閑話休題3−6【喜耒薫子、出会う】
いい下宿先だったのに、そこから出されてしまった。
気に入ってたのに……。
一体何が起こっているのか理解できないまま、また不満も残したまま、寮にあった薫子の私物やら荷物と一緒に車に乗せられ、降ろされた場所は、中央区でも豊平川よりの一件の住宅。
少し大きめの家の表札には、
『真壁 輝郎』そして連名で、『今日花』そして『秋』とおそらくそこに住むであろう住人の名前が書いてあった。
まず、見たものを脳が否定した。
「いやいやいや」
人間、ありえない事が起こると、パニックを通り越して返って冷静になってしまうものだなあ、と薫子は考えていた。
そして事実を否定してみた。
「ないないない」
少し過去に遡って、関係者に強めの否定。
「いや、真希さん、ほんとないです、ありないです」
はあ?
確かに真壁秋みたいに強くなりたいと、そう思ったし、その思いの丈を打つけて見たけど、これは違う。全く違う。
少なくとも、真壁秋のようになりたいと考えるのは、真壁秋と一緒に住みたいという意味では断じてない。
これはダメだ。
この怒涛の環境の変化は、自分に何をもたらす事などない。
引き返そう。断ろう。
一体、真希は何を考えているのかと、自分の言わば最高司令官で上司でもある直談判した人物の資質を疑ってしまう。
確かに真壁秋のように強くなりたい、だからと言って彼と生活を共にして、あまつさえ彼に師事するなど、あまりに奇策すぎる。
確かに真壁秋は強い、そして自分は弱い。
でもだからと言って、それを素直に受け入れていることと、自分が真壁秋を身近に置いて生活など出来るわけがない。
嫌だ。
人には感情というものがある。薫子が未だに真壁秋に抱くドス黒い自分でも理解しがたい痛みを、それを拭うことなどは出来ない。
気持ちが落ち込み怒り、そしてそんな自分を悲しみ、今、薫子の心は混乱して、混沌として、さらに沸騰しかけていた。
この気持ちの強い、この喜耒薫子が、今はもう泣きそうだった。
少なくともここで真壁秋の自宅の前にいる事自体がありえないことであり、想定外な出来事であり、すでに心情としても薫子のキャパを超えてしまっている。
これはダメだ。
いくら何でもありえない。
そう思って、荷物はともかく、ここは帰ろう、そう思いに至った時に、玄関の扉が開いた。
出てきたのは、本当に小さい、と言っていい、華奢な女性。
一瞬、薫子は思った。『姉か妹???』
表札の関係性を見るなら、姉か母親だろう。秋の名前の前に名前があったのは女性の名前だ、確かパッとしか見てはいないが『今日花』と書いてあった、今日の花と書いて『きょうか』とでも読むのだろうか、その言葉の響に薫子は、どこかで聞いた事がある名前だというところまでは認識できた。
が、その扉から現れた女性のあまりの華奢な印象と女性としての儚げともいうべき印象。それが、薫子の顔を見て言った。
「あはは、逃げちゃうんだ」
扉から出した顔は、優しく微笑んで、そう言った。
その時だ。
全身から失われていた力が、まるで骨格を中心に蘇えって来る。
そして、今まさに後ろに向かっていた気持ちが再び前に向く。
「あ、踏みとどまった」
と女性は言う。そして、
「うん、えらいえらい」
と玄関からその姿を現して、ただ立ち尽くす薫子の前に立つと、背伸びをして自分よりも背の高い薫子の頭を撫でて、
「私ね、まだよく話を把握してないけど、わかるよ、あなた見たらわかる、大変だったんでしょ、うん偉かったね」
その言葉は、たぶん、薫子にとってとても無責任で、そして彼女のここ最近の気持ちや激しく起伏する感情を理解してのことではなく適当な言葉だと、薫子はそう思う。