最終話『地獄』
少女「4(シ)の一目賭け、掛け金の倍率は三十六倍。先ほどまでの負けけの分を考えたとしても相当な金額が私たちの手元に残ります」
女「…………」
少女「なんて、浅はかな夢を見てしまいました」
女「本当に、申し訳ないことをしたと思うわ。……本当に」
少女「…………」
女「当たると、思っていたのよ。真剣にね。私と、エリスの二人でなら。エリスが必死に集めてくれたチップを賭けたなら、百廿パーセントの確率で当たるって」
女「私が、私が信じ切れていなかったのね。貴方を、私を、私たちの4(シ)を。あれだけ威勢よく啖呵を切ったというのに、出た目は3。悲惨の3よ。何かが届かなかったのよ。そして、たぶん、それは私」
女「ごめんなさいね、全てをおじゃんにして。何もかもを台無しにして」
少女「…………」
女「…………」
少女「ごめんなさい、申し訳ない、すみません。……いつまで謝罪を続けるつもりですか? もうずっとその話ばかり。そんな事をして何になると言うのですか?」
女「…………」
少女「ようやく、初めて私の名前を呼んで下さいましたね、リカさん。でも、どうしてこんな時なんですか? もっと、良い機会がいっぱいありましたよね、どうしてそんな顔で呼ぶのですか? もっと……、」
女「…………」
少女「あはは。でも、お生憎さまです。エリス。エリス。私のこの名前は源氏名に過ぎません。私のなりが異邦人みたいだから、鴎外の『舞姫』から取った、うその名前なんです」
女「エリ、ス」
少女「だから、」
少女「だから、私の本当の名前を聞いて下さいよ。聞かれたら、笑って教えてあげます。私の本当の名前。だから……、だから、もっと楽しい話をしませんか。こんな話、もう止めませんか」
女「…………」
少女「リカ、さん?」
女「……そうね、エリス。人に謝罪をするのは額を地にこすり付けるのが第一だったわね。ああ、それに、これは謝る時の口調ではないわね。ごめんなさい」
少女「ちょっと、人の話を聞いていますか。私の言葉、通じていますか? 大丈夫ですか、本当に?」
女「この度は、本当にすみませんでした。この通りです」
少女「…………」
女「許して欲しいなんて虫の良いことは言いません。どうか、私を恨んで下さい」
少女「止めて下さい!」
女「…………」
少女「止めて下さいよ」
女「エリス、それは無理です。貴方が止めても、私は貴方に謝らなければいけませんから」
少女「何ですかその気持ち悪い口調。そんな言葉遣ったところで私が喜ぶと思っているんですか? そのカッコなんて意味が分かりません。地べたに頭を打ちつけたところで私が興がると思っているんですか?
少女「ねえ、リカさん。リカさん。少し、ショックが大き過ぎただけですよね。じきに元のリカさんに戻ってくれますよね。そうですよね。そうだと言ってくださいよ!」
女「……よ」
少女「口調、戻って、それに、格好も……」
女「無理なのよ!」
少女「ど、どうして」
女「無理なものは、無理なのよ」
少女「どうして!」
女「だってこの『旅』は、私たちが紡いできたこの『旅』は、もう終わりだもの」
少女「へ……」
女「世界の果てへ向かうには、あとほんの少し。でも、そのほんの少しのためのお金が足りなさ過ぎるわ。だから、この旅はここで終わり。私たちが一緒に群れる理由はもう、無いわ」
少女「それは、」
女「エリス。私たち二人は、この関係性は、もう、破綻しているのよ」
少女「どうしてですか……。お金だったら、また稼げば良いじゃないですか。股を開く? 良いですよ。今度は私も付き合ってあげます。どんなに嫌な事をされたって、我慢します。どれほど汚されたって構いません。きっと、何時か、辿りつけますよ。絶対」
少女「だから、だから……、」
女「……で、一体何時まで待つつもり? 何千回、何万回股を開くつもり? たぶん私たちが二三回くらいは人生を繰り返さないとそのくらいは貯まらないと思うけれど」
少女「なら、人の倍、三倍頑張れば……」
女「あのね、エリス。謝罪をしている身で大変失礼な話だけど、何か勘違いしているようだから、一つ聞いておくわ」
少女「なんですか?」
女「エリス、貴方。……どうしてまだ生きているの?」
少女「それは、当然、」
女「もう一度聞くわ。どうしてまだこの世なんかに未練たらしくしがみついているの? 何故今私の目の前にいるエリスは死んでいないの? 始めてあった時、そういう子じゃなかったはずでしょ。死にたいから私と共に旅に出た。あの子はこの旅がおじゃんになれば、すぐに別の死に方を探したでしょうね」
女「馬鹿なことを言わせないで頂戴。一体何時まで、私と一緒に果てを目指すなんて甘い夢に酔っているの? それはもう、終ったのよ。私が、貴方の目の前で、終らせたのよ」
少女「で、ですから、楽に死ぬ為には、世界の果てへと行く必要が、」
女「そうね。楽なら構わないわ、本当に楽ならね」
女「でも、楽ではないはずよ。叶えられない目標の為に生きながらえて、苦しみながらお金を稼ぎ続ける。これが苦行以外の何だって言うの? どんな苦痛も厭わずに走り続ける。そんなの、ハムスターホイールに放り込まれたハムスターか、目の前に人参をぶら下げられた馬みたいなものじゃない。そんなのは、人間にとって、どんな拷問よりも苦痛よ」
少女「それは、そうですが」
女「どんなに惨くて苦しい死に方でも、そうやって生き永らえる苦痛には及ばないわ」
少女「…………」
女「…………」
少女「り、リカさんの言っていることは、全部、全部、正しいんです。でも、でも、…………ううっ、ぐすっ」
女「頭の良い貴方が、どれだけ屁理屈を捏ねようとも、これは事実よ。どうしても捻じ曲がらないわ」
