30, 琵琶湖大橋Jターン -BEAT OF THE RISING SUN -
不幸中の幸いとは、このことだろう。
確かにクワトロは、ハコスカに押しやられて縁石に乗り上げた。
路肩の建物に飛び込む形で、車が飛んだのである。
しかし、場所がよかった。
縁石の切れ目であったこと。
そして、その先がコンビニエンスストアの駐車場だったことである。
「……っ!!」
ジャンプした赤いクワトロは、そのまま前輪からだだっ広いアスファルトに着地。
サイドブレーキをかけ、スピンしながらも安定したハンドルさばきで、停車した。
駐車場の壁まで、残り2メートル。
「お静かに」の看板が、嫌味に見えてしまう。
「やっべぇ……」
ハンドルにもたれかかりながら、心の声を漏らした碧。
興奮と恐怖で激しく脈打つ心臓を、大きな深呼吸ひとつでなだめると、右手で首筋を押さえながら、周囲を見回す。
「ギリッギリじゃねえかよ……驚き桃の木戦闘機だぜ」
間髪入れず、イヤホンマイクに切迫した澪の声が。
「碧っ! 碧っ!」
『生きてるよ~、なんとかねぇ』
「よかったぁ」
声からも安堵してることが分かり、碧自身も、自然とはにかんだ笑顔がこぼれる。
「私を誰だと思ってるんだい? 世界一の運び屋 ――って、そんなことはいいんだ。 栃尾は?」
『後ろに迫ってるけど、まだ追突とかはしてきてない』
「琵琶湖大橋までは?」
『この先封鎖中、って電光掲示板を過ぎたから、もうすぐだと思う』
この道の少し先に、道路情報を知らせる電光掲示板がある。
そこを通過したということは、琵琶湖大橋通過まで5分とかからないだろう。
碧は、澪に最後の指示を出した。
「澪、よく聞いて。 ここからが最後の仕上げだ。
君のJターンで、全てが決まる。
もうすぐ、沿道の風景が住宅街から、ロードサイド店ばかりになるはず。
大きな交差点を超えて、カーブを曲がると、料金所が見えてくる。 そいつをくぐれば、すぐに琵琶湖大橋だ。
上り坂を走り切った先、橋の中腹に、工事車両が3台並んでいる。 目印のために、鷹村警部に言って置いてもらった車だ。
朝の状況を再現するために、左車線も塞いでもらってる。
いいかい? 先頭に止まっている車を追い越した瞬間に、Jターンを決めてハコスカを先行させるんだ。
すぐ先の下り坂に、ロードスパイクが待ち構えている。
栃尾も、澪のロードスターに気を取られて、すぐには止まれないはずさ。
ハコスカを走行不能にして、停車したところを、待ち構えている警察に逮捕させる。 これが、停止作戦の内容だよ」
■
そこまで準備していたとは……
走り続けるロードスター。
驚く澪だったが、ここで彼女は改めて、自分の不安を口にする。
「大丈夫かな」
『ん?』
「碧が銃苦手なのと同じくらい、私は運転が苦手なの。
有珠雅教や国光家の時のような、アクロバティックな運転は私にはできない。
……そんな私に、こんな芸当できるのかな?」
ハンドルを握る手が震え、アクセルを置く右足の力も弱まる。
このままハコスカの餌食になって、止まった瞬間を、警官に抑えてもらった方が――。
そんなことを考えてしまっていた。
『ハッ! なに言ってんだか……カーチェイスで大事なのは、技を見せることじゃないよ』
笑い飛ばした碧は、明るく澪の不安を払拭する。
『大事なのは、人様を巻き込まないようにすること。 それと、自分の運転が世界で一番上手いと信じることさ!
君は今、世界一の運び屋が隣にいないにも関わらず、教わったことをものにして、走り続けてるはずだろ?
