14, 即席生物標本知識講座
PM 11:43
市営地下鉄烏丸線
京都国際会館行上り電車
澪を見送り、ひとり残された碧は、プロボックスを事務所裏にある駐車場に置くと、京都彩加大学へ向かうため地下鉄に乗り込んだ。
大学は、烏丸線北山駅が最寄だ。
車で行った方がいいのだろうが、あの大学の周辺は路地が多い上に、駐車場も少ない。
碧を乗せて、ホームを離れたのは、2022年にデビューしたばかりの20系という新型電車。
曲線を多用したスマートな車両が、轟音をあげて都の地下を疾走する。
ところが彼女は何を思ったのか、突然次の、烏丸御池駅で下車してしまったではないか。
「やっぱり、依頼内容と脅迫状が気になる」
改札を抜け、地上に出ると昼間の生ぬるい風がまとわりつく。
京都市役所にも近い、ここ御池通は、モダンな建物が立ち並び、街路樹の影が黒い石畳の上で揺れる、現代的なビル街だ。
碧はこの道を東へ、鴨川方面へ歩くことにした。
それは気分転換でもあり、頭に浮かんでいた疑問を整理するためでもあった。
「あの脅迫状、本当に環境テロリストが出したんだろうか。
一見すると、脅迫文の内容には理が通っている感じはするが、主張と脅迫内容が、あまりにもちぐはぐだ。
琵琶湖の環境破壊が、政治家の私腹を肥やすための嘘であると言っているのに、脅す材料が、標本の処分っていうのは、どう考えても小さすぎる。
連中は反環境保護の姿勢を示すためなら、人殺しすらやってしまうし、彼の言う通り、京都彩加大学は滋賀県と協定を結んでいることは、ホームページにも記されている程、大きな事実だ。
この協定破棄を要求して、拒否の代償に大学を爆破するというなら、まだわかる。 なのに、たかがナマズの標本を捨てろなんて、リスクが高すぎないか?」
疑問は、まだある。
「それに、仮に標本を捨てたとして、テロリスト側はどうやって確認する気なんだ?
彼らの思想に感化された、いわゆるローンウルフがいて、そいつを確認したとしても、だ。
そんなことで、日本や滋賀県の環境保護政策が変わることなんてない。
例え彼らの名をかたった愉快犯だったとしても、テロリズムという意味合いでは、とても中途半端だし、栃尾の言う通り、学生のイタズラにしては、込み入りすぎてる」
そう考えた時、碧には2つの可能性が出てきた。
一つは、脅迫状は本物で、大学研究室に、テロリストの価値観に共鳴する仲間が、本当にいる可能性だ。
そうなれば、今標本を運んでいる澪と栃尾の2人が、危険に晒される。
が、この説が本当なら、碧を任務から外すようなオーダーに、疑問が残る。
「彼はわざわざ標本を、澪と、彼女のロードスターで運ぶことを注文してきた。
命を狙われるなら、そんなことはしないはず。
後ろから私についてきて欲しいとか、そう言うことを伝えてもいいはずだ。
なにせ、大学に報告するほど、栃尾は、あの脅迫状は本物だと信じてるわけだからな。
第一、なんで命の危険があるって分かってるのに、小型のマツダ ロードスターを、わざわざ運搬に指定したんだ?
好きな車で、窓から偶然見かけたからだなんて……緊急事態に、自分の好みを前面に出すか?」
そんなことを考えている間に、気づけば鴨川まで来た。
川辺の遊歩道へ降りると、三条大橋へと、その歩みを止めることはない。
足を動かすことで、自分の脳を前転させ続けられるから。
しかし、この辺は問答を続けていても堂々となるだけだ。 いったんおいておこう。
と言っても、車にひとめぼれ説は限りなく薄いが。
もうひとつは、脅迫状は嘘で、自分たちに標本を運ばせるための小道具だったという説だ。
だとすれば、その目的はなんだ?
澪とロードスターに、意味があるのだろうか。
コトリバコのときのように、違う中身の荷物を運ばせるため?
