3. Jターン
「こんなとこかな」
ロードスターのエンジンが温まる中、運転席に座る碧は、インパネ中央部― ちょうど、エアコン温度調節ツマミの下にある、電動ルーフのボタンに手をかけながら、助手席の澪にレクチャーを始めた。
「今から教えるのは、Jターンって言って、車を素早く方向転換させる方法。 いわゆるスピン・ターンってやつ。
文字通り、アルファベットのJのように車体を滑らせて、車をUターンさせるんだ。 慣れれば狭い2車線道路でも簡単にできるよ」
座席背後から伸びてきた屋根が、2人の頭上を覆い、フロントガラスと接続されたことで、さっきまでオープンカーだったロードスターは、ハードトップと呼ばれる、一般的なスポーツカーと同じような見た目となった。
碧は、これからの練習で、万が一事故を起こした時に備えて、このような形にしたのだ。
さっそく澪の愛車のハンドルとサイドブレーキに、ゆっくりと手をかける。
「まず、右手をハンドルの12時の位置に置いて、左手をサイドブレーキに。
この時、速度は大体50キロ前後が理想よ。 遅すぎると成功しないし、逆に早すぎると、横転する危険があるから。
そして、走りながらサイドブレーキを引っ張って、後輪をロックさせたら、ハンドルをわずかに右に回した後、一気に左方向へ、6時の位置まで回す。
そうすると、タイヤが滑って車が回転するから、180度回転したところで、サイドブレーキを戻し、アクセルを踏み込む。
急加速したい気持ちになるかもだけど、アクセルペダルは、めいっぱい踏み込んじゃダメ。 ゆっくりと発進する感覚で、アクセルを踏む。
これで、Jターンは成功よ」
「なるほど……」
「まあ、言葉で聞いても、いまいちピンとは来ないでしょ?」
澪は、頷いた。
ここまで説明は聞いたが、正直、どういう感覚なのか、澪にはさっぱり。
やはりドラテクは、実践あるのみ。
碧は、困惑する澪を理解して微笑むと、実践することした。
「じゃ、やってみるわね」
「お願いします」
碧はロードスターのギアを、パーキングからドライブへ入れると、ハンドルを12時の位置で持ちながら、アクセルをゆっくり踏み込んだ。
エンジンを唸らせ速度があがり、目の前に三角コーンが迫る。
時速は53キロ。
「ここで ――っ!」
碧は素早く、サイドブレーキを引っ張り、ハンドルを素早く切ってスピンターン。
車内に横殴りのGがかかり、タイヤが悲鳴を上げる。
視界がぐるりと回ると、目の前にスタート地点停まる、碧のスタリオンとキャリアカーが見えた。
そこからサイドブレーキ戻し、ゆっくりアクセルを踏み込んでいく。
一瞬のことで、澪は呆気に取られていたが、当の本人は涼しい顔。
「これを使えば、目の前の道をふさがれていたり、後ろを追いかける車と差をつける時なんかに、使える。
私が運び屋を始めたころ、最初に覚えたテクニックさ」
「へぇ~」
「ま、とにかく、習うより慣れよ、だよ。 一旦やってみ?」
そう言って、碧は車をスタート位置に戻すと、澪と入れ替わり、助手席へ。
一方の澪は、運転席でハンドルを握るが、その腕には力がはいっている。
自分の愛車で、こんなに緊張するのは初めてだろう。
落ち着かせるために、大きく息を吐いた。
「大丈夫だよ、澪。 失敗しても死ぬわけじゃない。
逆に力みすぎる方が危ないからさ。
先ずはゆっくり、カッコつけようとせずに」
「銃と一緒ね……わかった」
碧の優しい言葉で、澪の神経はいくらかほぐれたようだ。
いつもの銃の練習、慣れたことをしているときの気持ちを思い出す。
ハンドルにかかっていた、余計な力はほぐれ、澪は今度は小さく、ふうっと息を吐きだすと、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。
だんだんと加速していくロードスター。
三角コーンが迫り、時速は50キロ。