少女「でも、私は、私は、リカさんと……。うええええん」
女「エリス……、」
女「ああ、もう。もっと物分りの良い子だと思っていたのに、馬鹿な子ね。それに駄々っ子だし。全く、手が掛かるわね」
少女「しょ、そんにゃこと、言わないで下さいよ。駄々なんて、言ってないじゃないですか。ただ、まだ、まだ旅を続けましょうって、それだけのことじゃないですか」
女「それを駄々って言うのよ、エリス。……でも、なぜかしら、最後まで、完全に突き放すつもりだったのに、」
少女「…………?」
女「エリス。あなたって、どうしてこんなに可愛いのかしらね。同性の泣き顔が、こんなにも私の庇護欲を誘うなんて、尋常じゃないわよ。同じ女として、嫉妬しちゃうわ」
女「こっちへ来なさい、エリス。鼻水と涙で顔がひどいことになっているわよ。ほら、拭いてあげるから」
少女「リカさん。……リカさん!」
女「……エリス」
少女「ううう、えぐっ。うああああ」
女「はいはい。よしよし。良い子ね。……こうして抱きしめていると、年相応ね。あっ、ちょっと、鼻水を私の一張羅にねじらないで頂戴!」
少女「ふ、ふふふ、リカさん、リカさん。ふふふふふ」
少女「で、またそのふざけた体勢なんですね」
女「歴史と伝統あるジャパニーズ・ドゲザ・スタイルよ。悪い?」
少女「そりゃ悪い事をしたからそうするんでしょうに……。先ほどの変な口調は?」
女「不評だったし、自分でも気持ち悪いと思ったから止めたわ」
少女「それが良いと思います。リカさん。さあ、地面に蹲っていないで、私の手を取ってください。そうです。それでいいんです」
女「……はあ。そうね、この駄々っ子には最後まで、いいえ、最後だけは、私が責任を持って面倒を見なければいけないわね」
少女「リカ、さん?」
女「今の貴方を一人にすると、ずっと立ち止まったまま、生きているのか死んでいるのかも分からない、『旅』の前の絶望に逆戻りするだけ。違うかしら?」
少女「違いません。……だから、私はリカさんとまた、」
女「こんなもので償いになるとは思わないけれど、私たちの、貴方の旅をご破算にしたけじめとして、私は、エリス、貴方の『旅』を、その未練を、終らせてあげないといけないわ」
少女「『旅』を、終らせる? 何言っているんですか、『旅』は、まだ」
女「もう私の旅も、私たちの旅もとっくに終っているのよ。ただ、まだ貴方は貴方の『旅』を終わらせていない。いいえ、とっくに終っているものを、なんとか終っていないと思い込もうとしている」
少女「嘘です。まだ終っていません。まだやり直せます。何故なら……、」
女「何故なら、前は上手くいったから?」
少女「そうです。前は、途中まで上手くいったじゃないですか。だから、次だって、きっと」
女「上手く行きっこないわ。だって、前は、私たちは信頼し合えていたわ。お互いに、即席コンビにしては存外最高の相棒なのかも、と思っていたのではないかしら? 少なくとも私はそうよ。貴方の事、悪くはないなって思ってた。でも、今は違う」
少女「そんな、私は、リカさんを……」
女「そうやって嘘を付くこと自体、信頼していないことの表れじゃないかしら」
女「だって、エリス。貴方、私が何を言おうとしているか、全然分かっていないじゃない。もしくは、分かっているのに、分かりたくないだけかしら」
女「言っておくけれど、私は今のエリスの一切を信用できないわ。でも、それ以上に、私は私が信用ならない。貴方の期待を、夢を、未来を、全て裏切ってしまった自分がね」
少女「…………」
女「続けるわね。私は、貴方の全てを壊したわ。これはもう、どうしても償いきれないほどの罪。だから、私は貴方の望みを出来る限り叶える義務がある」
少女「なら、私とまた一緒に旅に、『旅』に……」
女「そう言われたら、私は首を縦に振らざるをえないから、貴方に頼まれる前に言っておくわね。エリス、貴方に明日まで時間を与えるわ。しっかり悩みなさい。しっかり苦しみなさい。しっかり考えなさい。『旅』を諦めて、死にたいと思うなら、その方法を、現実から逃げたければ、現実を見ずに済むような現実的な方法を、無理だと思うけど、『旅』を続けたいのなら、現実的な『旅』の方法をね」
少女「……出来ません。そんなこと、出来ませんよ」
女「なら、明日、私は貴方を殺すわ。もし私が甘ちゃんで、貴方を殺し損ねるのなら、貴方から全てを奪った元凶である私が消えるわ。私は、夢の残り香。もう、貴方にとって害にしかならないもの」
少女「止めて下さい。そんなこと、言わないでください」
女「大丈夫よ。安心して良いわ。エリス、貴方が自殺の一つもできない骨なしチキンハートでも、貴方のそこそこ幸せな死は、私が約束するわ。今は空手だから、この手で逝かせてあげる。その可愛い首に、私の白くて長い指をかけて。出来る限り、苦痛を感じないように、気持ち良く逝けるように」
少女「そんなことしても、リカさんは一人じゃないですか。リカさんだって、自殺を諦めたくちじゃないですか! リカさんは、どうするんですか!」
女「そうね、下の処理は私がしておくから、大丈夫。ふふ、こんな時に私の心配? なかなかに頭がお花畑ね。でも杞憂よ。貴方を殺したあとすぐ、どこかから適当に刃物でも調達して、自分の腸でも覗いてみるわ」
少女「リカさんには、出来ませんよ。だって、出来たら、とっくにしているじゃないですか。リカさんにそんなこと、絶対に出来ません」
女「出来るわ。あの時とは違う。もうそれしか選択肢が無いもの。選ぶ余裕なんて、もう無いのよ。確かに、信用は出来ないかもしれないけれど、これだけは約束できるわ。貴方を殺すときは、きちんと優しく殺してあげるから。二度とこの世界に戻ってこれないように」
