第48話 最初の夜に灯が消えなかったと知って、私はようやく泣くことができた
灯火所を開いた日の夜、リディアはなかなか作業室を離れられなかった。
開所式は終わった。
炉には火が入り、最初の利用者も受け入れた。
支援家たちはそれぞれ帰り、北区職人組合の者たちと看護人、灯火守りが夜の番についた。
だから、今日の自分の役目はもう終わっている。
そう頭ではわかっているのに、机の上の北区地図から目を離せなかった。
地図の上には、灯火所の位置が赤い印で示されている。そこから施療院までの道、巡回医が通る経路、凍りやすい坂、馬車が入れるぎりぎりの路地。
紙の上では、すべて整っている。
けれど今夜、本当に動くのだ。
誰かが扉を叩くかもしれない。
灯火守りは対応できるだろうか。
炉の火は保つだろうか。
薬湯は足りるだろうか。
馬車は呼べるだろうか。
心配し始めると、きりがなかった。
「奥様」
エマが静かに声をかける。
「お茶が冷めてしまいます」
「あ……そうね」
リディアはカップへ手を伸ばしたが、指先が思ったより冷えていて、少しだけ持ち上げ損ねた。
エマが何も言わず、カップの下へ小皿を添える。
そのさりげなさに、リディアは苦笑した。
「私、そんなに落ち着きがないかしら」
「はい」
「少しは迷って」
「迷う余地がございませんでした」
きっぱり言われて、リディアは小さく息を漏らした。
笑ったつもりだったが、自分でも少し疲れた笑いだとわかる。
扉が開いたのは、そのときだった。
アルベルトが入ってくる。
外套は脱いでいたが、王宮から戻ったばかりなのか、まだ外の冷気をまとっているように見えた。視線だけで机上の地図、冷めかけた茶、リディアの手元を順に見て、短く言う。
「まだ見ていたのか」
「……少しだけ」
「少し、ではないな」
反論できなかった。
アルベルトは作業机の向かいへ立ち、地図へ目を落とす。
「今夜の灯火守りは誰だ」
「組合のトマスと、慈善局から来た看護人のマリーです。巡回医はベルナール先生が夕方と夜半前に一度ずつ」
「馬車の待機は」
「運送組合と契約済みです。北区の入口に一台」
「薪は」
「三日分は中に。残りは裏手の薪置き場に」
「なら、今ここで君が心配しても、火は強くならない」
あまりに正論だった。
リディアはカップを両手で包み、小さく肩を落とす。
「わかっています」
「わかっていない顔をしている」
「……わかっているけれど、落ち着かないのです」
言ってから、リディアは少しだけ目を伏せた。
以前なら、こんな返しはしなかっただろう。
わかっています、大丈夫です、問題ありません。
そう言って、感情をしまったはずだ。
けれど今は、落ち着かないと言えた。
アルベルトは責めなかった。
ただ、近くの椅子へ腰を下ろす。
「初日だからな」
低い声だった。
「落ち着かないのは当然だ」
「……旦那様でも、そう思われますか」
「私でも、新しい政策の初日は報告が来るまで気にする」
「意外です」
「顔に出さないだけだ」
リディアは思わず彼を見た。
「では、旦那様も内心では落ち着かないことがあるのですか」
「ある」
あっさり認められ、逆にこちらが驚く。
アルベルトは淡々と続けた。
「ただ、落ち着かないからといって、同じ資料を十回見ても新しい情報は増えない」
「それは……はい」
「だから待つ」
「待つのは、苦手です」
「だろうな」
「すぐそうやって断定なさいますね」
「見ればわかる」
いつものやり取りなのに、今日は胸の奥へ妙に沁みた。
リディアは地図から手を離す。
「では、待ちます」
「茶を飲んで」
「はい」
「菓子も食べろ」
「それは命令ですか」
「提案だ」
「提案にしては逃げ道が狭いです」
「食べなくてもいい。だが食べたほうが、君は余計なことを考えにくい」
リディアは少しだけ笑って、小さな焼き菓子をひとつ手に取った。
甘さは控えめで、口の中でほろりと崩れた。
それを飲み込んだころ、ようやく体のこわばりが少しだけほどけた気がした。
作業室には、しばらく静かな時間が流れた。
