閑話休題3−26喜耒薫子、微笑み逢う】
今日花とその息子である秋は、この模擬戦闘を『口先稽古』と呼んでいた。
利点はどこでもできる事、場所を選ばない事、突然初めても周りの人や物を巻き込まないで、そこそこの効果を得られる事だと言う話だ。
剣も振るわない、飛んだり跳ねたりもなく、ただお互いの攻撃する箇所を言い合うだけの、知らない人間から見ると、喋っているだけのとても稚拙なお遊戯の様に捉えられるだろう。
しかし今日花の行うそれは、自分の身体能力、それに相手の身体能力、そしてそれに付随する特徴や、得てしてスキルまでも網羅する性格無比な情報と細部に渡る手の指一本から始まり爪先に至るまでの筋肉の動きとそれが生み出す力と速度、武器などを含めたあらゆる動きを確実に記憶し活用できないことにはこの頭の中での戦いは成立しない。しかも互いに意識を共有しないと始める事もできない。
想像する相手は、過不足無い現実の相手、そしてそれに対峙する自分も、訓練や実践によって形作られた期待も卑下も無い過不足の無い自分。この対峙は現実のものと何が違うと言うのだろう。
鍛えられた身体による想像上の対決は、この領域いいる人間しか行う事ができない。
そして、今の一瞬のやり取りの中ではあるものの、確実に薫子は2手までは今日花と戦っていた。
残念ながら、焦りをはじめとする不安定な思考に解けて流れしまい、つい雑なで適当な加減な思考が口に出てしまう。
この時点で2人の意識は離れて、終了となった。
悔しい、もっと今日花様と打ち合いたかった。もっと長い間対峙していたかった。そう薫子は思った。だから自然と口からこんな言葉がこぼれてしまう。
「今日花様、もう一手、もう一手ご教授願いますか?」
「いいわよ、でも先に芋剥いてしまいたいから、ちょっと待ってて」
と今日花は鼻歌でも歌いそうな勢いで薫子に告げた。
「手伝います」
と薫子が言うと、今日花は思う、ああ、いいなあ娘、女の子。息子と2人きりもそう悪くわなかったが、薫子がいると、何かこう、家の中が華やいだ雰囲気になる。
「薫子は包丁使える?」
もちろんだ、家では母はいない、だから割と早い段階から包丁どころか火も扱ってい
て、簡単な料理は小学生も中学年くらいからはやっていた。だからそう言おうと思って、口を開きかけて、すぐにその事実を引っ込めた。
「いえ、教えていただけますか」
そう薫子は言った。
「いいわよ、任せて、あのね、薫子、料理で切るって、モンスターとか敵なんかを斬るよりも面白いものなのよ」
と比べる事自体が新鮮な、刃物に対する対象の違いをドヤ顔で語る今日花を見ていて薫子は思う。
いい。この人の前では私は何もできない私でいい。全部何もかも忘れて、教えてもらうんだと、そう薫子は思う。
始まった新しい生活に、これからこの人に育ててもらえる喜びの前に、昔とか今までのことなんてどんな事も些細な事に思えた。
問題は、どうやって、ここの一人息子に認識してもらって、パンツを履かせるかだと、薫子は考える。
なんとなくだが、家だからいけないのではないかと、なぜか思ってしまう。
ならば、明日にでも学校で声をかけてみよう。そして、そこで初めてじっくりと話をしてみようと思った。
そんな薫子はキッチンの前に立って、その背後からスッポリと今日花に抱きかかえられる様な格好になってその右手の包丁を持つ手は今日花の右手に掴んでリードされ、左手は食材を抑える為に猫の手を、同じく今日花の左手に作らされて支えられている。
そんな2人に背後から、先に帰ってきた一人息子は、階段からこう言うのだ。
「母さん、ご飯まだ? 僕お腹空いてるんだから早くしてよね」
その声を聞いて思うのは、ほんとこいつ、家だと違うよな、と言う甘ったれバカ息子的印象と、そんな不遜な声を聞いてニコニコしている今日花の顔を確認して、ついさっきの真希の言葉を思い出してしまう薫子だった。