少女「そんなの、そんなの、おかしいですよ。何で、どうして自分の事を一番に考えないんですか……」
少女「『死に損ないは宙を浮く』最終話 『地獄』」
女「エリス、今日は、どこで寝るの。野宿かしら。それとも、親切で理解のある欲望に忠実な独り身の男の人を探したほうがいいのかしら。宿銭は私が何とかするから、心配しなくて良いわ」
少女「……そこにある空き地にしませんか? 今日はもう、そういったことを考えたくないんです」
女「ええ、分かったわ。でも、明日よ。明日には必ず、貴方の『旅』を終らせるわ」
少女「……分かっていますよ。ねえ、リカさん。お酒、持っていませんか?」
女「お酒?」
少女「ウイスキー、有りますよね。結構埃くさそうな奴が」
女「よく知っているわね。いいでしょ。これ、なかなかに上等のものなのよ」
少女「そりゃあ、リカさんの性格を知っていれば、です」
女「グラスもコップもないけど、どうするの?」
少女「そのままラッパで」
女「止めなさい。これは貴方のような餓鬼が遊びで手を出せる代物ではないわよ」
少女「なんですか? さっき言いましたよね。私の望みは出来るだけ叶えるって」
女「……分かったわよ」
場面・朝
少女「あ、頭がぐわんぐわんします。……うう、気持ち悪いです」
女「私も驚いているわ。あれだけ呷っておいて、よくそんなもので済んだわね」
少女「元から仕事の付き合いで飲むことは多かったんです。だから、肝臓が鍛えられたんでしょうね」
女「それにしても……、」
少女「リカさん、そのクマは? もしかして、寝ていないんですか」
女「こんな所に瑞々しい婦女子が二人、無防備に寝ていたらどうなるかくらいは想像がつくでしょう。そうならないように見張りが必要。そういうことよ」
少女「リカさん……?」
女「さて、良い目覚めとはとても言えそうに無いようだけれど、早速聞かせてもらおうかしら。貴方の答えを」
少女「答え?」
女「エリス、貴方お酒で嫌な現実だけでなく、昨日の記憶まで吹っ飛ばしたの? まあ、あれだけ呑んでいたから仕方が無いとは思うけれども」
少女「…………?」
女「仕方ないわね。改めて説明するわ」
少女「ま、待って下さい。今思い出します思い出しました。答え、ですね。なるほど思い出しました。ですので、昨日のあの気分が陰鬱になるような説明はしなくてもいいです。しないで下さい」
女「思い出した? なら良かったわ。なら、答えを早くお聞かせ願えるかしら」
少女「分かってます、分かってます。答えですね。えーと、答えですね」
女「絶対この子今必死になって考えているわね。全く、期限的には完全にアウトだけど、一応ギリギリで許可してあげるわ」
少女「……まず、リカさんの提案は、結構魅力的でした」
女「それはそうよね。だって、苦痛は私が責任を持って減らしてあげるもの。私が思い付く中で、果てからの飛び降りに次ぐ、二番目に楽な死に方よ」
少女「そうですね。そうだと思います。いつもなら是も非も無く頷いてしまうかもしれません。……でも、今はなんか嫌なんです。何ででしょうね」
女「どうしてよ。良いじゃない。結構ハッピーな死に方よ。誰かの腕に抱かれながら死ぬなんて、このご時勢なかなかないわよ。まあ、その腕が殺したんだけど。嫌なんて、訳が分からないわ」
少女「私もです。訳が分かりません」
少女「……上手く説明できないですが、そこを何とか頑張って説明するなら……、あ、ほら、死後の下の処理があるじゃないですか。あれ、リカさんがしてくれるんですよね」
女「そうよ」
少女「その時に、やっぱり、色々と晒す事になるじゃないですか、汚いものとか、いろいろ。何か嫌なんですよ。リカさんが相手だと」
女「そんなの、他の人が相手でも一緒じゃない」
少女「あれ、そうですね。たしかに、他の人が相手なのも、とっても嫌です。ですが、……でも、リカさん相手の嫌と、何か違うんです。全然違うんです」
女「私の方が、嫌って言う事? 私の方が嫌いってこと?」
少女「そうじゃ、そうじゃないんです。何と言うか、何と言いますか……。ええと、ごめんなさい、説明になっていませんよね。これじゃあ、意味分かんないですよね」
女「そうね。全然理解出来ないわ」
少女「ですよね。私も分かんないです」
女「でも、言いたいことはちょっと掴めた気がするわ」
少女「そうですか」
女「で、私に殺されたくないなら、何か別の案があるのかしら?」
少女「ああ、それは……。ううううう」
女「ど、どうしたのよ」
少女「ちょっと、気分悪くて、吐きそうです」
女「昨日あれだけ呑むからよ。自業自得ね。ほら、適当なところで吐きなさい。背中さすってあげるから」
少女「ありがとうございます。ううっ……、限界です」
女「それじゃあ、改めて、貴方の答えを聞かせてくれる?」
少女「良いですよ。ですが、その前に、また、それを寄越してください」
女「昨日のウイスキー? エリス、まだ懲りていないの?」
少女「確かに、ひどい気分です。でも、アルコールがなければ、もう持たないんです。心が、精神が。今は、この答えを言う時だけは、飲ませて下さい。お願いします」
女「……分かったわ」
少女「……んくっ、んくっ。……ふう。呂律、大丈夫ですよね。私、酔ってもひどくなりにくいんです。そこは結構自信があるんですよね」
女「さっきあれだけ二日酔いに苦しんでいたじゃない。それに足腰がフラフラよ。本当に大丈夫かしら」
少女「呂律さえ、言葉さえ大丈夫なら、答えは告げられます」
女「そう」
少女「では、言いましょうか。私の答えは、」
女「答えは?」
少女「私は、やっぱり、『旅』を続けたいです。リカさんと二人で」
