閑話休題3−1【喜耒薫子、崩壊す】
負けた。
という事実は、もしかしたら、『負けたのだろうか?』と思える浮ついた甘い認識よりは優しく美しい気高いものかもしれないと、そう彼女は思うようになっていた。
勝つことができないと思い込む事は、勝てるかもしれないと思う認識とは別の線上にあって、決して重なることのない、そして他者によっても救われることのない重く歪で錆びた汚れのように自分の衣服に染み付いて触れてしまった体にその冷たさを伝えようとする惨めで救い辛い怒りや悲しみなども溶かしてしまう感情なのかもしれないと、喜耒薫子はそんな事を思うようになっていた。
ここは、北海道ダンジョン。
4丁目ゲートから入って一番最初の到達点。
一般には『スライムの森』として、修学旅行などでも有名な場所で、ギルドの本部がある場所でもある。
そこで、少し気分転換にと、薫子は後輩と1つ手合わせをしていた。
使っているのはお互いに真剣。
もちろん本気で遣り合うつもりもない。基本としてギルドの剣士としての簡単な乱取りのようなもので、相手を制圧しかけたら勝ちというルールで行われる。
簡単に言うと、お互い持っている武器、剣なら刃の部分が有効部位に触れる、動きを拘束する、相手の態勢が著しく崩れる。など、勝ちの形が取られるとそこで決着となる。
勿論互いの勝ち負けの申告も有効になる。
その場所で薫子は、ただ憮然と負けを積み重ねていた。
消化しきれない、納得できない感情と結論の狭間で揺れる彼女は、今、後輩に打ち負かされて、ダンジョンの床に手をついて、そしてその結果をただ雨にでも打たれるように項垂れて受け止めていた。まるで自分に罰を与えているような、そんな姿だ。
「もう、やめようぜ、姫さま」
彼女を、薫子を打ち負かした女の子はそういう。
つい先日、ダンジョンに入れるような年齢に達した少女、相馬奏は薫子よりも歳も経験も薄い。
そんな後輩にすら、今の薫子は及ばない。
そして薫子の手を取って、体を起こそうとするのは雪華だ。
「大丈夫です、体の方は異常ないです」
と薫子に触れた部分から彼女の身体の異常の有無を認識する。もう、こういった行為は雪華にとっても日常になりつつある。今はもう自身が身につけたこのメディックというスキルを完全に自分のものとして、まるで息をするように使いこなしてている事を自覚していた。
そして薫子の方といえば、自分に触れている雪華の体温から、ひどく自分の体が冷えていることを知る。その雪華の熱い体温は、自分が死んでいるかのよな、そんな錯覚にすら落ち込んでくる。
「全く、殺してやりたいよ」
と呟くに至る彼女の心境は、かつての、そして今の自分に向けた心境で、それはまさに、自分がこの世界、つまりは北海道ダンジョンに通じて、一人前以上だと、いや、まさに覇道を突き進んでいたと自覚し、慢心していたかつての自分を全て否定したい気持ちに他ならない。
それは、なんの根拠も無く、『本物』だと思い込んでいた自分が、自分よりも『本物』に近い価値に触れてしまって、弾き飛ばされた自分が『偽物』だと思い知らされ、それ以外を求めようとすると矛盾が生じて、自分を否定する以外、心の求めようも無い、そんな気持ちが今の薫子だった。
つまり、今の薫子は、簡単にいえば、落ち込んでいると言うよりは、『壊れている』と言った方が的確なのかもしれない。
「やめなよ、姫さまにはそんなセリフは似合わないぜ」
と奏は、そんな薫子の呟きすら許してくれそうも無い。そして、
「それにさ、姫さまさっきから私となんか戦ってないじゃん、バカ王子? 師匠?」
目のいい少女、奏にはすっかり見通されているようだ。
これには、薫子も「はは…」と笑うに留めて、「すまない」と非礼を詫びて、その心境を押しとどめる。
そうなんだよな、自分はそれではダメなんだな、とそう思える意識はあっても、体と心がそれに伴わないでいる。
でも、
「すまん、相馬奏、もう一本いいだろうか?」
と強気なことをいうと、
「私は姫さまを打ち負かすだけに、勝負する気は無いよ、なんかさ、形がグダグタじゃん」
とにべもなく断られてしまう薫子だった。
そして、
「まあ、気持ちはわかるけどさ、あんなのに遭遇ったら、まあ、そうだろうさ」
と、奏はそんな言い方をする。
奏もまた、あの時、『本物』に出会い、対峙した者の1人だ。と言ってもこっちは得るものはあった、お得な人物だ。
その、『あんなの』を思い出して、ズキっと心に刺さった何かが、薫子に鈍い痛みを与える。そして薫子は自覚する。ああ、このトラウマは未だ『生傷』となって自分に痛みを与えてきている。