈んでいった。
4
直人が私の隣へ座り、肩に腕を回した。
「美月、それ毎日使えるだろ。高いだけで使い道のないものより、ずっといいよ」
まるで本当に、私のために考えて選んだような口調だった。
「うん。使えるね」
それだけ答えると、直人の笑顔が少し固まった。
以前の私なら、何を引いても喜んでいた。直人が用意してくれたものなら、それで十分だと思っていたからだ。
千夏が私たちを見比べ、困ったように唇を噛んだ。
「美月ちゃん、怒ってる? そんなに嫌なら、宿泊券は直人くんに返すよ」
答えずに立ち上がった。
寝室へ戻り、ドアを閉める直前、直人の声が聞こえた。
「気にするなよ。胃が痛くて機嫌悪いだけだから」
ドアにもたれ、手を開いた。
ヘアブラシと書かれた紙は、いつの間にか手の中でくしゃくしゃになっていた。
5
翌朝、直人は何度もドアを叩いた。
「美月、昨日は俺も悪かった。千夏、こっちで一人で暮らしてるだろ。昔から知ってるし、つい気にかけすぎるんだ。嫌だったなら、これから気をつける」
私は返事をしなかった。
しばらく静かになったあと、もう一度声がした。
「今日、俺の写真展だろ。メインに『最愛』って作品がある。美月には見てほしいんだ」
ドアノブへ置いた手が止まった。
この五年間、直人の写真展を欠席したことは一度もない。初めて賞を取ったときも、私は仕事を休み、何度も電車を乗り継いで会場まで行った。
「ここまで来られたの、美月がずっと一緒にいてくれたからだよ。今日だけは来てほしい」
直人は、私がどんな言葉に弱いのか知っている。
結局、私はドアを開けた。
「分かった。行く」
ほっとしたように手を伸ばされたが、私は身体をずらした。
「時間ないんじゃない?」
宙に浮いた手が止まった。
「……そうだな。先に下りよう」
6
駐車場へ下り、助手席を開けた。
そこには、すでに千夏が座っていた。
シートベルトをした彼女が、申し訳なさそうな顔で振り向いた。
「美月ちゃん、ごめんね。昨日からちょっと気持ち悪くて。後ろに座ると酔いやすいから、直人くんが前でいいって」
直人は、千夏のためにエアコンの風向きを調整していた。それを終えてから、ようやく私を見た。
「後ろに腰当て置いてあるから。千夏、今日は本当に体調悪いんだ。悪いけど頼む」
『最愛』は私に見せたい作品だと言った。
けれど、その作品を見に行く車の中でさえ、私は彼の隣に座れないらしい。
何も言わず、後部座席へ乗り込んだ。
バックミラー越しに直人がこちらを見た。
「そんな顔するなよ。千夏、本当に具合悪いんだから」
「直人くん、美月ちゃんを責めないで。昨日のこと、まだ気にしてるんだと思う。私がくじ引かなければよかったよね」
「千夏だって普通に引いただけだろ。美月も、そこまで気にしてないよ」
それから三十分。
直人は何度も、千夏に気分は悪くないか、少し休むかと声をかけた。
一度も後ろを振り返らなかった。
私がずっと胃を押さえ、手のひらに汗を滲ませていたことにも気づかなかった。
7
写真展は、朝凪市内のプライベートギャラリーで開かれていた。
会場には直人の友人や仕事仲間、スポンサー関係者が集まっている。中央には、大きな作品が一枚だけ赤い布で覆われていた。
私たちが入ると、顔見知りたちが笑いながら声をかけてきた。
「ここまで隠すなんて、もったいぶったな」
「タイトルが『最愛』なんだから、モデルは美月ちゃんだろ?」
「五年付き合って、ようやく彼女を撮ったか」
直人は私の手を取り、作品の前まで連れていった。
「この五年、美月はずっと俺のそばにいてくれました。今日の作品も、俺にとって特別な一枚です」
拍手が起きる。
周囲の視線が、一斉に私へ向いた。
直人が笑って布を引いた。
拍手が、途中で止まった。
大きな写真に写っていたのは、宮下千夏だった。
夕陽を背に、振り返っている。
その写真を見れば、直人が千夏をどんな目で見ていたのかは分かった。
「え……私?」
千夏が口元を押さえた。
驚いたように直人を見たあと、私へ視線を向けた。