「ここで……」
サイドブレーキを引っ張り、ハンドルを逆向きに――
「うわっ!」
切りすぎた。
ロードスターは、本来向く方法とは逆にスピンして停車。
目の前に、三角コーンが鎮座していた。
「やってもうた……」
「大丈夫、切り替えて次いこ」
ふうっと、事故を免れた安堵の息を吐きだすと、もう一度と、車を再び走らせてスタート地点へ。
先ほどと同じく、50キロ前後のスピードでロードスターを走らせると、サイドブレーキを引いて、ハンドルを切った。
今度は一瞬だけ逆向きに切ると、反対側へ一気に切り込んだ。
ロードスターはタイヤをスキールさせて、転回したが、大きく回りすぎ、コースを逸脱。
「あーもう、難しすぎっ!」
「そんなことないよ。 むしろ、いい線いってるって。
二回目でしっかり転回できるなんて、上出来も上出来」
「ありがとう、碧」
「さ、練習あるのみだよ。
タイヤの挙動からして、あと30分ぐらいしたら、切り上げなきゃいけないけど、それまで、できるとこまでトライしよう!」
「そうね…… 行くわ!」
碧の明るい励ましは、澪のチャレンジ精神を突き動かすのに、強くいい方向へと働いた。
その後も彼女は、何度も何度も、ハンドルを切り、サイドブレーキを引いて、Jターンを自分のモノにしようと、挑み続ける。
失敗すると、周囲の状況や自分の手元を見て、うんうんと頷き、またスタート地点に戻るを繰り返す。
真剣な眼差しに、無駄をそぎ落としていくハンドルとブレーキさばき。
30分と経っていない時間で、1車線はまだ無理だろうが、大きな道路なら、確実にキメれると思うまでに、気づけば上達していた。
徐々に車の挙動も安定し、しっかりと転回できるようになる澪を見て、碧は舌を巻いた。
(驚いたな。 こんな短期間にJターンをおおかたマスターするなんて…… やっぱり、相棒にした私の眼に狂いは無かったってことね。
そろそろ、マニュアル車やトラックの運転テクニックをあげていくことにも、チャレンジさせた方がいいかもしれないな。
私も、澪に負けないよう、銃の腕前、ちゃんと練習しなきゃなぁ~)
そんなことを思いながら、ロードスターがスタート地点に戻り、また三角コーンに向かって加速し始めた―― その時だ!
「うっ!」
突然澪が急ブレーキを踏み込み、車体と共に2人の身体も大きく前へのけぞった。
サイドブレーキじゃない、足元のフットブレーキだ。
ここにきて、彼女が初歩的なミスを犯すとは考えにくい。
「どったの?」
鈍く首をかしげる碧とは真逆に、眉をしかめ、周囲を見回した彼女。
すると澪は、彼女も予想しなかった返事をしたのだ。
「誰かが、こっちを見てた気がして」
「サーキットの関係者じゃないの?」
「いや。 そんなんじゃない。
生ぬるい粘膜で包まれたような、全身を芋虫がのたうち回るような、不快でゲスな視線。
殺し屋時代、ターゲットに何度も向けられた、そう…… あれは、獣の眼差しよ」
「ええっ?」
穏やかじゃない。
2人は同時に車を降りると、辺りをきょろきょろと見渡した。
広い駐車場に、雑木林。 宇治市内とサーキットを結ぶ山間道路に車の影はなく、誰かがいるとは思えない。
それでも、澪のシリアスな表情は消えなかった。
「誰もいないけど?」
「ええ」
「そんな変態がいるとして、もしかしたら、どこかから覗いてるのかもしれんな。
……あの雑木林、覗いてみるか?」
澪は、相棒の提案に、少し含み笑いをすると、首を横に振るのだった。
碧もそう、慣れない鍛錬で彼女が疲れたのかもとも、感じているのも事実。
「多分、私の思い違いよ。 慣れない運転し過ぎで、疲れたんだと思う」
「そうね…… ロードスターのタイヤも、削れてきてる。 今日はこれくらいにしましょうか」
目を閉じ、再び碧の顔を見た澪の表情からは、先ほどまでの苦しく深刻なものは消えていた。