女「…………」
女「…………」
女「は?」
少女「ねえ、リカさん。私はまだ、終ったなんて、認めていませんよ」
女「だから、それは貴方がそう思っているだけで……、いえ、まさか?」
少女「ええ。その、まさかです」
女「現実的なプランが、浮かんだと言うの?」
少女「さあ、どうでしょう」
女「どういうことよ。もったいぶらないで教えて頂戴酔っ払い」
少女「現実的か、絵空事か、微妙なところなので」
女「いいわ。教えなさい」
少女「分かりました。では、まずこれを」
女「これは、これだけのお金、どこから?」
少女「これですか? これは、カジノからくすねてきました。リカさんがオールインと言ったとき、私は外れたときの事を考えてチップの一部を懐に放り込んでおきました。信じていなかった訳ではないんですが、結局、当たらなかったときのリスク分散が出来ましたし」
女「なるほどね。材料としてはとても優秀よ。でも、これじゃ、足りないわ。『果て』へ行くためには全く足りないわ」
少女「いいえ、足りますよ」
女「何言ってるの? 私より先に耄碌しないでくれないかしら」
少女「耄碌しているのはリカさんの方では? どうして、お金の掛かる空路しか見えないんですか。ずっとずっと安上がりな方法、あるじゃないですか」
女「何、言ってるの?」
少女「海路で行きましょう。なあに、今まで渡ろうとしている人が全て戻ってこないだけです。恐れるに足りません」
女「世界の果ては崖になっているわ。その崖から海の水が滝のように流れ落ちる。その影響で、海流、気候に激しい変化があるわ。特に、激しい海流の影響をもろに受ける海路は論外よ。お願いよ。馬鹿なことは止めて」
少女「4(シ)に首っ丈」
女「それ、は……?」
少女「リカさんはあの時、4(シ)を恐れてはいけないと言ってくださいました」
女「今回は、ルーレットなんかと訳が違うのよ、難易度だって格段に違うわ」
少女「それでも、結局は運試しです。確率がいくら低かろうと、その中に一つでも私たちの4(シ)があるのなら、それを当てれば良いだけの話ではありませんか?」
女「…………」
少女「私は、外しません。かならず4(シ)に当ててみせます」
女「怖くは、無いの?」
少女「あの時とは逆ですね。でも、私はリカさんほど強い人間じゃありません。ですから、お酒の力を借りてでしか、リカさんみたいに無謀を承知の航海なんて決断できません」
女「それは、そうよ。でも、」
少女「私の望みを叶えてくれるんですよね。なら、叶えてくださいよ。『旅』を終らせないって、私の望みを」
女「…………分かったわよ」
少女「ふふ」
女「『旅』を、再開するわ。私とエリス、二人の旅を」
場面転換・船
少女「あれが、世界の果てと陸続きの島ですか?」
女「そうよ、あの大きな島よ」
少女「意外と、近くにありますね」
女「それは遠近感よ。ただあの島が大きいだけ」
少女「ですが、時間はかなり経っているので、結構近くにはなったと思います」
女「確かに、そうね。なんだか平和すぎて怖いわね」
暗転
女「あ、雨?」
少女「風も出てきました。波も高い。もしかして、嵐ですか?」
女「まるで待ち受けていたかのようね。でも、」
少女「嘘、風の強さ、留まるところを知らないじゃないですか!」
女「もう無理よ! この程度の船、波の一つで飲まれるわ!」
少女「だだだ、大丈夫です。私たち、一回似たような状況にあっているじゃないですか。その上、今回はそれを見越して、浮き輪が」
女「凄い波が来るわ!」
少女「リカさん、私とこの浮き輪に捕まってください!」
無常にも波が何かを飲み込んだ音
場面転換・島
少女「リカさん、リカさん」
女「……ん? あれ、私、生きてるわね」
少女「この程度で死ぬわけ無いじゃないですか。私たちの生命力は、海で溺れて死ぬようなゴキブリなんて目じゃありませんからね」
女「そ、そうね。なかなかしぶとくなったものね、私たち」
少女「そうですよ。しぶとくなったんです。簡単には死にませんよ」
女「……コンパスを持っている私が先導するわ」
誰かの腹の虫が不平を叫ぶ間の抜けた音
少女「ごめんなさい」
女「いいのよ。食料のほとんどは流されてしまったけれど、無いわけじゃない。とりあえずは保存食、なくなったらこの島で現地調達、ね」
少女「現地調達、ですか」
女「もしここが、世界の果ての島だったとしたら、面積はかなり広大よ。保存食だけでは、限界が来るわ。それに、今は森だけれど、山を越えれば一気に荒地になるわ。そうなると、現地調達すら叶わなくなるかもしれないわね」
少女「わ、分かりました。大事に食べます」
誰かの腹の虫が不平を叫ぶ間の抜けた音
少女「い、頂きます」
女「召し上がれ」
少女「…………」
女「…………」
少女「お、おげえええ、おろろろ……」
女「まあ、いきなりカエルは厳しかったかしら。でも、カエルはまだまだ食べやすい方よ。その好き嫌いは、将来、まあ具体的に言うと一週間ぐらい後に苦労するわ」
少女「分かってます。でも、カエルだーって思うと、体が半ば反射的に拒否してしまって。……いつも良い物を食べ過ぎていたんでしょうか? 私、ちょっと美食偏食のきらいもありましたし」
女「その金持ちっぽい言い草は私がこの島の面積のように寛大な心を持っていなければ許さなかったわ。庶民を馬鹿にすると痛い目を見るわよ」
少女「あ、ごめんなさい。ですが、リカさんはどうして抵抗無く昆虫食とか爬虫類食が出来るんですか。しかも、いつもの健啖家っぷりはどこへやら、私と同じくらいの小食になっていますし」
