その27【台所にて、母と母】
本家での宴の準備の最中、飛び出す娘の姿を見て、母である菖蒲はどこかホッとしていた。
内容の方は把握している。
先ほど主人、清十郎が木刀を一振り持って出て行っているのを確認している。
きっと、婿殿の指導でもするつもりなのだろう。
焔丸も一緒について行ってるはずなので、ひどい事にはならないとは思うし、何より初代微水様が一緒にいるので安心はしている。
鬼の姿であろうと、恐ろしい姿だろうと、あの方はこの町の守り神、きっと良い結果に導いてくれる。
それにしても、と母、菖蒲は思う。
あの蒼の変わり様。
やはり、好きな男ができると、あの頑なな、我が子ながら硬いと思えた娘がこうも変わってしまうと、今までならこの母に言い返すなどする事もなく、ただ黙って大人しく言われることを聞いているだけの、いつにない娘の自我というか、素の姿が微笑ましかった。
全てが自然で頑なな所のもなく屈託のない少女へと育っている事に安心感を得てしまう。
自身は行った事はないが、きっと北海道というところはそれは素晴らしい環境なのだろうと思った。
伸び伸びと育っていると言う印象がある。
以前の蒼は、この町にいた時のことであるが、とても硬くそして自分の娘ながら近寄りがたい雰囲気がある時期もあった。
ちょっとしたスランプのようなものに落ち込んでいた時期。
あれは確か、一心の家と二肩の家の者に遅れを取ってしまった事のことだろうか?
あの時、娘は落ち込む、というより迷うといった感じで、母親なりにそこはかとなくアドバイスはしたものの、どうも届かない歯がゆい思いをしていた日々。
しかし、この母は思う。
負けるのは良い。この町での勝負ならそれほどこだわる必要も無い、もとより力は拮抗していたのだから、その日の体調や相性もある。
もともと短い剣を使う蒼に取って、太刀による居合の一心家と大斧の二肩家は相性の悪い相手とも言えた。
しかし、その僅差の敗北もなかなか受け入れず、頑になる娘を危惧していた時期もある。そんな塞ぎがちな娘は突然、ダンジョンに行くと言い出す。
これには祖母である褐が関わっていて、どの道いずれは婿探しの旅に出るのだから、いっそダンジョンのある北海道に行かせてはどうか?
所謂ひとつの賭けだった。
他の分家の者はもうすでに何人かダンジョンに入って日々、本物の実践を積んでいると言う話だった。
清十郎は、もともとこの町の人間ではない。だから、蒼にはもっと広い世界を知ってもらいたいと言っていたのにもかかわらす、いざ蒼がこの多紫町を離れると言うと手のひらを返して反対した。もうそれは見苦しいくらいに反対した。
もちろん、本人の意思は硬く、蒼はそのまま町を去り、北海道へと旅立つ。
そして帰ってきた姿があの、真壁秋という少年以外目に入らないくらいの行動である。
一体、あの少年の何が蒼の硬い心を砕いてしまったのか? そして、あの言い方に、あの態度を取らせているのか、菖蒲には皆目見当がつかない。
と言うか、確かに可愛いし、優しそうな少年である。
まるで虫も殺せないと言った感じの、それでいて今風の、と言っても菖蒲はこの町の子供しか知らないので、なかなか参考になる人間はいない。
弱いのは良い、でも意気地が足りないかしらと思う。
もちろん、清十郎が弱いと言うのは、この多紫町の基準の話で、この平和な時代に若い頃から武芸者として世界中を行脚していたくらいの実力はある。常識の範囲内で言うなら多分強い筈。
何より頑なでこだわる生き方は素敵だとそう考える菖蒲であった。
まあ、普通に考えてみれば、現代の世の中において、仕事もせずに木刀一本持って世界中をフラフラしていたのだから、社会人としてはどうなんだろうかとは考えないで、今も、家の事や仕事などはさせずに修行と称して、この町をぶらぶらしている清十郎である。
もちろん、家事など一切しない。愛ゆえに完全に放し飼いの状態である。
夫婦には色々な形があるので、その辺は誰も深くは言わないし、それどころか、今は焔丸の誕生の所為で、本家に男児を誕生させた英雄にも近い扱いである。
久しぶりに娘の顔を見て、家族の事を色々考えてしまう、そんな菖蒲であった。
「あら、これ見た事ない、山菜なのかしら?」
不意に耳元に声がする。
一瞬の戦慄。
菖蒲の背中に冷たい汗が走った。
知らない声だ。
耳元に息がかかるほどの距離。
かつて、今まで生きてきて、この戦闘集落の長として、ここまで不意な接近を許したことなどない。
そして、それは、反射だった。
だから全ては体が動いてから、これらの先の事を考えている。
しかし、簡単に飛びのこうとした体が押さえられた。
いや、封じられた?
その手はそっと、菖蒲の肘のあたりを押さえて、再び耳元の声は、
「奥さん、刃物持ったままでは危ないですよ」
と言った。
優しい声。警戒できない声。そして何より抵抗できない。
菖蒲はその顔を見た。
「美味しそうですね、何かお手伝いいたしますか?」
バカみたいにその顔を見続ける。
真壁秋の母親。
真壁今日花が微笑んで、菖蒲の手元、いま水切りした山菜を見つめている。
すると、
「菖蒲、落ち着きな、敵じゃないよ」
と褐がそう娘に言い聞かす。
そう、なら大丈夫だ。
母がそう言うなら大丈夫だ。
と、ただただ、無意にそう言い聞かす。
「あはは、ごめんなさい、驚かしてしまって」
今日花は言う。
そして、褐は、
「本物はね、覇気なんてモンは出さないのさ、そんなモン出し合って威嚇し合ってるのならまだ半人前だよ」
と言う。
その言葉に、驚愕しながらも菖蒲は今日花をじっくりと見てしまう。
可愛い人。
優しそうな人。
あの子の母親にしては随分若い人。
良い人なのは間違いない。
でも隙とか無い。
いや、そもそも隙ってなんだったのだろう?
もし、これが戦いならどう攻めよう?
攻撃する意味もわからなくなってる。
そもそもなぜ自分は四囲を警戒していたのだろう?
こんな人がいたら無駄じゃないかしら。
どんどん自分が長い時間をかけて構築した価値観が壊れて行く菖蒲である。
自分は少し、人間を、この親子を見誤っていたのかもしれないと、自分の隣で無邪気に笑う、真壁秋の母、今日花を見て菖蒲は、そんな事を思っていた。