29, 獣に吊るされた餌
パトカーに囲まれ、碧にあおられ、栃尾のハコスカは農道を走り続けていた。
車一台がギリギリ走れる道路を、エンジンを唸らせて。
それでも彼には、余裕があった。
警察や自分が下に見た女が、自分の車を殺してでも止めようという熱意が感じられなかったから。
「どうした。 やっぱりお前は、ただの用なしだったなぁ」
ルームミラーから、後ろを走るクワトロの車内を覗き込む栃尾。
運転席では、何事もないような無表情で、碧がハンドルを握っていた。
そうこうしているうちに、栃尾のハコスカはパトカーに導かれる形で、再びメロン街道に戻ってきた。
栃尾は気づく。
農道にはパトカーがうじゃうじゃいるが、自分が今走っている、この整備された大通りには、車が一台もいない。
その上、さっき丁字路を封鎖していたパトカーも、なぜかいない。
つまりは、このまま、また自由気ままに逃げられるということだ。
「大事なとこが、がら空きだぜ!」
アクセルを踏み込んで、後ろのクワトロを引き離すがごとく、スピードを上げ始めた――その時だ!
「はぁ?」
すぐ目の前の農道から、同じタイミングで一台のスポーツカーが飛び出してきた。
ブルーの車体に、ボンネットから屋根にかけての白いストライプ。
そう、澪の運転するロードスター。 栃尾が生理的に嫌悪する小型車のひとつである。
ノロノロと走りながら、ハザードを3回焚くと、更に――
「おいおいおい……」
怒りに震えた唇が、今は興奮で震えている。
運転席の窓から、澪が白く華奢な腕を伸ばして、白い布上の何かを振り上げていた。
そう、ヤツの眼には澪の下着に見えていた。
やっぱり、あの娘は自分に気があったんだ。
速度を上げてハコスカとの距離を開け始めるロードスターに、栃尾は複雑に入り混じった感情を沸かせて始める。
これまで散々、自分の性癖、本能に従って生きてきた男だ。
栃尾の不快感と下半身に、火がつかないわけがない。
笑顔で唾を吐き飛ばす怒号が、全てを物語っていた!
「上等だコノヤロウ。
今日はお前らの廃車記念日だ!
ケツの形が変わるまで、徹底的に犯しつくしてやる!」
これが、ヤツの本性。
ギアを低速域に入れ、タイヤを鳴らし、ハコスカはこれまでにないほどの勢いで加速し始めたではないか。
ロードスターとの差は一気に縮まっていく。
危険な反面、これは碧たちにとって、計算内のこと。
その証拠に、先ほど封鎖されていた丁字路にパトカーはいない。
にもかかわらず、ロードスターが琵琶湖大橋方面に左折すると、ハコスカも追いかけるように、オーバーなドリフトをかましながら同じく左折。
「パンツ!パンツ!パンツ!パンツ!」
栃尾の狂った様子を、農協の駐車場から見ていた鷹村も、したり顔。
碧のアウディ クワトロが、ハコスカの後を追うのを見届けると、自分の覆面車 スズキ キザシに乗り込んで、エンジン始動。
無線を片手に、ゆっくりと琵琶湖大橋へ向かうのであった。
「倉門、ヤツがそっちに向かった。 確保の段取りはどうだ?」
■
一方で、追われる側となった澪。
現在走っている国道477号線を、このままひたすら走れば、琵琶湖大橋に出る。
沿道から田畑が無くなり、その代わり住宅や中古車センターなどの店舗、工場が増えてくる。
片側一車線、分離帯なし、完全な生活道路。
相棒の作戦が成功したのを喜ぶ自分がいる一方で、大役を任されたプレッシャーに、心臓の鼓動が早くなる。
「ヤバい……完全にキレてる」
ルームミラー、そしてサイドミラーで、追いかけてくるハコスカを臨む。
この道路は警察が前もって封鎖してくれているため、一般車とぶつかることはない。
それでも、先行というのは運転手にとって、相当な不安を抱えるものだ。
視界にいない相手を意識し続けなければならない上に、後ろからの圧を嫌でも感じながらハンドルを握らないといけないから。
それに、今の相手は、小型自動車は破壊したくなる程度に嫌いと豪語する男。
監禁されていた時の話を証明するかのように、ハコスカは打って変わって、狂った挙動を見せ始めた。
緩やかなカーブでも、縁石に乗り上げ、電柱やガードレールに車体をこすりあげる。
綺麗なシルバーのボディは、一瞬で傷だらけ。
フェンダーミラーも、はぎとられた。
前に行かさんと、車線を跨ぐように澪のロードスターは走っているが、身をよじらせるかの如く、車体を震わせ、タイヤを笑い声のように響かせる。
「もう、アイツに普通は通用しない……速く! 速く走って!」
アクセルを、自分が踏み込めるめいっぱい。
それまでは感じていなかったが、今は目の前に流れてくる景色が、腰に感じるタイヤの振動が、全て怖いと思ってしまう。
ここでビビってる暇なんて、ない。
澪は右足に力を入れ、自分の限界を超えようとしていた。
それでも、栃尾のハコスカは段々と、自分と距離を詰めてくる。
急カーブもなく、ほぼ直線の道路だ。
サイドミラーに迫る、割れたヘッドライト。
これまでか、と思ったその時!
「碧!?」
ハコスカの右側に、碧のクワトロが並んだ!
後ろから一気に加速すると、道路いっぱいに並んで体当たりを仕掛けたのだ。
澪との距離を稼ぐために。
しかし、狂った栃尾のドラテクは常軌を逸していた。
ぶつかり離れてを繰り返す碧のクワトロに対し、スキール音を響かせ、ハンドルを思い切り右側に。
クワトロを路肩へと追いやっていく。
4WDの車両性能が、なんとか頑張ってはいるものの、この道にガードレールは無く、タイヤが縁石に擦れていく。
たまらず、澪は碧と通話すべく、イヤホンマイクのスイッチを入れた。
「碧っ!」
『振り返るなっ! そのまま走れっ!』
そう叫んだ次の瞬間!
サイドミラー越しに、信じがたい光景が。
ハコスカに押し出されたクワトロが縁石に乗り上げて、宙を舞ったのだ!
このままだと、沿道の建物に突っ込む――!
「そんな、碧っ!!」




