閑話休題3−8【喜耒薫子、驚愕する】
喜耒薫子に母の記憶は無い。
だから、両親の事を訪ねられると、『母は小さい頃に亡くなった、あまりおぼえてないんだ』と言うに止まる。
でも、ちょっと覚えていることもあった。
幼い日に見た高い煙突、そしてそこから立ち上る黒に寄る灰色の煙が薄い青色が広がる空に解けてゆく光景。
それを見ている自分。
悲しくも無い、寂しさも無い。
そんな日の幼い自分に父の声はこう言うのだ。
「ほら、お母さんが天国に帰ってゆくよ」
そして、
「薫子、お母さんにさようならを言いなさい」
と言われると、幼き日の彼女は、その遠く立ち上る煙に向かって手を振って言った。
「お母さん、さようなら」
簡単に納得してしまった自分が悲しくて、その心が何も感じられなくて、それも悲しく
て、どうしてか、あれから10年以上も経過している現在、それをついでに思い出して泣いている自分も滑稽で、ぐちゃぐちゃといろんな思い出も感情も次々と現れて撹拌されて、もうおかしくなってしまいそうな、今の薫子だ。
そして、未だ抱かれている事を知る。
「大丈夫だからね、心配ないわよ」
見上げる今日花の慈しむような笑顔、それを見て安心している自分がいて、その見上げる先に、剣を持った男が空に向かって聳え立っている姿を見て、おかしな光景だと思う薫子だ。
薫子は、今日花の胸に抱かれたまま、多分、彼女が言っていた『強盗さん』に襲われた。 きっと近所の人だろう、薫子と今日花のいるこの家の玄関先に、『真壁さん、1人そっちに行った!』
そう警告を与えられ時には、今日花がおそらくは『強盗さん』と呼ぶ人物はもう薫子たちの前にいた。そして同時に襲われたのだ。
大柄な男、多分外国人、その体格は兵士、おそらく傭兵の類だとすぐにわかった。
それが、まるでヤケになったように持っていた青龍刀のような大きな剣を振り下ろしてきたのだ。
このダンジョンのある北海道は、この手の武器の入手に不自由はしない。たとえ抜き身で持っていたにしても、『ああ、ダンジョンの関係者か』くらいにしか思われないだろう。 年齢的にはおじさんでダンジョン適齢期を過ぎているにしても、一応に法的にも問題はあるのであるにしても、誰もそんな事を問題視はしない。そんな緩さがこの街にはある。全年齢に対しても武器の携帯、入手が容易いのだ。
しかし、だからとって、ここ北海道が治安が悪いとか、犯罪率が高いと言うことではない。むしろ治安は他の都市よりは良い。もちろんこれにはきちんとした理由があって、ここに今日花のような人間がいる、と言うものその大きな理由になっている。
「あら、大きいわねえ」
と、今日花はその大柄な『強盗さん』を見て無邪気に呟く。
今まさに自分に向かって青龍刀が振り下ろされていると言うのに。
そんな危機的状況の中、未だ薫子は安堵に身を包まれている。その腕に抱かれて、安心しきっていた。
薫子自身、この心の安定具合は不思議であった。
どう見ても、どこから見ても危機的状況であるにもかかわらす、体はまるでその状況に反応しないでいる。まるで無抵抗に、そして安堵してその身を今日花に委ねてしまっている。
そんな薫子がわかるのは優しく包んでいた今日花の両手のうち、右手だけが動いたということ。
なんの音も無く、なんの意識も、構えもない。
何が起こっているのか、薫子が見上げると、空に『強盗さん』がいた。
と言うか、掲げられていた。
その間には、ニコニコとした今日花の笑顔。
その先に、今日花の右手が、あくまで薫子の見立てであるが多分、振り下ろされたであろう青龍刀の刃の部分を掴んでいた。
無造作に、特に何かの技という風でも無く、普通に、当たり前に刃の部分を掴んでいる。そして、その先には柄があって、その柄には『強盗さん』手があり、もちろんその手にはご本人の体がついていると言う、至極当たり前の姿がある。
この青龍刀を点として、点対称で、地に薫子を抱いたままの今日花の体、そして、空に『強盗さん』の体があった。
見上げる薫子の先には『強盗さん』の顔がある。
お互いに、見つめ合う形になっていて、そして互いに思うのは、今のこの状況が理解できないと言うのが共通認識でもあった。