その瞳の奥に浮かんでいたのは、戸惑いだけではなかった。
8
会場がざわめき始めた。
直人は、それでも私の手を離さなかった。
「美月。写ってるのが千夏なのは分かってる。あいつは小さいころから一緒だったし、これは俺たちの昔を残したかっただけなんだ」
一度言葉を切り、私を見た。
「でも、『最愛』ってタイトルは美月のためにつけた。これから一緒に生きていくのは美月だから」
笑いそうになった。
あれだけ大切そうに撮った写真に写っていたのは、私じゃない。
それでも「結婚するのは美月だ」と言えば済むと思っているらしい。
写真展のあと、直人は近くのホテルで打ち上げを開いた。
私は端の席へ座った。
直人はスポンサーや仕事関係者とグラスを交わし、そのすぐ隣には千夏がいた。飲み物を注ぎ、必要なものを手渡す姿は、あまりにも自然だった。
「榊原さん、『最愛』すごくよかったですよ。モデルさんもきれいだし」
「二人並ぶと、本当にお似合いだな。てっきり恋人同士かと思ったよ」
事情を知る友人たちは、気まずそうに黙っていた。
直人だけが、曖昧に笑った。
訂正はしなかった。
9
そのとき、スマホの画面が点灯した。
雪代町役場からのメールだった。
二か月前に受けた社会人経験者採用試験。三週間前には採用内定の連絡が届き、観光まちづくり課への配属も伝えられていた。
残っていたのは、承諾するかどうかの返事だけだった。
私は、ほとんど辞退するつもりでいた。
直人がいたから。
付き合って五年になるから。
近いうちに、両家の顔合わせも予定していたから。
宴会場の向こうを見る。
千夏が、直人のすぐそばで笑っていた。
二人のほうが、どう見ても自然だった。
私はもう一度メールを開いた。
採用を承諾する。
送信ボタンを押した。
画面に受付完了の文字が出たとき、不思議と胃の痛みが少しだけ軽くなった。
10
打ち上げが進み、千夏の頬にも少し赤みが差していた。
突然、彼女が直人の袖をつかんだ。
「直人くん、この前作った記念の指輪、もう届いてるんでしょ?」
私は顔を上げた。
直人がデザインにも口を出して作った、交際五周年のペアリングだった。数日前には、私の手を握って言っていた。
五周年の日に、ちゃんと俺がつけるから。
「今日、ちょっとだけつけてもいい? 美月ちゃんの幸せ、少し分けてもらうだけ」
直人は無意識にジャケットの内ポケットを押さえた。
「千夏。これは別だろ」
千夏の目が、すぐに潤んだ。
「取るわけじゃないよ。試すだけ。直人くん、そんなこともしてくれなくなったの?」
直人が私を見た。
許可を求めるような顔だった。
けれど、私が何か言うより先にため息をついた。
「本当に少しだけな。なくすなよ」
ケースを取り出した。
そして、本来なら私の指につけるはずだったリングを、千夏の左手の薬指にはめた。
11
千夏は手を灯りへかざし、しばらく指輪を眺めていた。
そのあとグラスを持ち、私のところへ来た。
「美月ちゃん、本当にちょっと遊んだだけだから。嫌だったなら、今すぐ外すよ?」
そう言いながら、外す気配はない。
直人を見る。
彼も何も言わなかった。ただ、少し眉を寄せてこちらを見ている。
あの目は知っていた。
大人になれ。
千夏は昔からの友達なんだから。
これまで五年間、彼女が絡めば、いつも最後に譲るのは私だった。
テーブルのグラスを手に取る。
直人の顔から、わずかに緊張が抜けた。
「美月、少し借りてるだけだろ。気にするなよ」
次の瞬間、私はグラスの中身を直人の顔へかけた。
部屋が静まり返る。
千夏が悲鳴を上げ、慌ててナプキンを取った。
「直人。写真は好きな人を撮ればいいし、指輪も好きな人につければいい」
空になったグラスをテーブルへ戻す。
「別れよう」
12
直人は、顔についた酒を手の甲で拭った。
驚いたのは一瞬だった。
すぐに、苛立った顔になった。
「美月、こんな人がいるところでやる必要あるか?」
「本気だよ」
「今は頭に血が上ってるだけだろ。今日は帰れ。落ち着いてから話そう」