オスカーは隣室で控えている。ハロルドは夜の使者が来たときのために玄関側へ回っていた。エマは少し離れたところで、次の茶を用意している。
リディアとアルベルトは、机を挟んで向かい合ったまま、言葉少なに夜を待った。
外では風が鳴っている。
窓硝子に、細い雨粒が当たり始めた。
「雨……」
リディアが呟くと、アルベルトも窓へ目をやった。
「冷えるな」
「北区はもっと冷えますね」
「ああ」
その短い返事で、リディアの胸はまた少し不安に傾きかけた。
だが今度は地図へ手を伸ばさなかった。
待つ。
今できることは、それなのだ。
夜半近くになって、廊下の向こうから足音が聞こえた。
急ぎ足だった。
リディアは反射的に立ち上がりかける。
「座っていろ」
アルベルトの声が止めた。
「でも」
「報告は逃げない」
確かにそうだ。
リディアは椅子へ座り直す。だが背筋は自然と伸びた。
扉が叩かれ、ハロルドが入ってきた。
「旦那様、奥様。北区より第一報です」
リディアは息を止める。
ハロルドの後ろには、雨に濡れた外套を着た若い使者がいた。北区職人組合の者だろう。頬は赤く、肩で息をしている。
アルベルトが短く言う。
「話せ」
使者は一礼し、少し緊張した声で報告を始めた。
「灯火所、問題なく開いております。炉も、煙突も大丈夫です。夜番のトマスが火を見ています」
リディアの胸の奥で、ひとつ不安がほどける。
「利用者は?」
アルベルトが問う。
「今夜は、これまでに四名です。足を痛めた老人が一人、咳のひどい女の人が一人、熱を出した子どもが一人、その付き添いが一人」
「重症者は」
「子どもはベルナール先生が診て、施療院へ送るほどではないと。薬湯を飲ませて、しばらく寝かせています。女の人は、明日の朝に施療院へ行くよう勧めました。今夜は灯火所で休ませています」
リディアは唇を結んだ。
動いている。
本当に、動いている。
紙の上の計画ではなく、灯火所の炉の前で、人が休んでいる。
「馬車は使ったか」
「まだです。ですが、運送組合の者が待機しています」
「薪の消費は」
「予定より少し早いです。雨で冷えるので、炉を強めにしています」
アルベルトがリディアを見る。
彼女はすぐに答えた。
「明朝、追加の薪を回しましょう。ファーネル侯爵家の追加分を前倒しで搬入できるか確認します」
オスカーが、隣室から入ってきてすぐにメモを取る。
「手配します」
リディアは続けた。
「薬湯材料も減りが早いなら、ローゼン侯爵家の分を半分だけ灯火所に先に入れてください。施療院の分を削らないよう、慈善局の予備も確認を」
「はい」
指示が出る。
人が動く。
怖さより先に、頭が回った。
それが自分でも不思議だった。
使者は少し驚いたようにリディアを見ていたが、すぐに深く頭を下げた。
「奥様。トマスが、伝えてくれって」
「何を?」
「炉の前で休んでる婆さんが、“こんな夜に行く場所があるとは思わなかった”って泣いたそうです」
その言葉を聞いた瞬間、リディアの視界が少し滲んだ。
こんな夜に、行く場所があるとは思わなかった。
胸の奥が、熱く、痛くなる。
リディアはすぐには返事ができなかった。
使者はさらに続ける。
「あと、ニコも来てました。母ちゃんは今日は大丈夫だけど、灯火所が本当に開いてるか見に来たって。炉を見て、すげえって言ってました」
リディアは思わず、口元を押さえそうになった。
泣きそうだった。
いや、泣きそうではない。
もう、目に涙が浮かんでいる。
けれど不思議と、恥ずかしくなかった。
「……そう」
声が少し震えた。
「ちゃんと、開いていたのね」
「はい。火、消えてません」
若い使者は、少し誇らしげにそう言った。
その誇らしさが、リディアの胸をさらに温めた。
灯火所は、もう彼女一人の案ではない。
北区の人たち自身が、火が消えていないことを誇ってくれている。
「ありがとう。雨の中、知らせに来てくれて」
「いえ。奥様に早く伝えろって、組合長が」
リディアは頷いた。
「戻る前に、温かいものを飲んでいって。ハロルド、お願い」
「承知いたしました」
使者が退出したあと、作業室には静けさが戻った。
けれど、先ほどまでとは違う静けさだった。