女「謝るなら、私が食い意地張りすぎじゃないのかとか訝しむような視線をやめて頂戴。卑しいのは否定しないけれど、でも、生きる為には仕方ない、って割り切れるのは大きいわね。だから食べる量も減らせるし、何だって食べれるのよ」
少女「そうですか。なら、やっぱり、私はそこまでして生きたくはないんでしょうね」
女「確かにね。死ぬ為に生きる。死ぬ為に死ねない。なかなか難儀なものね、人間って。雁字搦めで、どうにもならないもの」
少女「でも、私たちは、もう少しで、死ねるんです」
女「そうね、あと少しで私たちの夢が叶うわ」
少女「ええ。リカさん、あと少し、頑張りましょう」
女「そうね。あと少しの辛抱、ね」
少女「大丈夫ですか、リカさん!」
女「……大丈夫よ」
少女「大丈夫なわけありませんよ、第一に、顔色がおかしいです。死人にどんどん近づいています」
女「目の錯覚よ」
少女「熱だってひどいです。額に触れた手が火傷しそうなくらいでしたよ!」
女「手の錯覚よ」
少女「呼吸だって荒いじゃないですか!」
女「発情しているだけよ」
少女「ならとっとと自分で処理してください!」
女「エリス、貴方。自分が見てる前でしろ、というの? 貴方もなかなか好き者ね。いいわ。貴方の望みなら仕方ないわね」
少女「貴方は少し黙ってて下さい! 分かりますか、リカさん。貴方は、いま、病気なんです。ドゥーユーアンダスタン?」
女「ぱーどぅん?」
少女「どぅー! ゆー! あんだ! すたん?」
女「Sorry, I can't understand English」
少女「英語出来るじゃないですか! まったく、私を馬鹿にしていますね。病人の分際で私をすっごく馬鹿にしていますね!」
女「By the way, I like money」
少女「……この人、この場で始末したほうが良いんじゃないかと思ってきました」
女「……とりあえず、私に関しては心配しないで、そういうことよ」
少女「ううん。……はあ。まあ、そこまで言われては仕方ありません。分かりましたよ」
少女「リカさん?」
女「ごめんなさい。もう、もう限界が来たようね。こんなに早くとは想定していなかったわ。不甲斐ないわね。この死と隣り合わせの旅をずっと生き残ってきた自分のタフさ、かなり信用してきたけれど、過信だったようね」
少女「そんなことはありませんよ。まだ限界なんかじゃありません。リカさんだって、まだまだ死ぬつもりは無いんでしょう?」
少女「辿りつければ勝ちなんです。燃料は片道分だけで良いんです。どんなに傷を負っても、どんな病に罹っても、世界の果てへ辿りつきさえすれば私たちは勝てるんです。この憎たらしい世界と、笑顔でおさらば出来るんです。だから、それまでは死なないで下さい。生きていて下さい」
少女「確かに今はリカさんの苦しみを和らげるお医者様はここにはいません。でも、今は、私がリカさんのお医者様になります。ブラセボ効果でも、カウンセリングでも、なんでも、なんでもします。だから、立って、立ってください」
女「ねえ、エリス。私のお医者様」
少女「ええ、エリスです。貴方の臨時のお医者さんです。リカさん」
女「エリス。今、私の体はどれだけの悪条件を抱えていると思う?」
少女「高熱、ですか?」
女「そうね。感染病から来る高熱、嘔吐、下痢、脱水症状。ウイルス性の胃腸炎。極度の栄養不足……、あげればきりが無いわ」
少女「…………」
女「私は、ここで、死ぬのよ」
少女「下らない嘘は止めてください」
女「事実よ。紛うこと無き」
少女「今は事実かもしれません。でも、私が嫌でもリカさんを引き摺っていきますから、ここで死ぬって言葉は嘘になります」
女「事実よ。それに、今私が死ぬのがベストなのよ」
少女「ベストって何ですか! リカさんが死ぬのにベストがあるはずが無いじゃないですか。あるとするならば、それは世界の果てで、飛び降りた時。それ以外はありません」
女「じゃあ訂正するわ。今死ぬのがベターね」
少女「どうして!」
誰かの腹の虫が不平を叫ぶ間の抜けた音
女「浅ましいわね、私は。これから綺麗に死のうとしたのに」
少女「綺麗になんて死なせるものですか! 待っていてください。今、保存食を……」
女「そんなもの、いらないわ」
少女「何言っているんですか。ええと、え? どうして、どうしてリカさんのバッグにはこんなに備蓄が残っているんですか? ……まさか、まさかとは思いますけど」
女「さあ、どうしてかしら。不思議なものね」
少女「ここへ来てから、保存食の類、何にも食べていないんじゃないですか?」
女「…………」
少女「バッカじゃないですか! 自殺志願者の超マゾヒストだとしても、こんなえげつない真似はしませんよ」
女「……はあ。馬鹿は貴方の方よ。エリス。ここが世界の果てのある島だとして、まあ、それ以外の島であったらその時点でどうにもならないんだけど、あと、どれくらいで私たちは世界の果てを拝めると思う?」
少女「そりゃあ、あと、数日とか、一週間とか……」
女「確かに、方向が合っていれば、一週間くらいじゃないかしら。でも、もう山を越えて、もうすぐ荒野に入るわ。そうなれば、食料の調達は一層厳しくなる。私たち二人が、今までのエリスの様に、といっても、かなり節制はしていたと思うけれど、そうやって食べ続けると、たぶんすぐに二人揃って餓死するわ」
少女「…………」
女「だから、必ず誰かが食料持ちの役目だけを全うしなければいけなかった。ルーレットを外して、この状況を強要した私はエリスに償いの為にこうすることは当然なのよ」
少女「……勝手に罪を背負って、勝手に償う。随分と身勝手ではないですか」
女「そうね。身勝手ね。でも、それが罪と贖罪の本質だと思うから」