いつものように、直人は勝手に話を終わらせようとした。
バッグを持ち、出口へ向かった。
すれ違うところで一度だけ足を止めた。
「直人。今の私、ここ五年でいちばん冷静だから」
追いかけてはこなかった。
まだ、ただの嫉妬だと思っていたのだろう。
朝凪市の部屋へ戻るころには、外はひどい雨になっていた。
寝室のベッドには、きれいに包まれた箱が置いてあった。
中身は、直人が数か月前に欲しいと言っていた限定のカシミヤコート。
それを買うために、私は祖母の形見だった翡翠の帯留めを質屋へ持っていった。
祖母が亡くなったあと、手元に残った唯一の装身具だった。
それでも金額が足りず、さらに三つ仕事を引き受けた。半月近く、三、四時間しか眠れない日が続いた。
最後には胃から出血し、職場の人に病院へ連れていかれた。
13
スーツケースを出し、自分の服を詰めた。
直人からもらった安物のプレゼントは、全部テーブルの上に残した。
片づけがほぼ終わったころ、玄関が開いた。
ずぶ濡れになった千夏を支えるように、直人が入ってきた。
床の段ボールやスーツケースを見て、すぐに眉をひそめた。
「美月、いつまでやるつもりだよ。千夏が指輪を少しつけただけだろ。今度は家出か?」
顔も上げず、段ボールへテープを貼った。
直人が何か言いかけたところで、千夏がくしゃみをした。それだけで、直人の注意はすべてそちらへ向いた。
「冷えてるじゃないか。風邪ひくぞ」
そこで、ソファに置いていたコートに気づいた。
ほとんど迷わず包装を開け、淡い色のカシミヤコートを千夏の肩へかけた。
手が止まった。
祖母の形見と、眠る時間を削って手に入れたものだった。
それが今、あまりにも簡単に別の女の肩へ掛けられていた。
14
直人はキッチンへ行き、生姜入りのミルクティーを作って千夏へ渡した。
「これ飲んで。風呂沸かしてくるから、そのあと温まれよ」
そう言って二階へ上がった。
リビングには、私と千夏だけが残った。
千夏はコートの生地を指先で触った。
「これ、ちょっとデザイン古くない? 直人くん、こういうの好きだったっけ」
「脱いで」
「え?」
「私が直人に買ったものだから」
千夏が小さく笑った。
「少し借りてるだけじゃない。美月ちゃん、服一着くらいで怒らなくても」
カップを持ち上げた。
次の瞬間、手首が傾いた。
ミルクティーが、淡いカシミヤ一面に広がった。
「あ、ごめん」
言葉とは裏腹に、焦った様子はなかった。
反射的にコートへ手を伸ばした。
千夏は大げさに声を上げながら後ろへ下がった。
「美月ちゃん、押さないで! わざとじゃないってば!」
15
二階から足音が響いた。
直人は階段を駆け下りると、事情も聞かずに私を突き飛ばした。
「美月、何やってんだよ!」
体勢を崩し、腰をローテーブルの角へ強くぶつけた。
息が止まるほど痛かった。
直人は気づかなかった。
先に千夏の腕や顔を確認し、怪我がないと分かってから、汚れたコートを彼女の肩から外した。
そして、それを私へ放った。
「汚れたならクリーニング出せばいいだろ。服一着で、人に手を出すのか?」
コートが顔を覆った。
甘ったるいミルクティーの匂いがした。
祖母の形見を手放し、身体を壊してまで買ったもの。
それが今は、汚れた布のように私の顔へ投げつけられている。
「千夏、上行こう。大丈夫だから」
直人は彼女を支え、二階へ戻っていった。
足音が聞こえなくなってから、私はテーブルへ手をつき、ゆっくり立ち上がった。
スーツケースを引く。
五年間暮らした部屋を出た。
玄関の棚へ、鍵だけを置いていった。
16
美月が出ていったあと、直人が再び一階へ下りると、リビングは静まり返っていた。
玄関にあったスーツケースはなく、棚の上には鍵が置かれていた。それでも、深刻には考えなかった。
二人は五年も付き合っていた。
美月は声を荒らげて喧嘩することすらほとんどなく、本当に直人のもとを離れたこともない。今回も少し傷ついて、直人が先に謝るのを待っているだけだと思っていた。
