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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第56話 夫人たちは寄付より名前を欲しがる

 東区の渡り灯が正式に試験運用へ向かうと決まった翌日から、宰相家には妙に華やかな封書が増えた。


 淡い桃色の紙。

 金の縁取り。

 香りのついた便箋。

 封蝋に刻まれた名門貴族の紋章。


 北区の冬の灯火所が始まったときには、これほどではなかった。あのときはまだ、誰もこの事業の行方を測りかねていたのだろう。成功するかどうかわからないものへ、大きく名を出す者は少ない。


 けれど今は違う。


 北区では、火が消えなかった。

 東区では、王妃の許可を得て渡り灯が始まろうとしている。

 そして何より、王都の社交界がこの話題を語り始めている。


 そうなれば、貴族たちは敏い。


 善意が集まる。

 寄付が集まる。

 そして、名誉を求める声も集まる。


「奥様、本日届いたお申し出です」


 オスカーが、やや疲れた顔で書類の束を机へ置いた。


 リディアは思わずその量に目を瞬く。


「これ、すべて渡り灯への支援ですか?」


「名目上は、はい」


「名目上」


「中身を読むと、少々……いえ、かなり、条件がついております」


 オスカーが言いにくそうに視線を落とす。


 リディアは一通目を開いた。


 そこには、東区の橋へ灯籠を寄付したいという申し出が書かれていた。灯籠そのものはありがたい。雨と霧に強い灯具は、今まさに必要としているものだった。


 けれど、読み進めるうちに、リディアの手が止まる。


「……橋の両端に、寄付家の紋章を入れた灯籠を置きたい、と」


「はい」


「こちらは?」


「別の伯爵家からです。橋番の外套に家名入りの留め具を使いたいそうです」


「橋番にまで?」


「その、支援元がわかりやすいほうが、市民も安心するのではないか、とのことで」


 リディアは二通目を開き、静かに息を吐いた。


 さらに三通目。


「雨除け小屋の入口に銘板」


「はい」


 四通目。


「施療院へ渡った人数の報告を、寄付者の夜会で読み上げたい」


「はい」


 五通目。


「渡り灯の初日に、支援家の夫人たちが橋のそばで祈りを捧げたい……?」


「それについては、施療院長から遠回しに困ると返答が来ています」


「でしょうね」


 リディアは封書を机へ置いた。


 頭が痛くなるようだった。


 善意がないわけではないのだろう。少なくとも、灯籠も外套も雨除け小屋も、確かに現場では必要になる。寄付自体はありがたい。


 けれど、その一つ一つに名が貼られようとしている。


 誰が助けたのか。

 どの家が支えたのか。

 どの紋章の下で、人々は橋を渡ったのか。


 それを示したがる空気が、紙面から滲んでいた。


「灯りを置く前から、灯りより紋章の話が先に来るのですね」


 リディアは思わず呟いた。


 オスカーが少し苦笑する。


「王都の貴族らしい、と言えばらしいですが」


「……ええ。そうね」


 否定しきれないのが、余計に厄介だった。


 慈善は、完全に名誉と切り離せるものではない。貴族が大きな寄付をするのは、名誉のためでもある。家の評判、王妃への忠誠、社交界での立場。そうしたものが絡むからこそ、大きな資金が動く。


 リディアも、それはわかっていた。


 名誉を一切認めないと言えば、支援は細る。

 だが名誉を前面に出しすぎれば、支援を受ける側が俯く。


 その境目を間違えてはいけない。


 その日の午後、慈善婦人会の小会合が開かれた。


 場所は王宮ではなく、ローゼン侯爵夫人の屋敷だった。王宮会議ほど堅くはないが、完全な茶会でもない。支援を申し出た夫人たちが集まり、渡り灯の運用について相談するという名目だった。


 名目は、いつだって美しい。


 リディアはそう思いながら、案内された応接室へ入った。


 室内にはすでに数人の夫人たちがいた。ローゼン侯爵夫人、グレイス伯爵夫人、そしてファーネル侯爵夫人。ほかにも数名、冬の灯火所の噂を聞いて近づいてきた貴婦人たちがいる。