少女「償い、償いですか。なら、私の望みは何でも聞いてくれるんでしょう。リカさん、生きてください!」
女「無理を言わないで。alea iacta est(賽は投げられた)これは、回り始めたルーレット。もう、誰も止めることは出来ないの」
少女「……もう、私に出来る事は、無いんですね」
女「ようやく、諦めてくれたのね。賢明なことよ。私の予想の中のエリスとは、ここから一日くらいぶっ通しで口論して、喧嘩別れになっていたわ」
少女「……諦めきれるわけ、ないじゃないですか! ……でも、思い出したんです」
女「何を?」
少女「ねえ、リカさん。愛って、何でしょう」
女「…………」
少女「私は、愛を、純粋で、潔癖で、透明な自己犠牲のことだと思っていました。今でもそう思っています。いえ、純粋で、潔癖で、透明な自己犠牲のことを、愛と呼ぶのだと思っています」
少女「リカさんなら、分かって頂けるでしょうが、そんなものは、この世の何処にもありません。私が生まれてそれなりの年月が経って、その経験が、私に教えてくれました」
少女「でも、今日、私は知りました。今までリカさんがしてくれた献身のこと。私には、自分のことなんて気にするなって言って。リカさんの方こそ、ちゃっかり私を勘定に入れているじゃないですか! その上、自分はカウントせずに、私だけしか勘定に入っていないじゃないですか。償いが何ですか。罪が何ですか。嫌な事があったら、逃げれば良いじゃないですか。辛い事があったら、死ねば良いじゃないですか。どうして、どうして、私なんかの為に、そこまで……」
女「愛、ねえ……」
少女「そうです。この世でもっとも美しいもの。純粋で、潔癖で、透明な自己犠牲」
女「純粋にしては、歪過ぎないかしら」
少女「そう、ですね」
女「潔癖にしては、泥だらけよ」
少女「そうですね」
女「透明にしては、ひどく不器用ね」
少女「本当ですよ」
女「私、醜いわよ」
少女「そうですね。お化粧がけばけばです」
女「言うわね」
少女「冗談です。気持ちの問題です。心の持ちようです」
女「そうよ。心が醜いって言っているのよ。顔だったら見たら分かるでしょう」
少女「美しさは、相対的評価です。例えリカさんが自分を醜いと思っても、何処かの誰かはそれをとても美しいと思うかもしれない。私、リカさんの顔立ち、とても綺麗だと思います」
女「そう。……なるほどね」
女「愛、なのかもしれないわね」
少女「そうなのでしょう、きっと」
女「世界でいちばん美しいものを、こんなところで見つけるなんてね。言っておくけれど、さっき私ここで吐いたわよ」
少女「知ってます。見てましたから」
女「平然としているわね。そんなものなのかしら」
少女「そんなものですよ、たぶん」
少女「私、リカさんの生き方を綺麗だと思います。リカさんの心を綺麗だと思います。死ぬ間際だと言うのに、ますます輝きを強めているリカさんの瞳を、綺麗だと思います。リカさんの結構早い大股歩きが綺麗だと思います。今絡めているリカさんの白い指を綺麗だと思います。リカさんの吐瀉物を……、うん、たぶん、綺麗だと思います。やっぱり、私は、リカさんの全てを綺麗だと思います」
女「……ふふ、ありがとう、エリス」
女「そして、大好きよ。エリス」
少女「そうですか。って、んんっ」
女「……んっ」
少女「…………ぷはっ!」
女「…………」
少女「何をするんですか! いきなり」
女「女の一世一代の告白に対してクールを気取る生娘は、可愛くないわ」
少女「い、今のって、今のって、」
女「何かしら、エリス。貴方だってなにも始めてって訳じゃないでしょう?」
少女「そ、それは、そうですけど……」
女「そう言えば、キスって、最後に食べたものの味がするらしいわね。貴方は?」
少女「カエルですけど、戻しました」
女「私はダンゴムシよ。泥の味がして、とても不味かったわ」
少女「サイッテーです! リカさんの話題の振り方もそうですし、吐瀉物味の自分も最低です!」
女「あはははは、それは良いじゃない。大体私たち、出会い方から旅の理由、道中に至るまでぜんぶぜんぶぜんぶが最悪の最低だったじゃない。今更最後に最低が一個増えたところで、良い思い出くらいにしかならないわ」
少女「……やっぱり、最後、なんですね」
女「そうよ。最後。次に会う時は、ここじゃない、どこか別の地獄でね」
少女「そう、ですよね」
少女「では、私も、最後に何か、リカさんに伝えたい事を、思い出として刻みたい事を……」
女「言っておくけれど、私は貴方になかなか凄いものを刻み込んだつもりよ。生娘に真似できるかしら」
少女「……それです」
女「それ?」
少女「生娘、ってやつです。正直、言われる度に少しいらっとしていました」
女「ふうん。じゃあ、エリス。苛立ったのなら、一体どうしてくれるのかしら?」
少女「リカさん、立てますか?」
女「無理よ。もう一歩だって踏み出せないわ」
少女「なら、今のリカさんは何にも抵抗できないってことですね」
女「……えっ、ちょっと、それってどういう意味よ。んっ、ちょっ、まっ……、」
女「もう、時間も残されていないから、最後に言いたいこと、全部言っておくわね」
少女「ええ」
女「これからの道中も、私を連れて行くと良いわ。ここからは死の荒野。虫だって殆どいない」
少女「り、リカさんを、連れて行く?」
女「そうよ。きっと役に立つわ」
少女「それは、どういうことで」
女「その時になれば、分かるわ」
少女「その時って何時ですか。どうして、そんな事が言えるのですか!」
女「…………」
少女「ねえ、答えてくださいよ。ねえ」
女「……ああ、」
少女「…………」
女「……ねえ、エリス」
少女「…………」