「美月ちゃん、本当に帰ってこないんじゃない?」
直人から借りたTシャツ姿の千夏が、階段を下りてきた。
「どこ行くんだよ」
棚の鍵を手に取った。
「頭冷えたら帰ってくるだろ」
翌日、デパートへ行った。
美月なら自分では決して買わないような値段のネックレスを選ぶ。
家へ戻ると、今度は胃にやさしいスープを作った。
ネックレスをテーブルの中央に置き、鍋を弱火で温めておく。
あとは、美月が帰ってくるのを待てばいい。
直人は、本気でそう思っていた。
17
深夜になっても、玄関は開かなかった。
LINEを送った。
「スープできてる。帰ってきたら?」
既読はつかなかった。
翌朝には、鍋の中身はもう食べられなくなっていた。
不機嫌な顔で鍋を空にしながら、それでも美月が自分の出方を待っているだけだと思っていた。
週末は、以前から決めていた両家の顔合わせの日だった。
美月が選んだスーツに着替え、レストランへ向かう前に花屋へ寄った。
彼女が好きなかすみ草を買い、助手席へ置く。
以前なら、小さな花束でも何日も大切に飾っていた。
写真を撮り、LINEへ送った。
「今日は助手席空けてある。みんな店で待ってるよ」
既読はつかなかった。
電話をかける。
聞こえてきたのは、現在使われていない番号だと告げる機械音声だった。
18
結局、直人は一人でレストランへ向かった。
約束の時間を三十分過ぎても、美月は来なかった。一時間経っても、高梨家の両親も現れない。
母親が、とうとう険しい顔になった。
「どういうことなの? 今日は両家で顔合わせをするって決めてたでしょう」
「美月、最近体調悪かったから。何かあったのかも」
「体調が悪ければ電話もできないの?」
席を立った。
家へ戻り、寝室の引き出しを開ける。
美月の身分証明書や資格関係の書類、普段使っていたものが消えていた。残っている服は、ほとんど直人が買ったものばかりだった。
高梨家へ電話をする。
長く呼び出した末、切られた。
友人にも連絡したが、誰も何も教えようとしない。
最後に、美月が勤めていた会社へ向かった。
19
受付には顔を覚えられていた。
けれど以前のように、中へ通してはもらえなかった。
しばらくすると、若い女性社員が出てきた。
「高梨をお探しですか?」
「ここ何日か会社に来てないですよね。どこにいるか知りませんか?」
女性が妙な顔をした。
「彼氏なんですよね?」
喉が詰まった。
「長期休暇でも取ってるんですか?」
「いえ。高梨なら、もう退職しましたよ」
「……え?」
「地方の自治体に決まったとは聞いてますけど、それ以上は私からは……」
そのあとの言葉は、ほとんど耳に入らなかった。
美月はずっと前から試験を受け、仕事を決めていた。
黙って荷物を詰めていたときの、妙に静かな表情を思い出した。
帰ってくるための場所を残して出ていったわけではない。
ようやく、その事実だけがはっきりした。
20
三年後。
私は雪代町で、いくつかの観光事業を任されるようになっていた。
赴任したばかりのころは、冬になると隙間風の入る職員宿舎に住んでいた。
昼間は同僚たちと町内を回り、古民家や旧街道、昔から続く工芸を調べる。夜は役場へ戻って、写真や広報資料をまとめた。
いちばん苦労したのは、年配の職人たちに新しい宣伝方法を受け入れてもらうことだった。
SNSそのものが分からない人もいた。
自分の作品をネットに載せたくないと言う人もいた。
少しずつ公式サイトを整え、動画を作り、体験企画を考えた。町歩きのルートも見直した。
三年経つころには、週末になると以前よりずっと人が来るようになった。
途絶えかけていた工芸にも、少しずつ注文が戻ってきた。
その日は、町の観光事業説明会だった。
私は担当者として壇上に立ち、資料を開いた。
前列に、見覚えのある顔があった。
榊原直人。
21
三年前より、ずいぶん痩せていた。
目の下には濃い隈があり、昔は皺ひとつなかったシャツも少しよれている。
私は一秒だけ動きを止め、それから視線を外した。