 香りのよい茶と、淡い色の菓子。

 磨き込まれた銀器。

 柔らかな笑顔。


 それらに囲まれていると、ここで話されるのが夜の橋や濡れた板のことだとは、少し信じがたくなる。


「宰相夫人、お待ちしておりましたわ」


 ローゼン侯爵夫人が穏やかに迎えてくれる。


「本日は、渡り灯への支援について前向きなお話ができればと思っておりますの」


「ありがとうございます」


 リディアは席へ着き、静かに礼を返した。


 すぐにファーネル侯爵夫人が口を開く。


「奥様、先日は大変勉強になりましたわ。灯りは人を照らすもの、家名を照らすものではない……でしたかしら」


 声は優雅だが、明らかに皮肉を含んでいた。


 リディアは表情を崩さなかった。


「はい。そう申し上げました」


「とても立派なお考えですわ。でも、支援を長く続けるには、支援者の心も温めなければなりませんでしょう?」


 ファーネル侯爵夫人は微笑みながら、扇で手元の資料を軽く叩いた。


「誰かの役に立っていると実感できること。それが次の寄付へ繋がるのですもの。ですから、橋の灯籠に小さく家紋を入れるくらいは、問題ないのではなくて?」


 数人の夫人が頷いた。


「確かに、支援者が見えることは大切ですわ」


「善意も、称えられなければ続きませんもの」


「市民にとっても、どの家が支えているか見えたほうが安心なのでは?」


 リディアは、ひとつずつ言葉を聞いた。


 全員が悪意で言っているわけではない。

 中には本当に、支援を継続するためには名誉が必要だと考えている者もいるだろう。


 だからこそ、ただ切り捨てるわけにはいかなかった。


「支援者の名を記録することには、私も賛成です」


 リディアは静かに言った。


「用途、金額、物資、継続期間。それらは明確に残すべきだと思います。支援してくださった方の名誉も、正しく守られるべきです」


 ファーネル侯爵夫人が少しだけ目を細める。


「でしたら」


「ですが、現場の灯りに家紋は入れません」


 リディアは続けた。


「橋を渡る人々が見るべきなのは、足元と、橋の向こうで待つ人です。どの貴族家の灯りかではありません」


 室内が少し静まった。


 グレイス伯爵夫人が茶杯を置く。


「けれど、支援者名を一切出さないわけではないのですよね?」


「はい。王宮慈善局の公開記録に、用途別で残します。たとえば、灯具を何基、外套を何着、橋番の夜食を何日分。そういう形で」


「金額順ではなく?」


「用途別です」


 リディアは頷いた。


「高額な寄付ほど上に来る形にすると、現場の必要より見栄えが優先されます。たとえば少額でも、雨除け小屋の修繕に必要な釘を提供してくださるなら、それは大切な支援です。逆に高価な装飾灯をいただいても、雨で消えるなら使えません」


 ローゼン侯爵夫人が、小さく笑った。


「釘まで記録するのですか」


「必要なら」


「宰相夫人らしいですわね」


 その言葉に、以前ならリディアは少し身構えたかもしれない。だがローゼン侯爵夫人の声には、からかいよりも好意があった。


「華やかな報告書にはならないかもしれません」


「でも、役には立ちそうですわ」


 ローゼン夫人の援護に、ファーネル侯爵夫人の笑みがわずかに深くなる。


「役に立つことは大切ですわ。けれど、奥様。貴族社会で物事を進めるには、夢も必要ではなくて? 橋を渡る者たちに、美しい灯籠を見せることも、心を慰める一つの方法では?」


 リディアは一瞬だけ、東区の橋を思い出した。


 濡れた板。

 白い霧。

 母親の手を握るミナ。


 あの子が橋の上で必要としていたものは、美しい灯籠だっただろうか。


 違う。


 あの子は、途中が怖いと言った。


 必要なのは、見上げる飾りではなく、足元を照らす灯りと、声をかけてくれる人だった。


「美しさを否定するつもりはありません」


 リディアは言った。


「ただ、渡り灯の灯具に求める美しさは、消えにくいことです」


 夫人たちの視線が集まる。


「雨に濡れても消えない。霧の中でも足元を示す。強い風で倒れない。子どもが触れて火傷しない。その美しさを、私は優先したいと思います」


 しばらく沈黙があった。


 やがてグレイス伯爵夫人が、ぽつりと言った。


「それは……確かに、美しいですわね」


 リディアは少しだけ目を瞬いた。


 グレイス夫人は少し恥ずかしそうに微笑む。


「いえ、変な言い方ですけれど。夜の橋で消えない灯りというのは、宝石より美しいかもしれませんわ」


 ローゼン侯爵夫人も頷いた。


「実際に渡る人にとっては、そうでしょうね」


 空気が少し変わった。


 ファーネル侯爵夫人はそれを見て、すぐに別の角度から来た。


「では、灯籠に家紋は入れないとしても、支援した家ごとの色を少し使うのは? たとえば布や紐に」


「夜の霧で色は見えにくいです」


 リディアは即答した。


「それに、色を家ごとに変えると、交換や修繕の際に余計な手間がかかります。同じ規格で揃えたほうが現場は楽です」


「……本当に実務的でいらっしゃるのね」


「はい」


 その返事に、夫人の扇が一瞬止まった。


 リディア自身も少し驚いた。


 以前なら「申し訳ありません」と返していたかもしれない。だが今は、はい、と言えた。


 実務的。


 それはもう、恥じる言葉ではない。


「ただし」


 リディアは少しだけ声を柔らかくした。


「支援者の方々に、現場で使われた報告をお届けすることはできます。たとえば、どの物資が何日に届き、何人の渡橋を支えたか。個人名は出しませんが、橋番の記録や施療院の報告をまとめることは可能です」