女「ねえ、エリス。今日は、良い日和ね。なかなかの逆ナン日和ね」
少女「……そう、ですね」
女「空が、近いわ。そんな気がする」
少女「そう、ですか」
女「もう、そろそろね」
少女「……そうですか」
少女「リカさん。言いたいこと、全部、言えましたか? 私は、まだまだまだまだ足りません。私がリカさんに思っていることの百万分の一も伝えられていませんよ」
女「そんなの、伝えられる、わけ、ないじゃない。人間のこころと、言葉、齟齬は、どんなに言葉を尽くしても、こころを尽くしても、埋まらないのよ」
少女「それでも、寄り添おうとする努力を諦めたら、いけないんです。絶対に埋まらないからって、埋めようとするのを投げ出したら、それはもう、人間である事を、言葉である事を、やめるようなものなんです」
女「知っているわ。でも、エリス。覚えておきなさい。限りが、あるのよ。時間、言葉、人間、何事にも。どんなことにも。ねえ、エリス。私を不安にさせないでよ」
少女「……善処します」
女「まるでお役所仕事ね」
少女「…………」
女「ねえ、エリス」
少女「なんですか」
女「最後に、抱きしめてくれないかしら。軽くでいいの」
少女「お安い御用です」
女「…………」
少女「…………」
女「エリス、痛いわ。もっと優しくお願い」
少女「痛いですか? ですよね。痛くしていますから」
女「そう」
少女「…………」
女「エリス」
少女「何ですか?」
女「またいつか、貴方と話せる時が来るかもしれない」
少女「かもしれないって、何ですか。わりとすぐでしょう?」
女「……そうね」
女「その時まで、またね」
少女「ええ。また」
女「…………」
少女「……それじゃあ、行きましょうか。リカさん」
場面転換・世界の果て
誰かの腹の虫が不平を叫ぶ間の抜けた音
少女「今日の分の、食事を摂りましょうか」
少女「少し、備蓄が足りなくなってきましたね。まあ、少し、で済んでいれば良いんですけどね。リカさんが残してくれた分を含めて……。ふふふ、これは、まあ、仕方ありませんね」
誰かの腹の虫が不平を叫ぶ間の抜けた音
少女「この腹の虫も、だいぶ我慢が利かなくなってきた感じがします」
少女「この缶、空ですね。……手紙?」
女「親愛なるエリス。貴方がこの手紙を読んでいる頃、きっと貴方は、どうにもならない飢えと空腹に悩まされているわね。どう? 合っているでしょう。私もなかなかに名探偵じゃないかしら」
少女「リカ、さん?」
女「だから、私が、とっておきの食料の在り処をここの書き記しておくわ。それは、蛋白質が豊富で、AAの貴方には必要ないかもしれないけれど、程良く脂身も備えているわ。どうも鶏肉の味がするらしいけど、私は食べた事が無いから、あんまり確かな事は言えないわ」
少女「……中略、」
女「……だから、私からのお願いよ。貴方の命の為に、それを、必ず食べて欲しいの。それを約束してから、次の手紙を読んで頂戴。手紙の場所は、私の胸ポケットの中よ」
少女「やけに勿体をつけますね。……分かりました。どんなものが出てきても、食べてみせましょう」
誰かの腹の虫が不平を叫ぶ間の抜けた音
少女「とは、言っても、逆に、食べ物が目に付いたら許可なんて無くっても食べそうなくらいに私は飢えていますし、その心配は……、」
女「貴方は今、ひどく重っ苦しいものを、背負って、もしくは引き摺って進んでいないかしら」
少女「まあ、リカさんと一緒の旅です。リカさんの読み通り、そうなっていますよ。……因みに、結構引き摺っちゃっています。仕方ないですよね」
女「それを、食べなさい」
少女「…………はい?」
女「今貴方が背負っている錘、たぶん私が運ばせたと思うけれど、それは今日の貴方の朝餉か昼餉か夕餉よ。生ものだし当然劣化は早いから、召し上がるなら早いうちにどうぞ」
少女「そんなこと、できますか! そんなことが出来るわけ、」
女「優しいエリスはそんなことが出来るわけ、なんて言っていると思うけれど、それなら質問よ。どうしてそれが出来ないの? それは、私の望み。土に埋められるより、水に沈められるより、火に炙られるより、鳥に食べられるより、私はいつまでもエリスの近くにいたいと思うわ。エリスと一つでいたいのよ」
少女「で、ですが、それは、禁忌で……」
女「だいたい自殺自体禁忌よ。禁忌を目標としている人間が、カニバリズムごときを恐れてはいけないわ。禁忌なんてくそくらえよ」
少女「……どうして、リカさんは私の言う事を先回りして予測できるんでしょうね。私、そこまで単純なつもりはないんですが、」
女「分かるのよ。なんとなくね」
少女「何か腹立ってきました! リカさんって、私より頭悪いはずですよね、絶対。どうしてこんな芸当が出来るんですか……、って、ああ、私にはもう、おつむにめぐる血すらないんですね。だから、単純な反応ばかり。そうですね、そりゃあわかっちゃいますか」
女「兎に角、私の目が白いうちは、手紙の内容を絶対に守ってもらうわ。では、私の大好きなエリス。今は一応貴方の傍で、その後はまあ、草葉の陰とか、適当なところから応援しているわ。達者でね」
女「P.S. 最後に、一つだけ。私から本当に最後のお話」
女「エリス、貴方が話してくれた愛について、死の間際に柄にも無く真剣に考えてみたわ」
女「自殺をしようと思った理由、前に話したわよね。私は、最初は前のオトコの借金と言っていたけれど、トウキョウ国外へ逃亡して、お金を手に入れても、一度芽を出したこの気持ちは消えなかったわ。たぶん、気付いちゃったのよ。愛という虚構の実態に」
女「私は愛というものは、所有欲と被所有欲の交じり合ったものだと思っているわ。嫌な現実をたくさん見てしまっていたから、愛の定義にも純粋にはなれなかったのよ」