「それでは、雪代町の来年度の観光事業についてご説明します」
一時間ほどの説明会のあいだ、直人はずっと前列に座っていた。
終了後、資料を片づけていた同僚が声を潜めた。
「高梨さん。さっき前にいた人、ずっと見てましたけど……知り合い?」
「昔は」
ファイルを閉じた。
「今は関係ないです」
バックヤードへ向かった。
休憩スペースへ入ったところで、背後から早い足音が聞こえた。
「美月!」
振り返る前に、手首をつかまれた。
22
直人が、息を切らして立っていた。
目が赤い。
「三年だぞ。俺がこの三年、どれだけ探したと思ってる?」
指に力が入る。
「何も言わずに消えるなんて、ひどすぎるだろ」
腕を振りほどいた。
「榊原さん。触らないでください」
直人が固まった。
私は二歩下がり、距離を取った。
「三年前に別れるって言いました。私がどこへ行って、どう暮らすかは、もうあなたには関係ありません」
「別れるって……俺は納得してない」
近づこうとして、私が下がるのを見て止まった。
「美月、あのときは怒ってただけだろ?」
涙が頬を伝った。
「千夏とはもう連絡取ってない。今、俺には美月しかいないんだ。朝凪に戻って、一からやり直そう」
思わず笑いそうになった。
三年前。
私が胃を押さえて冷や汗をかいていたとき、直人が気にしていたのは千夏の車酔いだった。
それなのに今は、自分こそ捨てられた側のような顔をしている。
23
「榊原さん。もうそういうの、やめてもらえますか」
直人が首を振った。
「演技じゃない。俺が好きだったのはずっと美月だよ。ただ、千夏との距離感を間違えただけで――」
「じゃあ、七夕くじは?」
表情が凍りついた。
「私が何も知らないと思ってた?」
直人の顔から血の気が引いていった。
「星の印がついた札は千夏用。残りは美月に引かせればいい」
目を見た。
「自分でLINEに書いてたよね」
唇が何度か動いた。
「違うんだ。当時、千夏の家が大変で……少しでも喜ばせたくて」
「だから五年も私を騙したの?」
「美月に渡したものは安かったかもしれない。でも、全部俺が選んだ。千夏に渡してたのも、中には仕事で使うものが――」
「もういい」
言葉を遮った。
「私が節約して、あなたの仕事を支えて、その横で私を使って千夏を喜ばせてた」
息を吐いた。
「それでも、私を愛してたって言うの?」
直人の目がさらに赤くなった。
「もう一度だけ機会をくれ。足りなかったものなら、全部返すから」
私は休憩スペースの呼び出しボタンを押した。
24
すぐに会場スタッフが二人来た。
「この方、バックヤードの許可がありません。それに、さっきから職員につきまとっています。外へお願いします」
直人が信じられないものを見るように私を見た。
「美月、本気でこんなことするのか?」
スタッフが間に入った。
「俺、三年待ったんだぞ!」
資料を持ち、横を通り過ぎた。
「私は五年、あなたを信じてた」
足は止めなかった。
「もう十分でしょ」
会場を出されたあとも、直人は雪代町を離れなかった。
町内に小さな部屋を借り、近くの高齢者施設でボランティアを始めた。
朝早くから来て、荷物を運び、庭の手入れをする。
いつの間にか周囲には、「元恋人に謝るために朝凪市から来た男」の話が広まっていた。
25
一週間も経たないうちに、高齢者施設へ資料を届けに行った私まで、その話を聞かされるようになった。
「高梨さん、榊原さんって毎朝早いのよ」
「手も豆だらけ。三年も探してたんですってね。ちょっと気の毒じゃない?」
二人の女性に腕を取られ、視線の先を見た。
直人が遠くに立っていた。
私に気づくと、すぐに目を伏せた。
それを見て、二人はますます同情したらしい。
「若いころなんて、誰でも間違えるものよ。一度くらい、ちゃんと話してあげてもいいんじゃない?」
「ここでボランティアするのは、榊原さんの自由です」
そっと手を外した。
「でも、私たちは三年前に終わってます」
そこで直人が近づいてきた。