否、標本は変な臭いがしたが、確かにアメリカナマズだった。
だが……。
「今思えば、あの標本の臭い…… あれって、本当にアンモニア?」
そのことに気づいた碧は、三条大橋に向かって駆け出し、丁度走ってきたタクシーを慌てて止めると、大急ぎで乗り込んだ。
向かった先は府立図書館。
早足で科学系の本が並ぶコーナーに向かうと、生物標本に関する書籍を数冊抜き取り、ひとり席を陣取る。
山積みの専門書を黙々と、急いで内容を頭の中に叩き込んでいく。
そう、碧は速読もできる。 彼女にできないことは、もはや銃を撃つことぐらいではないか?
知らんけど。
「やっぱり……」
10分ほどの格闘で、全ての本に目を通し終えた頃には、自らの疑問が解決するとともに、騙されたと怒りがふつふつと湧き出していた。
「あんのやろう~、こっちが標本の知識無いことを知ってて……」
栃尾は、標本を見せた際に漂ってきた臭いに生息域固有の汚された水の臭いだと言っていたが、そもそも液浸標本、つまり瓶に入ったホルマリン漬けの標本を作る時点で、魚は全身を脱水し固定させるためにエタノールやホルマリンに浸されるのだ。
その際の濃度は、エタノールだと腐敗状況などによるが70%~98%希釈、ホルマリンだと10%希釈で、両者とも水溶液は刺激臭を有しているが、アンモニアのそれとは、刺激の種類が違う。
更に洗浄の際には、体表の粘膜を綺麗に洗い流すのだという。
不十分だと、ホルマリンと粘膜が接着し、その魚の本来の色彩が分からなくなるのだそうだ。
ただ、それだけ水を洗い流していても、固定の際、魚の内部にたまっていた水の臭いが漏れることはあるのだが、その際にエタノールを捨てて、再度新しい溶液に浸す方法もあるのだという。
つまり、魚の臭いが漏れ出すことは、ありえないのである。
そのことに気づくと、標本に抱いていた、もうひとつの違和感に気づいた。
あのアメリカナマズは、釣り上げた翌日に持ち込まれたというのに、非常に綺麗な状態ではなかったか。
標本の魚も、寿司屋に並ぶ魚同様、鮮度が命だ。
それは美味だからというわけではなく、人間同様、死後硬直が始まってしまうからだ。
海岸や川岸に、魚が打ち上げられて死んでいるところを、目にしたことがある人も少なくないだろう。
魚は酸欠の場合、口と鰓蓋を大きく開けて死ぬ。
するとそこから、魚は死後硬直が始まり、口も鰓も、閉じることが困難になってしまう。
そうなると、魚の正確な体長測定ができなくなってしまい、例え標本にしても、学術的な価値が大きく低下してしまうのである。
それを防ぐためにも、標本の魚は死後速やかに標本にすることが望ましく、それができない場合は、冷凍処理などで腐敗と死後硬直を遅らせる必要があるのだという。
「栃尾の話だと、あのアメリカナマズを釣り上げた人は、その後も釣りを楽しみ、翌日の昼になって、魚を研究室に持ち込んできたという。
そんなことしている間に、死後硬直は確実に始まっていたはずだ。
氷入りのクーラーバックを、わざわざ用意していたとも考えにくい」
そうすると、あのアメリカナマズは、死後すぐに標本にされたと考える方が普通だ。
持ち込まれた魚じゃない。
「あの標本は、大学側がずっと前に手に入れた標本だったんだ!」
それに運び方も、本を読むと、栃尾のやり方はあまりにも不適当であることが分かる。
学術的な液浸標本の運び方として、例に挙げられていたのは、20%希釈したアルコールで湿らせたガーゼで標本を包み、袋で包んでパッキング。 それを緩衝材の入った箱に入れるというもの。
内部のアルコールが蒸発しないようにという配慮だという。
ところがどうだろうか。
栃尾の標本は、そんな処理などせず、裸のままスポンジの緩衝材が入ったアダッシュケースに入っていた。
国の研究機関に提出するというのに、である。
「すべてはフェイク。
本当の目的は、標本と一緒に入っていた、アンモニア臭のする何かを、滋賀県に運ぶため。
栃尾は、その何かをカモフラージュするために、自分の大学からアメリカナマズの標本を盗み、環境テロリストからの脅迫状を偽装して、私たちに接触したんだ」
でも――
「なんで、そんなことを?
だいたい、どうして私たちに依頼を?」




