2−2 不協和音
美里が「憶俊ごめんね。すぐ帰るから」と言って部屋を出て行った。
憶俊は、美里を送り出した後、部屋の隅に膝を抱えて座った。
いつも1人になると、この格好で部屋の隅に座る。いつもそうだ。あの時も。
あの時は、殺風景な部屋が与えられ、そこで次の時間を待つ。ただ黙って待つだけだった。
色もない。
音楽もない。
ただ、時折、外からの話し声と、叫び声のようなものが聞こえるだけ。
時間になると、ドアが開き、憶俊の担当官が入ってくる。
「到时间了」
別室では、ベッドがあり虚ろな目をした女性がいた。薬を盛られているのだろう。
「开始」
担当官の無機質な声が室内に響く。
憶俊はその声を合図に、女性の服を脱がせ、行為を始める。
時折、担当官の指示が飛ぶ。
「不对!重来!《ちがう、やりなおし》」
担当官に監視されながら、無表情な女性と行為を続けた。
女性は反応はするが、なんの感動もない。
終わったら、また部屋に戻って、部屋の隅で膝を抱えて待つ。食事、睡眠、そしてまた同じことの繰り返しだった。
憶俊は、次第に感情がなくなり、ただ行為をする、まるで機械のように。作業として。
美里とは全然反応が違っていた。
狂おしいほどに自分を求め、愛の声をもらす。嘘偽りのない、本当の言葉。
今も耳に残っている「愛している」の言葉。
そしてそれに反応するように、憶俊の心の中にも、今まで感じたことのない欲望が芽生えていた。
美里をもっと喜んで欲しい。自分を感じてほしい。
美里の口から漏れる愛の言葉に、憶俊の心と体は激しく反応した。
今まで美里と過ごしてきた時間、一緒に食べた食事、自分を見つめる美里の漆黒の瞳。
その全てが憶俊の乾き切った心に潤いをもたらしてくれた。
憶俊は膝を抱えたまま、部屋の中を眺める。
美里の甘い匂いが残る乱れたベッドにもたれかかった。訓練でもない、担当官からの指示でもない。ただ純粋に彼女だけを求め、狂おしいほどに抱きしめ合った。
視線を巡らせる。シンクに残ったままの食器、ゴミ箱のチラシ、丸まったティッシュ。そんな散らかった日常のノイズすら、今の彼には眩しいほどに色づいて見えた。無意識のうちに、彼の口元に優しく、そしてどこか泣きそうな微笑みが浮かぶ。冷え切っていた胸の奥底に、小さな慈しみの火が灯るのを感じていた。
「美里さん…」
小さく憶俊が呟く…
憶俊は知っていた。これが破滅への道筋なのだと。
自分は助からない。この体はそんなに長く持たない。
だが…
美里には生きてほしい。自分がいなくなっても幸せになってほしい。
自分の心に生まれた不協和音。
憶俊は、自分が辿っている破滅への道と、それとは正反対の美里と共に生きたい、美里に対する慈しみの気持ちがぶつかり合い、やり場のない葛藤に苦しんでいた。
憶俊は自分の左胸にある傷跡を跡ができるくらい強く掴んだ。爪が食い込み血が滲む。
左耳を強く引っ張った。まるでそれが取り除きたくなるような異物であるように。
奥歯がカチカチと音を立てる。
苦しい。どうしたらいい。どうにもならない。
これは運命。逆らえない。逆らったら…自分だけでは済まない…
(こんなに大きな傷、痛かったでしょう)
美里の言葉が蘇り、手の力がふっと抜けた。こんな…自分のこんな部分にまで優しく気遣ってくれた…
美里さん…美里さんだけでも…