 ローゼン夫人が身を乗り出した。


「それは、読みたいですわ」


 グレイス夫人も頷く。


「ただ金額を書かれるより、ずっと支援した実感がありそうです」


「では、月ごとの用途報告を作ります」


 リディアは言った。


「ただし、報告は支援家同士の順位づけには使いません。あくまで、何が現場に届いたかを見るためのものです」


「それなら私も協力いたします」


 ローゼン侯爵夫人が穏やかに言った。


「うちからは、まず雨除け小屋の木材と職人の手配を出しましょう。銘板は不要ですわ」


 グレイス伯爵夫人も続く。


「では、うちは橋番の外套を。家名入りの留め具はなしで。代わりに、防水の布をよいものにいたします」


 流れができた。


 ファーネル侯爵夫人は、それを止められなかった。


 彼女は完璧な笑みを保ったまま、少し遅れて言う。


「では、わたくしは灯具を。もちろん、家紋は入れませんわ」


 その声は優雅だったが、わずかに硬い。


 リディアは深く頭を下げた。


「ありがとうございます。灯具は、雨と霧に強い規格を職人と確認したうえでお願いすることになります」


「ええ。お任せいたしますわ」


 任せる、と言いながら、その目は少しも任せていなかった。


 けれど今は、それでよかった。


 少なくとも現場に家紋入りの灯籠が並ぶことは避けられた。支援者の名誉は記録で守る。現場の安心は現場のために残す。


 その線を引けただけで、今日の会合には意味があった。


 帰りの馬車へ乗る前、ローゼン侯爵夫人がリディアを呼び止めた。


「宰相夫人」


「はい」


「今日は、よく踏みとどまりましたね」


 リディアは少し戸惑った。


「踏みとどまった、ですか」


「ええ。あの場で支援者の名誉を丸ごと否定すれば、反発だけが残りました。でも、名誉を別の形で守る道を示した。あれは簡単ではありません」


 思いがけない言葉だった。


「私は……ただ、現場に家名を持ち込みたくなかっただけです」


「それを通すには、相手の逃げ道も必要ですわ」


 ローゼン夫人は微笑んだ。


「奥様は、それを用意なさった。だから皆、頷けたのです」


 リディアは言葉を失った。


 自分では必死だった。

 ただ守りたい線を守ろうとしていただけだ。


 けれど、それが交渉になっていたのだとしたら。


「……ありがとうございます」


「これからもっと大変になりますわよ。善意より、名誉のほうが長く尾を引きますから」


「覚えておきます」


「ええ。あと、ファーネル夫人にはお気をつけなさい。あの方、笑っているときほど諦めていませんから」


 それだけ言って、ローゼン夫人は静かに去っていった。


 馬車の中で、リディアは今日の会合を思い返した。


 家紋入りの灯籠。

 橋番の留め具。

 銘板。

 祈りの儀式。

 報告会。


 夫人たちは、寄付より名前を欲しがっていた。


 けれど、全員が同じではない。

 名を求める者もいれば、実際に役立つ形へ変えようとする者もいる。

 その違いを見分けなければならない。


 宰相家へ戻ると、アルベルトはすでに執務室にいた。


 リディアが報告へ行くと、彼は机の向こうで書類から目を上げた。


「どうだった」


「灯具、外套、木材の支援が決まりました」


「条件は」


「現場に家紋は入れません。支援記録は用途別に公開します。月ごとの報告書を出す形にしました」


 アルベルトは少しだけ眉を上げた。


「よく通したな」


「ローゼン侯爵夫人とグレイス伯爵夫人が助けてくださいました」


「ファーネル侯爵夫人は」


「灯具を出すと」


「家紋なしで?」


「はい」


 アルベルトは数秒黙った。


「相当不満だろうな」


「……はい」


「だが、悪くない」


 その短い評価に、リディアは少し肩の力を抜いた。


「支援者の名誉を、完全に無視することはできませんね」


「できない」


「でも、現場より前には置けません」


「その線を引けたなら十分だ」


 リディアは静かに頷いた。


 するとアルベルトは、ふと手元の書類を閉じた。


「リディア」


「はい」


「君は、人の欲を見るのが少し上手くなったな」


 褒め言葉なのかどうか、少し迷う言い方だった。


「それは……よいことでしょうか」


「仕事では必要だ」


「私生活では?」


「相手による」


 即答だった。


 リディアは少しだけ笑いそうになった。


「では、旦那様の欲は見えにくいです」


 言ってから、少し大胆だったかもしれないと思った。


 アルベルトの手が止まる。


「私の?」


「はい」


「見てどうする」


「……どうするのでしょう」


 リディア自身にも、よくわからなかった。


 けれど最近、この人が何を望んでいるのかを知りたいと思うことがある。


 仕事ではなく。

 責任ではなく。

 夫としてでも、宰相としてでもなく。


 アルベルト自身が、何を欲しがるのか。


 そう思っただけで、少し胸が落ち着かなくなる。


 アルベルトはしばらく彼女を見ていたが、やがて視線を逸らした。


「今は渡り灯の話をしろ」


「……はい」


 逃げた。


 たぶん、逃げた。


 リディアはそれに気づいたが、今度は追わなかった。


 ただ、胸の奥に小さな温かさが残る。


 ファーネル侯爵夫人の欲はわかりやすい。

 支援者たちの名誉欲も、見える。


 けれど、アルベルトの欲だけはまだよく見えない。


 それを知りたいと思う自分がいることに、リディアは少しだけ戸惑っていた。

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