リディアは椅子に座ったまま、両手を膝の上で重ねた。
涙が一粒、落ちた。
自分でも驚くほど自然に。
ぽろりと。
「あ……」
慌てて拭おうとすると、アルベルトの声がした。
「そのままでいい」
リディアは手を止める。
涙はもう一粒、頬を伝った。
「すみません」
「謝ることではない」
いつもの言葉。
けれど今夜は、その言葉だけで涙がさらにこぼれそうになる。
「嬉しいのです」
リディアは小さく言った。
「ただ、嬉しくて」
「ああ」
「南区の絵をいただいたときも嬉しかった。でも今日は……」
言葉が詰まる。
炉の前で休む老婆。
熱を出した子ども。
咳をする女。
様子を見に来たニコ。
みんな、紙の中にはいなかった人たちだ。
けれど今夜、確かにあの場所で火にあたっている。
「本当に、灯ったのですね」
ようやく言うと、アルベルトは静かに頷いた。
「灯った」
「消えなかった」
「ああ」
それだけの会話で、胸がいっぱいになった。
リディアは涙を拭った。
泣くのが下手だと思っていた。
でも、今日は少し違う。
悲しいからではなく、嬉しいから泣ける日が来るなんて、思わなかった。
アルベルトが、ゆっくりと手を伸ばしかけて、途中で止めた。
その仕草に気づき、リディアは彼を見る。
「手を」
彼は短く言った。
「取ってもいいか」
胸の奥が、静かに跳ねた。
以前の彼なら、きっと何も言わずに触れることはしなかった。今もそうだ。必ず尋ねる。彼女が望まない限り、踏み込まない。
その距離が、たまらなく温かかった。
「……はい」
リディアは小さく答えた。
アルベルトの手が、彼女の冷えた指先を包む。
驚くほど温かかった。
強く握るわけではない。
閉じ込めるようでもない。
ただ、冷えた手を温めるための力だった。
それなのに、リディアの胸はさらに揺れた。
「冷たいな」
「ずっと、緊張していたので」
「知っている」
「旦那様は何でもご存じですね」
「君がわかりやすくなった」
その言葉に、リディアは涙の残る顔で少し笑った。
「それは、よいことでしょうか」
「よいことだ」
即答だった。
「以前より、こちらが間に合う」
「間に合う?」
「君が壊れる前に止められる。冷える前に温められる。疲れ切る前に休ませられる」
リディアは言葉を失った。
手の温かさが、じわじわと指先から胸まで広がっていく。
「私は……本当に、ずいぶん助けられていますね」
「助けているだけではない」
「え?」
「君も、動かしている」
アルベルトは静かに言った。
「今日、灯火所が開いた。最初の夜に、人が来た。火が消えなかった。それは君が動いた結果だ」
リディアは首を横に振りかけて、止めた。
違う、と言いそうになった。
皆がいたからだ、と。
自分だけの功績ではない、と。
それは事実だ。
けれど、だからといって自分の役割を消していいわけではない。
リディアは涙を拭い、ゆっくり息を吸った。
「……はい」
小さく、けれど確かに頷いた。
「私も、動かしました」
言った瞬間、アルベルトの目がわずかに柔らかくなった。
「そうだ」
たったそれだけ。
でもリディアには、十分だった。
夜が更けるころ、追加の手配はすべて済んだ。
薪の前倒し搬入。薬湯材料の追加。明朝の巡回医確認。灯火守りの交代時間の調整。
リディアは本当は最後まで見届けたかったが、アルベルトに止められた。
「ここから先はオスカーができる」
「でも」
「君は泣いて、笑って、働いた。今日はもう十分だ」
その言い方があまりにまっすぐで、リディアは反論できなかった。
「……はい」
素直に頷く。
作業室を出る前、リディアは壁を見た。
南区の絵。
支援家一覧。
青い花の布袋。
冬の灯火所の準備表。
そこに明日、新しい報告書が加わるのだろう。
最初の夜、火は消えなかった。
その一文を見たら、きっとまた胸が熱くなる。
自室へ戻る途中、廊下の窓から外を見ると、細い雨が降り続いていた。
北区も、きっと冷えている。
でも今夜は、あの古い組合所に炉の火がある。
行く場所がある。
その事実が、リディアの胸の中にも小さな灯を残していた。




