キミの思い出から消えてゆく
2023年の夏は、異様にあっさりと通り過ぎていった。あれだけ暑かったのに、ただ暑いというだけで印象は薄く、気づけば心地の良い風が吹くようになっていた。そして、夏が去ってゆくとともに私の目の前から消えた命が一つ。
彼女の名前は蜜香といった。甘いマスク、という言葉は女性には普通使わない、というのは承知の上で、やはり彼女にはその言葉が一番似合っていた。どこか達観して、吹っ切れたところがある。言葉の節々から、私では到底及ばない濃い人生経験をし、独自の人生観を築き上げてきたことがうかがい知れた。
「キミみたいな面白い男の人、初めて。もしよかったら、仲良くしない?」
仕事は上手くいかず、営業成績も伸び悩むばかり。私にはきっと営業職は向いていないのだろう。そんなことがようやく身にしみて分かった入社五年目の秋。これまでもしものことが起きたらだとか、結婚に備えてだとか、いろいろ理由をつけて貯金を真面目にしていたが、ある日急に馬鹿らしくなった。やけになって適当に見つけたガールズバーに入り、初っ端から度数の高い酒をあおっていると、向こうから話しかけられた。これから飛び降りでもする覚悟の決まった男に見えたのかもしれない。
「えっ、鏡大卒なんだ。めっちゃ賢い」
「頭がいい大学出ても、ってことですよ」
「あたし、人に言ってもどこって聞き返されるような大学だからさ。やっぱりみんな知ってるとこに憧れるわけ」
蜜香は母子家庭だと言った。蜜香が生まれてすぐに父親は不倫で蒸発し、以来女手一つで育てられてきた。周りに舐められないよう必死で、男勝りなところや誰にでも物怖じしないところは昔かららしかった。大学を出てからは、昼にコンサル会社の受付をしつつ、夜はガールズバーで接客をして食いつないでいる。そこまで出自を打ち明けてくれた。
「どうしてそこまで話してくれたんだ」
「キミなら、あたしのこと特別だとか考えてくれそうだからさ」
「え?」
「あたし、人の名前とか顔とか、あんまり覚えられなくてさ。もう何年もここに立ってるのに、一人も頭に浮かんでこなくて」
私も人の顔を覚えるのは苦手な方だった。営業職では致命傷になる。昨日会った得意先の顔が分からなければ、たとえ言葉にしなくても相手にはそれとなく悟られてしまう。それに別の機会にばったり会った時、会話をうまくつなげられなかったら。そう考えると、営業の人脈は会社の財産そのものなのだろう。
しかし蜜香の「あまり覚えられない」は、人とは違うらしかった。また遊びに来てよと蜜香に言われ、五度ほど店に行ったところでその真意を教えられた。
蜜香は思い出を思い出としてアルバムに仕舞い込むたびに、その記憶を忘れてゆく。アルバムにしなければ、命の灯火が消えてゆく。人が一生をかけて思い出で埋め尽くす心のスペースが、人よりもずっと小さいのだと彼女は言った。詩的な表現だったが、それが一番端的に彼女の置かれた状況を表していた。
「こうやってキミのことを覚えている間にも、あたしの体はどんどん弱っていってる」
「そ、そんな、今すぐ忘れて」
「やだよ。好きな人のことは、覚えてたいでしょ。誰だってさ」
蜜香は私に向かって、はっきり好きな人だと言った。私のような根暗な人間の、いったいどこが気に入ったというのか。蜜香は私のことを覚えているだけで、命が削れても構わないし楽しいと言うが、私から恩返しのようなものはできないと思っていた。彼女の店に行くたび、彼女の分の酒やつまみをおごってやるくらいが、せいぜいできることだった。
「キミの話し方って、あたしが好きで推してる劇作家にすごく似ててさ。勝手に重ねてるのかも」
「劇作家に? そんなに大仰な話し方かな」
「そう、それ。一度話しただけで、すごく印象に残るから」
「そういうものかな」
「そういうもん。人の顔覚えられなくても、向こうには覚えてもらえてるんじゃない?」