女「貴方の愛の話を聞いたとき、私は貴方の言いたい事、少し分かったのよ。エリスの言うように、この汚物だらけの世界に、輝くものがあれば。そう願った事は幾万回もあるわ。でも、なかった。エリスが言った、私の気持ちは、もしかすると貴方の言う愛、なのかもしれないわ。でも、私はまだ、自分の愛の定義の方が、なんとなく、しっくりくるのよ。心が汚れたものに慣れてしまったから、こういう皮肉じみた定義になってしまうのね」
女「長ったらしい話で申し訳ないわね。だから、最後は簡潔に。エリス、貴方は今から私と一つになるわ。生きている間はずっと、死んでからも忘れさせてなんかあげないわ。勿論私も。今、と言っても息絶えているんでいるんでしょうけど、その私は貴方への所有と貴方からの被所有の欲が完全に満たされていて、きっと、幸せよ。愛しているわ、エリス」
少女「…………」
少女「はあ、なかなかにひっどい手紙でした。前半も後半も電波具合が半端じゃあありません」
誰かの腹の虫が不平を叫ぶ間の抜けた音
少女「……ひっどい手紙でした」
少女「…………」
少女「人間って、浅ましい生き物ですね。どうして動物に生まれなかったのでしょうね。悩まなくて良ければ、どんなに楽になれるのでしょうか」
少女「……それでも、楽をしていたら、たぶん、世界でいちばん綺麗なものは、私も貴方も、見つけることが出来なかったのでしょうね」
誰かの腹の虫が不平を叫ぶ間の抜けた音
少女「…………」
誰かの腹の虫が不平を叫ぶ間の抜けた音
少女「…………」
少女「うげえええ、おええええ、げほっ、げほっ。……はあ、はあ」
少女「うぷっ、おろろろろ……」
少女「うう……、はあっ、はあ」
少女「…………ふう」
誰かの腹の虫が不平を叫ぶ間の抜けた音
少女「本当に、浅ましいです」
何かが地へ投げ出される音。
少女「空が、広いですね」
少女「リカさん、お別れから一週間です。もう、私の足は、動きません。リカさんのお陰で、お腹の虫は、まだ良いんですが、一糎這うだけで、頭が物凄い力で揺さぶられるような気分の悪さに、額に雪を載せたら一瞬で全部蒸発しちゃうんじゃないかって思うくらいに熱もあります。ねえ、リカさん。私は、一体何時まで……、……もうすぐですよね。分かっています」
少女「今のは嘘です。リカさん。私は何も分かっていません」
少女「でもですね、リカさん、今の私に分かっている事が一つだけ。一つだけあるんです。それは、あと一度私が目を瞑ったら、もう二度とこの世に目覚める事は無いってことです」
少女「たぶん、ここが、ここで、『終わり』なんでしょう」
少女「……決めました。ここが最果てです。私が今いる。ここが世界の果てです」
少女「…………」
少女「ううっ、おええええ、おろろろ……」
少女「いけませんね。格好をつけてみても、体がこんなのでは、どうもしまりません」
少女「どうして、ここにはリカさんが居ないんでしょう」
少女「私と一つになったとか、絶対に忘れさせないとか、さんざんのたまったくせに、どうして姿一つ見せないんですか」
少女「ふふふ。ねえ、リカさん。ちゃんと聞いていますか? あの時、あの、ルーレットの時。実は、悪かったのは私なんです。リカさん。そんな事を言っても、リカさんは絶対に信じなかったから言えませんでしたけど」
少女「あの時、私はちゃんと私たちの死を願うべきでした。でも、私は、完全に私たちの死を願っていたわけじゃないんです。心のどこかで、リカさんにだけは生き延びて欲しいって、そう思っていたんです。リカさんが死にたいって本気で思っているのに。だから、リカさんがどう頑張ったとしても、私はあの時のちぐはぐな気持ちのままでいるから、ルーレットが当たるはず無かったんですよ」
少女「私は、リカさんの意思を、夢を尊重すべきでした。私はリカさんに私の甘い欲望をぶつけただけで、結局はより悪い形でリカさんを喪っただけでした」
少女「こんな事が、謝って済むとは思えませんが、まあ、そろそろ三途の川から獄卒がお迎えにいらっしゃいます。私にはかの場所で相応の報いがあると思いますので。今はこのくらいでご容赦ください」
少女「…………」
少女「……違うんです」
少女「……違うんですよ」
少女「……こんな事を、話したかったわけじゃないんです」
少女「こんな無駄話をしている間にも、どんどん私の時間が失われていきます。ああ、もっと有意義な話をしないと……」
少女「ん、こんな所に、崖があったんですね……。もう、危ないですね」
少女「崖の下はどうなっているんでしょう。気になります。でも、そこまで行く力も、残っていないようです」
少女「崖の上は……、空」
少女「崖の前は……、不思議ですね。ずっとずっと空が続いていますね。地平線って、どこへ消えたんでしょうかね」
少女「…………ん?」
少女「……と、言う事は、崖の下は?」
少女「あれ、おかしいですね。おつむが回りません。体はこんなに苦しくて昂ぶっているのに……。睡眠不足というわけでもありませんが、瞼がやたらと重く……」
女「…………」
女「……エリス」
少女「リカ、さん?」
女「エリス!」
少女「リカさん!」
女「エリス。私の愛しいエリス。さあ、逝きましょうか」
少女「私は全身全霊で、手を目の前に伸ばしました。それが果たして何かを掴んだのか、虚しく空を切ったのかは分かりません。ですが、私が瞼を閉じた瞬間、今まで私がベッドにしていた土の感触がなくなって、全身からあれほどひどく私を縛り付けていた重力がふわりと消えて、風の音がしました。どこかから、あの人の声が聞こえた気もしました」
少女「夢だったら嫌だな。と私は思いました」