2−8 崩壊
「美里さん、お帰りなさい。駅まで迎えに行ったのに」
家に帰ると、彼が出迎えてくれた。台所からは美味しそうな匂いが漂ってくる。
「ごめんね、駅前で買い物してて」
私はリカーショップで買ったワインを見せた。
(いいですか、今日私にあったことは絶対に言わないでください。誰にもです。この国は隣国のスパイで溢れています。どこから漏れるのかわかったものじゃない)
(これが漏れた場合、李憶俊だけではなくあなたも消される可能性がある)
(奴を信用しないでください。いつでも離れられるように)
「ねえ、憶俊、朝の件、もう大丈夫?」
「うん、心配させてごめん。美里さんを見たら安心した。元気がでたよ」
「憶俊…」
私は彼に抱きついて、キスをした。
「美里さん?」
「憶俊…。今日嫌なことがあったの。憶俊で私を満たして。忘れさせて」
私は、文字通り彼を押し倒した。彼の作ってくれた夕食には見向きもせず。
彼は、明らかに戸惑っていたけれど、私のことを優しく包み込んでくれた。
私は彼に抱かれながら、今日のあの男の言葉が耳から離れなかった。
彼の舌と手が、私の全身を優しく巡る。
(こんなにしてくれているのに、私のことを騙す兵器?)
頭の片隅で、冷たい理性が抵抗する。
それを打ち消すように、私は声をあげた。
「憶俊…愛している、もっと」
彼がやさしく私の体を包み、ゆっくりと動いてくれている。
(こんなに愛してくれるのに、これが全て芝居?)
優しいキスも、彼の甘い囁きも、全部計算されたものだったら…
私は目を瞑って、彼にしがみついた。
「憶俊…いい、もっとして。もっと、ずっと」
彼の動きとともに、私の中を快感が走り、抑えきれない声がでる。
私の中に生まれた理性の声をかき消して!狂ってしまうほどメチャメチャにして!
(左の耳…)
私はもう声を抑えることはしなかった。叫び声にも似た嬌声が響き、目からは涙が溢れていた。
(憶俊…愛している。忘れたい!忘れさせて!もっと!憶俊!憶俊!)
何度絶頂を迎えたかわからなかった。真っ白になり、もう何も考えられなくて。
意識が、体が、溶けていく。
…
夜中、私は彼の腕の中で目を覚ました。
(左の耳たぶの後ろ)
隣では彼が静かな寝息を立てている。よく眠っている。
私は気づかれないように、そっと体の位置を変えて、彼の耳の後ろを見た。
うっすらと、だが確実に、小さい4桁の数字が並んでいた。
0081
…そんな。
きっと何かの偶然。いや、あの男が私のことを騙そうとしている。これは何か別の数字。
でも、なんの?
「美里さん、大丈夫?どこか悪い?」
目を覚ました彼が、いつもの少年のような眼差しで私を見てくる。
ああ、ダメだ。この瞳の前で隠し事なんてできない。
「…ねえ、憶俊、今日帰り道でね。変な人に声かけられたの」
「変な人?」
「憶俊の事。スパイだって」
急に彼の動きが止まった。
いつもの、やさしい憶俊ではなく、何か別人になったような雰囲気。
怖い…
今までに抱いたことのなかった感情。
私はその異常な雰囲気に飲まれて、次の言葉が出なかった。
フッと、魔法がとけたように振り向いた彼は、私の前髪をそっと指先で撫でて言った。
「美里さん、聞いてほしいことがある」
…
憶俊が語ってくれた内容は、私には理解し難いものだった。
彼は中国の軍隊に所属しており、近々発生する軍事侵攻の突破口を作るのが任務だと。
日本の重要インフラに機能不全をおこさせる仕掛けをするのだとか。
にわかに信じられない。
このやさしい憶俊が、日本に軍事侵攻を目論む軍人でスパイ?!
「ごめん、美里さんの立場を利用させてもらった」
「私の立場?」
「美里さんの車にあったケーブルに細工をした。あれが発電所のケーブルに使われることを見越して」
あの時感じた違和感は気のせいじゃなかった。
「なんで、なんで、そんなことを…」
「軍のマインドコントロール。自分では逆らえない」
「それが目的で私に近づいたの?」
しばらく沈黙していた彼が口を開いた。
「最初はそう。発電所のメンテナンスをしている美里さんに近づくのが目的だった、でも…」
「でも…今は違う!」
「僕、美里さんのことが本当に好き。僕のことを人間として愛してくれた。僕の子供が欲しいって。美里さんと離れることが怖い、怖くて堪らない」
私だって。こんなに人を好きになったことなんてない!彼のいない世界なんて考えられない!
「もうすぐ私の国と日本の戦争になる。そうなったらおしまい。みんな死ぬ」
そんな、どうしたらいいの…
私のせいで、日本が戦争に…彼まで失う…
「憶俊…どうして」
「スパイを生かしておいてもいいことない。どちらの国にとっても」
彼は国の使い捨てってこと?そんな、そんなことがあっていいわけがない!
国…この国は私に何をしてくれた?でも彼は私にとって唯一の…どっち…
「逃げよう!二人で」
彼は首を横に振った。
「無理、僕の体に発信機がついている。日本のどこに行っても追跡される」
発信機だって?
「もし日本の警察に捕まったりすれば、装置が発動して、死ぬ」
彼が死ぬ!?
「取るには手術しかない、でもそんな手術は日本の医者ではやってくれない。病院の履歴はすぐにわかってしまう」
「日本なの?日本だけなの?」
彼が怪訝そうな顔で見てくる。 彼と離れ離れなんてやだ!
「他の国は?他のアジアの国とかEUとかは?」
憶俊は考えるように言った。
「国交のない国なら、もしかしたら」