昔会った人間の愚痴を互いに話すうち、目に見えて蜜香と親密になっていった。蜜香はとても残る命が短いとは思えないほど元気で、仕事に疲れ思い悩む私を励ましてくれた。あまりに仲が良いということで、仕事を抜きにしてプライベートで会ってもよいと、店からお墨付きをもらったほどだ。
「キミとデートだなんて。夢みたいだね」
「こちらこそ。君がそういう道を選んでくれるとは」
「ねえ、今日は帰りたくない――って、言ったら?」
私との記憶が積み重なるたび、蜜香は息苦しくなってゆく。そのことは私も理解していたはずなのに、彼女がすごく嬉しそうにしてくれるから、つい思い出作りの方を優先してしまう。そしてついに、私たちは一線を越えた。そこまで踏み込んでよいものかと悩んでいたのに、いざ越えてしまうと案外大したことはないと思うようになった。
「よかったよ。キミの記憶が、私のアルバムの最後のページで」
人に見られる職業だからこそ、より一層見た目に気を遣う蜜香は、爪ひとつとっても美しかった。彼女の手を握り、その艶やかでつるりとした爪を指の腹でそっと撫でるのが、いつの間にか癖になってしまうほど。しっとりとした手で肉まんを持ち、はふはふと美味しそうに頬張る隣で、爪先に見とれてしまうこともしばしばだった。爪ばかり見ているのがバレると、ちょっと不機嫌になるところも可愛らしかった。
「キミには……もっと、真正面から私のこと、見てほしいな」
私は来たるべきその時まで、なるべく彼女と外に出かけ、彼女と話をした。それを話したとて何も変わらないような、たわいのない話を重ねた。そこまでのことを話せる相手が、会社に入って以来私にはいなかったから、そうした時間を作れるというだけで、私にとっては嬉しいことだった。
「ごめんね。とうとう、……私にも来るみたい。お迎えっていうのが」
蜜香との交際がいつ始まったのかは、互いに意識していなかった。たとえば一線を越えたあの日から数えるのだとすれば、それから半年が経った頃、蜜香はそう言ってきた。すでに仕事の整理はつけてきていて、まともに外に出られるのはこれが最後になる、とそのデートで告げてきた。
「楽しかったなあ……キミとの思い出。どれもこれも、アルバムになんて仕舞えなくてさ。予定よりずっと、早くなっちゃった」
彼女の見舞いには毎日、しつこいくらいに行った。入院初日に見せた彼女の苦笑いがどうにも頭にこびりついて、病院にも迷惑をかけるのではと思って最初の頃は二日おき程度にとどめていたが、蜜香は入院してからさらに早く弱っていった。私が見舞いに行く行かないに関わらず、だんだん歩き回る体力さえなくしていった。
「……私のことなんて、さっさと忘れちゃってよ。キミに関する思い出ってだけで、アルバムに仕舞って忘れられなかったあたしなんだから、さ」
「そんなことは……できない」
「どうして? キミのこと、……あたしが死んだ後まで、苦しめたくないのに」
「苦しんで構わない。君に抱いてしまったこの気持ちは、この先冷めることはないから」
思い出だけではない。強い印象のまま忘れられないという事実そのものが縛りとなっている。それが分かっているのに、お互いに逃れることができない。逃れたくないとさえ思っているのかもしれない。
「忘れたくないって言うなら……お墓参りに来てよ。あたし、生前葬済ませてるからさ。お墓の場所も、教えてあげる」
彼女は学生の頃に両親含め親族を全員亡くしており、天涯孤独だった。仕事に忙殺されていた私だから、彼女の最期に立ち会えたのは奇跡と言ってよい。何か運命的なものが、私と彼女の間にはあったのかもしれない。
「どうか……そっちでは苦しまずに、たくさんの思い出を作ってほしい」
半年に一度は会うと約束した通り、私は死ぬまでこの場所に来続けるだろう。時々そよ風が通り抜ける小高いこの丘は、新たな思い出を作るための場所ではない。動く景色としての私の思い出を、錆びつきから解放し、鮮明にさせる場所だ。何度も、何度も。思い返すたび、蜜香は私の頭の中でよみがえる。
彼女の眼前に添えられた花が風に揺れると同時に、私の視界で墓石に重なった蜜香の顔が笑みでほころんだ。