「美月。今はまだ信じてもらえないと思う。でも俺、ここにいるから。いつか分かってもらえるまで」
「それはあなたの自由」
背を向けた。
その後も、人がいる場所では直人は決して近づきすぎなかった。
いかにも反省しているように、静かに距離を取る。
けれど夜になると、私のスマホにはメッセージが届いた。
どうして一度も機会をくれないのか。
どうすれば信じてくれるのか。
やり方が変わっただけだった。
私の「もう終わった」という言葉を受け入れていないことだけは、三年前と何も変わっていなかった。
26
そんな日々は、長くは続かなかった。
午後、町民交流センターで高齢者向けの生活支援物資を配っていたとき、入口から大きな声がした。
髪を乱した女が、職員を押しのけるように入ってきた。
数秒かかって、宮下千夏だと分かった。
「直人! 出てきてよ!」
直人は、ちょうど米袋を運んでいた。
彼女を見た瞬間、手から袋が落ちた。
「何しに来たんだよ」
急いで近づき、腕を取ろうとした。
「外で話せ。ここで騒ぐな」
千夏は激しく振り払った。
「私の家賃もカードも、今までずっと払ってたくせに! 美月を追いかけるって決めた途端、全部やめるなんて何なの?」
センターの中が静まり返った。
直人が、反射的にこちらを見た。
「美月、違う。こいつの話、まともに聞くな。もう関係ないんだ」
「関係ない?」
千夏が笑った。
バッグから厚い書類の束を出し、直人へ投げつけた。
27
クレジットカードの明細。
銀行の振込記録。
高級品の購入履歴。
病院の領収書。
紙が床へ散らばった。
「直人、今さらいい人ぶらないでよ」
千夏が床を指さした。
「この五年、私のバッグもアクセサリーも、家賃もカード代も払ってたよね?」
声が震えた。
「そのうち、どれだけ美月から預かった結婚資金を使ったの?」
足元の明細へ目を落とした。
見覚えのある日付だった。
結婚資金として、毎月直人へ振り込んでいた日だ。
「ちゃんと貯めてるよ」
そう言って送られてきた残高画面を、私は何の疑いもなく信じていた。
床に落ちた記録を見る限り、その金は残っていなかった。
かなりの額が千夏へ送られ、彼女の支払いに消えていた。
「まだあるから」
千夏の声が低くなった。
「三年前、美月があんたのコート買うために仕事掛け持ちしてたとき」
直人の顔が真っ白になった。
千夏は最後の領収書を投げた。
「仕事場に泊まり込んでたんじゃないよね?」
一度、息を吸った。
「病院で、私の中絶に付き添ってたでしょ」
28
交流センターが一気にざわめいた。
さっきまで直人に同情していた人たちまで、表情を変えた。
「結婚資金を別の女性に?」
「彼女が入院してたときに……?」
直人の唇が震えた。
「違う……」
二歩ほどこちらへ来たところで、膝から崩れ落ちた。
「美月。金は、あとで戻すつもりだった」
私は黙っていた。
直人が俯いた。
「子どものことも……あれは、予定してたわけじゃない」
顔を上げられないまま続けた。
「言ったら、美月がいなくなると思ってた。だから言えなかった」
「分かってたんだね」
私は一歩下がった。
「悪いことをしてるって。ただ、私にはバレないと思ってたんでしょ」
直人が顔を上げ、涙をこぼした。
「本当に悪かった」
横で千夏がまた言い返し、直人も立ち上がった。言い争いはすぐに激しくなり、最後には互いに腕をつかむほどになった。
職員が警察へ連絡した。
駆けつけた警察官に促され、二人はそのまま外へ出ていった。
金の問題は、また別だ。
私は床に残された振込記録と、偽造された口座残高の画像をすべて保存した。
29
それでも直人は、すぐには雪代町を離れなかった。
三年前、職員宿舎を出たあと、私は小さな庭のある一戸建てを借りて暮らしていた。
数日後の夜。
残業を終えて帰ると、門の外に直人が立っていた。
傘も差していない。服はすっかり濡れ、髪から雨水が落ち続けていた。
「美月。会いたくないのは分かってる」
私は止まらず、門の鍵を開けた。
