4−1 追跡
成田空港の出発ロビーは、週末ということもあり、多くの人で賑わっていた。私と彼は、旅行者に紛れて、チェックインカウンターにいた。まず台湾へ、その後バチカンに行く。追跡を逃れるために彼が考えたルートだった。
私は当面の資金を、新たに作ったプリペイドクレジットカードにデポジットしていた。すでに持っているカード類は使うと追跡される恐れがある。スマホも電源を切った。台湾で新たに国際スマホを契約する予定だった。
フライトボードが目まぐるしく動く。台湾行きの飛行機出発まで、後1時間ぐらい。
ロビー内を行き交う人、人、人…
後悔はしていない。彼と一緒なのだから。
「憶俊、デッキに出てきていい?外が見たくて」
この目に、自分の国を焼き付けておきたかった。もう見ることのできなくなる風景を。
お父さん、お母さん、おばあちゃん、ごめんね。
私、この国を捨てるね。
お墓参りにいけなくなっちゃうけど、許してくれる?
私がそっちに行ったら、いっぱい謝るから。
私は、西の空に向かって手を合わせた。涙を止めることができない。
お父さんが亡くなった時、私は喪失感から泣くこともできなかった。
孤独で、世界にひとりぼっちだった。でも、今は違う。
彼がいる。一人じゃない。もう泣いてもいい。
「憶俊、ありがとう。もう大丈夫…行こうか」
私が目尻の涙を拭うと、彼は私を強く抱きしめ、耳元で囁いた。
「美里さん、悲しい?」
「ううん、大丈夫。憶俊がいるから、私、泣くことができているの。一人の時は涙も出なかったから。だから…」
私は彼の胸に顔を押し付けて、声を上げて泣いた。
(大丈夫。これで最後)
彼は、私が泣き止むまでの間、優しく髪を撫でてくれていた。
「ありがとう、もう大丈夫…」
「美里さん…」
彼が、いつもの真っ直ぐな目で私を見てくる。
大丈夫、彼と一緒なら、世界のどこに行っても泣ける。
彼がポケットからスマホを取り出した。
「ちょっと待ってて。最後にやることが」
と言って、デッキの端に行って、なにやら操作していた。
その様子を離れたところからぼんやりと見ていた。
空港のアナウンスがとても遠くに聞こえた。
いつのまにか、デッキの出入り口は大勢の人が行き交うようになっていた。私たちは手を繋いで、その人たちを避けるようにデッキから降りて出国ロビーに向かった。
出国手続きのゲートには、長い行列ができていた。出張に行くビジネスマン風、帰国する外国人、家族連れもいる。探知機のところで止められて、ポケットの中を出させられている人もいる。
私たちは体ひとつで来たので荷物は手元のバッグ一つ。
行列の最後尾に並んだ時、ふと隣に立つ旅行者に違和感を覚える。
ビジネスマン?…それにしては妙な威圧感がある。
手ぶら?
出国ゲートに並んでいるのに、パスポートも手に持っていない。手にスマホを持っているが、それを注視しているというわけでもない。ただ、じっと「何か」を待っているような。
私は自分のパスポートを、彼は偽造された日本のパスポートを手に握りしめている。
…何かおかしい。
私は彼の腕を強く掴んでいた。
その時、隣の男の手からスマホが落ちた。乾いた音を立てて、彼の足元に転がってくる。
…だめ!
彼がそれを拾い上げて、男に渡そうとした時、男はスマホではなく彼の腕を掴んだ。
「李憶俊だな」
その瞬間、私は彼を掴んでいる男に体当たりした。
「逃げて!」
見ると、いつのまにか背広を着た男たちに囲まれていた。
逃げられない。
彼が、そばの男に掴み掛かり、投げ飛ばしたかと思ったら、私の体を抱きかかえて、叫んだ。
「下がれ!近づくな!こいつを殺すぞ!」
男たちの1人が「銃を取られた…」と苦々しく言っているのが聞こえた。
首に何か冷たいものが当たる感触があった。これは銃?
男たちが、一斉に銃口をこちらに向ける。
銃を構えている男に見覚えがあった。ショッピングモールで話しかけてきた男だ。
…国家情報局!
彼が、私を背後から強く抱きすくめ、ジリジリと下がっていく。
「李憶俊!もう逃げられないぞ!諦めて投降しろ!」
いくつもの銃口が、私と彼に向けられている。いち、に…。
もうおしまいだ。逃げられない。
でも、あなたと死ねるなら。
私は憶俊の腕を握った。自分の手が驚くほど冷たくなっているのがわかる。
怖い…足がガクガクと震えて止まらない。私は思わず目を瞑って、悲鳴を必死で堪えていた。
「…美里さん」
彼の口元が、耳のそばに近づいてきた。
「……」
え?
次の瞬間、私の体は突き飛ばされ、床に倒れていた。何が起こったのか分からなかった。
ただ視界の隅で憶俊の姿を追っていた。
彼が銃口を男たちに向けたその時、
スローモーションのように彼の体が床に崩れ落ちていった。まるで糸が切れた人形のように。
男たちが彼と私に走り寄ってくる。
何かを叫んでいるようだが、私には何も聞こえなかった。
ただ、映画のワンシーンを見ているかのように床に押し付けられながらその光景を見ていた。音もない、色もない。
声も涙も出なかった。
あるのは静寂とモノクロの世界…




