8. 丸太町チェイス
ポケットからスマホを取り出した澪の手を、碧はがっちりとつかんだ。
突然のことに驚く彼女の顔を、しっかりと見据えて。
「この仕事、キャンセルする方が危ないかもしれない」
「え?」
どういう意味なのか。
見てみ、と言わんばかりに、碧は顎でクイっと、車の後ろを指示した。
ルームミラーを覗くと、20メートルほど後方だろうか、同じようにハザードを焚いて路肩に停車する白い車があった。
セダンタイプのメルセデスベンツ。
円の中に星の輝くあのエンブレムは、車を知らずとも“ベンツ”と分かるというもんだ。
「あのメルセデス、寺を出てから、ずっとついてきてる」
「偶然?」
「にしては、スタリオンが止まるのとおんなじタイミングで、路肩に止まるってのは、ちょいと妙だねぇ」
「警察かヤクザ?」
「尾行の仕方が下手すぎる。 トーシロだよ」
澪の腕をつかんでいた手を離すと、再度ハンドルを握り、出発の準備を始めた。
「碧、まさか、あのメルセデスをずうっと見てたから、無言だったの?」
「君も、この世界で生き残りたかったら、もうちっと用心した方がいいよぉ」
「相棒にいわれちゃあ、面目ないわね。 引き締めるわ」
「いい心掛けだ」
ミラーと目視で、後続の車を確認。
ブレーキを解くと、碧の運転するスタリオンは京都御苑を離れ、丸太町通りを走り始めた。
チラリとルームミラーを見てみれば、あのメルセデスも同じように、あとをついてくる。
「子犬ならともかく、どこの馬の骨とも分からん奴に追い回されるってのは、いい気分じゃないねぇ」
「言えてるわね。 私も同じよ、碧。
ま、ワンちゃんだろうと、後追いかけられること自体、好きじゃないかな。 私の場合」
「へぇ~、意外だねぇ」
澪も、サイドミラーで確認した。
軽自動車を2台挟んだ後方。
白いメルセデスの姿がちらつく。
やはり、尾行されてる。
「で、どうするのよ」
「万に一つ、いや、億に一つの可能性がある。
次の河原町交差点を過ぎてもついてくるようなら、鴨川を超えたところで仕掛ける。 いいね?」
「うん」
そんなことを話している間に、車は交差点に差し掛かる。
河原町丸太町交差点。
読んで文字の通り、河原町通りと丸太町通り、交通量の多い道路が交わる場所だ。
交差点を右折し南下すれば、京都市役所や七条、第二京阪道路のインターへと向かう。
メルセデスが単に変な行動をとっているだけ、という線も限りなく薄くはあるが、否定できない。
この辺りは高級ホテルや飲食店が立ち並ぶ、観光客に人気のスポット。
歩道に目をやれば、楽しそうに歩くカップルや、キャリーケースをひく外国人の姿もある。
スタリオンは何も気づいていないように装って、交差点をそのまま直進。
―― メルセデスも同じだった。
右折レーンに入ることが無いどころか、曲がる素振りすら見せない。
金魚の糞の如く、ひたすらついてくる。
「なるほどねぇ……澪、仕掛けるよ!」
「オッケー!」
2人の目が鋭く、本気になった。
碧も澪も、眼前の道路に神経を集中させ、口をつぐんだ。
交差点を抜けてすぐ、スタリオンは橋に差し掛かった。
丸太町橋。
鴨川に架かるこの橋を渡るとすぐ、川端丸太町交差点だ。
南北に走る川端通と交わるここは、地下に京阪電車の神宮丸太町駅がある。
前方の信号は青。
スタリオンはゆっくりと、流れるまま、前の車に従って直進レーンを走っていく。
メルセデスにも変化はない。
橋上に出た途端、両端に並んでいたビルは途切れ、綺麗な午後の空が一面に広がってくる。
などと悠長に構えていた―― その刹那!
「……っ!」
碧がギアを入れ替え、ハンドルを思いっきり右に回した。
同時にアクセル全開!
前を走る車を追い越すどころか、右折レーン、中央線をも跨ぎ、反対車線に飛び出したではないか。
車内が一瞬、激しく揺れたところで、今度はより強めな左横への重力。
スタリオンが、前を走る車を逆走しながら追い越し、交差点でドリフト。
信号が変わるまで待っていた車列を割り込み、豪快にお尻を振りながら右折したのだ。
こんなことをして、巻き込まれた車はないのか。
これこそ、碧の計略だった。
彼女はハンドルを握りながら、左前方、川端通に沿って植えられた街路樹の間に目を凝らしていたのだ。
そう、歩行者信号機が点滅する瞬間。
交差点に車が一台もいなくなる時を狙って、碧は勝負に出たという訳なのだ。
狙いは大成功。
右折待ちをしていた車からクラクションを鳴らされ、通行人が何事かとぎょっとした目を向けたが、そんなことはお構いなし。
一方のメルセデスも、遅れながらもスタリオンと同じく、反対車線に出てスピードを上げた。
が――。
パーッ!!
すぐに川端通の信号が青に。
交差点に飛び込んだメルセデスは、発進し始めたタクシーと、あわや衝突。
急ブレーキをかけ、そのまま立ち往生してしまった。
ルームミラーで一部始終を見ていた澪は、白のメルセデスが段々米粒になっていくのを見送ってから、碧に声をかける。
「ナイスハンドリング」
「あんがと~」
追手が来ていないことが分かり、碧はゆっくりとアクセルから足を離した。
スタリオンの速度が、だんだんと落ち、制限速度まで戻っていった。
澪は大きくため息をひとつ。
「これではっきりしたわね。 あの車、私たちを尾行していたってのが」
「嘘をつかれるのは癪だけど、なんだか面白い展開にはなってきたねぇ。
いったん、あの寺について調べてみるとしますか。
といっても、私も瑞奉寺なんて初めて聞いたし、どこまでの情報が集まるか分からないけど」
すると、澪は言った。
「私の知り合いで、京都日報に勤めてる人がいるから、それとなく聞いてみるわ。
地元紙の記者なら、なにか分かるかも」
「なるほどねぇ。 じゃあ、よろしく頼むよ、澪。
私は、死んだって言う檀家の線から洗ってみるよ。
万念は、調べたら出てくるって大見得切ってたからね」
2人を乗せたスタリオンは、向きを西へと変えた。
寄り道は終わり。 天使突抜の事務所へと急ぐ。