「ここで待ってるから」
背後から声がした。
「前に俺が熱出したとき、一晩中そばにいてくれたよな」
雨音が大きかった。
「美月が、本当にもう何とも思ってないなんて信じられない」
そのまま門を閉めた。
返事はしなかった。
雨は、一晩中降り続いた。
翌朝、外へ出ると、直人の身体が大きく傾いた。
こちらへ倒れ込んできそうになり、私は一歩横へ避けた。
濡れた地面に倒れた直人は、それでも胸元から小さなベルベットの箱を取り出した。
30
中に入っていたのは、あの五周年のリングだった。
直人は泥の上で膝をつき、私へ差し出した。
「美月。この指輪、本当ならあのとき美月につけるはずだった」
声が掠れていた。
「俺が悪かった。もう一度だけ、やり直させてくれ」
一度、息を詰まらせた。
「今度はちゃんと話を聞く。美月が嫌がることは、もうしない」
見上げる目には、まだ期待が残っていた。
一晩雨に打たれ、こうして跪けば。
それだけで、自分がどれだけ後悔しているか伝わると思っているのだろう。
私は一度家へ戻った。
手にして戻ってきたのは、何年も保管していた一枚の質札だった。
「何、それ」
「あなたにコートを買うために、祖母の形見を質屋へ持っていった」
質札を見せた。
「翡翠の帯留め。あれでも足りなくて、仕事を三つ増やした」
直人の顔から、少しずつ表情が消えていった。
「最後には胃から血が出て、入院した」
指輪を持つ手が震えた。
「……知らなかった」
「知らないよね」
直人を見た。
「私があのコートを渡すのを楽しみにしてたとき、あなたは千夏に着せたから」
顔色がさらに白くなった。
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「千夏が飲み物をこぼして、私が取り返そうとしたら、あなたは私を突き飛ばした。そのあと、事情も聞かずにコートを私の顔へ投げた」
直人が首を振った。
「俺は、千夏に何かすると思って……わざと押したわけじゃない」
「でも、押したよ」
それ以上、言葉は続かなかった。
泥の中に座った直人を見下ろした。
もう、手を差し伸べようとは思わなかった。
「前みたいに、少し優しくされたくらいで全部なかったことにはできない」
直人の手からリングが落ちた。
雨水のたまった排水溝へ転がっていった。
二日後、私は結婚資金として渡していた金の振込記録と、直人が送ってきた偽の残高画面を整理した。
そして簡易裁判所へ民事調停を申し立てた。
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調停の日。
私は直人と、長いテーブルを挟んで座っていた。
もう、言い訳はしなかった。
最終的に、私から預かっていた金を分割で返すことで調停が成立した。
署名を終えたあと、直人が小さな声で言った。
「全部返す」
書類をしまった。
「決めた通りに振り込んで。それと、もう会いに来ないで」
立ち上がったところで、背後から名前を呼ばれた。
「美月」
振り返らなかった。
「おばあさんの帯留め、俺が見つけたら?」
声が震えていた。
「もし買い戻せたら、俺たちも――」
「もう無理だよ」
言葉を遮った。
「あのあと質屋にも行った。とっくに売られてた」
椅子が動く音がした。
「探す。いくらかかっても、絶対見つける」
「見つかっても、何も変わらないよ」
扉を開けた。
閉まりきる直前、直人がこちらへ来ようとしたが、職員に止められていた。
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それから半年。
直人は調停で決めた通り、毎月少しずつ金を返した。
最後の入金には、一言だけメッセージが添えられていた。
「美月、もう一度だけ会えない?」
金額に間違いがないことを確認し、記録を保存した。
そのあと、連絡先を削除した。
雪代町の西側に、何年も空き家になっていた古民家があった。
外壁は色あせ、屋根からは雨が漏れ、庭は雑草だらけだった。