なら、その腕を、自分で信じてあげないでどうする?』
「……」
『澪。 アンタは銃を撃つとき、自分の腕を信じていないのかい?』
「い、いいえ」
『なら、それと同じだ。 自分の腕を信じれば、絶対に成功する。
私が教えたんだ。 失敗したら、それは私の腕が耄碌したってことになるわな。
欧州にいた時に比べて、私の腕、落ちてるか?』
「ううん!」
『だろ? 待ってるぜ。 琵琶湖大橋の上でな』
そこまで言うと、碧は一方的に通信を切った。
大事なことを忘れていた。
そう、自分は神崎 碧から運転を教わってるんだ。
ヨーロッパ最強と謳われ、誰も追いつけない運び屋、碧から。
「私のドラテク、か」
なら、確実だ―― もう迷わない。
「……行くよ、澪! アンタの腕前、見せてあげなさいっ!」
澪は決意を固め、ハンドルを固く握り、ロードスターのアクセルを踏み込む。
キッと鋭い視線、その表情に困惑は無い。
ハコスカをぐんぐん、突き放す。
もう、バックミラーも見ない。
碧の言う通り、沿道の風景はチェーンのファミレスや中古車センターなど、郊外のロードサイド店が立ち並ぶ景色に様変わりした。
頭上を過ぎた案内標識、その矢印の先に琵琶湖大橋の文字。
「いよいよね」
穏やかな左カーブ。
大きな交差点を抜けると、目の前に壁のようなゲートが現れた。
料金所だ。
全ての入り口に封鎖中の文字と赤信号。
車はいない。 パトカーらしきセダンが数台だけ。
バーを突き破ると、上下線が分離し、すぐ目の前に空へと伸びる二車線道路の橋が現れる。
琵琶湖大橋。
滋賀県大津市と守山市を結ぶ、全長1.4kmの歩車併用橋だ。
この橋は、船舶の航路確保と景観調和を目的に、守山市側から約1km地点が大きく盛り上がった曲線を描いている。
つまり、なだらかな上り坂の後、すぐに下り坂が現れる、といった構造になっているのだ。
「あれか!」
橋に入ると、左車線がパイロンで規制され、碧の言う通り登坂の頂上手前に工事車両が停まっていた。
黄色の車体に白のラインが入った、典型的な自動車専用道用の工事車両。
2台のダンプが並列して止まっており、その先、3台目は橋梁点検用のクレーン車。
この車の前でターンできるか否かで、栃尾の、いや、自分たちの運命が決まる!
「チャンスは…… 一度きり!」
ここで澪は、初めてサイドミラーを見た。
思い込みか。
夕暮れに、割れたヘッドライトを灯したハコスカは、殺し損ねた子猫をつけ狙うハイエナのような、血走った眼に映る。
唸り上げるエンジンは、本能のままに吠える咆哮。
この獣は、この先にまちかまえていることなど、知る由もない。
視線は再び前に。
いつの間にか空は茜色から藍色に。
街灯も、ほんのりと灯る。
ふさがれ、逃げ道の無い一本道をひたすら走り続けた。
ハコスカのライトが迫っていても、幻覚だと自分に言い聞かせて。
「3台目のトラック――」
坂道に差し掛かった!
視界の左端に捉えていた工事車両が段々迫ってくる!
澪は、朝、碧に教わったテクニックを口に出して復唱した。
心をおちつかせるため、なにより、相棒を傍に感じるために。
「まず、右手をハンドルの12時の位置、左手をサイドブレーキに。
この時、速度は50キロ前後が理想。 遅すぎると成功しないし、逆に早すぎると、横転する危険」
言葉の通り、右手を移動させ、アクセルを意図的に抜く。
スピードメータが、ゆっくりと右から左へ落ちていき、針はピッタシ50を指す。
後ろのハコスカが近づいてきているが、かわすだけの距離は充分。
目印のダンプカーが迫り、ナンバープレートが読めるほどに。
ゴールは目の前!
「そして、走りながらサイドブレーキを引っ張って、後輪をロックさせたら――」
左手でサイドブレーキを握りしめる。
1台。
2台。
ダンプを追い抜き、ボンネットの先が、クレーン車に差し掛かった―― 刹那!
「わずかに右に回した後、一気に左方向―― 6時の位置!」
グッとサイドブレーキが引かれ、後輪が煙を上げながらロックされる。
朝の練習と、同じ感覚。
すかさず、片手でハンドルを右に回すと、間髪入れず、一気に左へ。
引きちぎられる痛覚に襲われるも、無我夢中で我が愛車をスライド!
小ぶりなボディは、決してずれない軸の中で、無駄なく動き回転。
滑るタイヤ。 響くスキール。
自分はいける! 絶対に成功する!
「いけええええっ!」
気づけば澪の視界、フロントガラスいっぱいに、トラックの前面。
ISUZUの文字が見える。
ロードスターが、180度転回したのだ。
風を切り、左横をハコスカが駆け抜ける。
さっきまで、自分の後ろにいた車が。
止まる気配もなく、猪突猛進に。
やった。 ハコスカをかわした! ―― でも、ここで終わりじゃない!
「戻して、ゆっくりアクセル!」
サイドブレーキを引き下げ、両手でハンドルを握ると、アクセルを足先で軽く踏む。
逆走する形で、前のクレーン車を左ハンドルで避けると、再度工事車両を追い越し、最後尾の車のうしろで停車した。
やってのけた。
ようやく解放された安堵と、成功した喜びから、澪の額を一筋の涙がこぼれる。
苦手をひとつ克服した、少女の成長でもあった。
「やった……やったよ、碧っ!」
橋の向こうから、碧のクワトロを先頭にパトカーが向かっていることにも、澪は気づいていなかった。




