その35【蒼は駆け行く、尊きお館様のもとへ】
蒼は、追う。
自分の主人。
自分の君主。
お屋形様を追う。
完全に出遅れたと、そう思った。
お屋形様からの保護範囲による完全睡眠の癒しの時から解き放たれたのは、お屋形様が、屋敷から出てかなり時間が経っていた。
今回は、お屋形様の母、つまり今日花の範囲内にいたために、中々睡眠状態から戻って来れなかった、さすがお屋形様の母上である、蒼の母は未だ夢の中にいる様だった。
いつもなら、お屋形様の睡眠から目覚める瞬間に、先んじて目の覚める蒼であったが、今回はそんなわけで、平たく言うなら寝坊してしまったわけである。
しかも、現在のお屋形様は丸腰。
危険この上ない。
早くお屋形様の元へ急がねま、と蒼は急ぐ。
ここ最近、常にお屋形様の元にいたために、一人になることなどなかった。
だからだろうか?
側にいるときの優しいお屋形様が離れてしまうと、冷静になる。
そんな時、いつでも思い出すのが、あの一撃。
あの出会い。お屋形様との初めての邂逅を思い出すのだ。
自分の体を通り過ぎる冷たい刃。
多月蒼の心に刻まれたあの一撃を思い出す。
体を刻まれ、命を落としかけた瞬間に、彼女を襲ったのは、死への恐怖でもなく、絶対者への畏怖でもなく、自分でも意外なのは、無常の喜び。
自身の体に致命傷を負ってなお、ダンジョンの床に叩きつけられた蒼は笑っていた。
今更気がついた。
いや、もっと以前から気がついていたのかもしれない。
しかし、蒼の立場が、気持ちが、今、お屋形様と共にある喜びがその事実を曇らせ隠す。
だから、おかしいかも知れないが、蒼は、一心に負けた試合の事、その後、二肩にも負けた時の事も同時に思い出す。
少なくとも、あの瞬間は、一心、そして二肩は力は拮抗していると思っていた。
しかし実際は違うのだ。
その地点で、蒼には次の段階があったのだ。
突然、蒼の視界に一瞬、赤い視界。そして、まるで警告音の様な心臓の音。いや踏切で聞くあのサイレンの音だったのかも知れない。
一体、これはなんだ?
そう考える。
それは決して、踏み込んではいけない領域。
知ってる。蒼はそれを知ってる。
そうだ、ここで、今の戦いを続けると、これ以上手を出し続けると、ともすると次の一撃で、蒼は、一心を倒してしまう。それは勝つとか負けるではなく、自分の友人で、ライバルで、掛け替えのない級友を即死させてしまうことを悟るのだ。
血潮の駆け巡る体から引き出される存分な一撃は、即死の刃になる。
だから、これが出たら、引っ込めないといけない。
そこに到達してはならない。
蒼の理性が、その赤い視界を冷たく塗り潰して行く。
冷静になる、だから、冷めてしまう。
これ以上はダメだと、そして蒼本人もこれで良いと悲しく悟。
それが隙になる。だから形の上では負けてしまう。
一心も、二肩もバカではない。それに気がついていないはずはないのだ。
だから、たとえ蒼にそんな勝ち方をしても決して喜びを表すことはなかった。
白けた勝敗を剣を交えていたからこそ知っていた。
蒼は本気を出せないのだ。
しかし、たった一人、その警告が、あの赤い視界が広がらなかった人間がいる。
そう、お屋形様だ。
だから、あの一瞬の刹那の喜びが今ならわかるのだ。
そう、お屋形様なら自分の全てを受け止めてくれる。
あの警報と紅い視界を払拭して、あの場所を超えて違う境地に連れて行ってくれる。
そう確信する。
しかし、しかしだ。
今はもうお屋形様と対峙する理由がない。
思いっ切り戦うのも、どこか気が引ける。
今はお屋形様は蒼の君主であり、王であり、お屋形様なのだ。
そんな事、許される筈もないのだ。
第一、蒼自身が慕って敬って止まないお屋形様に再び刃を向けるなど言語道断であり、そんな事が、秋の木葉である蒼に許されるわけもないのだ。
仕方の無い事なのだ。
そう、蒼は自分自身に言い聞かす。
もう、子供では無い。だから立場をわきまえよ、と己自身に諭すのである。
この形でよかったのだ、とそう思う蒼であった。
駆けてゆく蒼に、前から来る者がいた。
「おお、紺!」
「蒼様!」
通りすがりの紺に、蒼は尋ねる。
「お屋形様を追っている、知らぬか?」
すると、その後ろにいた、水島が、
「学校にいたぞ、なんか頑張ってたな、紺」
「うん」
なるほど、と言うか、いつの間に仲良くなんたんだろう?とさすがの蒼もこの二人に対して思うところではあるのだが、そんな質問をするほど蒼は野暮では無い。だから、
「ヒューヒューお熱いぜお二人さん、ヒューヒュー(棒)」
応援するときはこの様に二人を意識させるこの例文3の台詞がいい感じの後押しになると聞いている協力的な蒼であった。もちろん、この事実を、小冊子で読んで知っている紺は、
「あ、ありがとうございます」
と礼を言う。 対して一緒にいる水島は複雑な表情だ。
「うむ、滞り無く、頑張るのだぞ」
と蒼は、学校に急いだ。
蒼の足では瞬く間に学校に到着する。
何やら校庭は学校の子供達、そして近所から出てきたであろう、父兄とそれ以外の大人たち、中に自分の父親である清十郎までも混じって見学している。
葉山静流が小学生高学年と中学生を相手に、北海道ダンジョンをレクチャーしている間に、蒼の目的のお屋形様は、
「ほら、痛いよ、脛とかダメだよ、戦うんならあっちのお姉さんの方に行きなよ、本当に僕は参考にならないから、ちょっとやめて」
と小学生低学年の子供たちに囲まれて、ソフトビニル製の模造剣でボコボコにされていた。それは戦いというより普通にサンドバックだった。
「こら! やめないか子供達」
と蒼が止めに入る。
「ああ、助かったよ蒼さん、ここの子供達はみんな元気がいいね」
と、未だ突かれ叩かれてるのに真壁秋は、そんな風に言う。
そして、
「やっぱり木刀とかおもちゃの剣じゃダメだね、この子たちに全く歯がたた無いよ」
とお気楽に笑っている。
それは確かに思う、お屋形様はやはり、あの剣でなければならない、と。
そして、すっかりこの町に来てからそんな姿を見てないことに気がついて、もし再び互いが剣を取り相対する事があれば、もっと遠くへ、もっと極みへ連れて行ってもらいたいと、そう願う蒼であった。