前を通るたび、なぜか気になっていた。
返ってきた金と、三年間で貯めた資金を合わせれば、町の空き家バンクを通して手が届く。
購入を決めたとき、同僚には驚かれた。
「一人なんだから、最初からきれいなマンションのほうが楽じゃない?」
荒れた庭から、古い家を見上げた。
「でも、ここが好きなんです」
どこに住むか。
どんな家にするか。
もう、誰かの許可はいらなかった。
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屋根や柱は、町の大工さんに頼んだ。
自分でできるところは、少しずつ手を入れた。壁を塗り、草を抜き、古い木戸を磨く。
家はゆっくり、自分の好きな形になっていった。
ちょうどそのころ、町では空き家活用のPRに力を入れていた。担当の同僚に、この家を事例として広報誌や公式サイトで紹介させてほしいと頼まれ、私は了承した。
記事には家の外観写真と、町内のおおまかな地域名も載った。
庭がようやく整った数日後。
足を引きずった雑種犬が門の前に現れた。
餌を少し置いた。
翌日も来た。
三日目には、門の前で一晩寝ていた。
交番と保健所にも迷い犬の届けを出したが、飼い主は見つからなかった。
動物病院へ連れていき、脚を治療し、ワクチンも受けさせた。
名前は、福にした。
それからは仕事を終えて帰るたび、門へ着く前から庭を走る足音が聞こえた。
福はいつも、縁側から飛び出して何度も私の周りを回った。
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その後の直人については、共通の知人から時々耳に入った。
結婚資金を使い込んでいたことが朝凪市でも知られるようになり、いくつかの取引先は仕事を打ち切ったらしい。
写真関係の仕事も、以前のようにはいかなくなったという。
千夏も同じだった。
直人が家賃やカード代を払わなくなったあと、彼女にはかなりの支払いが残った。
二人は金をめぐって、何度か大きく揉めたらしい。
人から聞けば、そうなんだ、と答える程度だった。
わざわざ続きを尋ねることはなかった。
二人がそのあとどうなったのかは、もう私の生活にほとんど関係がなかった。
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雪代町へ来て四度目の大晦日。
朝から大雪だった。
私は仲のいい同僚や近所の人を何人か家へ招いた。
改修した古民家が、これほど賑やかになるのは初めてだった。
こたつにはみかんと焼き栗。
キッチンでは年越しそばの湯気が上がっている。
福はテーブルのそばに伏せ、誰かが食べ物を落とすたびに尻尾を大きく振った。
近所の人がグラスを上げた。
「高梨さん、今年もお疲れさま。来年はもっと大きな仕事任されるかもね」
笑って軽くグラスを合わせた。
「それ以上プレッシャーかけないでください」
部屋に笑い声が広がった。
そのとき、福が突然立ち上がった。
門のほうへ向かって、二度吠えた。
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福の視線を追った。
門灯の向こうで、雪が降っていた。
その中に、人影があった。
直人だった。
前に見たときより、さらに痩せている。
肩にも髪にも、雪が積もっていた。
門越しに、家の灯りを見ていた。
そして、私を見ていた。
唇がわずかに動く。
けれど、門を叩くことはなかった。
隣にいた同僚も、外へ目を向けた。
「誰かいる?」
私は視線を戻した。
「ううん。誰もいない」
福の頭を撫でる。
「もういいよ。戻ろう」
福は素直についてきた。
私は門をしっかり閉め、鍵をかけた。
こたつへ戻ると、同僚が温かいお茶を差し出してくれた。
「高梨さん。よいお年を」
受け取り、笑って湯呑みを軽く合わせた。
「よいお年を」
家の中に、また笑い声が戻った。
門の外の人が、いつまでそこにいたのか。
私はもう、確かめなかった。




